川柳ジャンクション2001』第三部       第1部はこちら >>              

 

         「川柳の現在と二十一世紀の展望」

 

                   司 会 荻 原 裕 幸 

                                                     

-倉 本 朝 世
『現代川柳の精鋭たち』『燎乱女性川柳』に参加川柳誌『MANO』会員。個人誌『あざみ通信』発行。句集『硝 子を運ぶ』。

-な か は ら れ い こ
『現代川柳の精鋭たち』に参加。 柳展望 ラエティティア所属。倉富洋子と二人誌「WE ARE!」を発行。句集『散華詩集『脱衣場のアリス』。

-樋 口 由 紀 子
『現代川柳の精鋭たち』に参加。
川柳誌『MANO』会員。俳誌『豈』同人。ラエティティア所属。句集『ゆうるりと』『容顔(ようげん)』賞・川柳句集文学賞受賞。                          
                                     
-広 瀬 ち え み

『現代川柳の精鋭たち』参加。川柳誌『杜人』同人。『かもしか』幹事。ラエティティア所属。句集『ひ・と・り・遊・び』。

                               会あいさつ  石 部 明         

 荻原 ・・・・いろんなジャンルの触れあいの中で、「川柳の現在と二十一世紀の展望」と、ちょっとこれは、多分タイトルがものすごすぎて、そこまでは話が及ばないと思いますが、現在の川柳の・・と言うと男性作家が怒るといけないので、現在の女性の川柳を代表する四人の作家の方に前に出ていただいて、あえてタイトルに繋げるとするとこの方たちに喋っていただければ、それが川柳の現在と二十一世紀の展望になるということで、もう今日は好きに喋ってください。自分のPRもしっかりしてください。責任を持ってするPRはいくらしていただいてもかまいません、ということをお伝えしてありますので、テキストの方にアンケートをとりまして、注目する女性作家を無理矢理でいいからあげてくれと、で、その人たちの気に入った句を五句以内という形であげて下さいとお願いしてあります。同じように男性の川柳作家もあげて下さいということで、資料を一人に絞るということは大変だとは思いますが、こういうのは任意に一人に絞らないと話が面白くありませんので、あえて一人に絞っていただきました。で、できるだけ手短でいいんですが、無責任にならないよう選んだ理由と、作品についても、この作品のことはちょっと触れておきたいという形で、はじめにお一人ずつお伺いしたいと思います。倉本さんでよろしいですか。では倉本さんからお願いします。

 

倉本 今のお話にしたがって手短に言わせていただきます。私は一応注目する女性作家に樋口由紀子さん、男性作家として石部明さんをあげさせていただきました。短詩型作家はちょっと迷ったんですけど、最終的に高山れおなさんにしました。で、これちょっと話が違うんですけど、攝津幸彦さんが亡くなって『俳句幻景』という本が出て、その中に攝津さんの俳句の根拠というか、俳句を書くということはどういうことかと言うことで「思ってみれば世界に悪意を持ち込むことが、私のそもそもの表現行為の始まりであった」というような文章がありまして、その時に、世界に悪意を持ち込むということが、ちょっとにわかには解らなくてどういうことかなって考えました。しばらくして、穂村弘さんの『シンジゲート』という歌集を読んだんですが、その中に塚本邦雄さんの栞がありまして、穂村弘さんの短歌に込められた意図が紛れもなく悪意である、というようなことがありました。穂村さんの短歌を拝見すると、割と日常些末的なことをあげているようでいて、結構技巧があります。短歌はやっぱり七七がある分、ものを言える詩形なのかなと思いながら拝見してたんですが、日常些末的なことをパッと七七でひっくり返したりとか、途中にすごくインパクのある言葉をポンと放り込んで面白い流れにしてゆくとか、そういうところがありますね。で、この人の悪意の見せ方というのは、カワイイと言えば失礼なんですけど、ちょっと小さな悪意を見せることでその後ろにあるもっと大きな悪意を浮かび上がらせるといった構造になっています。人間が生きてゆくこと、人間が創り出した社会とか文明とかにすごく批評があって、結局そんな悪意の見せ方に、この人の現在があるのかなあと考えてます。次に短詩型に入るんですが、高山れおなさんのことで言わせていただきたいのは、この人も世界に悪意を持ち込もうとしているということなんですが、人間は普通に当たり前のこととして生きてるわけですけど、考えてみたらねえ、地球レベルでみると人間ほど邪魔なものはないわけで、こういう自分勝手な生き物は、やっぱりおったら困るやろなあと思うこともあります。地球にインタビューすると、多分人間はいらんと言われそうな存在なのに、結構そういうところに自覚なく生きるというところから、われわれの表現が始まっている。その表現の仕方はそれぞれ、やっぱり短歌とか俳句とか、川柳とかでちょっと違うなあというところを今回注目して見ていったんですが、高山れおなさんはどのようになっているのかというと、有季定型をきちっと守っているんですが、たとえば、季語というものに対する批評がありまして、かつては、やっぱり季語というものに含まれている大きな役割、季節の流れとか、季語というものの重さというものをすごく大事にしながら創ったという部分があったんですが、何となく季節感というものが最近ちょっとズレてきたり、陰暦と陽暦の違いなんかもありまして、何となくちょっとピンとこない。死語になったような季語も沢山あったりという感じで、季語の性質が変化しているということで、体系としては季語は死んでるんじゃないかという主張が彼にあって、俳句形式でそのことを実験しているという感じがします。たとえばここに出ている句で「拭く紙のさみしい長さ去年今年」というのがあるんですが、多分高浜虚子の「去年今年貫く棒のごときもの」の、パロディになっていると思うんですが、季語をおちょくるみたいな形で季語に対する批評があって、全体一句としたら人間とか社会に対する批評という部分があって、なんか二重の批評みたいな、ちょっと複雑な形で表出されていると思うんです。それに対して川柳というのは、やはり相対化するべきもの、たとえば俳句の場合の季語とか、約束事が川柳にはないわけで、結局ダイレクトに自分の言葉として五七五を創っていかなければいけない、そこに試行錯誤があるわけです。

 その中で樋口由紀子さんも石部明さんも、まったく違う出し方をされているので、その方向が面白いなと思うのは、たとえば石部明さんの場合は、世界のいかがわしさみたいなものを表現するかわりに、言葉で虚構の世界を創り上げるわけです。その世界が完璧に創りあげられればあげられる程、逆に現実の何か異様さみたいなものが浮かび上がってくる、そういう創り方になっていると思うんですが、たとえば「人体のどこも空っぽ酢の匂い」、これは普通の人間活動を裏側から覗いたような怖いものがあって、人体の中というのはホントは空っぽじゃないんだけど、別の見方をすると、なんか人間の身体の中の悪い意味の過剰さみたいなものが逆転して、その人体の中が空っぽで、過剰さの何か残骸みたいな、その匂いだけが漂っているような世界。これは私、すごく興味があるんですけど、こういう表出の仕方は面白いなと思います。で、最近の彼の作風では、現実に対する・・。

 

荻原 あの〜延びちゃうんで樋口さんの方へいっていただけませんか。石部さんのところは今の流れでよく解りますので。

 

倉本 あっごめんなさい。樋口由紀子さんのことは今までにもいろいろ書いたんですけど、彼女の面白さというのは、やっぱり今までの川柳が言葉そのものよりも、思いとか、自分の内面をどう書くとか、普通よく見えることを上手にまとめるみたいなことが面白かったと思うんですが、彼女の場合は言葉そのものに注目しはじめて、それを彼女なりにいろんな組み合わせで創るというところが新しい。で、彼女の句というのはすごく身体性があって、何となく言葉が彼女の手足のように、肉体の一部のようになって、彼女の表現したい事や物にすごくまとわりついていくような形で表現がなされているという面白さがあります。「何もかも略して」とか、「よじれないように」とか「くよくよしない」というような日常語が積極的に使われていて、その前後のつながりに意表を突かれます。たとえば「壺いっぱいのグラジオラスは反省する」の「反省する」って、普通こんな言葉は思いつかないんだけど、ずうっと上げていってガクンと落としたりとか、ねじったりとか、そういう言葉の技というか、日常的に使う言葉を川柳詩型にどう活かすかというところは彼女の句を見ていてすごく勉強になるところです。まだいろいろ言いたいんですけど、このぐらいにします。

 

荻原 あっすいません、ご協力有り難うございます。最初のところで世界に悪意を持ち込むとか、そういうことがあって、川柳を見せていただく中で、あまり簡単な言葉では纏められませんけれども、文体など見てると、何かこう感覚を反語というか、反転させてゆくというか、そういうところで今掴みかけていらっしゃるのかなというふうに思ってうかがっておりました。なかはらさんでは、できれば川柳作家に絞ってお願いします。

 

なかはら はい。川柳作家にしぼって、ですね。この宿題が荻原さんから出された時に、これはパネラー個々の、個人としての自己規定を求められているのかな、と思いました。日頃の荻原さんの言動とかを見ていると、私たち一人一人の川柳観を外からもきちんと見えるようなかたちで、レジュメを求められたんだんな、ということを感じましたので、自分の川柳観をもっともよく顕わしていると思われる作家のかたがたをあげさせていただきました。私の考える川柳というのは、私は、とカツコ付きでしか言えないし、言っちゃいけないと思うんですけど、自分が日常生活を送るうえで、世界との間に起きる摩擦だとか、違和感の表明です。既成の価値観とは違う私だけの価値観を表すのが川柳だと思っています。それともう一つ、さっき島さん(句会選者・俳人)から、時代という言葉、現代の新しい方向というお話がありましたけれど、私は川柳というのは絶対に時代に鈍感であってはいけないと思っています。時代に敏感に反応している作家、現代を呼吸している作品、という点も含めてテキストをあげさせていただきました。

 倉富さんの「無言電話の向こうに月はでているか」ですが、今の時代は、たとえば「あしたのジョー」の矢吹丈だとか、「巨人の星」の星飛遊馬に感動できる時代ではないんですよね。コミュニケーション不全の時代ということはもう何年も前から言われていますよね。この倉富作品は、そういった時代に生きている人の深い孤独感をうまく掬いとっていると思います。こういう方向の作品はこれからどんどん書かれるべきだし、書かれなければ嘘だと思います。

 それから、楢崎さんの作品なんですが、これは私が勝手に思っていることなので、ご本人にはちょっと失礼かもしれませんが、私の書き方に似てるんですよね。川柳というのは前句付がルーツなんですけれど、前句の七七を背後にしっかり隠し持っているみたいな文体で、情報を意図的に欠落させているんです、これ。なんか、五七五の外側に自問自答の問いの方が隠されていて、答だけが一句として書かれているような気がするんですよね。その欠落した情報の部分を想像する、という楽しみがある。読んで想像する時にとても多義的な読みができて面白い。だって「わけあってバナナの皮を持ち歩く」なんてフツー、「どんなわけなんだよっ!」とか突っこみたくなりますよねえ。 その「わけあって」の「わけ」の部分を想像する、謎の追求という楽しみがあるんですよね。「わたくしにもしものときの菫かな」っていうのもそんな感じで、なんでここに菫が出てくるのかっていうのが謎なんですけれど。あと「菜の花と思うあるいは家族とも思う」という作品も五七五の前に何か文章がつきそうな感じがするんですよね。そういう意図的な情報の欠落というのを楢崎さんは、多分、方法として取り入れられているのだと思います。確信犯ですよね。好きです(笑)。

 

荻原 時代に敏感になりながら、その時代というか、世界との間に起きる摩擦みたいなものを感じとっていくような感じですけど、楢崎さんの作品については、倉本さんのお話にでていた作家の悪意というか、企みというか、その辺のものを感じさせる部分に反応されたのかなっと思いながらうかがっておりました。次にそれでは樋口さんお願いします。

 

樋口 ハイ、私がいいと思ったのは倉本朝世さんです。前に出ている二人がお互いに褒めあうというのはよくないと思いましたが、やっぱりはずせませんでした。朝世さんの句を一言でいうと、吹いても吹いても飛ばない川柳なんです。それはもう意味がしっかりしているからなんです。私は川柳は意味で屹立する文芸だと思っています。だから倉本さんの意味の出し方のユニークさというか、実在性みたいなものが私はすごく好きです。

 「紙コップといわれて怒る紙コップ」なんて、言われてみてはじめて、あつそうなんだと思ったんです。この句を読んで、こういう句は今までなかったと思います。だから「海鼠踏んだら『トウキョウ』と音がした」「間違って『閉経!』と言う裁判長」など、アノ〜、さっき藤原さんが二十八人の百句を読んで、文体が全部違うと言って下さいましたが、川柳の中にいる私から見れば、どれも似たような文体、おなじような言葉、似たものがすごく多いんです。その中で倉本さんのだけはまったく違う言葉で、違う仕立て方で、違う意味をど〜んと出してきます。それは私はすごいことだと思います。意味にすごく拘っているということ、そして必ず彼女が存在してるんです。そういうところがすごくいいと思います。

 男性作家は筒井祥文さんをあげさせていただきましたが、私ひょっとしたら一年前、いや半年前かな、いえもっと二、三カ月前だったら筒井さんを選んでなかったと思います。もっと詩性のつよい方とか、ただこの頃すごく感じることがあるんですけど、あまりにも川柳がきれい事になりすぎて、ポエム性に偏りすぎて、偏差値が高くなりすぎたと。いえ、筒井さんの句の偏差値が低いって言ってるわけじゃないんですけど、きれい事でまとめるほうが、実は川柳は簡単なんじゃないかと思うんです。裏側からやんわり包むということではなく、筒井さんは正面からボールを投げてくる。だからはじめは、もうっと思うことも何度かありました。芸達者な人やなあっと思ったこともあります。でも川柳というのは昔、中村富二が「川柳に残されたのは技術だけだ」と言ったそうですが、芸というものを私は否定しません。芸によつて揺さぶられるものがあります。筒井さんの句は筒井さんのひねりがあるんです。ここにはあげていませんが、「褌を落としてしまいそうな月」という句があります。私は恥ずかしくてこんな句は作れません(笑い)。だから私はまだどこかで恥ずかしがっているものがあるんです。恥ずかしがっているものがある限りは、私はまだホントの川柳は書けないんじゃないかと思っています。「かっぽれを踊る地雷をよけながら」とかね。川柳はもう恥ずかしがっていては書いていけない、きれい事だけでは終わらないんだって思いがこのごろ強いので筒井さんをあげさせていただきました。

 

荻原 倉本さんは意味がしっかりしていると言うことでしたけど、なんか感じとしては解るんですが、意味がしっかりしているということは、語の感触のことなんでしょうね。「紙コップといわれて怒る紙コップ」って、紙コップが怒るって何だろうとか意味を考えちゃうと解らなくなるので、だけどそういうふうに考えさせるような、文体が、文体というより文脈が安定してるってことかな。「吹いても飛ばない」というのは、おそらく他の方へ意味がまぎれていかないわけですね。最初はここを読めば、つまりここを解けば意味が絶対見えるという書き方のことかなと思いながらうかがっておりました。筒井さんのところでは、偏差値とか芸という言葉もありましたが、作家として立つスタンスというか、感じは解るんですが、またいい言葉が見つかったらぜひ作家論を立ち上げてみて欲しいと思いました。それでは広瀬さんお待たせ致しました。お願いします。  

 

広瀬 私が選んだ方は佐藤みさ子と渡辺隆夫という対照的な二人なんですけど、さっき樋口さんが意味で立ち上げるということをおっしゃってましたけど、川柳の中にも言葉と言葉を組み立てて、その間から立ちのぼってくるものを愉しむタイプもあれば、みさ子のように言葉の意味に作意がなく、ストレートに出してくるタイプもあると思います。みさ子の句はホントに怖いですよね。ここに載せた句はそれほどでもないのですが、みさ子の句が、なんでこんなに希望のない救いのない句を創るのだという批評を受けたことがあります。川柳を始めた頃から、私の前にはいつもみさ子の句があって、その救いのない句の前に私は進んで立ってきました。みさ子の句は真面目で不器用で、必死なんですけど、必死になればなるほど、はたから見るとちょっと可笑しい行動をしているように見えてしまう。必死になって紡ぎだした言葉が、どこかおかしな格好をして歩いているような、そういうものが感じられます。みさ子は言葉を組み合わせるというタイプよりも、感覚的というか、言葉に作意がなく、素のままの内臓をごろんと転がしてみせるから怖いのであって、その内臓のような言葉を見せられると、読む方はうち砕かれてしまいます。誰でもその内臓を持っているからです。でもうち砕かれるから立ち上がれる。私はしょっちゅうみさ子の前に立って殴られている読み手ですが、殴られることは、希望や救いをもらうことだなと思えます。ここに載せなかったんですが、「何ももう産まれぬ家に寝静まる」というのがあります。これはどういうことかと思うんですよね。毎日ごはんを食べてちゃんと生きているのに、何も産まれぬ家とはどういう家か。明日のために今日はない家をかかなければならない。彼女の無作意の句がいつも私を立ち止まらせるんです。

 隆夫さんの句はみさ子とは大違い。先ほどから悪意とか企みとかいわれてるんですが、彼は企みでもって作為的に言葉を使う代表的な人ではないかと私は思うんです。 先ほど大井恒行さん(句会選者・俳人)もおっしゃってましたが、川柳は社会へ、自己へ等々、批判性を失ったら、その拠って成り立つ所を失うんじゃないかと私も思います。隆夫作品というのは読み手の知に揺さぶりをかけてくる。お前こんなの解るかよっていう感じで言葉を出してくるわけです。読み手として知に揺さぶりをかけられるのは私は大変好きです。ところが、あんまり過剰になると鼻について嫌いって言いたくなる句もすごくあります。ここに載せてある句のようにどこかイタズラ精神があって、なんかやってやろうという精神は面白いと思いますね。彼はおそらく真に物事をよく知っいて、俗に堕ちる一歩手前であやうく踏みとどまって、イタズラをしている。それは確固たる知に裏打ちされているからなのです。ただ、ここに載せた句は彼の第一句集『宅配の馬』から選んだもので、第二句集の『都鳥』は私は弱いと思いました。言葉遊びの方へいってしまって、『宅配の馬』ほどの衝撃力はないと思います。再び『宅配の馬』のような爆弾を放って欲しいなと思って(笑い)、エールを送るつもりでここにあげさせていただきました。

 

荻原 今のお話に司会の方も少し凍ってしまいましたが(笑い)、広瀬さんとか、樋口さんとか続けて聞いていますと、何か切口が似ていて、女性作家には自分を投影させるような何かがあるようで、男性作家には自分にないものを求めるようなところがありますね。なかはらさんは男性作家を「私に似ている」とか言ってましたねえ。

 マッいろんな見方があっていんですが、ほかに・・時間がすごく押していて、もう一回り聞いたら終わっちゃうんです。自己PRしていただいてもかまいませんし、今の他の人の話に絡めてもいいですし、自作を一句とりあげて自慢してくださってもいいですし、自己陶酔もどうぞ。現在の自分の活動とかに触れるとか、一言ずつお願いします。

 

倉本 さっき喋りすぎましたので、手短に一言だけ言わせて下さい。私はアンソロジーの解説で堀本さんに書いていただいた通りの経過を辿ってきたわけで、川柳の先生というのは持っていません。川柳に入ったのは主人が詩をしている関係で、わりと詩というものに馴染んでいるところから入って、川柳っていったいどんなものか確かめながら今まで来たような気がします。自己規定がないというお話もありましたが、自分でも今川柳らしさって何だろうとか探っている途中というところです。

 さきほど樋口さんが採りあげてくださった「紙コップ」の句なんですが、「れぎおん」という連句の雑誌がありまして、そこへ付句でこれを出したことがあります。採られなかったんですが、捌きの姫野恭子さんという方が、すごく未練があるということでこの句の批評をして下さいました。それを読ませていただきます。「最初この句を読んだ時アッハハと笑い飛ばしたのだが、だんだん考えるうちに自他半、つまり人というものへの総合的な批評がなされているのだと気づき、苦笑へと変わっていった。ここでおちょくられているのはあなたであり、私である、現代に生きる日本人すべてに向けられた剣だ」という批評をいただいて、うまく批評していただいていると思いました。

 私の最近の傾向はここにあげた通りで、軽みとかユーモアの方に行ってるんですけど、やっぱり言語規範というものの中からの言葉じゃなく、そこをはみ出した瞬間の言葉を捉えたいと思いながらアンテナを伸ばしているところです。

 

広瀬 私は今は自己規定するつもりはさらさらありません。ちょっと出来ないなあと思います。あっちこっちとうろうろしながら書いていくつもりですけど,川柳家としての自己規定は出来ないなというのが正直な気持ちです。自選句というのはとても難しくて、この五句の中では「もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ」をあげたいと思いますね。お誘い申し上げておりますので、どうぞ。(笑い)

 

荻原 有り難うございます。いい一言ですね。感動しました。私も落ちてみようかなっとか思ったりして、では樋口さんお願いします。

 

樋口 荻原さんから自分のPRというのは聞いてなかったので、今、考えたんですが・・・。で、ここには出してない句なんですが、私の句で歌人、俳人に評判になった句は「肉体は片づけられた紅葉狩り」なんですね。本人はどこがいいのか全然解らない。でもこの句について、実はアンソロジーの讃を書いていただきました俳人の岡井省二さん、今日、ぜひおいでいただきたかったのですが、ご病気で残念に思っているんですが、その岡井さんが「あなたの句は季語の切り込みが鋭いから自信を持ちなさい」と言ってくださった言葉を思い出しましたので、それをPRとさせていただきます。

 

なかはら 自選句についてはレジュメを見てもらえば解ると思うのですが、今はしゃべり言葉にこだわってみたいというのがあって、飽きるまではとりあえず、いろいろやってみようかなと思ってます。

それと『WE ARE!』のコマーシャルをさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?そもそも雑誌を出そうと思ったのは、川柳界の中だけに閉じこもっていないで、外に向かって作品を発表したかったというのと、それから自分の作品がいいのか悪いのか、解るか解らないのか、そういうことをはっきり言ってもらえる場がなかったので、そういう場が切実に欲しかったという理由からでした。無いのなら自分たちで作ればいい、と。評価の場としては句会しかない川柳界で、いままで、どこが悪いのかは自分で考えなさい、と言われてきました。それがうまくゆけば確かに力にはなるのかも知れませんが、わたしはそれだけでは満足できませんでした。たとえ、こてんぱんにやっつけられても評が欲しかった。ただ残念ながら、川柳の内部だけで求めるものを得られないということもわかっていました。きちんと批評してくれるのは圧倒的に俳人や歌人の方が多かったということです。もともと川柳以外の短詩型ジャンルの人たちは、合評とか、相互批評とかが新人の頃から当たり前になっていますから、批評は当然のこととして身についているんですよね。ところが川柳書きは勉強も努力もしない。解らないものは解らないまま放り出してしまう。そのくせ、恥をかくのをとても嫌がる。私はそれはとても傲慢だと思う。将来は川柳界に、批評とまではいかなくても、感想でもなんでもいいから、お互いに恥をかきながら意見が交わせる場所を作りたいと思っています。そのためには短歌も俳句も一緒になって、ジャンルの壁なんか蹴っ飛ばして、自由に往来できる場所を作りたかったわけです。とてもつまらないことだと思うんです、壁を作るということは。この会もジャンクション(交差点)がコンセプトなんですけど、そんな居場所が作れたらいいなと思っています。

 それと、最後に言いたいんですが、感想とか批評というのは全然難しいことじゃないと思います。最初から尻込みしないで、川柳書きひとりひとりが一言ずつ声をあげてみましょう。以上です。

 

荻原 なんか司会が締めなくても、しっかり締まったようですが(笑い)、今日私の方から一部の時にもちょっと出しましたけれど、なんか川柳は自分のことを語るのは下手だからとか言いましたけど、皆さんを怒らせようと思って言ったんですよ。怒っていただける人が半分ぐらいいれば何か残るものがあるかなという気持もあって、先ほど広瀬さんが、私はそんなことしないって言ってましたけど、作家としてではなくて、やっぱりジャンルとして考えられると思うんですよね。今日言ったことが、どこか記憶に残っていて、何かの機会に自分たちの姿を考えるようなことも、刺激になると思ったときはぜひ踏み込んでいろいろやってみてください。また周囲の人間はいつも川柳のことを語りたがっていますので、いつでも声をかけていただければ一緒にお話などさせていただきたいと思います。出ていただいた女性作家の皆さんにはコメント短くなって申し訳ありませんでした。

 司会がものすごく上手にやりましたので、ちょうど十分前に終わることができました。どうも有り難うございました。                    (終わり) 
閉会あいさつ 石部明 

 大変長時間にわたりお疲れさまでした。

皆さんのご支援によつて、私ども発起人が想像しておりましたよりも、はるかに素晴らしい会にしていただきましたこと、またジャンルを越えて立ち上がってくださいました皆様に衷心より厚くお礼を申し上げます。

 昨日でしたか、このアンソロジーに参加しております東京のある一人から葉書をいただきまして、いろいろとお書きのあとに、とにかく関西のパワーには脅威を感じると書いてございました。しかし、これは関西の脅威でもなんでもない。私に言わせますと、これは女性の脅威であり、女性のパワーではないかと感じているところでございます。

 この会はご承知のように「現代川柳の精鋭たち」発刊記念の会なのですが、この出版につきましては、俳人・大井恒行さんのお力をいただきながらではありますが、川柳の中でたった一人奔走したのは樋口由紀子でございます。また今日のこの会も樋口由紀子を先頭に、倉本朝世、なかはられいこ、それから今日なかなかの司会ぶりでございました畑美樹、この後の懇親会を担当致します倉富洋子、こういつた女性たちが準備の段階から今日の運営まで軽々としたフットワークですべてこなしてくれたことに、私は一つの驚きを感じております。勿論、皆様から見れば不備不足も多かったに違いありませんが、私は笑顔の中ですべてを仕切った彼女たちに感謝の気持ちでいっぱいでございます。私は半ば目を細めながら、また半ばぶ然としながら、川柳はいよいよ女性たちに征服されてしまうかも知れないと実感しているところでございます。

 しかし、それはさておきまして、このアンソロジーのあと、川柳にさまざまな動きが出てまいりました。勿論、そのすべてがこのアンソロジーが契機になったとは申しませんが、たとえば、なかはられいこさんたちの同人誌、また彼女の句集『脱衣場のアリス』、あるいは、今日何かと話題になっておりました川柳木馬の出されました作品評論集『現代川柳の群像』といったものの一つ一つが出てまいりましたし、そういった動きの積みかさねが今日のこの会になったのではないかと考えております。

 したがいまして、少し大げさに言わせていただきますと、これから先の長い歴史を振り返った時に、必ずや一つの位置を確保しているであろうこの会をひそかに自負させていただいているところでございます。

 今日のお話の中では、さまざまな切口をもって川柳が切り拓かれたわけですが、そのどれをとりましても、これから先の困難さ、あるいは文芸としての厳しさを選択せざるを得ない内容のものばかりでしたが、議論をかさねながら、また行動で示しながら、出来ますればこの「川柳ジャンクション2001」が、第二、第三と発展しますことを祈念し、はなはだ簡単ですが閉会のご挨拶に代えさせていただきます。有り難うございました。

あとがき

「川柳ジャンクション」が終わって、はや五ヶ月が過ぎようとしています。

川柳人口は増加の一途をたどり、川柳誌も数多く出され、句会、大会は相変わらずの賑わいをみせています。それぞれが、それぞれの場所で、それぞれのやり方で川柳を楽しみ、よりよいものにしようと努力しています。しかし、川柳作品のマンネリ化・川柳人の高齢化などの行き詰まり状態は避けがたく、川柳の黄色信号は点滅しています。

この会は『現代川柳の精鋭たち』の発刊を記念してのものでした。どのような会にしようかと話し合った結果、『現代川柳の精鋭たち』の解説でお世話になった堀本吟氏、荻原裕幸氏、いち早くインターネット上で二十八人の一人一人の鑑賞をしてくださった藤原龍一郎氏、その他「精鋭たち」に関心を寄せてくださった他ジャンルの方々にも幅広く参加してもらい、川柳に対しての積極的な意見を聞く会にしようということになりました。川柳人とは違った角度から川柳を照射していただき、「川柳とは何か」をいま一度考え、自分たちの川柳を見つめなおしていきたいと思ったからです。

ご存じのようにその日の会の目的としてとりあげた「ジャンクション」という言葉は「交差点」のことです。各ジャンルが交差することで、外に目を向けることによって、見えてくるものがあったと確信しています。


「川柳ジャンクション2001」

 

    発起人 樋口由紀子 倉本朝世  なかはられいこ 石田柊馬 石部明 

                    編集 石部明 協力 矢島玖美子

 

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