岩村憲冶の川柳l(岩村憲治川柳句集)
                     
 石田柊馬(BS掲示板より)

医師へゆくシャツを黙って母がくれ

 叙法の幼さをふくめて、母と子の切なさがまっすぐに刺さってくる。健康優良児が一転、中学生のと
きに発病
――、喀血、――入院したのである。退院しても進学や就職とは無縁の通院の日々だった。
戦後の生きにくい世の中で胸を病むということは、こんなに切ない生活を送るということであった。

 病みつつ生きるということと川柳を書くということの関係性を、岩村憲治は慰藉のところに置かなか
った。
 初心者どうしの研修の会に次の一句を書いて来たのである

 手袋のぬくさを知ってる手で困る

《表現すること》、その能動性が岩村憲治にとって大切なことになったのである。むろんそれは〈言葉〉
と〈表現〉について関心を持つことであり、彼にとって川柳という文芸の存在価値がふくらむ端緒の一
句だと思われる。

 

 釈金属音を持ち地下に街
 脱走はならず木馬の回転終わる
 影売りが深夜愛しむ火のマーチ

 思いを言いきろうとする措辞の荒さに青年特有の客気が光る。病む身の無為を意識せぬ日はない岩村憲
治の眼に、60年代の都市のありさまはこのように映っていた。自身の境涯とその感傷を抱えながら、外界
を見る視線はナイーブであり、かつ鋭い。「金属音」「脱走」「火のマーチ」などの青年らしい表現に慰
藉のおもむきは無い。眼の前の現実を能動的な感性をもって見ているのだ。当時、語り合う機会は多く、
病状について聞けば答えてくれたが、彼が自らの悲運について喋ることはまったくなかった。街に喫茶店
が増え、憲治ともども関心を持っていた川柳の誌上に「社会性」の語の飛び交っていた時代だった。

 

 いまはドラムに賭けて背後の冬を切る
 ドラム叩いて電車を忘れ屋根忘れ
 虚無の樹に昼を盗まれ打つドラム
 ピアノに死者ロンロン哭かせ橋を生む

 ぼくらジャズる翳ある貌をまた加え

 昭和42年6月に「平安川柳社創立十周年記念 明治百年全国川柳大会」が京都であった。長い名称に見合
う全国規模の大会だった。岩村憲治は病身だったが若かった。当時、田中博造(他に数人)、岩村憲治、石
田柊馬らの若い仲間は平安川柳社の同人であり、大会のスタッフだった。憲治は大会でのアンケートを纏め
る任にあたっていたようだ。

 他府県から参加された人々への前日の京都観光にはじまり、当日の国立国際会議場での大会が盛況裡にお
わり、懇親会会場への連絡バスにお客をすべて案内したのち、憲治と柊馬は懇親会へ行かなかった。鴨川を
眺める老舗料亭の大広間へ行けば、平安の若い者といわれて少しは名を出しはじめていたのだから、全国の
著名な川柳結社の主な方々や日頃名を挙げて語り合っている作者と言葉を交わす好機だった。その、好機が、
憲治と柊馬にほんの少しうしろへ引かせるものであったのだ。おもてむきは憲治の疲れ、体調を
――と言い
つつ、二人は大会会場から当時(全国的に)ジャズ好きなら知らぬ者のないジャズ喫茶「シャンクレール」
へ直行、くつろいだのである。大繁盛でリクエストはできなかったが前衛的なジャズが鳴っていたと記憶し
ている。

 岩村憲治はピアノ、ブルース、セレナード、ギターなどの用語を句に書いているが、上の句を書いた60年
代末から70年代前半の、憲治と音楽との距離、あわせて憲治といわゆる川柳界との距離を感じていただけれ
ばとー
――

 彼が諸先輩や川柳界とのつきあいの煩瑣を嫌ったということではない。距離のとりかたが大切だった。つ
きあいのなかで催しや会合があっても、急に行けなくなる体調の不安が先立っていたのである。それがいろ
いろなところで(例えばジャズの)、質、を求める姿勢となっていたのだ。

 近くの医院へ通うだけで、ほおおっておいてはならない病状を、彼はどのように思っていたのか、‐‐‐
わからぬままの、若い仲間どうしのつきあいが深まって行った。ジャズに接した句を書き、早急なヒューマ
ニズムを求めつつ、その早急さのどこかに虚無の揺曳しているのが感じられ、それを措辞の若さと言ってよ
いのかどうか。
―――憲治の書き方が上昇しはじめていた。

 

 夢たのし一気に癒えて働いて
 停滞の身にも激しきポストの朱

 病む身の悲哀や感傷と、その日常を書いていた岩村憲治が、《表現すること》、〈言葉〉と〈表現〉への
関心を一気に高めたとき、どこへ向かったか。


 転轍手斃し地獄を見にはしる

一度、アイロニーに関心を向けたのである。この面白さ、この方向へ走り続けておれば、それなりに大受け
に受けるところにまで達しただろう。

 しかし、そちらへ向かわなかった。おそらくこの面白さと自分との間に見える距離が、許せなかったーー
ー。本人にとってそれは、ひとつの趣向でしかなかった
――のだろう。

 あの全共闘時代の、社会化されるべき個的情念、とでもいうべき訴求性と、彼個人のこころの現実とはま
ったく違ったものだった。

 彼は私小説的軌道に戻る。いま風にいえば、異化の枠決めをはっきりと自覚したのだ。これは詩性への接
近をも自ら小さくすることでもあった(次回に書きす)。 アイロニーや詩より


 死ねよ死ねよ鮭の朱さが鮮やかに

眼につくものが即物的に、[自己の現実を直接的に書け]とうながしたのではなかったか。
 しかし、この「転轍手――」の一句のあと、彼は(親しい者どうしの会話の中で)「乾いた抒情」という
言葉を言い始めたのである。つまり、私性の表現が醒めた自己省察をもって為されはじめたのであり、悲哀や
感傷に濡れた訴求性は書かれなくなって行ったのだ
―――

 いまにして思えば、アイロニーの創造からナマの私性に引きかえした要因が、孤独に、直面しつづけねばな
らなかった酷い現実の圧力であったのだ。
―――胸が熱くなるような、岩村憲治の一局面である。

 

 うたうはなにビルの林の風は白
 背後は春一途な木偶は北を向く
 これは雨期への楽天的な貨車の声
 屋根は砂漠の目の裏に独楽なりやまず
 靴は黒はるかな気持ちのワルツ降る
 持つは箸無意味な景色に変える眼欺す
 誰の掌の上死なす金魚はもう購わず

 「社会性」という言葉が岩村憲治になにをもたらせたかは、彼が詩性へ行かなかったことを理解する上で重
要だ。川柳の世界で革新という言葉があり、それは社会の革新を望む気分をかなり含んで授受されていた時。
社会、その革新への望みを客観的に見ている小市民の一人、という<やりすごし方>は彼の気持ちに合うもの
ではなかった。

 ここに生きている一人の小市民がどのような社会状況に在るか――これを離して書くことはできないという
思いがあっただろう。「乾いた抒情を書く」という彼のこころざしは、ここに強く働いた。この姿勢に、病む
身ながらの岩村憲治の青春性がある。

 しかし、これは彼にとって書き方の開発をともなうことであった。
単純にいえば
「自分の在る社会状況」と「そこに在る自分のこころ」を一句にどのように書くか――に立ち向かったのであ
る。

 掲出の句の省略と自己流儀の文体の考案は、岩村憲治が現実的な意味の表現にこだわり、メンタルスケッチ
から抜け出ようとせぬかたくなな姿勢から為ったものである。どう読んでも窮屈でガタゴトとした表現がその
結果であった。

 五感を通して、こころの表現に適う言葉を引き寄せる詩法は、彼にとって遠いものであったらしいし、川柳
的なニ物衝撃も彼のこころの現実を表現するには距離のあるものだったのである。

 詩に向かわなかったのだ。
メンタルスケッチは彼のいう「乾いた抒情」にとどまり、「乾いた抒情」とは自己の現実をとらえる捉え方で
あったのだ。ここに、センチメンタルを書いて慰藉を得ようとするずぶ濡れ(これも憲治がよく言っていた言
葉)の抒情に向かうことの無かった彼の矜持がある。

 慰藉を求めようとする他者の書き方を彼はどのように言ったか
「言葉に思い入れの強い」書き方として、彼のなかでは一括りにされていたのは確かなことである。そこへ行
かない姿勢、それが彼の、彼自身の境涯への負けん気
――強さであったのだ。

 どれほど、詩について考えていたかは不明である。知っている範囲では、彼は詩より小説を多く読んでおり、
話題の端々に小説家の名がしばしば出たが、詩人については一度外国の高名な詩人の名が出ただけだった。

 

風は春春と水注ぐ割れグラス
 
 季節は春なのに――、という意味と人生の春が重ねられて「割れグラス」であるわが身を嘆いている。境涯
を書いた若い日の一句である。書けば書くほど境涯詠の不毛さを感じていただろう。これでいいのかとの自問
が彼の良き若さであり人間性であり幅であった。


 父の椅子傾いている嘘ではない
 キャベツより少し汚れて生き残る
 テニス帰りの彼らと笑う沼かくし

 「沼」はほとんど「割れグラス」と同じ意味だ。憲治の場合、嘱目詠とかたずけられないものがある。風であ
れ眼につく物であれ、それらは存在しているという感触があって、これは当時の仲間とともに「存在」という言
葉を口にしていた風潮の反映でもあった。

 これらの句が一つの意味を一句に凝縮する書き方であり、春風であれ、椅子、キャベツ、言葉を交わしたテニ
ス帰りの彼らであれ、実生活の中での実感を凝縮して自分の位置(存在)を再確認しているのである。

 岩村憲治は川柳を書いているのであり、詩、という意識は薄かっただろう。むろん、短詩型式のよく省略され
た句ゆえに、詩の範疇にあるとするならそれを拒むものではなかった。しかし詩であるかないかなどを他所事と
して、自分のこころの現実をどのように書くかだけがあったのだ。


 白旗だな白旗だわがシャツ乾されゆく
 オオムの舌が朱くて淋しいぼくらの値段

 境涯と社会状況を一句にせずに、このように別に書いてひびきあうところにこそ憲治の句の魅力があるのだが、
両者を一句に書き込もうとする強引さに、彼を近くで見ていた者の眼には活力があったように思う。

 「白旗だな」「オオムの」の感動は、詩、というところからは遠いはずである。むしろ短歌的な感動というほ
うが近い。

 岩村憲治の川柳への腐心は、ひとえに自己の存在を小さな型式に貼りつけることだった。
なにが川柳を採用させていたのか。一句なら書ける――という、自分の体力に見合うものだったのだ。一句一句、
彼は存在を貼りつけていたのである。若い日の、小さな町医への通院だけでは体力の尽きる日の近い「割れグラ
ス」である自覚が、意味の凝縮にまっすぐに突き進ませていたのである。実際、大手術を享けて、なんとか瀬戸
際で踏みとどまることを可能にしたのは結婚後の長子を得てからであった。独りであった頃の優しさと淋しさの
入り混じった表情の裏に、彼は虚無を抱いていた。近くにあった者だけがそれを知っていた。「俺、憲治論を書
くなら[平手造酒論]にするよ」と笑ったことがある。虚無に触れる言葉だったが
――憲治は笑っていた。

 

 炎天の その身をうずむ 父の椅子   河野春三
 白壁のつづくかぎりの死鋲うつ     同
 叩き落とせ 婦随の箸と蝸牛      同

 父の椅子傾いている嘘ではない     岩村憲治
 傾く椅子に傾きながら釘を打つ     同
 射ちおとせ等身大のアドバルーン    同
 意識して なれる痛みの釘を打つ    同

 「炎天の」の色紙は憲治宅に長く掛かっていた。河野春三の川柳を好んでいたかどうかは判らない。革新川柳の
泰斗、大きな先行者であり、なによりその硬骨漢ぶりが(色欲の句を書いたりしているのだが)、川柳の遊戯性に
近づく若手のわれわれを刺す光線となっていた。

 掲出七句の用語はほぼ同じ位相であり、このような書き方に春三と同じ位置で書いているという自己実現感が感
じられる。当時の革新系の川柳誌を見て、境涯詠だけを書いていてはならないとの思いがあっただろう。つまり憲
治のいう〔乾いた抒情〕を望む意志がこのように働いたのであり、応分の手応えがあったはずである。すくなくと
も一句の中心に境涯を嘆く感傷は置かれていない。一人の小市民の世界観が書かれているはずである。

 岩村憲治の抒情を好む人から見れば、これらの句はさほど感動を持つものではないし、憲治が書かずもがなの句
だ。憲治の川柳の本質は境涯を基底にする抒情にあり、そこから見れば若干ずれている。

 けれど、彼がこのように世界観を書き、その前に窮屈な書き方で社会と自分を並べて書いていたからこそ、後年

 じゃがいもに似た子とあさの戸を開く
 水が欲しいと草黙っている俺も
 窓を拭くキャベツのような低い屋根
 灯し合う街かとおもう子を連れて

 などの句が書けたのである。「灯し合う街かとおもう」のやわらかい善性、あるいは小市民のヒューマニズムは岩
村憲治の人柄を象徴している句であり、彼を知るひとは皆うなずくはずである。

 河野春三の(抒情より思念を前面に出す)川柳に岩村憲治は一時期近づいたのであった。

 

 あまだれを手へ受けさせて泣きやませ  柳多留三篇(現代表記)
 てのひらに水受け疲れた鳥棲ます    岩村憲治

 古川柳に焦点をあてた会話はなかったし、憲治の句はあまだれではなさそうだ。「水受け」だから掬ったのでもな
い、受身で、いただいたと読むのが妥当か。かなり観念的なものと象徴の混ざった表現で、同様の語句で成っている
句は多い。憲治の措辞の特徴の一つである。

 前句附けの書き手が「あまだれを手に受けさせ」るところにまで神経を届かせた、その神経の働きとつながるもの
が憲治にもあり、
――型式が書き手にどのような神経をもたらせるかは、時代をへだてても相当に近いのかもしれな
い。

 このような神経の働きが、常に岩村憲治の観念と象徴の混ざったところにあったことは、彼の川柳がメンタルスケ
ッチに執着し続けていたものであることを示している。


 貝殻に海呼ぶどこか犯されて
 楽器店は滝のあかるさ背後の死
 ガラス誤差なく切られ誰か葬られ
 瞳の奥の飢えのくらがりまたぐ猫
 バケツのなかの平らな水よ中年よ

 いまの、あるていど川柳を書きなれているひとなら、「貝殻に海呼ぶ」「楽器店は滝のあかるさ」「バケツのなかの
平らな水」などが、なぜそれにつづく〔作者の精神性を示す〕語句へ一直線に、露骨に収束(終息)されてしまうのか?、
と疑問にさえ思うほど
――勿体無いではないか、惜しいではないか、の感があるだろう。

 「楽器店は滝のあかるさ」だけで、こころの深くに澱むものが反照されているとも言えると。「背後の死」や「中年
よ」など、ふくらむべきところが逆に絞られていると。

 確固とした意味を書くことが彼の眼目であったのだ。この意味で憲治の川柳は詩より小説的だとも言える。だが彼は
川柳を書いた。それは意味を書くことだった。前句附けの書き手と同じように、意味を書くことが
――川柳だった。

 

 怨嗟の樹やがての白紙に持つは斧

 けっしてけっして、内容の呑み込み難さと表現の読み辛さの合致などとは言えない。なぜこんな句になるのか。
 句意を単純に言えば、手に「持つ」「斧」で「怨嗟の」的である「樹」を倒せば――「白紙に」してしまえば、とい
う気分だろう。

 「やがての」を、どのように読むか。 @怨嗟の樹がはびこるとすべてが「白紙に」されてしまうから斧で――
 
A怨嗟の樹を倒せば「白紙」状態の新しい空間が期待できるぞーー。

 いずれにせよあまりに散文的、かつ強引な凝縮で読み辛い。憲治は<樹>という言葉を好んでいたので、この方向か
らの抒情と読むのが合っているかもしれないが、この句に限っては社会にはびこる悪の木という意味を捨てがたい。

 『岩村憲治川柳集』の句は、彼に近かった複数人数で選出した。なぜこんな叙法の句が気を惹くのか。
 とにかく、こころに立つ「怨嗟の樹」が見えるからだ。
しかし、「怨嗟の樹」とは何だ?
 @憲治の身に巣くった病気への「怨嗟」
 A社会悪や世の中の「怨嗟」を浴びながら肥大化する存在
作者に聞けばはっきりするはずだが、彼は逝き、「怨嗟の樹」という魅力的な表現が残された。(「そんな句載せる
なよ」「句集なんて出すなよ」と言われそうだが)

 同時期に

 掌にベトナム丸太ころがるセレナード

 がある。「ベトナム」というだけでベトナム戦争を現す時代だった。「掌」に荒々しく「丸太ころがる」感触が多
くの青年にあった。アンガージュマン(社会参加の意で言われた文学的、思想的用語)という言葉が当時の文学に関
心を持つ人の傍にあり、信じられないかもしれないが、社会や政治状況と厭戦などの気分を強く持っていた青年にと
って、恋の睦言の背後にもベトナムは荒々しい様相で張り付いていたのだ。ささやかな小夜曲「セレナード」を岩村
憲治は小市民の日常的感情という方向で書いているが、もちろん、そこに流れる「セレナード」は「丸太ころがる」
感触を含んだものであった。

 

 旅で幼児の指あたたかくうすらぐもの

 名古屋での大会の帰途、新幹線の車中で憲治は一人の幼児に好かれた。しきりに指をからめたり、まだ言葉になら
ぬ声で話しかけられていた。同行した我々も、ゆきずりのその子の家族も頬のゆるむひとときだった。

 句も情景もさほど感動はないが、「うすらぐもの」という作者の思い入れは、自己の思いの把握が常にある程度<
抽象されて内在していた>ことを思わせる。具体的なもの(こと)がそれと結びつくとき、岩村憲治のやわらかな句
が生まれた。


(A) 
 暗い芽が出そうな球根も植えている
 家族あかるく電話工事をながめている
 すこし平和で家族ゆずらぬ言葉もつ

 抽象されたものが前面に強く出されれると
(B)
 トーストや自分の眼玉ぬりつけて
 水 掴む 存在感より確かだよ
 暗い絵に眠りひそかな火を創る

 のようになる。
 (A)が憲治の抒情を好むむきに親しまれ、(B)が生硬さを感じさせる。この程度の硬さはいまでは問題にならない
が彼の句の中では硬い句となる。

 近いところで見ていれば、(A)は同じことのくりかえしに見え、(B)は変化の過程のダイナミズムに感じられた。
(B)が世界認識の更新を含む句であったからである。

 つまり、自らの境涯は引き受けざるを得ないという意識を持ちつつ、(その嘆きが抒情の核としてあるのだが)そ
んな自分の存在の稀薄感から、強固なものへ引き揚げる意志を持続させようとしているのだ。(A)や(B)の違い
はそのボリュームの違いなのである。

 (B)の句の多さが彼の上昇志向を現しているが、次の一句は目立たないがバランスのよい佳句である。

 植木屋へゆく三月のうすあかり
 壷は一個をふかさとどめぬ 飢えあれば

 『岩村憲治川柳集』でもっとも読みづらい句。

 句意は――、自分の生を思わせる一個の壷は、ふかさのとどまらぬ悲傷のつづく命運にあり、こころの飢え
はいつもそれを際立たせる。  といった程度だろう。

 
 岩村憲治の川柳の特殊性・・・なぜこんな書き方になるのか。なんともあつかましさを感じさせる書き方で
はないか。

 「を」はなくてもいいし、「は」も取っ払って、別の書き方が考えられるのではないか。

 理由らしいものを句に従って考えてみた。

@ 一個のこんな壷で「は」、受けとめられないものを連続して負いつづけている。
A こんなひ弱い小さな壷でしかないもの「を」――という詠嘆の「を」。
B 「は」「を」ともに実に実に散文的な発想にしたがった措辞で貫かれている。

措辞が招く混乱を作者は自覚しているはずである。

1)この句のような混乱を抱えている、という意識がほんの少し働いているだろう。
2)この、自分なりの書き方こそ自己から出た文範なのだ、とでもいうようなあつかましさだ。
3)つまり、ここに自分の現実があるということだろう。

 文学や社会に少しでも眼をむけていれば「存在」という言葉が露骨に重みを持っていた時代の小市民、それ
もスポーツはおろか職につくことさえ出来ぬ境涯にある青年のあつかましさであった。


 「飢えあれば」の前の一字アケは、のっぴきならない自己のこころの現実を、――、覆い被さる命運の残酷
と、負いつづけるこころの飢えを、
――其処から「壷」を象徴として客体化したかったのだろう。

 しかししかし、なぜこんなにあつかましさを感じさせるのか。甘え、といえばほぼ間違いのない、これは健
常者からの視線ではあるのだが。


 「ふかさとどめぬ」という表現には、負うべき命運とその悲傷とは別に、
〔底なんて無いぜ〕〔悲運はいくつでも勝手に来るがいい、なるようになるのだから〕というニヒリズムがあ
るのだ。詠嘆や実存意識と背中合わせのニヒリズムが、句の生成にひびいているのだ。彼は、一般的にいう
〈甘え〉を書くことを、びしょ濡れの抒情として排除していた。しかし、甘えの奥にある虚無を見つめること
と、書くという行為を分けようとしていただろう。それを見つめることの不毛を知っていたし、書くという行
為が不毛の対極でありたいとの思いがあっただろう。

 人懐っこい笑顔は誰にも好印象をもたらせていたし、はにかみと淋しさが漂っていた。岩村憲治への誹謗は
まったく耳にすることがなかった。

 抱えているニヒリズムは一切見せなかったが、〔身近にある死〕を淡々と話してくれたのは、一度だけであ
った。〔近くに
――、来てもしかたがない死〕という、覚悟であるのかないのかわからない表現で、それだけ
だった。

 岩村憲治のニヒル。それは彼が、強かったのだろうか弱かったのだろうか。

 やがて思いがけぬことでニヒルなものが抜けてゆき、ガタゴトした書き方の終りが来た。

バケツ購うひとを待ちいるえにしとや
 妻の荷にはじめて目にす聖書など
 あたたかく本を街から買ってくる

 (「購う」は「買う」と同じ。憲治は「購」を多くあてていた)

 「あたたかく」の一語を感得するだけで、結婚前後のメンタルスケッチについて云々しなくてもよいだろう。
 
 二つのものが岩村憲治の川柳から氷解していったかと思われる。
 
 「自分の在る社会」と「そこに在る自分のこころ」を書くことで自己の存在を確認していた孤独な営み―――を、
現実に彼の存在、彼の生をしっかり認める異性が現われたのだ。まさに「えにしとや」である。

 同時に、周囲の人達だけが感じていたであろうニヒルな翳が、句から後退していった。
たちまち、といえば憲治はテレるだろうが、措辞の平明――と、リズムの転がり具合がよくなった。掲出の三句、
若書きとも見えるような湯気が立っている。

 結婚前後の経緯については彼の家庭のことであり、ここでは触れない。放り出しかげんの病気が消えたわけでも
なく、働いて収入を得られる身ではない夫が誕生したと言っておけば充分だろう。

 川柳を介してというより、その頃はもう、ともに育んだ友情で繋がる仲間が居た。そこから彼の現実生活の変化
を見ていた者にとって、彼への信頼を強くさせていたことは、一個の病身の青年が、積極的にものを読み、川柳を
書き、ぐるーぷに加わり、志しを能動的に発揮していたことであった。句が仲間内で最も光っていた。その能動性
が彼の世界観、人間観を深め、認識の幅を広げていったことを皆が知っていた。彼自身が「能動性」を口にし、も
のごとに消極的にならざるを得ない境遇のなかで自分の能動性を大切にしていたのである。

 そして、微妙に自分を突き放すニヒルさが、何処から見ても弱い彼の唯一の強さのようにも思われた。
 粗末なぐるーぷ誌のタイトルを真紅にして、仲間で短い祝意を書き、目をかけていただいている先輩にも言葉を
いただいた。 その二つを紹介しておく。


 憲治さんは川柳界の若樹です。これからはケンカしながら仲よく、いつも芽を吹く若樹であってください。おめ
でとう    時実新子


 オメデトウ! いよいよ本物の地獄を見ることが出来てオメデトウ! 永遠の 青春から飛び立つ憲治・玲子さ
ん。結婚が絶望であることの事実を知的な好奇心からではなく、イタズラ小僧のように捉えてください。飯尾まさ子

   
まして死は キャベツ切るよりあざやかに

晴れるおかしさゆっくり蟻を殺るときに
ふれるなよ 返り血の手で鳥篭に

岩村憲治の川柳で「に」止めはめずらしい。
この三句の「に」は―――「まして死は」という言葉へ循環して終る。!!
 もとより、句集の一ヵ所に立ち止まっての勝手なこころみではあるが、句意とは別に結婚前後の憲治の惑乱が見える
のだ。

 
 結婚前後の実生活の変化と、こころに在りつづける変らぬものとの、いわば明と暗に引き裂かれて収拾のつかぬ惑乱
が「に」止めの句をもたらせたと思われる。

 「晴れるおかしさ」や、自由と制限を表象する「鳥篭」を内に持つ――俺に、「ふれるなよ」と読ませ、感じさせる
ものがあるのだ。この心性は「に」を経て、なによりも大きく在り続けるもの「まして死は」へ行き着いて澱み、
――
澱みが惑乱を増幅させたと思わせる。

 「死」と「キャベツ」。「晴れ」と「殺るとき」。「返り血」と「鳥篭」。これらの関係性は整合されることなく、た
だゴロッと、在る。こころの内外両方の現実は、それが在るという提示「に」とするよりなかったのではないか。おそら
くこれが「に」止めの書かれた心的背景だ。

 虚無観の後退に比例して、より一層、現実を自己のものとして享けざるを得ない憲治の孤独――を思えば、周囲の手放

しの祝福をどのような気持ちで受けていたのかが少しだけわかるような気がする。

おうおうと笑う受話器の泣き声に

 長男が生まれた。電話でそれを聴いたのである。親と分かれて妻と長男と――、小さなアパートの暮しの中で岩村憲治の
変化が始まったと思われる。身体を横にしている時間が多かった、とあとで聞いた。鉄階段の
上がり下りも、夏の暑さも冬の隙間風も、病をかかえる身に良いわけではなかったが、水いらずの暮しを憲治は大切なものと思ったようである。
 この小さな空間に、夫であり父である自分が、在るべきなのだ、という自己愛が出始めたか、新しい生活にそれなりの刺
激や充足があったか、わが子の在ることが自身の生命感をふるわせたかーー。

 大勝させてくれたというヒカルイマイの写真を、少しテレながら見せてくれたことがあった。
だが、発熱が重なり、喀血もあった。働きつづける妻の居ぬ時間を、病ゆえに父として満足な動きのとれぬ現実が夫婦を困
憊させていった。保育園へ、おばあちゃんが迎えにゆかねばならない日も増えていった。そんななかで


 河にごる気やすさ生きる手を汚し

が書かれる。
 「河にごる気やすさ」は、それまでの彼の社会観からの言葉だが、「生きる手を汚し」は、生きるために自らの手を汚し
たという感懐ではない。そのように読むことは「気やすさ」と対応して、けっして間違いではないし、憲治のナイーブな抒
情として読む憲治フアンのあったことも事実だがーー。彼の川柳の多くに見える、対社会を生きる小市民の心情、その抒情
にのみ傾斜する読みは、憲治の自己演出にハマッている。彼の精神はそんなにヤワではなかった。

 岩村憲治の川柳は「私川柳」というべきものだが、それをもって作者の全体像が書かれていると決められるものではない
。あきらかに、自身の、どの部分を書こうかという思いの働きが表現にある。書かないところに強い部分と弱い部分があっ
た。まして、負けん気と、どこかで自身を放りだしている姿勢の交錯が、どのように川柳に出たかは他人の知るところでは
ない。

 感傷も抒情もダンディズムも彼の精神の現実であり、その現実感が読者に感動をもたらせるのは事実だ。この事実と同じ
ように、付き合っていて、彼の精神の強さに途惑うようなこもあった。川柳に書かれた部分をもって、同情や哀感を他者に
請うということは一切なかったし、他人に何かを請うことを恥とする人間であった。

 生きるために「手を汚」さざるを得ないというつぶやきではない。「手を汚し」て生きてやるという強い意識があったは
ずであり、それを生の実感としてにちがいないのだ。そして、「手を汚し」の裏には、ニヒリズムと正反対の、小さな部屋
で水入らずで生きようとする自己愛がふくらみはじめていたのである。

乳くさく寝る子は陽に似て沖へ往け

 町医に通うだけの、それでいいだろうとする放り出し気味の病と、水いらずの生活の好ましさが、どのように岩村憲治の
中で混ざり合ったかわからないが、発熱や喀血が逃げ場の無いところへ窮らせていった。

 いささかの虚無感(観)と覚悟が、なるようになると思わせたとしても、日々の暮しの好ましさと「この子を父親のない
子にするのか」との追求、「乳くさく寝る子」の姿は逡巡を許さない。本人と家族に重い空気の時間が続いた。


 まっくろけ死ねぬ男のあくびなど
 石の街くらいくらいと馬を追う
 これは誰の罠かな子を抱き子をあやす
 あわあわと生きる苦さよかげろうよ

 「享けるなら早い方が」よいと思った、と言った声がいまも耳に残っている。
何回享けねばならないか、はたして、保(も)つか、わからぬままの手術、との感じがあった。
決めさせたのが、彼の好む能動性か、負けず嫌いか、家庭への愛着か、すてばちな気分であったか。
 喫茶店で、次に、言葉を交わすことのできるのがいつになることか――、大きなことに向かうと伝える折り目正しさが、憲
治のダンディズムでもあった。


 あるきつくせ語りかけない風景を
 月日の果てへ破れ水がめ満たすため

 「語りかけない風景」の孤独。「月日の果て」は手術を享けて生をつなぎえるとしても、目の前にありつづけるだろう。
「破れ水がめ満たす」ことができるかどうかーー。

 前向きの姿勢への共感を贈るしかなかったと記憶する。
はたして――大手術であった。

かたつむり おとこは翔んだか鮮明に
 踏み破れ 明暗一枚 薄氷

 手術の輸血で「体中の血が替わった」「俺、変るかも」と弱い微笑を見せた。上の二句はその経過を反芻するところから
書かれている。岩村憲治の人柄から出た句で、周囲のものは胸が熱くなるが、作者のダンディズム、ここに極まったとも言
える。句語のダンディズムをもってのみ、自分で自分に説明することができたのかーー。

 先がどうなるか、わかっていたわけではない。

 首より高く立っている樹の妖しさよ

術後のベッドからの嘱目だろう。「川柳ジャーナル」の句を受け取りに行った夜更けの病室を思いだす。「あと何回か」享け
ねばならないと言っていた。

子は街に 手編みのセーターころぶなよ

 「子は街に」、自分は病室のベッドに在る。それは

 あわあわと生きる苦さかかげろうよ
 咲くか咲くかと冬のおとこのかばうもの
 水の中 春の花見る 生ごろし
 爪立ちの いのちひとつへ 樹が繁る

の心境であったか。整形を含む手術五回。四年間「爪立ち」の入院であった。
 以後、死ぬまで担当医への感謝の念を抱きつづけていたと聞く。

 水を汲む追っているのか追われてか

 そして、彼は、あわあわと還えってきた。どれほどの回復を得たのか、危なかったものが、それを脱しただけなのか、永ら
える道が見えたのか
――。とにかく、ゆっくりと、家族と連れ立って悪友等と競馬場へ行けるところにまでたどりついた。

 ガタゴトした句が書かれなくなって、句意から病身であることも少なくなり、生活力の弱さを念頭に置いての日々の感懐が
書かれることとなった。

 水入らずの暮しのなかの、書かれなかったあれこれを多少なりとも知っているが、柔らかな笑顔の影のダンディズムが――
それを話題にはしなかった。

 句のもっとも大きな変化は、社会状況を示す句語が消えたことであった。ニヒリズムは、生を得たことで沈潜したのか
 
 時計の内部みている 羽根の生える眼で

入院中に書いた句であったかもしれないが、岩村憲治の、静かな着地であった。

倒れればじゃがいも石ころ子は三歳
 笑えわらえと人のくらさをまだ知らず
 子を叱る本気フフフと風が聞く
 ひとつ灯してどこより温いと親子棲む
 剃刀が置いてあるのはなぜだろう

 退院を祝うささやかな集まりを想えば、なつかしさに涙があふれる。
とにかく帰ってきた。悪友と麻雀に時を忘れることもあり、やがて次男を得た。たまたま憲治と保育園へ同行したとき、
「じゃがいも」は整列もシスターの声もかまわずに躍り出てきておどけてくれた。
 だが、留守の家族に連絡もできずに、タクシーで病院へ急行することが何度もあったと聞く。「剃刀」を、どのように見
たのか、問えるものではなかった。「剃刀」が見えているゆえに、ことさら「どこより温い」と感じていたとすれば、それ
は、憲治にとって退院後の幸福なひとときと言えるものであったのだろうか。

 何に近づく日ごと日ごとの箸茶碗
 負うものが臭う剃刀もつときに
 海だ海だとちちと子は食器鳴らして
 めまい来る 鳥語自在な幼児みて

 感情の交錯と言えばそれまでだが、句に書きとめる作者の神経がかつてのニヒリズムを引き戻すことはなかったように思わ
れる。それは、生死を賭けた代償の、いま、という感覚のようであり、あるがままの現実を受けいれようとする姿勢であった
のかもしれない。退院後の川柳活動にさほどの能動性を見せなくなったことが、入院中の苦痛、痛めつけられた憲治の胸中の
反映にも見え、あるがままを受け入れるとは見えるものの、やはり、もうあの心身の苦痛は嫌だとの思いがあって、周囲の者
は句語にただよう優しさを心底好ましいものとして読むだけであった。

なめらかに不在の闇へ焼けるパン

 この句がわからない。頭に棲みついて離れない句なのだが、わからないから離れないということでもない。言葉の存在感が
強いのだ。
 岩村憲治は自分の川柳を意味性を書くものとしていたので、読みの自由を認めつつ意味の方向性を示す書き方をしていた
。憲治の川柳――その抒情の芯には意味性があるはずなのだが、この句は芯のところへ行き着くのを途中でやめさせる。
 トーストからパンをとりだす時など、この句を思い出すことがあって、一応「なめらかに」を、さほどのこともなく過ぎて
ゆく日常的時間、と解するのだが。これは、実際には「焼けるパン」という言葉があって、そこから日常生活を感じて「なめ
らかに」を解している。つまり「なめらかに焼けるパン」と読んでいるのだ。
 日々の糧を得ている生活の何事もないおだやかさは、小市民の生活感とその抒情を書いている作者の姿勢に合致しており、
これは岩村憲治の川柳を読みつづけているところから納得できるのだが。
 だがそれは「不在の闇」へ向かって「なめらかに焼けるパン」ということだ。
では、「不在の闇」とは、――作者自身の死なのだろうか?。そのように思われる。死にむかってなめらかに日常性はつづく、
ということである。どうもそうらしい。なにごともないひとときにも彼は自分の死を思っていたのだ。
 しかし、実際「不在の闇」と表現するだろうか?。納得しがたい。「不在の闇」とは、自分が死んで、この世に居ない時空
を意味するのだろうがーー。いまだ「不在」(来ない)が、やがて来る「闇」(死)とも読めて、これはやや強引な意味の付
与になりそうで落ちつかない。
 「不在の闇」という言葉をどのように得たかわからないが、なんだか、出てきた言葉が居座って、替えようがなかったので
はないか。「死」の実際を言葉にすることなど出来ないのを、そこに言葉が出てきて居座ってしまったのだろう。
 この句、居座った言葉の存在感に、作者が従わされたようだ。「不在」と「闇」が整理できずに並んで、居座った―――。
「闇」や「パン」の定着した句

 闇よ闇いろはにほへと子よ病むな
 闇の中もくもく食べる仮死の箸
 馬をはしらす底なしの闇を背負わせ
 パン焼ける飛べぬ鴎の嘆きの色に

「不在の闇」の一語は、岩村憲治の川柳の出口の無さ、堂々巡りが露骨に、あるいは無惨に、せり上がったことを示してい
る。
 

薄馬鹿ありちちの形で傘傾けて
 ちちと呼ばれ誰にも見せぬ樹の内部
 ちちと呼ばれ風につまずくことがふえ

 岩村憲治は退院後に次男を得た。二人のほうが成長後にこころ強いだろうと夫婦は語りあったと聞く。それは「ちちと呼ば
れ」る憲治が、いつまでこの世に在るかを念頭にした会話であった。

 めまい来る鳥語自在な幼児みて
 父の知らない神とミルクをいただいて

 みずみずしい視線といえばよいか、自分の感動をまっすぐに書いており、代表作の幾つかに並ぶ佳作である。
 近くの者には、身の安定を少し得た父と家族が見え、悪友三家族が月に一度は会って笑い合う時をもつことが普通のことと
なった。だからあまり憲治の川柳の変化を気にすることがなかった。読んで、そんなものだろうといった気分で理解していた
し、病に右往左往することのないことだけで充分――普通だった。しかし本人は

 浮遊ありパセリの丈に挑まれて
 訣れにはいつか関わる児と海へ
 水が欲しいと草黙っている俺も

と書いている。「浮遊」の感を抱いていたのであり、実生活の中で能動的に動けぬことを「黙っている」日々でもあった。
小さなアパートのベランダの草木が憲治のこころをよく知っていたのかもしれない。

癒えぬ手を焚けば海への汽車みえる

 
初期の病苦を書いた句のなかに「海」が出てくる。
岩村憲治の書く「海」は常套性を出ない。句集を見れば「海」は十句を越える数で、数十年間「海」と書いており、すべて
常套的な「海」である。「海」が「海」でなければならなかった。一般的な感性での「海」でありたかった。彼はそれから
遠いところに居たのだから。
 後年の

 玩具あれば児らより沖を泳ぐ父

がそれをものがたる。
 では、病苦と縁のない一般的な世間との違いはどのようにあったのか。穿っていえば『岩村憲治川柳集』がそれを示して
いるのだが、実際に一般世間にどのように同化することがあったか。
 競馬場で馬券を握る一瞬であり、海で釣り竿を持つ時であり、妻と母とのあいだで眉を曇らせる時であり、パチンコの騒
音に埋没している時であり、職に着いた一時期のデスクの受話器を取る時などであっただろう。病身をだましだましの演技
であるなどと冷たく自覚していたかも知れないが。

 揺れる樹と不安な演技つづけている
 どこへ行くバケツの中に海持って

 「樹」という言葉は「海」より多く書かれている。いずれも常套を出ない。「海」が遠いものであるのに比べれば「樹」
は身近で親しい存在であっただろうけれど、幻の「樹」であったとすれば、「海」より遥かに遠いものであった。
 「樹」が観念語であったと思えば、いつのまにか川柳を書かなくなっていった心的経過と、書くという、彼にとっては体
力を要する行為から離れていったのを推察できる。「樹」や「海」という観念を抱くことが救いであったか、擬似生命だっ
たのではないかと問えば、憲治はなんと答えるだろう。初期のうちから救いや慰めから抜け出ている。存在を示したとでも、
弱い笑顔で言うかもしれないし、それは否定できないことだ。現実から観念への往還が岩村憲治の抒情の大部分であり、そ
れを好む、いわば感傷に溺れたいフアンも多い。

 海はかなたで彼方へ向かい果てるらし

 この句は憲治の境涯の句に読めるが、そして間違いではないのだが、おそらく憲治は心的なエアポケットにあって自分を一
般化している。観念的な「海」は万人が持ち、同じように死に向かって誰もが進んでいる――その、いまが自分にある。この
句は自分が一般的なところに並んでいるという意識の中で書かれているのであり、彼が川柳を書かなくなってゆく端緒の句の
ように思われる。小市民の一人の呟きを書いたとき、彼は、感動も思い入れもない、ただの一人の人間であるという意識へ、
思いもよらぬ自己回復感、その着地を感じたのではないか。
例えば

 切符二枚知らぬ樹があり死ねないぞ

という句がある。
 夫になった頃の、新婚さんののろけだと言えば岩村憲治は舌を出すか。
「切符二枚」、街の片隅で始まった新しい生活で、妻との暮しだけではなく上下左右のお付合いがあり、こころのやりとりが
ある。細くてもまったく新しい「樹」の、その生の喜びがある。一般的な日常生活からズレた逼塞状態の暮しの中で、「医師
へゆくシャツを黙って母がくれ」と書いた頃からの歳月、それが彼の思春期から青年期への開花することのない時間であった。
「死ねないぞ」の思いは境涯を云々するより、後ろ向きの時間が終って遅い春を感じるのろけと読める。
 子を得て、生命を賭した大手術と入院があり、退院してきたアパートの一室に、父であり夫である自分をどのように思って
いただろう。とにもかくにもそこにしか自身の所在はないのだ。

 ひまわりが咲ききっている哀しさを

 眼につくものが孤独な自己確認となって通いあう。はたして川柳と関わることが、どれほどの自己回復をもたれせるかの自
問があっただろう。釣り竿の撓りを感じる方が短時間であれ生命感の横溢であったのではないか。「切符二枚知らぬ樹があり
死ねないぞ」の知らぬ「樹」を知って行く、新しい認識を得る、思念を深める、なんらかの希望を抱く、それらは次第に小さ
くなっていっただろう。未知への好奇心、未知を開く喜びは、実際の生活と病状からすれば疲れを伴なうことであり、負荷と
なっていったようだ。それでも一時期、親しい仲間と岡山の大会に出たり、柳都の大会に出て佐渡へ旅行することができたし、
職につくことも経験した。しかし

 知らぬ樹があって都会に火を創る

と書いたパンチは消えて行った。「知らぬ樹」が未知への関心や期待を示すこころの動きから、観念語となって固まってゆく
のはあきらかだった。周囲の眼から見て、それが彼の、例えばものを読む眼を曇らせたり感受性を弱めたりにはならないとこ
ろが憲治の憲治らしさであり、事実、川柳についての話題になれば確かな見解を言葉少なに話してくれた。しっかりした見識
があって、ひとところに止るものではなかったし、遅れを感じさせる言葉は無かった。

 遠く近く死はあり象をただ見てる
 紙のしろさの中に日昏れがみえてくる

 風邪も発熱も疲れも、咳き込むことだけでも怖いものであり、家族の留守にタクシーで病院へ行くことが何度もあったらしい。
「知らぬ樹」への興味や能動性の薄れをどのように思っていたのかはわからない。競馬もパチンコも釣りも読書も、テレビを観
ることも体調に合わせてのことだっただろう。
 付き合っている者は、もともとやわらかで優しい人柄が、ますます優しくなってゆくのを感じていた。仲間にとって彼の体調
が比較的良かったころ、その時期がもっとも愉しいものであった。
おれは次男坊だと靴ひっくり返っている

 やわらかな父親の視線である。世間一般のどこにでも居る父親の――。とにもかくにも岩村憲治は一家の父親として三十数年
を送っている。

 花屋も鬼も欺しとおせた雨期の街
 陽は春へ重たい呼吸はそのままに
 
 病む身の父親と言えばそれまでだが、十代の前半で喀血入院した男が病気をだましだまし生きてきて、そのまま二人の子の父
となった。「重たい呼吸はそのままに」が哀れだ。

 烏起しに未明漕ぎ出す 晴れるため

 岩村憲治が自ら選んで活字にした最後の十句の末尾の句である。田中博造の話しでは、二人で釣りに行った未明のことで、カ
ラスの多く居る島のことだという。
 よくぞ「晴れるため」と言ったと思う。体調はムリせねば(実際はムリしていたことだろう)釣りのできる程度にある。静か
な暮しのなかで息子は成長してゆく。生活に伴なうさまざまなしがらみは人並みに負っている。しかしこれが自己実現ではない
はずなのだが、現実はこのほかの生き方のできるものではない。「晴れるため」と、収斂された感慨は彼を知る者にとって、よ
くぞ突き放した――という印象が強い。とにかく眼のまえの現実はひとときであれ――「晴れるため」なのだ。
 以後、ノートにいくつかの未発表の句があったが、川柳の発表はない。
川柳にほとんど関わらなくなって、十数年生命を維持し、その間、二人の息子は成人。臨死体験から奇跡的な生還、極度に体力
は落ちたが交友関係などは変わることなく、日常生活を二年間送り、六十三歳で逝った。 (終り)

 25回、掲示板にお邪魔しました。『岩村憲治川柳集』は図書館や新聞社などの他には、憲治と交友のあった数氏とごく少数の
方にお送りしただけでした。おかげさまで、買っていただこうとしていた数を完売することができました。誠にありがとうござ
いました。憲治に「売れたよ」と言ってやりたい思いでいっぱいです。掲示板に連載したのはさほどの理由のないまま、句集の
出た岩村憲治の川柳に自分なりのライトを当てたいと思う程度のことで、勝手な照明係のようなものでした。読んでくださった
皆さんに感謝いたします。

 句集について、憲治が活動中に知られたり愛好されたりの句が載っていない、との声を耳にしております。編集したグループ
が没にしたのではなく、資料の収集にグループの力の限界があったようです。私も表記不明で覚えている句がありました。「信
号かわる街の一人の紹介おわる」と耳で覚えています。佳句だと信じています。
 また、二句、同じものを別ページに載せたことにあとで気がつきました。このご指摘も聞いております。編集グループの相互
が信頼しあっていて、せねばならぬ確認の一過程を踏まなかった結果で恥ずかしいことです。お詫びいたします。  

2004年6月26日  石田柊馬。

 



                                   
                                    
 

          
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