中四国学生地理学会(中四)のおもいで


この中四国学生地理学会(中四:ちゅうし)、
かれこれ36回(平成8年度大会時点)も続いている代物である。
学生の力だけでよくもこんなに長い間続いたものだと思う。
かつては10大学ほど参加していた時代もあったが、
現在では学会名にある四国の大学がすべて脱退し、
中国地方でも鳥取大学が抜けたので実際参加しているのは
岡山・広島・山口・島根の4大学のみである。
まずはわたしが1回生として初めて中四というものに触れたときのことから、
順を追って綴ってみたい。


われわれ平成6年度入学組は、
文学部大改組(個人的な意見としては大々改悪)が行われる前の年に入学し、
1年次から、史学科(現在の歴史文化学科と行動科学科の一部)の、
地理学履修コースの学生として、研究室に所属した。
研究室に定着するまもなく、その話は唐突にもたらされた。
その当時は1回生から中四に参加することになっていた。

ある日、1回生に招集がかけられた。
何だろうと思って集まってみると、なんともものものしい雰囲気であった。
そこで初めて、中四の存在を知ったわけである。
そこでは、中四の趣旨などとともに、
参加するか否かは、個人の自由であることが告げられた。
しかし、その説明だけでは1回生のわたしにとってはあまり要領を得なかった。
これは単位と関係あるのだろうか。
参加しないことで研究室での立場が危うくなるのではないか。
いろいろと疑問はいろいろあった。
そうこうするうちに参加の意思表明を求められた。
ほかの連中はどうするのだろうか。
何!? みな参加すると言っているではないか。
これはもう参加しないわけにはいかない。
卒論書くとき役に立つから、とか適当なこといってるやつもいる。
結局参加してしまった。


それからがたいへんだった。
毎週のように勉強会が開かれる。
なんかわけのわからん資料をいっぱい配られる。
しかもそれを来週までに読んでこいといわれる。
何が起こっているのか把握しきれなかった。

そのうち、だんだんやることがわかってきた。
児島の繊維業について調査するらしい。
我ら1回生も調査にいかなくてはならないらしい。
入ってきたばかりで調査なんかできるわけがない。
正直な感想である。
さすがに1回生単独調査ということはなかったのが救いであった。

調査は2人1組で行われた。
わたしは某H.H.氏と組まされた。
当日は3カ所回る予定だった。

1カ所めの門をたたく。
こじんまりとして奥の方ではミシンの音が寂しげだ。
ひどいとは聞いていたがここまでやばい状態とは・・・。
やはり聞くのと見るのとでは大きく違う。
H氏が聞き取りをしたのだが、社長の言葉は沈んでいて、
明日にでも首くくるんじゃないかと思ってしまった。

次にいった2カ所目はお茶がでてきて、少し安心した。
経営状態も1カ所めほど悪そうでもないし、規模もそこそこである。
ここでもH氏の横で話を聞いて書き取るだけだったこともあり気は楽だった。
そしてその日最後の訪問先へ行く時間がきた。
最後はわたし自らが聞き取りをしなくてはならない。
このときが初めてのことであった。

3カ所目はジーンズの縫製をやっている作業所だった。
とても明るい雰囲気である。
1カ所目とは大違いだ。
よかった、これなら何とかうまくいきそうだ。
聞き取りに入った。
そのときは気が動転していて、なにを聞いたかはあまり覚えていないのだが、
1つ失敗をした。
いや、ささいなことである。
わたしはミシンの話題になったとき、
うかつにもそこで用いられている全てのミシンの種類を聞いてしまったのである。
本論にはほとんど関係のないことである。
ましてや全ての種類を聞き出す必要はなかった。
調査票の枠の外がミシンの種類で埋まってしまった。
しかもそれを聞いている途中、聞き取りきれなくて、
言われた内容を書き漏らしてしまった。
とにかく長かった。
1時間弱は聞き取りをしていたように記憶しているが、それ以上に長く感じた。
とにかくこの1日は非常に疲れた。
大学入試の比ではなかった。

しかし、それで終わったわけではない。
まだ論文を書く作業が残っている。
まさか1回生ごときが書かされるはずはないと考えていたのだが、
なんとわたしに書けという。
つれづれと書くのは不得手ではなかったが、
きちんとした資料に基づいて書く文章は初めてである。
任されたのは児島の概要であった。
たかだか15行ほどの短い文章ではあったが、非常に苦労した。
論文ができあがって自分の書いた文章が製本されたものを見たときは、
妙な感激を覚えてしまった。
このときの中四は初めてのことばかりだった。


そして、次の年も中四の季節がやってきた。
前年と違うのは、1回生がいないということである。
この年の中四はあまり記憶にない。
というのはこの年はわたしはほとんど調査をやっていないからである。
1回だけ調査をする機会があったのだが、
調査先である古紙回収業者の責任者がアポイントの時間に不在だったので、
ほとんどお話しできなかった。
余談だがこのときは某Y.N.氏と調査にいったのだが、
彼は調査先に40分かけて自転車でやってきたのである。
わたしは原付で行ったのだが、もちろん彼は自転車で岡山まで帰っていった。

この年の中四は調査以外のところで苦労した。
そもそもこの年のネタは確か第3セクター鉄道についてのはずだった。
それが、わたしが旅行で数日あけて帰ってくるとなぜか環境問題にすり替わっていた。
そこからもテーマを決定するのに結構長い時間がかかった。
まず、リサイクル問題まで絞り込んだ。
しかし何のリサイクルについて調べるのかで2つに意見が割れた。
空き缶・空き瓶のリサイクルと古紙のリサイクルである。
そこでまず、2班に分かれてそれぞれ予備調査的なものをやった。
結局古紙のリサイクルについてやることになった。
そしてわたしがろくに調査できなかったなかで、
ほかの人の調査結果も出そろい何とか執筆するところまでこぎつけた。
また余談だが、古紙回収業界はどうも裏で何かあるのか、ただ忙しいだけなのか、
調査のアポイントを取ろうとしても応じてくれるところは少なかった。
わたしもアポイントを取ろうとしたが、調査うんぬんを持ち出した瞬間、
丁重(ほんとはあまり丁重じゃない)に断られてしまった。

この年はわたしの担当文は前年より少し増えて1ページ強であったが、
このときは3、4回は書き直した。
というか書き直させられた。
あるときは、中四会議に
わたしと、その当時3回生だった某K.I氏ほか3人しか出席していなくて、
わたしはそこで書いた文章について矢のように糾弾され、
まるで異端審問でもうけているかのような心境だった。
「紙」と「リサイクル」というたかだか1ページくらいの文章で、
何でここまでやらねばいかんのかと思った。


その年の中四の大会(於:広島大学)も終わり、
秋からはいよいよ我々の出番となった。
いざ自分らが引っぱっていくときになって、
去年の3回生は苦労しただろうななどと思ってしまう。
人の考えていることなど、
いざ自分がその立場に置かれたときにしか分からないものである。
秋から冬にかけては2回生である自分たちだけで会を開いていたが、
二人しか出席しないこともたびたびあった。

論文のテーマは、中四会長である某T.H.氏の案に決まった。
(決定までにはいろいろあったがここでは割愛する)
それから何度か関係文献を読み、具体的な調査内容も決まった。
実際の調査には何度も行った。
調査といっても大原・西粟倉・東粟倉の役場や各施設に聞き取り調査に行ったり、
観光客の集まる時期をねらって、観光客に直に聞き取りをおこなったりした。

また、わたしは事務局長(実体はただの事務屋)であり、
この年の第36回大会は岡山大学なので、
会場・巡検の手配などをしなくてはならない。
しかも最後は実質稼働していたのがわたしと中四会長と某N.E.氏だけだった。
論文はもちろんこの3人で書いた。
最後の何週間かはかなり殺気立っていた。
なかには何を考えているのか、
我らが実験室で目を血走らせて原稿の打ち込み等をやっているときにやってきて、
騒音たてて謝りもせずのうのうと帰っていったやつもいる。
あのときはキレて殺す寸前までいっていた。
あれ以上やかましいのが続いていたら、本当に殺していたかもしれない。
あれは今考えても腹が立つ。

そして発表の日がきた。
わたしがいらんとこばかりに20分近くかけてしまって、
大事な本論はほとんど発表できなかった。
中四会長には迷惑かけました。
その夜は懇親会だったのだが、
わたしは悪酔いしてしまい某S.S.氏に迷惑をかけました。
(学内の植木の下で寝ていたところを発見された・・・)
それがたたって次の日からわたしは寝込んでしまって全く出席できなかった。
巡検は責任者としてかろうじていったのだが、2日目の発表は聞けず、
また準備も任せてしまったので、また会長には迷惑をかけてしまいました。
ほかにもいろいろあるが、
とくにこの年で印象に残っていることといえばこのくらいである。

しかしこういうときに人の本当の性格が現れてくる。
とくには書かないが、とにかくいろいろなことを知ることができた。
しかし自分らが3回生のときに岡山大学で中四の大会が開かれたのは、
はたして運が良かったのだろうか、悪かったのだろうか。


3年間いろいろあったが、いまから思うと中四というものをやって、
まあよかったんじゃないだろうか。
いろんな経験もできたし、
とりあえず、やって損はなかったような気がする。
逆にいまから思うと、中四に参加していなかったら、
いまの自分はなかっただろう。
そのように考えると、得たものは大きい。
ただ、中四は団体活動である。
意見がまとまらず難儀したことたびたびあった。
中四で得たいちばん大きいものは、
団体活動いかにむずかしいかがわかったということかもしれない。


ただ、岡山大学の中四がいま、消滅しようとしている。
平成9年度の第37回大会は、山口大学にて行われたのだが、
岡山大学の発表はなかった。
ただ、オブザーバーとして参加してだけである。
そのへんの事情はおって再加筆したいとおもう。
そして、平成10年度も、同じ状態になろうとしている。
いまとなってはわたし自身が中四にかかわっていないため、発言権はない。
ただ、のちのちの代に残そうという決意のもと、
第36回岡山大学大会をのり切ったわたしからみると、寂しい限りである。



※この文章は、某研究室誌『人脈』(平成9年度)に掲載されたわたしの文章に、
 加筆・修正を加えたものです。


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