近代海軍の発達と海戦

全体内容一覧
 
    航空母艦
 
  航空母艦は海軍の主力艦として戦艦に取って変わったが、その起源はアメリカの飛行士ユージン・エリイ(Eugene Ely)に負うところが大きい。彼は1910年に自分のカーチス複葉機で、アメリカ艦バーミンガムBirmingham の船首楼の上に据え付けられたデッキから飛び立つことに成功した。またその2ヶ月後には、同じくアメリカ艦ペンシルバニアPennsylvania の後部甲板に備えられた同様のデッキ上に着艦を成功させて歴史を作った。この時、着艦を助けたのがデッキ両脇に置かれた砂袋と、その砂袋の間にデッキを横切って張られた一連の鋼索から成る原始的な拘束装置であった。
      
 
1911年にユージン・エリイ(Eugene Ely)が彼のカーチス複葉機を発艦させる発進台として使ったのは巡洋艦ペンシルバニアPennsylvania だった。これは航空母艦が実用可能なものとして、地位を確立する数年前のことであった。
 
 
 1917年という年には、1隻の艦の就役とともに航空母艦の歴史が新しい時代を迎えた。その艦の歴史は空母の発達とともに30年の長きに亘った。その艦とは英国艦フューリアスFurious である。元は19,000トンの巡洋艦として設計されたが、艦橋から艦首まで70mの飛行甲板を持ち、当時の戦闘機は困難なく発艦できた。フューリアスが風に向かって全速31ノットで進むことができたことは、パイロットたちをこの飛行甲板に着艦するという実験に駆り立てた。これは上部構造物を回りこんで大きく横方向に飛行しながら飛行甲板にアプローチしなければならないという困難を伴った。しかし飛行中隊長 E.H.ダニング(E.H.Dunning)は1917年8月2日、愛機ソップウィズパップを着艦させることに成功した。しかしその後の試行で彼は死亡し、このやり方は中止された。
 
    
飛行中隊長ダニングは、第一次大戦の終わりの時期に、完璧な着艦技術を試みる中で初期の犠牲者となった。
 
 
  一方で、イタリア客船コンテ・ロッソConte Rosso の未完成船体を英国空母アーガスArgus に改装したとき、空母には発艦と同様に着艦もできることが一番重要な要求であった。甲板はさえぎるもののない、長さ170 m、幅19.5 mの飛行甲板となった。甲板下は飛行機の積載とメンテナンスのための格納庫であった。航空機は甲板から他の甲板へエレベーターで移動させた。しかしアーガスが就航する前に第一次大戦は終結した。アーガスでは煙突の煙は飛行甲板下の艦尾から排出されたが、次の新しい空母、イーグルEagle とハーミズHermes では右舷に、「アイランド」式の上部構造物と煙突を設けた。これはその後の標準的な配置となった。
 

1918年末に就役した英国艦アーガスArgus は、世界初の全通甲板を備えた航空母艦だった。
 
空母に、より重い航空機が加わってきたので、甲板に沿って前後方向に伸びるワイヤーで構成された、当時の慣例の拘束装置では不十分なことが明白となった。そしてこの方法は1924年に取りやめられた。英国の海軍機は、ブレーキも無く、尾輪に舵取り装置があったわけでもないのに、その後の8〜9年間は拘束装置無しで着艦した。

 米国では、最初の「空軍提督たち」が、海戦で航空母艦が決定的な兵器となることを予見し、計画を練っていた。その結果、装備と戦術は発達し、航空機は次第に従来の軍艦の影を薄くしていった。海戦における空軍力の効果にさらに論争を引き起こす見解が、陸軍航空部隊の「ビリー」ミッチェル将軍から提出された。彼は陸上基地をベースとする爆撃機の行動半径内では、軍艦は作戦行動を取ることはできないだろうと主張した。そして旧式の戦艦を爆撃で撃沈するという実演で、この主張を裏付けた。

 英国では海軍航空軍にしっかり根を張った無気力により、軍装備は古くさく時代遅れの船のままで維持され、同様に飛行機も時代遅れであった。1935年に至ってやっと、空母の総トン数を1922年のワシントン条約で許容された限度まで増やす動きとなった。それは23,000トンのアーク・ロイヤルArk Royal の建造であった。32ノットの速力を発揮し、60機の航空機を運用できた。この船は、もっと以前にアメリカのサラトガSaratoga とレキシントンLexington で採用された形式を、英国で最初に取り入れた空母で、二段の格納庫と飛行甲板を主船体に組み込んであった。

 ワシントン条約で空母のトン数に課せられた制限が1936年末に満了したことを受けて、英国は最初の4隻の23,000トン空母を起工した。すなわち、イラストリアスIllustrious 、ヴィクトリアスVictorious 、フォーミダブルFormidable 、インドミタブルIndomitable である。これらの艦は敵の爆撃による危険に着眼して、舷側が装甲されていただけでなく、飛行甲板も頑強に装甲されて結合されており、これにより事実上、格納庫を装甲された箱の状態にしていた。

 

フェアリー・ソードフィッシュ雷撃機は、旧式な設計にもかかわらずタラント戦で注目すべき成功を成し遂げた。

 

 1939年9月にドイツとの戦争が起こったとき、イラストリアスはまだ建造途上にあった。英国海軍は唯一の近代的空母アーク・ロイヤルで、戦争の最初の1年をしのぐほかなかった。そして飛行機のほうは、さらに長い間時代遅れの機種を使わざるを得なかった。しかしアーク・ロイヤルは、イタリアが参戦した後、ジブラルタルを基地とした「H」部隊とともに運用されながら、地中海の作戦で中心的な役割を担った。敵の圧倒的な陸上航空部隊が側面から攻撃できるルートであったにもかかわらず、護送船団がマルタに向かうのを可能にしたのである。強力な戦艦ビスマルクBismarck が1941年5月に大西洋へ出てきたとき、最終的にこれを窮地に追いやったのは、アーク・ロイヤルのソードフィッシュ複葉機が放った1発の魚雷だった。

 これより前に、新しく就役したイラストリアスがアレキサンドリアをベースとする地中海艦隊に加わっていた。そして1940年11月にこの艦のソードフィッシュ雷撃機が、タラント港に停泊していたイタリアの戦艦隊を無力化した。イラストリアスはその2ヵ月後、ドイツの急降下爆撃機によって損傷し、修理のためアメリカへ送られ、その穴を埋めたフォーミダブルが今度はマタパン海戦で中心的役割を演じた。しかしクレタがドイツの手に落ちたとき、東地中海は非常に強力な敵の制空権下に落ち、1隻の空母が活動するのは困難となった。フォーミダブルは大破し、姉妹艦同様修理のために大西洋を渡った。また1941年の年末、アーク・ロイヤルはU-ボートによってジブラルタルの近くで撃沈された。

 空母艦載機も大西洋横断の海運を守るために重要な役割を担った。戦前の海軍の計画では、商船輸送を攻撃してくるどんな潜水艦に対しても、ASDIC(水中潜水艦音響測位装置 ; a sound-ranging device for locating a submerged submarine)を備えた護衛艦艇で切り抜けられると決めてかかっていた。その結果として、浮上したU-ボート群による護送船団への一斉攻撃に対して、海軍の装備は準備不足であった。レーダーと爆雷を備えた、陸上基地をベースとする航空機が護送船団付近をパトロールし、浮上している潜水艦を撃沈することは、この脅威を克服するのに大いに有意義であった。しかし大西洋中央部には、非常に航続距離の長いリベレーター哨戒機でさえカバーできない領域があった。

 1943年、ドイツの大西洋中央部での潜水艦活動によって、英国のアメリカへの生命線は切断寸前になるほど危機的状況にあった。この脅威を克服する切り札が護衛空母の導入であった。護衛空母に搭載されたソードフィッシュやアヴェンジャーといった航空機はU-ボートを、爆雷、ロケット弾、自動追尾魚雷で攻撃した。最初は護送船団の直接防御に就いたが、その後、U-ボートの燃料補給海域に攻撃を拡大した。1943年の終わりまでには、護衛空母、長距離哨戒爆撃機と、進歩した水上護衛戦術の共同運営によって、連合軍が優勢となった。

 第二次大戦の間に、海軍航空機は戦艦に搭載された大口径砲に取って変わって、海軍作戦の主要兵器となった。ヨーロッパの戦域では、マタパン海戦やビスマルク追撃戦の中で、艦砲が止めの一撃となったが、航空機も決定的な勝利の要因となっていた。しかし海軍航空機が有無を言わせぬほどに圧倒的な力を見せつけたのは、太平洋の戦いだった。

    

着艦寸前のパイロットの目から見たアメリカ空母エセックスEssex 。着艦速度を遅くして着艦を容易にするため、空母は風上に向かって進んでいる。   
[挿入写真] 1942年5月の珊瑚海海戦で、内部爆発により重大な損傷を被り、燃えるアメリカ空母レキシントン Lexington

 

 日本は空母艦載機の攻撃力を劇的に見せつけて太平洋戦争を開始した。日本軍は1941年12月7日に、2時間にわたってハワイ、オアフ島と真珠湾の海軍基地を攻撃する中で、4隻のアメリカ戦艦を撃沈し他の3隻の戦艦にも大損害を与え、また地上及び上空で164機のアメリカ軍機を破壊した。警告無しの攻撃で、アメリカ艦は係留されており、これが日本軍の爆撃雷撃をより効果的にした。日本軍にとって不運だったのは、アメリカ太平洋艦隊の空母3隻すべてが、攻撃時には洋上に出ていたことであった。

 太平洋の戦いの中で続いて起こった戦闘でも、支配的な役割を果たして主役となったのは、日米の空母であった。珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、そして重要地点となったガダルカナルというソロモンの島周辺での戦いで、アメリカは2隻の空母を失い、日本は5隻を失った。

 1944年の半ばまでには日本軍は守勢にまわり、アメリカは有利に作戦を進めるのに十分なほど強力になっていた。日本海軍は大型空母3隻、改装空母6隻からなる勢力を結集し、航空機は430機を用意した。アメリカの高速機動部隊は15隻の空母から成り、航空機は895機を数えた。そのうちの半分は戦闘機であった。1944年6月19日、日本軍はアメリカの高速空母部隊への一連の攻撃で、ほとんどの艦載機を発艦させた。結果は完敗であった。アメリカの戦闘機パイロットはグラマン・ヘルキャットを操り、防空の大空中戦の中で346機の日本機を撃墜した。日本海軍の空母航空戦力はこの戦闘で永久に崩壊した。公式にはフィリピン海海戦(※日本ではマリアナ沖海戦)として知られており、参戦したアメリカ軍パイロットたちは「マリアナの七面鳥打ち」と言った。

 日本軍はアメリカ海軍への特攻に頼って、型どおりの敗北戦で反応した。「神風」戦術は敵の優勢な物量に、日本人の精神的な強い意欲を利用して克服しようとしたものだった。神風の試みはフィリピン北部戦、硫黄島戦、沖縄戦と続いた戦いの間に、敵にかなりの損害を与えた。しかし結局は敗北を食い止める最後の必死の試みであり、不成功に終わった。戦争終結までには、連合軍の空母は日本近海を自由に動き回るようになっていた。

 

全体内容一覧

 


This website is a translation of the "Naval Warfare :An Illustrated History" (Edited by Richard Humble). The copyright holder of the original book has not been found for more than half a year. Please contact me if you are the copyright holder. E-mail