TOSS作州教育サークル   藤本 康雄


 http://www.sanyo.oni.co.jp/kikaku/ishii/index2.html 岡山孤児院物語に授業で使える
画像がたくさんあります。



 

お父さん お母さん 育ててもらうべき人がなく 道の上で生活する子どもたち。

ストリートチルドレンは、世界に1億人以上いるといわれています。

明日、食べるものがあるかどうか。今日どこで寝るのか。そんなことで困っている子ども達

が1億人日本の人口と同じくらい世界にはいるのです。

今の、日本にそんな子ども達はいますか?


 (見たことない。    いないと思う。) 

 

 今は、いないけど昔の日本にはいたと思いますか。

 (いた。)

  江戸時代には、まびき といって、とても育てていくお金がないから生まれてきた赤ちゃんを
すぐに殺してしまうことがありました。天候がわるく凶作で、食べ物に困った時代がありました。
戦争がおわって間もない頃は、お父さんお母さんを亡くした子どもが、靴磨きをしながら生活し
ていた時代がありました。育てる人がいない子どもを孤児と言います。

 

今日は、写真にでてきたような弱い立場にある子どもを守ろうとした人物の話をします。

 

 石井十次、宮崎県の人です。キリスト教信者の荻原先生という医者に見込まれ「私のように医者
になれ、医者になって多くの人を救いなさい。学費は応援するから」と進められ、医者になる勉強
をするために。岡山に住んでいました。医者になる勉強をする一方で、診療所ではたらいていまし
た。隣の大師堂で男の子と女の子を連れた貧しい身なりの母親が、とても貧しくて育っていくこと
ができないので、男の子をひきとってほしいと頼んだのでした。

「この子だって、私と同じように望まれてき生まれてきたのに。」

それが、孤児院のはじまりでした。日本で最初の孤児院は岡山にできたのです。

1887年 明治20年のことでした。それから数人、子どもを預かりました。

 十次は医師としての勉強をしながら、子供達の世話をし、勉強までも教えます。しかし、医師と
しての勉強と子供達の世話の両立は難しくなってきます。

 

もし、自分がそんな立場になったらどうしますか。自分の考えと理由を書きなさい。

 

(苦しくても、両方続ける。医者を辞めたら食べていけない。)

  将来を約束された医師の道を歩んでいた十次は思い切った行動に出ます。

 十次は6年間学び続けてきた医学書を庭に持ち出し、火を放ち一気に焼き払ってしまったのです。
その火を見ながら十次は次のように言いました。

「医者になる者はたくさんいる。しかし、貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、残念だ
が私をおいて誰一人といない。私がこの子供達を見捨ててしまえばこの子達は明日の日か
ら生き
てはいけないのだよ。」

将来を約束された医者の道を捨て、孤児院を続けることにしたのです。

 

医者をやめた十次はどうやって、孤児院を続けてていくお金を得たと思いますか。


(募金活動をした。寄付してもらう。)

 

寄付金にたよりました。たくさんの人から、援助してもらいましたが、大きな力になってくれたのが
のが、生涯にわたって十次を助け続けた、大原孫三郎。倉敷紡績の社長でもあり大原美術館を建てた
人です。岡山にキリスト教を広めにきていた、アメリカ人ジェイムス・ペティー
でした。
十次自身熱心なキリスト教信者でした。

 

約7000人が死んだと言われる濃尾地震 アメリカにも石井十次の活躍が伝えられました。 
東北の大飢饉。東北地方が冷害による大飢饉に見舞われた。多くの子どもたちが親に捨てられたり、
売られたりしたのです。その時も、たくさんの孤児を引き受けたのです。親がいても貧しくて育てる
ことができない子どもも引き取りました。そのころには、孤児院がたくさん作られていました。
全国38の施設が、救いの手をさしのべました。人数では、石井十次の岡山孤児院が、一番でした。

 

 この写真はなんでしょう。(1200人の孤児集合写真を見せた。)

 http://www.sanyo.oni.co.jp/kikaku/ishii/43.html の画像

 
(昔の修学旅行。どこかの学校。)

孤児院の集合写真です

 


 こんなたくさん人がいるのです。何に困ったでしょうか。

 

 

お金

 

十次が1か月やっていくのに現在のお金でどのくらいかかったと思いますか

@   60万円

A  600万円

B 6000万円

 

 正解はBです。

 十次が引き取った孤児の中には、貧しさ故に、お金を盗んだり、物を取ったりするような子ども達
もいました。十次は「満腹主義」といっておなかがいっぱいだと悪いことをしないという考えから、
子供達に満腹になるまで食べさせました。1か月の生活費は現在のお金で6000万円も必要になっ
てきます。

みんななら、どうやって資金を集めますか。ノートに書きなさい。

 

(募金活動  孤児たちといっしょに働く。)

十次は音楽幻燈隊を組織し、孤児達の暮らしを映画で紹介したり、演奏したりして、募金を集めたの
でした。国内はもとより、韓国、台湾、中国大陸と出かけていきました。しかし、金儲けをたくらん
で、真似をする人が出てきたのでやめることにしました。また、十次は、ただお金を集めるだけでな
く、教育理念ももっていました。いろいろな仕事をします。「活版」といって印刷をするのに文字ご
との活字を組み合わせ、印刷をする仕事です。「精米」といって玄米のぬかを取って白米にして販売
する仕事です。岡山よりも生活費が少なくすむということで故郷の宮崎県に農場を開きました。60
ヘクタールもの広い土地です。(衆楽園の20倍 衆楽園は津山市にある日本庭園)「養蚕」といっ
て桑畑でそれを食べる蚕を飼う仕事です。蚕が作る繭からは、絹が作られます。

1911年、明治44年には、寄付金募集せずを宣言しました。

茶臼原で暮らした孤児達の当時の思い出が、誰のものかは分かっていませんが、いませんが、記録に
残っています。

 

自分は農業にむかないというので、ある店に丁稚に出されたが、おもしろくないので、そこを飛び
出してしまった。ひとりで身を立てようと思ったが、うまくいかないので茶臼原に帰ってきた。怒ら
れることは覚悟していたが、石井のお父さんは、何もいわないで、頭を大きな温かい手でなで、ここ
におれ、といった。その手のさわりがまだ記憶にある。それからは、宣伝の幻燈の手伝いについて歩く
ことになったが、やがて農場学校に入った。」

「自分たちはほかでは見られないぜいたくな教育を受けたと思う。見習のときはきつかったが、農場学校
ではとてもよい教育を受けたと思う。そればかりでなく一流の人がきて話などしてくれることがしばしば
あった。」

「自分たちのことをコジイン コジインという。何がコジインか、自分たちはコジインの児童であって
コジインじゃないと言い返したこともある。こんな不愉快なこともあったが、自分たちは教育のおかげ
で読み書きもできる。農業の知識もある、女子は裁縫や家事もうまいというわけで、自分たちの方が
上だと思った。」

 

親の愛を知らない子供たちは、石井十次という徳のある大人物の背中を見て立派な大人になっていった
のでした。貧しく哀れな子供達を救済しようとする者は今、残念だが私をおいて誰一人といない。この
思いが、大勢の人の心を動かし、約3000人の子供たちを救ったのでした。

 

 今日の授業の感想をノートに書きましょう。

 

引用文献

 

岡山孤児院物語 石井十次の足跡          山陽新聞社

石井十次の生涯と思想      柴田善守     春秋社

岡山県の歴史                   山川出版社  

岡山の教育           秋山和夫     日本文教出版株式会社

岡山の人物           黒崎秀明     日本文教出版株式会社

マンガ岡山物語                  岡山築城四百年関連事業推進協議会

郷土にかがやく人々W               日本文教出版株式会社

石井十次記念館の資料

岡山孤児院物語      http://www.sanyo.oni.co.jp/kikaku/ishii/index2.html
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石井十次の死後とそれからの孤児院

 

 

 岡山孤児院は30年の間に、約3000人の子ども達を救いました。十次は、1914年宮崎県の
茶臼原で48歳の波乱の生涯を閉じます。

 十次の死後、大原孫三郎が、5年間孤児院の経営を引き継ぎます。負債10万円を寄付して辞任。
その後、横浜で貿易商として成功していた院出身の大庭猛に後を託します。しかし、翌年経済恐慌で、
打撃をこおむり、十次の妻辰子にその任がわたったのでした。

 しかし、大原孫三郎の指導のもと、解散の方向となり、26年(大正15年)解散したのでした。

 解散の理由は、経営問題よりも、孤児の施設収容はすでに役目を終え、親を失った子どもは身内など
による縁故者が、引き受けるか、里親制度にするか、国家保護の原則で行うべきと考えていたことと、
そこで働く職員が十次の苦労はよく知っていても、その精神を受け継がなかったことをあげている。

 社会に目を向ければ、晩年の十次を悩ませ、活動写真隊の廃止理由の大きなもとになった類似寄付金
募集の横行がなくなりませんでした。類似ならまだしも、教育とは無縁の、子どもに哀れっぽい格好を
させて、鉛筆やせっけんを売りつける押し売りまがいまで現れてきました。巧妙に「岡山孤児院」でな
く「岡山の孤児院」と名乗るものまででてきたのでした。

 このような実情に直面したうえ、社会には、差別の目が広がり、石井十次に感謝していても院出身者
を隠す者がほとんどだったといわれています。

 

 茶臼原孤児院は、形だけ残った状態がしばらく続きました。しかし、1945年終戦直後に十次の孫
にあたる児島 虎一郎が、戦災孤児の救出に乗り出して復興。石井友愛社を設立、現在も活動をつづけています。

 

 

 

 

東北の飢饉で助けられた子供たちが、十次に送った手紙

 

 

 おとうさん(十次のこと)、私は無事に帰りました。家では父母がおおいいに喜びました。私が三度
のご飯の時に、お祈りをすると、なにをしているのかと言われましたから、そのわけをいいました。と
ころが、かんしんして喜びました。私はイエス様のことを忘れません。私はひゃくしょうをしています。
ご安心ください。さようなら。私は岡山孤児院そだち、どんな苦労もいとやせぬ。

 

福島県安達郡岩根村 ○○吉造

 

 

 

 

 おとうさん、わたくしはぶじでうちにつきました。おとうさん、わたくしはどんなことがあっても、
神様のことはわすれません。おとうさん、わたしのおねえさんやにいいさんは、北海道にいって、おと
うさんきりしかおりませんから、また孤児院にいかせてください。さようなら。

 

 福島県相馬郡大野村榧木  ○○よし

 

 

 

岡山孤児院12則

 

 

1,家族主義

 イギリスの孤児院、バーナードホームの制度をそのまま取り入れました。収容児を10〜15人くらい
の小集団に分けて、それぞれに一つの小寮舎を与え、その家庭に一人の保母をおく。

日曜日の行動などは各家庭の個性を尊重し、かつて軍隊的な画一性を取り除こうとしたのでした。

 

2,委託主義

 イギリスの孤児院、バーナードホームの制度をそのまま取り入れました。人情のある農家に生活費をは
らって子どもが10歳になるまで、里親になってもらう仕組みです。現金収入が少なかった当時の農家の
人喜ばれました。のべ、545人が委託されました。

 

3,満腹主義

 おなかいっぱい食べさせることにより、悪習を直させようとした。

 

4,実行主義

 「子どもは言うようには為さずして為すようにするものなり」言葉で教えるよりも、行いで指導するようにする。

 

5,非体罰主義

 石井十次がかつて一人のアメリカ人から動物虐待防止活動について話を聞いて、児童養育に採用したといわれる。
教師が鞭を挙げれば生徒はうそを言う。児童がうそを言い、あるいは喧嘩をするのは父母や教師が体罰を加えること
が原因になっている。(十次の考え)

 

6,宗教教育

 石井十次は形式的なキリスト教を決して強制していない。むしろ彼は人生における信仰と敬虔さとかが必要である
ことを児童に自覚させようとしていたのである。

 

7,密室教育

 善行のあった者を誉めるとき、みんなの前で行うとその人は偽善に陥りやすく、また他人が嫉妬を起こすことがあ
る。逆に不善のあった児童をみんなの前で叱ればかえって反抗心を助成するだけでなく悔悟することはない。岡山孤
児院では密室教育を重んじ、石井十次自信も種々の問題を持つ子ども達に対してはそれぞれ個別的にその心境を充分
に聞いてやったのである。

 

8,旅行教育

 石井十次曰く、「活きた働きのできる人間は旅行でなければ育たない。旅行を一切しなければ、井の中の蛙で活社
会を知ることがなく、教室の百聞は実際の一見にしかず、この原理により旅行によって活きた働きのできる人間をつ
くろうと志すものである。」

 

9, 米洗い教育

 一カ所に集めて正しい教育をすれば、米を洗うがごとくに余計なものが落ちる。

 

10,小学教育

 岡山孤児院内に小学校を作った。

 

11,実業教育

 朝のお祈りがすむと、昼食までは勉強し、午後からはみんな働いた。活版印刷部、精米業部など孤児院内に設けた。
さらに、理髪、機織り、麦藁帽子作り、大工、鍛冶、粉ひきなどの仕事も教えた。こうして子ども達が将来、自分で活
きていける自立の精神と技能を身につけさせたのである。

 

12,托鉢主義

 岡山孤児院の維持法をいうのであり、その内容は臨時寄付金、賛助寄付金、補助金を指す。

釈迦やキリストにならい天下有志者の義心に訴え、零細の寄付金を集めて永遠に維持しようとした。

 

 

引用文献

 

石井十次記念館の資料より