虎頭要塞日中共同学術調査について



 虎頭要塞日中共同学術調査は、1993年から始まった民間研究者による同要塞の研究調査活動。

(虎頭要塞の日中共同調査は1985年から戦友会の元兵士と中国政府の間で始まった。93年から採用された「学術的調査」は、戦争体験者と中国との長い交流の歴史に支えられた一コマでしかない。この点を履き違えて、戦争体験者の努力を捨象する傲慢な売名主義が登場した。そのあたりの複雑な事情は、下記掲載「虎頭要塞日中共同調査の歴史」ご参照)

 現在では、国境要塞全体のみならず、大陸における多くの軍事遺構全般、そして埋もれた歴史文書の発掘といった、歴史研究全般に及んでいる。加えて、現地住民に直接的被害を与える遺棄不発弾の処理技術も要請されている。
 当調査団は、日中間の歴史認識に関わる部分が多いため、一見、思想的傾向を持つように思われがちだが、実際は正反対。特定の思想信条の持ち込みと流布を禁止している。以下掲載の「歴史」と「当センターの考え方」にもあるように、まったくニュートラルな人々が参画できる体制作りを、この10年ほどの間、注意深く進めてきた。
 元兵士、遺族はもとより、一般の考古学者、軍事考古学者、歴史研究者とともに、防衛省戦史資料室と関係の深い軍事史学会の戦史研究家・軍事考古学者もその中心を担っており、日中友好と歴史文化交流に貢献している。、これは特筆すべきことで、今後の歴史交流のモデルとなっていくだろう。加えて、兵器鑑定、医学など各分野の専門家が協働で、発掘・計測・評価・鑑定を通じて歴史的事実の掘り起こしを進め、誠実でバランスの取れた交流が積み重ねられている。特に、中国側が発見した陣地を測りなおすだけの「学術」ではなく、この分野の本来のエキスパートである第一線の軍事専門家が直接現地踏査に参加することによる歴史的発見が続いており、大陸全域にわたる関東軍の空白の歴史が、科学的根拠を基に再現されつつある。(参考 : 第9回調査及び、調査報告書)

 しかしながら、虎頭要塞だけに関しても、それは8キロ四方を越えるエリアを占有する巨大施設であり、その大半はまだ瓦礫の下に埋没している。その全容はいまだ2割ほどしか解明されていない。(なお本調査活動は、日本側に関しては、元兵士と遺族・軍事専門家をはじめとした各種民間研究者の自費によって支えられている状態である。)

 一方、中国側では、虎頭要塞での日ソ激戦の事実は、日本よりも圧倒的に広く知られている。
 2005年8月15日には、虎頭要塞の主陣地・中猛虎(なかもうこ)山山頂で黒龍江省政府主催の国際平和式典「虎頭国際平和フォーラム」が開催され1千人が参加、その模様は世界5カ国を衛星回線で結びつつ中国全土に生中継され、「アジアでもっとも視聴者の多い」終戦記念式典となった。日本側からは調査団関係者が代表参加し、中露両国からは政府要人も列席。アナン国連事務総長(当時)からメッセージが寄せられる中、日本側戦友会の代表が戦後初めて中国、ロシアの元兵士たちと和解の握手を交わした。また、中国側建立の「第二次世界大戦終結地記念碑」の前に、日中露三国の戦争犠牲者を等しく悼んで花輪が献花されるなど、中国国内でも異例の内容となり、極東アジアにおける新しい胎動を窺わせる出来事となった。

※虎頭要塞は黒龍江省政府の重要文化財(省級文物保護単位)に指定され、1997年から15ヶ年計画(2012年まで)で大規模な発掘作業が続いている。現地は中国人も数多く犠牲となった戦争跡地だが、20年以上の民間交流の蓄積で、極めて親日的な環境が形成されており、友好活動をベースにしながら三国の犠牲者を共に追悼できる、中国国内でも異色の地となりつつある。現在は、国家級文物にも認定されており、世界遺産登録も視野に入っている。



写真解説 
左上)要塞地区泥濘地帯を走行中の日本側調査団の車列。第五回共同学術調査。
左下)虎頭要塞地区現地に散在しているソ連軍発射済みの大型遺棄不発弾を鑑定する調査団(2005年)。 
右)戦後60周年に黒龍江省政府主催で開催された虎頭国際平和フォーラム記念式典で中国・ロシアの元兵士と固い和解の握手を交わす虎頭戦友会の安井勝氏。 中猛虎(なかもうこ)山主陣地頂上の平和記念公園にて。中国政府が建立した「二次大戦終結地記念」の正面には、「第二次世界大戦はドイツ軍のポーランド侵攻にはじまり、この虎頭の地で終結した」と事実が簡潔に碑文で刻まれている。)



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20年にわたる戦友会との友好と、日中共同学術調査に基づいて建設された

「虎頭要塞遺跡博物館」 北東アジアにおける日中露三国の交流拠点へ


完成した「虎頭要塞遺址博物館」-。
モダンなデザインで、2階建ての上部構造と地下要塞へ直結する下部構造からなり、バーチャルとリアルの両面から往時を回想できるという世界的にも優れた展示形式を取り入れている。両国間の共同調査の成果をふんだんに取り入れており、内容上も優れて客観的で、中国国内でも有数の軍事遺跡博物館として有数の展示レベルを誇る。
すでに日本・中国・ロシアの市民・知識人の北東アジアにおける重要な研究拠点施設になりつつあり、三国から多数の見学者が訪れている。北京放送(国際放送)によると、開館直後の来館者数は1ヶ月あたり1万人という規模に達したという。

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虎頭要塞日中共同調査の歴史


苦難の戦後史:

 最初の扉は、一人の元兵士によって開けられた。

 終戦後、3年間のシベリア抑留から生還した虎頭要塞玉砕戦の生き残り兵士・岡崎哲夫氏は、帰国直後、まだ焼け野原が広がる郷里で、戦友の死の記録=虎頭要塞における日ソ激戦の秘史を三部作として一気に書き上げた。1948年(昭和23年)、『絶滅の記録』というガリ版印刷の自家製本が100部制作され、関係方面に配布された。(T、U、Vと三部シリーズになっており、Tが368頁、Uが268頁、Vは増補集成版という位置づけのようで1952年完成、分量は504頁にのぼる。)(なお虎頭玉砕戦の生存率は2%以下という異常な全滅戦である)

 それから20年、沈黙の時が流れた。

 国民がようやく飢えから解放され、高度経済成長に入った1963年、雑誌『文芸春秋』に、ノンフィクションドキュメント『秘録 北満永久要塞』(岡崎哲夫著)が発表され、全国に大きな反響が起こった。それを受け、翌年、1964には秋田書店から『秘録 北満永久要塞 -関東軍の最期-』が刊行された。日本国内において初めて、関東軍国境要塞の秘密と、終戦後における戦闘再開、そして玉砕という深刻な事実が多数の国民に明らかにされた。

 それから更に22年の歳月が流れた。

 事件が起こった。
 1985年、改革開放へ転じた中国政府が、軍事的未解放地域であった虎頭国境地区を、戦後初めて日本側戦友会に対して開放し、慰霊訪問を許可した。戦後初の国境地域への元関東軍兵士の招待である。それを受けて、戦友会関係者らが精力的に調査を開始した。当時までは、中ソ国境紛争の震源地であり、東部国境においては地政学的にもっとも不安定な地域であったことから、最初で最後、1回きりの開放と言われた。しかし戦友会関係者の一途な情熱に動かされた中国側は、それ以降も、戦友会に限って特別に訪問を認め続けた。その過程で中国側は、自国の地下に眠る巨大要塞に関心を持ち始めた。そして、1993年にはそこに民間研究者が参加して、学術的な手法で解明を試みる「虎頭要塞日中共同学術調査」が実験的にスタートした。


策動と混乱:

 ところが、前記、調査途中の1993年から始まった「学術調査」に戦友会関係者以外の民間研究者が参加するようになってから、ある問題が発生した。もちろん。ニュートラルな研究者ばかりなら、なんの問題もなかった。
 だが、時代はまだ日中の歴史交流に、過去の残滓を引きずっている。学術的水準よりもイデオロギーが先行するグループが介入し、しかも思想グループの間で、まことに醜悪な派閥抗争が発生した。その抗争には、当時すでに70歳を越える良心的戦争体験者までが、巧妙に引きこまれた。数年間にわたって戦争体験者と遺族が政治的に利用され、大きな精神的痛手を受けた。このような流れのなかで、中国側よりどちらかというと日本の特定のグループにより「使役労工全員殺害説」なるセンセーショナルな「噂」が流布され始め、大量殺戮物語が作られかけた。いうまでもなく、要塞築城に使役された中国人労工の一部が悲惨な形で犠牲になったのは事実であり、岡崎氏も戦友会もそれを記録に残している。当センターもそれはきわめて重要な事実であるとの前提に当然ながら立っている。だが、「全員殺害説」は、あきらかな誇張である。一方で、正確性に依拠した歴史的事実の解明から大きくそれた形で、「加害者vs被害者」論を基準とした「加害者戦争遺跡研究」が一人歩きをはじめかけた。思想関係者が無垢の市民活動を土俵に主導権争いを繰り広げることは頻繁に発生する事態だが、あまりに悪質かつおぞましい光景が露呈した。
 このような中で、戦友会関係者と民間研究者による虎頭要塞調査活動は、完全に機能停止に陥った。その後、一方で特定の政治的「学術」グループの一部の関係者は、独壇場のように「自由きまま」に、玉砕の地を「戦跡」として料理した。それが一部の個人的な売名動機に起因しているとわかったのはその後のことである。政治的動きをする「研究者」(?)の、あまりに幼稚で理不尽な行動に、抗議の遺言を残し、失意のうちに他界した戦争体験者もいた。

試練の改革:23年間の友好活動の精神は当センターへ引継ぎ

 しかし、道義的にこのようなことが許されるわけがない。ましてや、「平和や友好」のスローガンを頭につけて実行される私物化行為は、通常の不正義行為より更に悪質だ。しかし、世間一般からは容易に想像できない複雑な事態であり、対外的に理解をもとめても困難な状況であった。
 戦争体験者と遺族、そして90年代から参加していた中立を求める良識ある民間研究者の手により、明確な哲学と決意でもって、活動の整理整頓が取り組まれた。当然のことながら、前記のような勢力の姿勢が、長い労苦をなめてきた戦争体験者から支持されるわけがない。戦友会は、政治的「研究者?」グループの中に、「俺が俺が」の独善主義は見出せても、人間としての誠実性をまったく認めることができなかった。表向きのスローガンの裏にある個人的及び何らかの組織的野心が見透かされた。4年以上にわたる数々の試行錯誤・紆余曲折をへて、正常化は達成された。戦友会は、日中友好事業の精神を当センターへ正式にバトンタッチした。同時に、多くの識者の賛同を得て、中国側との未来志向の新しい信頼関係をも構築することができた。
 これ以降、虎頭要塞は、まず思想ありきではなく、ニュートラルな立場からまず「軍事遺跡」として捉え直し、軍事考古学の分野から、日中共同で忌憚のない議論を深めつつ科学的に研究する活動がスタートしたのである。これは大陸における近代軍事遺構の研究としては、まったく新しい手法と形態である。
 この精神は、中国側との真剣な討議と行動を通じて、次第に深く理解されはじめ、前記のような感情的歴史認識の発生が、大筋回避されている。このような試練をへて、虎頭要塞現地は冷静な展示と慰霊の地として、20年以上にわたり、幅広い領域の人々による自然体の交流が可能となっている(※1)


(※1 軍事遺構・軍事遺跡を「加害・被害」の定義づけに基づき“戦争遺跡”と呼称する「戦跡考古学」を称する一部のグループとはまったく異なるので、混同にご注意頂きたい。立場・手法、精神性においてもまったく異なっている。戦争体験者への姿勢においてもしかり、である。かつて一時的に書籍が共同出版されていたりするが、問題の本質が露見したのはその後のことである。元兵士として唯一学術調査を指導し、著作に参加した岡崎哲夫氏も、彼らの表向きのスローガンとは裏腹な人間性と不純な実態に大きな疑問を呈し、完全に縁を切った。
 一般論として、当センターは、侵略戦争において加害行為が著しく発生し、対極に被害が生まれるのは、まぎれもない事実であり、それは歴史的事実として当然認め、真剣に考察しなければならないと考える。しかし、事実をニュートラルに究明する努力を通じて国民のなかでの自由で自然な認識の成長を期待するのでなく、それを最初から踏み絵として、あるいは、美辞麗句として使い、市民活動への党派的介入のツールとして活用する野心的傾向とは一線を画している。)
※なお「戦跡」と「戦争遺跡」とはことなる呼称であることに注意がいる。「戦跡」は広辞苑にも掲載されている「戦闘のあった跡」という意味の一般名詞であるが「戦争遺跡」の短縮形ではない。「戦争遺跡」はある政治的な見解に基づいて昨今、恣意的に作られた造語であり、一般的に普及している正式な日本語ではない。ここを巧妙にすり変える政治的グループが存在するので要注意。当センターは、「戦跡」という呼称は使っても「戦争遺跡」の呼称は使わない。(過去、このすり替えに気がつかなかった時期の誤使用は別にして)
ある政治的見解に基づき「戦跡」を「戦争遺跡」と定義づけようとする動き、はなはだしくは、「戦争遺跡」の短縮形が「戦跡」であるかのように勝手に解釈をつくる動きに関しては、釘をさしておきたい



















第一回虎頭要塞日中共同学術調査団
(前列左から二人目 岡崎哲夫 虎頭要塞遺跡博物館紹介パンプレットより抜粋)























第二回虎頭要塞日中共同学術調査団(1997年4月 団長・岡崎哲夫)
山表軍事遺構遺跡調査中の調査団の一部(右から、虎林市文物管理所所長・孫永林氏、岡崎哲夫氏、岡崎幸子氏)
虎頭要塞遺跡博物館 館内展示写真より




















現場から次々と発見される遺物を撮影する調査団(前列右 辻田文雄氏)



















要塞内部から発見された日本人のものと思われる遺骨(大腿骨、肋骨等)
























現地に遺棄されている大量の不発弾を調査する調査団員(右端は軍事専門家・辻田文雄氏)


















ソ連側から発射された30センチ榴弾砲の不発弾を調べる調査団(火砲より発射・弾着済みの不発弾で、安全装置が解除され、
衝撃を与えると爆発する危険な状態で大量に放置されている。計測しているのは軍事専門家の辻田文雄氏)

















虎頭要塞からの僅かな生存者であり、要塞の秘密を日本ではじめて解明した岡崎哲夫氏(中央)の立てこもった場所。
(戦車砲弾による負傷を治療した場所)が、中国側からの格別の配慮でプレート掲示される






学術調査の手記(要約)-岡崎久弥- 

1997年4月29日午前11時20分。
いま、黒龍江省の省都・哈爾浜からの長い列車の旅を経て、
要塞まで後一歩の国境の街・虎林市にいる。
虎林駅で、黒龍江省革命博物館の肖柄龍氏、虎林市文物管理所の孫永林所長、胡徳玖先生、など父の旧知の友人から手厚い歓迎の出迎えを受けた。
父は本当に嬉しそうに抱き合い、握手していた。
虎林市は国境の街といっても大型ホテルが続々と建設中の一大観光都市である。
市中心部から車で1時間弱。これまた大湿地帯の真ん中を走る白樺並木の道路を、土ぼこりをあげながら5台の軍用ジープが疾走する。
限られた日程での膨大な範囲に及ぶ構造物の調査である。
いきなり、いきしなにある水克の列車砲格納庫の実測から調査は始まった。高さ5メートル奥行き75メートルの巨大な格納庫。見事に当時の原型をとどめている。
はじめてみる巨大な軍事構造物に、ただただ唖然とするばかり。
黙々とシャッターを切るしかなかった。
午後、4時過ぎに軍のチェックポイントを通過。軍用停車場の完達駅プラットホーム遺跡の調査のため、日がくれかけて薄暗いなか、湿原の淵に足を踏み入れた。ずぶずぶと靴が入っていく。
大湿原を逃げまどった兵士の恐怖を感じたのはこの時が最初だった。

翌日から本格的な調査活動に入った。
生まれて初めて中露の国境線が走る大河・ウスリーを見る。
うわさに聞いていたソ連軍の建立した「解放記念塔」。
「堅固に構築された要塞地帯を撃破して虎頭を解放した」とする碑文がロシア語で刻まれている。そして、眼前の山腹を縦横に走る往時のままの交通壕(塹壕)。
少し山腹を歩くと、射撃で穴が空いた缶や軍靴が続々と発見される。
交通壕がそれこそ等高線に沿うように走る山腹から大河ウスリー河を眺める。
河の中心を走る国境線。そしてロシア側対岸。
24時間体制でお互いを見詰め合う中露の国境守備隊と国境監視塔。ここが現在も、ほとんど日本人が訪れることのできない軍事的な未解放地域であることに、改めて衝撃を受ける。

第二回調査では、広大な平原の地下構造物の位置関係を割り出すためにGPS(全地球測位システム)技術も動員されたが、基本的に、崩壊寸前の地下要塞に照明を頼りに、コンパス、巻尺、超音波測定器などを持ち込んでもぐりこみ、全ての構造物を丹念に計測し、作図し、フィルムに収めるという、極めて緻密で根気の要る作業である。
要塞内部はいたるところで大崩落をおこし、天井の厚いコンクリートは大体において亀裂が走り、振動でもおこそうものなら、頭上から落下してきて、華奢な人間など紙のように押しつぶされてしまいそうである。
ビデオ撮影用ライトを照らすと、焼け爛れた様な異様なコンクリートや鍾乳石化したものが目の前に現れる。
コンクリートが山の土砂ごと崩落して、トンネルの通路幅が当時の倍くらいに膨れ上がっているところがあるかと思うと、足から滑り込ませてやっと腰から上が通り抜けることのできるような狭い通路になっていたり、で、さしずめ、洞窟を探検しているようである。
そんななかで、各団員は巻尺で距離をはかり、記録班はもくもくとデータに落としていく。トンネル内は父が新しい発見をしたといっては計測班が移動し、周りを観察しているうちに置いてけぼりになってあわてたり、そんな極めて困難な状況下での作業を1週間近く続けた。
私は一人記録写真を撮っていて、調査グループから離れてしまい、迷路のようなトンネルのなかで一人ぼっちになり慌てた記憶がある。その時、不意に照明が消えた。自分の手のひらも見えない。
星明りも何もない、地下要塞の不気味な漆黒は十分な恐怖であった。
虎頭要塞は57年前の当時がそのまま凍結保存されていた。
歩いていて、カランと音がしたかと思うと、大腿骨や頭蓋骨、当時の軍用品がいくらでも出てきた。
機関銃の弾倉、軍靴、弾薬箱、食器、人骨なんでも出てくる。大量の土砂岩石が崩れている自爆現場にも出くわした。
息を呑んだ。自分が戦時中にタイムスリップしているのがわかった。
1週間にわたる計測活動の対象は地下構造物から地上の榴弾砲、高射砲施設、東洋最大と言われた41センチ榴弾砲の巨大なコンクリートドームの遺跡、列車砲のジャッキアップポイントまで全てに及んだ。


写真右)中ロ国境が走るウスリー江を遊覧。国境線を越えた瞬間の記念写真(2006年)