■【疑問】不思議な科学・技術論 古典的「予見不可能」論が頭をもたげる。 「想定外」の同義反復的思考から未だ抜けられない現状。 産業公害における責任回避の常套的「科学論(?)」を通じて原発事故の真因と責任を曖昧化か? 2011.4.9 中部大学 武田邦彦教授(元・原子力安全委員会 専門委員)の言説 なぜ、1ミリシーベルトが妥当か?→ http://takedanet.com/2011/04/481_ecc3.html この小論に関しては、一見、放射線の影響に警鐘を鳴らす良心的研究者にみえる。ところが一方で、同氏のサイト中には、環境・公害問題、特に、水俣病に関するかなり大雑把な形でのチッソ弁護の言説があり、注意が必要だ。 公害事件に関していつも原因企業が主張するところの「予見不可能」の主張を、一見「謙虚」に見える独特の科学論から演繹的に「是」としている。これは悪質な原因企業の責任を軽減する言説に容易に転換しうるものだ。今回の福島の事故例のように、国家的大事故で、被害が既知の事実と化し、国民的批判が定着した後に、今後の放射能被害の危険性を「予見不可能性」で説明すれば、国民の生命擁護に気を配っているように見える。だが、一方で、「安全な原発は推進してもいいが、危険な原発には反対する」を声高に叫ぶのならば、氏自身が主張されるところの「予見不可能性」との自己矛盾である。 最近は、「あと出しじゃんけん」で華々しく登場するのが得意な人が実に多い。一部メディアが精査もせず、あるいは、それと知っていてか、面白半分に取り上げるので、本人もその気になり調子付く。それまで危険容認の立場で動いていても、世論の動向やトレンドに合せて変わり身が早く、しかも、俺が俺がと表に登場し、そのくせ、巧妙に利害関係を維持して広告塔で動く人もだ。 かつて、軍国教育を推進していた教師が占領軍が来たとたんに、民主主義を声高に叫んだ歴史。シベリア抑留で、天皇がスターリンにとって替わったとたんに、ソビエト万歳、共産主義万歳と叫んだ関東軍一部上層部の軍人の歴史…。べつに不思議な現象ではない。市民は冷静にそういう仮面のひとつひとつを見破らなければ、正常な判断はできない。転向や改心は大切だが、その場合は、自らの過去の言説全体を反省したり、見つめなおすことが必須だ。 氏は、メディアに登場し、“東電はどちらかというと被害者だ、責任は保安院などの規制当局にある”といった類のことを主張されるが、この言説は同氏の水俣病におけるチッソ弁護のロジックと一致している。それはまた、かつての森永乳業の主張にも似ている。 どうも氏は、世論が権力と御用科学者によって封じ込められているときは、“まだ経験していない危険の予測は学問には無理だ”、としつつ、アクシデントとして最悪の事態が露見すると、“今後の事態の予測は学問には無理”と、物質そのものの危険性を叫んで市民の味方を気取り、メディアの歓心をひき、「異端の科学者」として芸人的に登場し、「ネクスト環境大臣」にしてもらって発言機会を増やし、視聴者の感情にうまく浸透しつつ、役人たたきの側面を過度に強調し、最終的には企業責任を免罪あるいは過少評価しようという明確な長期プランと意思をお持ちなのだろうか? 同氏の論理的自己矛盾は、政治的立場というフィルターを重ねると、「原因企業には予測が無理だ。ちゃんと規制しなかった役人が悪い」という社会的言語としては矛盾が解消してしまうところがトリックだ。 しかし、氏がいうところの「学問は予測がそもそもできない」という主張を前提にしながら、公的セクターが何を基準に規制をかけるのか、については明確な説明が行われているように思えない。むしろ、氏は、政府のリスクコミュニケーションの拙さにより市民が疑心暗鬼になって、「予測不能という心理的不安に陥って自衛するしかないような」情況に乗じて、自らの、「予見不可能性」理論の活躍のチャンスと捉えているのだろうか? 真意を聞きたいところである。 放射性物質の影響に関しては、すでに現地に、リスクを覚悟で良識ある科学者が入って極めて科学的な調査を行い、データを出している。このような誠実で勇気ある科学者の姿勢に比べると、とてもわれわれ市民が冷静に傾聴に値する内容には思えない。
この日本の自然環境と地形学的バックグラウンドを前提にしたうえでの「安全な原発ではない危険な原発だけ」というものが明確に線引きできる形で存在するのなら、それこそ科学的に証明してもらいたいところだが、氏の論理からすると、「学問は先のことがわからないというのが正しい謙虚な立場」だから判断できないとなるのだろうか?そうだとすれば、その「安全ではない危険な原発だけ」を見極める明確な基準などありえないことになり、結局、危険な原発を排除し、安全な原発を推進することなど微塵も実現しそうもない。どうも、全国の原発を急にすべて停止することができそうもない社会環境をトレンドとして読み込んだ上での絶妙な言い回しであり、これこそが、市民を愚民視したロジックというものであるというと、いささか被害妄想にすぎるだろうか? しかし、当面稼動する原発への耐震基準の強化を科学的立証を通じて要求した石橋克彦氏が短期間のうちに愛想をつかした原子力安全委員会が、安全な原発政策を推進しようという姿勢すらないことは明らかである。それは、石橋克彦氏がかつて異議申し立てをした原子力安全委員会の議事録(※ 第48回原子力安全基準・指針専門部会 耐震指針検討分科会 速記録)とそれに対応した技術文書の内容(※ 震分第48-6-1号 ※震分第48-6-2号)を読めば、同委員会自体がまやかしの巣になっていることは容易にわかる。 そしてなによりも重要なことは、「予見不可能」どころか、核事故の現実的可能性を予見してきた科学・技術者はかなり存在するのである(“原子力に強い野党議員”などという陳腐なものではない)。せっかくメディア媒体に登場するのなら、核事故と放射性物質の危険性を科学的に検証し警鐘を鳴らしてきた先人の良心的科学者の存在こそを、そしてその声を意図的かつ計画的に押しつぶしてきた数多くの御用科学者や社会システム全般の行動原理といった部分こそを、深刻な反省をもって、もっと明瞭に指摘すべきだろう。 同氏の問題点を指摘するWikipedia 同氏のブログ→http://takedanet.com/
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