森永製品ボイコット運動の歴史
明らかな事実誤認の訂正から始めないといけないのが
現在進行形の森永事件の問題である。
●森永製品不買運動について最近振りまかれた言説
かつて中坊公平氏はその著作で、森永事件における極めて重要な歴史的経緯に関して、以下のように言及しており、ネットや著作物で、コピーされて事実であるかのように全国に広がっている。
@「中坊は…(中略)法廷外戦術も駆使することにした。それは、森永製品の不買運動である」(※1)】
A「同時に森永製品の組織的な不買運動も収束させました」(※2)出典等は、弁護士言説の問題ページAをご参照。
ところが、これについて、当時をよく知る関係者は、以下のように「別の事実」を語る。事実は余りに明確で、頭脳明晰な中坊氏がそれを忘れるとは思えないのに、なぜ上記のような表現を敢えて行う意図が分からない、といぶかしがる。
ちなみに、中坊公平氏が「私が不買運動を収束させました」というとき、「私は個人的に森永製品不買をやめました」とのレベルで捉える読者はあまりいないだろう。中坊公平氏が読者に印象として残しているのは、「不買運動を戦術として採否決定する立場にいた」ということだろう。
では事実はどうか? 当然、否である。
彼は、被害者救済運動の戦略をたて、戦術を決定する指揮官だったわけではない。不買運動の開始を指揮したわけでもない。さらには、彼が収束させたわけでもない。だが、いたるところで、そのように誤解されるような発言をしている。(書籍のタイトルからして「指揮官」だ)、読者が “救済運動の指揮官のいうことは間違いのない事実だ” と思ったとしても当然で、無理はない。
実際の不買運動を指揮した被害者団体の指導者は現組織のあり方に異議を唱えるなかで1986年に謀略的な手法で除名されている。現在の「守る会」や「ひかり協会」を語る上で、このことは極めて重大な事実だ。中坊氏はそれをよく知っているはずだが…、一切、取り上げていないようだ。
そもそも、、民衆が主体の運動において、事実とも食い違うことを、「自分(個人)がやらせました、終わらせました」などという物言いをする感覚自体いかがなものか。本当の指導者というものは、運動が目に見えない幾多の人々に支えられていることを知っているから、すこぶる謙虚なものである。
だが、問題の本質は、彼の当時の立場云々という瑣末な問題ではない。多くの発言の背景で、なぜか、「語るべきなのに語られない重要な事実が数多く存在する」ことこそが問題なのである。それは事件の本質的な性格と、自立した市民・国民ネットワークの巨大な支援の存在、そして、現状の問題点である。
●森永製品不売買運動は誰が始めたのか?
では、本当の「森永製品不買運動」は誰が始めたのだろうか? それは、被害者団体が事件発生直後に一度提起して、その後拡大せず、自然収束していたため、その後、不売買運動を本格的に再開したのは、市民運動ネットワーク「森永告発」である。「告発型」市民運動が火をつけ、全国に燎原の火のごとく急速に拡大したのである。
1971年(昭和46年)4月26日当時の読売新聞は三段見出しで次のように報じている。
「森永不買へ 市民運動」。
脇見出しで
「岡山 ヒ素事件 告発の会 発足」。
「森永告発」が先導役として、あえて市民の側がリスクを背負って、「守る会」の身代わりとして、森永製品不売買運動を先行させたのである。そして、森永乳業の飽くなき弾圧姿勢を見限り、隊列を整えた「守る会」が、「告発」が先行して打ち固めてくれたそのベースの上で、最終的に不売買運動へ本格参入したのである。それは、悪どい弾圧を14年以上続けた森永への当時のまだ健全だった非党派的市民主義的被害者団体指導部の鍛え抜かれた高度な戦術だった。つまり、基金の設立という一時的勝利への赤絨毯を最初に敷いてくれたのは「森永告発」に集う市民である。これは、余りに明白な事実である。
その後、「森永告発」と被害者団体は一時的に意見が異なる局面があったが、その内容にさえ、市民個人とネットワーク全体として生起した行動を明確に区別する当然の配慮がなされている。一般的には、こういったことがさっぱり理解できないのは、閉鎖社会のセクト的党生活者だけだ。
その後も守る会指導部は、創設リーダーが除名されるまで、森永告発の創設メンバーの市民達と終始友好的関係を維持し続けている。そして、「闘争20年史」に事実をしっかり書いたのと並行して、「まず歴史の事実の記述を認めない」との明確なメッセージが発信され始め、党派が大衆団体への本格介入を開始する時代的傾向の中で、そのイデオロギー的拡張主義と全体主義的組織統制という名の牙をむき始めたようだ。公害闘争の歴史を歪曲することが、モラルの退廃へと直結するこれほど明瞭な事例も珍しいだろう。
そして、今となっては、「告発」側に大方、先見の明があったということだろう。しかし、それ以前にどんな事情があっても、被害者から見れば、「告発」に集う市民は、感謝の気持ちをどれだけ表しても、表し足りないぐらいの歴史的恩人ある。ところが、現在では、「歴史を改ざんした」ベースの上に、過去の意見の相違を歪曲して塗り重ね、執拗に攻撃こそすれ感謝の言葉の一片もない。どうも、過去のいきさつが問題なのではなく、「救済の実態」を指摘・公開されたことに逆上しているに過ぎないようだ。その逆上の有様から、救済の現状の悪さ、組織内部の「もの言えぬ支配」の実態を伺い知ることは容易である。(※1)
●加害企業への感謝を要求する前に、「森永告発」の市民へ感謝すべき
そして、森永事件で、今行き着いているのは、感謝とは正反対の、元支援ボランティア「個人」への事実を歪曲した人身攻撃である。中坊氏がいうような「加害企業に感謝する」ような暇と余裕があるのならば、それより先に「森永告発」に参加した市民一人ひとりに大いなる感謝をすべきだろう。それがこの世の道理・筋というものである。これは被害者である以前に人としての最低限の義務だ。
新聞報道でも明らかな事実を、なぜ元弁護士は敢えて触れずに、自分が「始めさせた」かのように言たのだろうか? 記憶違いではないだろう。
この森永製品全面不売買運動は我が国の戦後史のなかで最大規模の製品ボイコット運動であり、「森永告発」の全国ネットワークが牽引することで、社会の隅々にまで拡大した。(むしろそれに背を向けた表向きのいわゆる、「自称民主団体」の実相をおいおい御紹介していきたい)。
不売買運動は、事実上、森永乳業を被害者の前に一時的にせよ、ひざまづかせる巨大な武器として見事に成功したため、歴史の改ざんを試みるときの第一候補にあげられるほどの栄誉に浴しているようだ。
さらに、その後の歴史的事実はこうである。
「守る会」が不買運動の中止を声明した時、それと同時に、一般国民が不売買運動を続けることに関しては、どうぞ自由にやってください、と機関紙上で正式に推奨していたのである。「森永告発」はそれに応えて、「不買運動の続行」を宣言した。機関紙に同時に掲載されている見事な連携プレーである。
だから、「森永製品不売買運動」は未だに一般国民の間では「正式には」収束していないのである。
もとより、森永事件は、国民の歴史に投げつけられた未曾有の悪徳企業による生命と社会的正義への攻撃であり、それにどう対処するかは市民一人ひとりのテーマであり、被害者を支援する目的と同時に、食品公害の深刻さとそれを圧殺する加害企業の悪徳さという問題に市民一人ひとりがどう立ち向かっていくかという問題でもあったのだ。
だから、当然だが、行動様式もその内容も、「守る会」が市民を統制するなどというおこがましい話などありえない。自由意志に任せられていた。だから、国民一人ひとりの心の中で被害者の悲しみを理解し、その行く末を見守り、ボイコットという大切な武器をもって、引き続き皆さん公害企業を監視してください、そしてあらたな公害の発生を防いでくださいと、当時のリーダーは半ば公式に宣言しているのである。除名されようが、なにをされようが、そのメッセージは市民の良心という名の歴史的記憶にしっかりと刻まれており、いかなる力をもってしても、これを抹殺することは不可能である。
この重要な文脈を元弁護士氏はどこかで語ったことがあるだろうか?
●救済をして「もらう」ためには、被害者は、加害企業をヨイショせねばならぬ???
主客転倒したままの「公害事件」はどこへ国民を導くか?
森永乳業という企業は「儲かればそれに比例して被害者弾圧を強化する企業」と言われていた。被害者側が毎年、毎月、金を払って「もらう」ために、森永乳業をヨイショしなければならない、というような風潮を煽るものがいるとすれば、それは公害問題の本質を理解していないばかりか、現実の森永乳業と被害者との関係を全く理解できていないことを示している。また、それは精神的にすでに飼い犬になっていることを証明しているだけであり、障害の程度にかかわらず深く刻まれている被害者家族の悲しみの心を踏みつけにしてでも、利己的な現世の利益に関心をもたせるという仕掛けに見事にはめられていることを示すだけである。森永を「ヨイショ」する前に「禍根は内にあり」との言葉を思い起こすべきであろう。
百人以上の赤ん坊を殺し、1万数千人の被害者に消えぬ傷跡を残しても、「死人に口なし、生き残ったほうが勝ち」という、加害企業の「成功体験」を定着させるだけで、消費者を保護する健全な経済社会の育成には程遠い話になる。これが教訓の忘却とセットでの危険性の増大である。
1970年、「森永ミルク中毒のこどもを守る会」機関紙「ひかり」は次のように主張し、森永乳業のプロパガンダ攻勢へ警戒を呼びかけている。
------------ 中 略 -----------
「森永事件以後、同じような事件が次々と起きています。私達が十五年前に、もっと徹底的に森永を糾弾していたならば、カネミ油症事件は起きなかったし、もし起きたとしても、もっと正しく処理されていたはずです。
こう考えてくると『自分の子供は大して悪くないから』という理由で黙っていることは、結果的には森永に加担したことになります。
事実、森永は十五年前にも、そのような人を利用して、事件をヤミに葬る手段に使いました。曰く『森永の処置に十分満足している』『森永に感謝している人が沢山いる』『騒いでいるのは一部の人たちだけである』と。
今、森永はふたたび、この使い古した手を使って、こどもを守る親の悲痛な声をおしつぶし、社会正義のためにたたかう国民の努力を圧し殺そうとしています。
被害を受けた人たちが、どのようにされても感謝するはずはないし、こどもを元に返して貰ったからと言って、森永の犯した罪が許されてよいはずはありません。」
------------ 後 略 -----------
「森永への感謝」「加害企業に被害者が感謝する」というストーリー化概念は、何も目新しい手法ではない。プロモーション技術と心理学を駆使して(※2)、被害者の分断支配の手法を先駆的に開発してきた森永乳業が、繰り返し、巻き返し使ってきた常套手段である。この文章は、今日の現状をも衝いたものとして教訓に富んでいるといえよう。
歴史の真実は、どうも、フィルム・コート紙の立派なカバーに包まれた出版物とは別世界にあるようだ。
(続く)
(※1)
一般的には、党派的存在からすると、「すこぶる困った顔をしながら、もの言う構成員への最終粛清段階へ移行するチャンス」に思えたのかもしれない。岡山県の重症者の親への無期限権利停止処分などはその最たる例だろう。だが、ソヴィエト体制の外では、民主集中制に神通力はない。「みんなで決めて、みんなで実行する体制です」「組織の中に一般社会の民主主義が通用しないのは常識です」といっても、市民には、「意味不明」である。民主主義社会で、不正義への批判は抑えることはできない。
(※2)
佐高信氏は2001年9月28日発行の「週刊 金曜日」誌上にて、森永事件について以下のようなコメントを掲載し、メディア・プロモーションの背景をも示唆している。
「森永乳業という会社はまだある。あれだけの事件を起こしながら、存続しているのである。先ごろ雪印乳業の中毒事件が起こったが、比べものにならないほどひどい砒素ミルク事件を起こした森永が、雪印の事件によって、さらに浮上しようとしている。どうしてこうなるのか。…(中略)…
あるいは、電通等の操作もあるのかもしれないが、…(後略)…」」