「また、貴方という人は!!」

 水軍の執務室の前を通ると、3回に1回は聞こえてくるだろう叫びにオセルは深い溜息と共に 同僚の胃の健康状態に涙を禁じえない気分になった。




水軍事情。








 水軍執務室 室内では、面差しの鋭い青年が 更にキリキリと眦をつり上げながら執務机に掌を叩き付けていた。

「痛くねぇのか?」
「痛いに決まっているでしょう!!」

 裂破音を生じるほどの勢いで叩き付けた掌は、ジンジンと痺れ バリクの残り少ない平常心に油を注いでいる。
 それはもう、現在進行形で。
 しかしその原因は全く悪びれもせず 扇子で頭を掻いたりするのだから、普段は冷静なバリクも必要以上に感情的に声を荒げてしまうのだ。
 人間で言えばA型気質のバリクには、上司の遣ること成すこと理解出来ない。
 更に上のカイン補佐官に呼び出しを食らうことを厭うクセに、回避策を考案する部下の言うことには全く耳を貸さない。
 仕事だって 遣れば出来るのに、バリクではまだ追い越すことが出来ないぐらい優秀な人材のクセに 気が付けば行方を眩ませている。
 まるで嫌がらせのような毎日に、更にこの上司の仕事も上乗せされて忙殺されていく。

 それでも、耐えて耐えて耐えて。
 リヴァン宛の書類でも、バリクの権限で処理出来るものは全て片づけて 最小限を提出しているというのに……。

「何で全然減っていないんですか!!」

 再度叩き付けられた掌底は、机を揺らす。
 その衝撃は、上に山積みにされた書類をも揺らした。
 この場に居るのがリヴァンでなければ―――リヴァンでさえなければバリクの怒りもここまで沸点を超えることはなかっただろうし、それ以前にこれほど仕事が溜まることもなかっただろう。

「めんどくせぇ」

 頭から湯気でも出そうなほど怒り狂う部下に、上司が吐いた言葉は いつもの、聞き慣れた台詞でしかなかった。
 ココ一週間程でまともに執務室に居た時間は一日分も無い。
 浪費された時間の殆どが人間界で過ごす為に使用されていた。
 ここまでサボリにサボって、バリクに上司捜索という労力まで払わせて、更にまだ仕事をしたく無いという。

 短気ではない。
 だが、別に大人しいキャラでもないバリクの握り込まれた拳が震える。
「……ッナタという人は!!」
 俯いた顔。
 小刻みに震える肩は怒りを抑える為か、爆発の兆候か。
 
 魔王軍の中でも、リヴァンはキレると手を付けられないと言うことは周知の事実で。
 逆にあまり知られていないのが バリクもキレると相当手が付けられないと云うことだった。
 上司があんなのだから、自制心も強化されてきたのだろう。
 だが いくら理性で抑えていると言っても限界はあるのだ、物事には。

「いい加減にノラ様の所へちょっかいを出しに行くのを控えて下さい。今がどんな時か分かっていらっしゃるでしょう?」

 抑え込みすぎて感情の波すらなくなったかのように、平坦な声で。
 部下が上司を責めるのではなく自戒を求める言葉など、滅多に口にすることではない。
 特に水軍では、トップに立つリヴァンからしてこの行動なのだから 各自判断での行動範囲が限りなく広いのだ。
 だが 災いの種と称されるノラが人間界へ行ってからというもの、リヴァンのサボリ癖は酷くなる一方で落ち着く様子が全く見られない。
 特に今は ノラとその契約者を中心として、魔王軍と反乱組織との睨み合いが続いている最中なのだから 単身で人間界をふらつくなど、一将軍としての自覚を問われてもしょうがない行いなのだ。
 総督補佐官から直々に小言を食らっても、治まる様子はない。
 むしろ拍車を掛けて ノラの元へ行ってしまう始末で。
 コレで仕事が片付くのなら、将軍など不要ではないのかというぐらいの奔放っぷりには 他軍からも同情が厚い。
 キリキリと痛むのは、頭だけではない。胃に穴が開きそうになる事もしょっちゅうで。


 ぱしゃり。

 水滴の、滴る音がする。
 ここは執務室。
 いくら水軍の御所とは云え水源がある訳ではない。
 だが、じわりじわりと生じる水の気配は途切れることはなく 室内に浸透していく。
 バリクの足下に蟠るそれらは、拡散する様子はない。
 ―――今は、まだ。

 けれど 最後の一線を、軽々しく踏み越える相手だから。

「自分が構いに行けねぇからって、八つ当たるなよ。ウゼェ」
「将軍っ!!」
 溜息と共に吐き出された言葉は、バリクの自制心を崩すのには十分すぎるモノだった。
 津波のように、バリクの足下で渦巻いていた濁流がリヴァンへと襲いかかる。
 執務机ごと押し流す勢いで雪崩落ちる水は留まることを知らないかのように次々と湧き出しては その身を落下させていく。
 その流れに澱みを生じたのは 十指を折るほどもない時間の後に。

 ガラスの、割れるような音が一つ。

 バリクが水を生じさせるように、リヴァンもまた氷を生じさせる事が出来る。
 流れ落ちる濁流を物ともせず氷柱へと変化させる魔力は、水軍将の名に恥じぬもの。
 零れ落ちた、飛沫まで凍り付く。文字通り最後の一滴まで、残さず。

 コロン、と水飛沫が音を立てて落下した。

 ハッと、息を飲む声がリヴァンの耳を打つ。
「で。気は済んだのか?」
 未だヒヤリとした空気を纏いながらリヴァンが扇子を打ち振るえば、生じた濁流も氷柱も全てが瓦礫に転じて床を濡らした。
「……失礼、致しました」
 自制のタガを吹き飛ばして攻撃を仕掛けた事を、素直に謝罪する。
 そうは言っても、魔法で攻撃していないだけ理性は生きていたのだろうが。
「ノラ様は元気だったぜ?」
「聞きたいのは其処じゃないんですが」
「あ?面倒くせぇな…まだ適性者に喰われてもいなかっ―――」
「そうじゃなくて仕事をして頂きたいんですよ!!」
 書類の山を指し示すバリクの顔は、赤い。
「ちなみに、今のは幾ら何でも不敬罪に当たりますよ?今更ですが」
 居住まいを正しながら、床一面を染める水を掻き消す。
 いつもの三割り増しで刻まれた眉間の皺は、ノラが上司だという事を往々にして忘れそうになるリヴァンへの最後の一撃。
 密告しますよ、という直接的な脅しではなく だがそれに最も近い言葉は、渋々ながらもリヴァンに書類を取らせた。

 各執務室にも必ず一体は居座っているジェリー。
 彼らに最近音声収集能力が追加されたとか何とか、まことしやかに流れる噂がある。
「あくまで噂ではありますが。その辺りは私よりも将軍の方がお詳しいでしょうし」
 魔王様のお遊びには余念がない。
 流石のリヴァンも魔王様から直々に外出禁止令を受けてしまえば身動きは取れなくなる。
 それは、実はバリクにも少し痛手だ。
 仕事をしてくれるに越した事はない。だが、リヴァンの処理効率は気分によって激しく上下する。
 息抜きが時折で有れば、もう少し協力しても良いのだが…… というのがバリクのまだまだ甘いところで。
 それでもやはり、あの我が侭っ子の近況は誰しも気にはなっているのだから。
「机の上のだけでも今日中に片付けておいて下さいね。締め切りは全て明日の朝一ですから」
 言葉では簡単なようでも、机の上の物だけで軽く山三つ。
 正面からではリヴァンの姿が目視できないほどの山が。
 ちなみに明後日締め切りの物は、既に床の上を占領している。
 そして更にはそれ以降の物も、どんどん溜まっていくのだ。
「面倒くせぇ……」
「自業自得です」
 感情が籠もっていればまだしも、氷よりも凍てついた声と瞳で。
 僅かでも感情が溶け出すのは何か地雷を踏んだ場合と ノラに関する事だけ。
「後ほど伺いますから、宜しくお願い致します」
 未練たらしい視線を、職務優先と切り捨てて執務室を後にする。


 扉をキッチリ閉めてから米神を揉みほぐせば、いつから居たのかオセルが怯えた目でバリクを見詰めていた。
「オセル?」
「良かった!バリク何があったかと思ったよ〜!!」
 不審気に声を掛ければ、心配したんだよーと叫びながら飛びついてくる同僚。
 猫科だ。
 猫科の動きは良いが、相手も一応成人男性の体格で。
 懐の飛び込まれれば、慣れてはいても踏み止まるのは難しい。
 しかしここで必要以上に物音を立てれば うっかり上司の機嫌を損ねるかもしれない。

 それは困る!!
 
 ようやく遣る気を出してくれたリヴァンの手を止める事は、自らの首を絞めるに等しい。
「オセル、取り敢えず移動しよう。ここに居るのは非常に拙いんだ」
 首筋に齧り付いてグスグスと鼻を啜る音が聞こえる事にも一抹の不安を感じながら、バリクはオセルをぶら下げたまま その場を後にした。


 人気の途絶えた突き当たりの廊下で、副将軍が二人立ち話というのも珍しい構図だったが、あえて声を掛ける者は居ない。
 ぐずるオセルを落ち着かせながら、取り敢えず何があったのだけは確認する事にした。

「で。どうしたんだ一体」
「本当に、心配してたんだ」
 いきなり飛びつかれるは泣かれるはで、混乱はするものの事情は分からない。
 普段のリヴァンが掴まらない特ならまだしも、今日は心配される事など特にはない。
 本当に訳が分からない、と首を傾げればポツポツと口を開いた。
「今日もさ バリク、リヴァン様にキレてただろ?その後魔王様の所に書類提出に行ったら『バリクちゃんがリヴァンちゃんに攻撃魔法使ってるわ〜♪』って仰ってたんだ!!」
 そうでなくとも確かに大きな魔流の動き感じたし!!
 無事で良かった!と再び泣きついてきた同僚兼友人に、それは間違いだと言ってやれない事に項垂れる。
 ノラが居なくなった途端 静かになった魔王軍総本部では、次のターゲットは水軍上部に絞られたらしい。
 迂闊な事は口走れないな、としみじみ実感するバリクだった。








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