初めての方へ   − 教会とはどんなところ? −

外から見ていると、「教会」って分からないことばかり。ここでは、わかりやすく説明します。
教会はあなたにもっとも関わりのあるところです。

*ここでは、みなさんに教会を知っていただくためにQ&A形式でご説明いたします。

Q.教会とはどんなところですか?

A.「呼吸をするところ」といえるでしょう。

 このわたしの命や人生というものが、わたしをお創りになった神のものであることを知るところです。わたしのかたわらに絶えず神がおられることを知るところです。教会とは、人生の原点である神に立ち返っていき、そしてまた新しく送り出されていく、そういう意味で「呼吸」をするところといえます。呼吸をしないと誰も生きられません。古い自分を脱ぎ、よどんだ心の空気を吐き出し、今背負っている重荷を神に委ねて、神の愛を背負うのです。それは全てイエス・キリストを知ることからはじまります。教会には、実に様々な人たちが集まります。これだけ多様な背景を持った人たちが、皆同様に神に生かされた一人の人間として、思いを一つにするということは、世間ではまずないことではないでしょうか。

Q.イエス・キリストは何をしたのですか?
A.私たちが命の意味・価値を知るために、「信じる」ということの大切さを身をもって示してくださいました。

 私たちは自分の力によっては決して「正しく生きる」ことはできません。必ずどこかに弱さと欠けをもっています。それは人に対して以上に神さまに対しての欠けです。神さまを前にして私たちは、自分自身について誇るものなど何一つもっていません。自分自身の内には確かな根拠をもっていません。キリストは、そんなわたしたちと同じ、欠けのある人間としてこの世に生まれ、人々と共に生活をする中において、「本当の生き方」を示してくださった方です。 キリストは、十字架で私たちの「本当の生き方」を知らないという「罪」を代わりに引き受けて死んでくださいました。そして罪による死の先に何があるのか、<復活・新しい命>というものを身をもって示してくださった方です。

Q.イエス・キリストを信じたらどうなるのですか?
A.本当の意味で「自分らしく」生きていくのです。

「私とはこういう者だ」とはっきりと言える「自分らしさ」とは、あなた自身の内にあるでしょうか。「私は、なぜ生まれ、なぜ生き、どこへ向うのか。」あなた自身の内にその答えと確かな根拠があるでしょうか。私たちは自分自身の内には何一つ「拠り所」というものを持っていないのではないでしょうか。自分の力と知恵を信じて生きるとしたら、困難な時に戻っていけるところは、結局、不完全で不確かな自分でしかありません。イエス・キリストを信じるとは、そんな自分をそのままキリストに委ねるということ。そして神に赦され、愛され、生かされている自分に気づかされるということです。そこに自分らしさがあります。

Q.「聖餐」とは何ですか?
A.神さまへの罪に基づく生き方から、神さまの愛を知る生き方に変えられたことを感謝します。

教会が特別に大切にしていること、それは「洗礼」と「聖餐」です。この二つを「聖礼典」という呼び方をします。「聖餐」は、キリストが私たちの代わりとなって十字架で流した肉体と血を、パンとぶどう酒によって想い起こし、これを記念して皆で共に食することです。私たちはキリストが弟子たちと共に晩餐(ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」という題で絵を残しました。)をしたように、皆でパンとぶどうの杯によって、この恵みの食卓に着くのです。そしてキリストの受けた痛みの中にある私たちへの赦しの愛を皆で分かち合います。キリストの血と肉によって私たちは神とつながることが赦されたのです。

Q.「洗礼」とは何ですか?
A.罪に死に、キリストへの信仰によって新しい命を生きることです。

今もなお生きておられるキリストに自分の一切を委ね、キリストに従ってこれからを生きていくことを決断する、もっとも大切な瞬間です。この瞬間からクリスチャン(キリスト者)となります。「キリスト者」とは文字通り、「キリストの者となる」ということ、つまり、キリストが自らの内に息づく、形作られていくということです。このことによって日々新しい一歩を踏み出していくのです。

Q.「献金」とは何ですか?
A.神さまへの感謝と献身のしるしです。

いわゆる「お賽銭」とは、全く意味合いが異なります。自分の願いを叶えるためのものではなく、逆に神さまへの感謝のしるし、献身のしるしです。ですからお金の金額は問題ではありません。それぞれの信仰・思いに応じてで構いません。献金は、神さまの業としての教会の働きに用いられます。または、災害被災地などなどへの募金としてなど幅広く具体的に用いられます。

Q.聖書には何が書かれているのですか?
A.人間の物語であり、あなたの物語です。

聖書」とは大きく分けて旧約聖書と新約聖書の二つの総称です。何が書かれているかというと、神と人間の関係についての歩みの証しの書です。人間の姿がありのままに記された書は、そのままあなた自身の物語といえるかもしれません。そこに神がどのような仕方で関わってこられたのか。どのようにして人が変えられていったのかが記されています。イエス・キリストとはその要です。

Q.礼拝に出席してみたいのですが、服装はどうしたらいいでしょうか?
A.ご自分で自然だと思える服装であれば何でもよろしいです。


Q.小さなこどもがいるのですが・・・
A.お気になさらずお越しください。

お子さまと一緒に礼拝の時を過ごすための部屋がございます。

Q.「讃美歌」とは何ですか?
A.神さまへの私たちからの応答の言葉です。

神さまを讃美する歌です。皆が心を共にして、祈りをもって、互いに歌いあうのです。皆さんが日頃よく耳にする曲が実は讃美歌だったりもします。ちなみに日本の童謡は讃美歌が底流にあるのです。誰もが知っている童謡「ふるさと」の作曲者岡野貞一は、岡山教会の宣教師夫人に才能を見込まれ、岡山教会でレッスンを受けた後、音楽の道へと進んでいったのです。

Q.「アーメン」とは何ですか?
A.「たしかに」「その通り」「私もそう思います」という心からの宣言です。

だれもが知っている「アーメン」という言葉ですが、意味を知らない方は多いようです。 ヘブライ語(ヘブル語)で「たしかに」「その通り」という、いわば心からの念押しの言葉です。この一言を皆で口にする時、そこで思いが一つとなっているんだということを確認するのです。

Q.信仰とは、迷信(思い込み)ではないのしょうか?
A.本質的にちがいます。

キリスト教信仰って、結局は迷信じゃないの?と思う方はおそらく多いことでしょう。その視点はある意味では大切です。クリスチャン(キリスト者)の信仰は迷信になってはなりません。信仰と迷信は全く別ものであるという注意が必要です。 迷信とは「信仰の迷い」「迷っている信仰」です。信仰が何を対象にどのように向けられているのかという筋道が定まっておらず不安に基づいている状態です。言い換えればそれは思い込みです。思い込むことで安心を得ようとするのです。ですから不安を助長するような教えを人々に押し付けるような教会は正常とはいえないでしょう。本来の信仰と迷信(思い込み)とは本質的に違います。キリスト者は、「神が既にキリストを通して私たちに救いをもたらして下さったのだ」という確信に立っています。信仰とは、この神様に自分を全て委ねていこうとする生き方であるといえます。

Q.キリスト教は戦争を肯定しているのですか?
A.決して違います。

かつてイラクに対して一方的で圧倒的な攻撃が行われたことに心を痛めています。しかもそれが「キリスト教保守派」と呼ばれる人々の支持のもと行使されていることは悲しい限りです。「平和のためになら人を殺しても構わない」などと聖書には書かれていません。「隣人を愛せよ」「赦せよ」と教えているのです。戦争によっては、憎しみが憎しみを、悲しみが悲しみを生むだけです。宗教は時に間違いを起すことがあります。それが人間の営みだからです。神の導きを信じるものであるはずなのに、神の導きからそれてしまうのです。

Q.神様って本当にいるのですか?
A.そう信じます。

「神様がいるならば、この世に戦争の悲しみなんかないはずだ。災害の悲しみなんかないはずだ。善良な人が苦しみ、悪い人が良い思いをするなんて、神はなぜ裁かないのか、なぜ救わないのか。」「神は本当にいるのか・・・。」これは人類の歴史の中で絶えず繰り返されてきた、最も深い問いです。時にいろんな方法で神の存在(不在)証明が試みられました。しかし、それはまさに「神秘」であって、人間自らが知識によって証明することは不可能です。(ですから信仰によって証しすることをキリスト者は使命としています。) 神がいなければ、教会も信仰も全て無意味です。同じように生きていることも無意味です。なぜ生まれ、なんのために今を生き、どこへ向うのか。何一つ確かな答えはありません。全ては無になります。喜びにも悲しみにも何も意味がありません。しかし、聖書の中で神は「わたしはある」と言いました。その一言で全てに意味が生まれてきます。私が私であることも。あなたがあなたであることにも。過去にも、今にも、未来にも。 喜びにも耐え難い悲しみにも。 自分の願い・立場に従って物事を判断すれば、「神などいない」という答えに必ずなるでしょう。しかし、そこから本当の希望が生まれてくるでしょうか。私もいまだかつてこの目でこの耳でこの体で神を見神の声を聞き、神に触れたことはありません。知識をもって存在を証明することはできません。しかし、「神がおられる」「神がいてくださる」と信じることができる(*注)ことが、生きていく上でどれほど力であるか、慰めであるか、希望であるかを知って欲しいと心から願っています。それは何より神様があなたに願っておられることであると信じています。「あなたが私を選んだのではない。私があなたを選んだのだ」と聖書は教えています。
(*注)「信じることができる」とは「わたしには神を信じることができる!」という意味ではありません。「信じる」とは人間の力・知恵の量ではありません。そうではなくて私を創った方によって「信じる者とされている」という意味です。

Q.「日本基督教団」とは何ですか?
A.様々な教派的背景を持った教会が一つに集められた教団のことです。

英語ではUnited Church of Christ in Japan となります。「United」とは「合同した」という意味ですので、直訳すれば「合同した日本のキリスト教会」とです。日本のキリスト教は、大きく分類してカトリック・正教会・聖公会(英国教会)・プロテスタントがあります。 そして、プロテスタントに分類される日本で最大の教派が「日本基督教団」です。全国に約1700の教会があります。日本基督教団は、1941年、様々な教派的背景(メソジスト派・長老派・組合派・バプテスト派など約30の教派)を持つ教会が一つに集められた合同教会です。しかし、様々な背景を持った教会が集っているがゆえに、既に「合同した」完成した教団ではなく、今なお課題をもちながら「合同しつつある」教団として、その実質化に取り組んでいます。 ちなみに、岡山教会は「組合派」の流れを汲んでいる、中国地方のプロテスタント教会で最も歴史のある(1880創立)教会です。