世紀末 今を見つめる
いつもラジオ放送を通して、また、シリーズとして再編集いたしましたカセットテープで、希望のこえをご愛聴いただき、誠にありがとうございます。さて、今回は1999年、11月から放送されたものをお届けします。1千年代から2千年代へ、20世紀から21世紀へと、いやおうなしに流されていく時の中で、今私たち一人一人が、家族が、あるいは、地域社会が抱える問題に、どう対処していけばよいのでしょうか。この際、改めて、正面から向き合ってそれらの問題点を見つめ直してみては、いかがでしょうか。題して「世紀末、今を見つめる」。お話しいただきますのは、いつもの西大寺キリスト教会、赤江弘之牧師です。 今、人気の作家五木寛之の「他力」という本が、たいへんブームを呼んでいます。その中から毎回紹介しながら、話題を拾ってまいります。 「法然というえらい坊さんがいるそうだ。〜〜親鸞の静かな肉声が聞こえてくるような感じがするのです」。 それではクリスチャンは、こんな場合、どんな風に考えるのでしょうか。キリストが十字架上で、大声で叫ばれた、最後の言葉。それは実は、詩篇の中に出てくる詩人、ダビデの言葉でありました。様々な危険や、苦しみの中にあって、彼もまた、我が魂を主の御手にゆだねますと、告白したのです。私の魂を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私をあがないだして下さいました。これは、詩篇31篇5節の言葉です。究極的には、生も死も、自分の全存在の一切を神の御手の中に託し、まかせきってしまう。文字通り、魂から何から、自らの一切を思い切って神の御手の中に預けてしまう。後はもう心配しない。思い煩うこともしない。ぎりぎりの所から思い切って自分自身の魂を神の御前に投げ出す信仰こそが、苦しみからの魂の解放へとつながっていくのです。ゆだねる。それは、常に私たちすべてのキリスト者の問われる信仰生活の鍵です。それは、新たなる解放と信仰の新しい段階を迎えるためのどうしても踏んで進まなければならない、大切なステップだというのです。ありのままの自分で良い。いいえ、良いも悪いも、どう背伸びしたとしても、自分にははじめからこの自分以外の何物でもありはしない。ありえない。ただその自分が、自分の姿をそのままみとめて、そのままの姿で、神の御前に一切を投げ出して歩んでいけば良い。ありのままの自分を、そのまま主の御手の中に預けて、また心配や思い煩いの一切をも思い切って神の御手の中にゆだね、そう、おまかせするしかない。そこまで行き着いたあかつきには、あなたもきっと、クリスチャンの生活とは、こんなにも気を張る必要のない、自然で楽な、そしてすばらしい生き方だったのかと、思い知らされるのに違いないでしょう。法然ではない。親鸞ではない。キリストにあって我が計らいにあらず、なのです。私の魂を御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私をあがない出して下さいました。 「他力ということを説明するさいに、私はときどき、ヨットの話をすることがありました。〜〜そう考えれば、自分が自力にこだわるのが、こっけいにさえ思えてきたのでした」 さすがになかなかの名文です。棚からぼたもち、とよく言われることですが、こと、信仰に関しては、安易に用いる訳にはいきません。たとえば、神は愛なのだから、けっきょくは何だって許されるのだという、いわゆる神の側の寛大さを逆手にとって、自分の側の都合のよい、居直りの論理をする場合があります。なるほど、親は子を無条件に愛しているでしょう。けれどもだからといって、子供の生き方がどうでもいいのではないのです。親はその子に、例えば積極的で意欲的で精力的であることを求めるのは、当然のことと言えましょう。愛するがゆえに、自分に対して、もうひとつ積極的に向かって来てほしい。無気力、無関心、無感動であってほしくない。そう願うのは当然のことであります。聖書は、求めなさい、そうすれば与えられます。と教えています。これはもともとの意味では、求め続けなさい、です。つまり神は明らかに私たちに対して、積極的に神を求め続けることを願っておられるのです。この言葉は、イエス・キリストがお語りになった有名な山上の説教の一節ですが、はたしてこのメッセージの後、一体幾人の人々がこのイエス・キリストの教えの通り、自ら神に向かって、求め続ける生涯を送ったことでしょうか。つまり、自力です。単発、思いつきの求道ではなく、求め続ける求道こそが大切なのです。スポーツの世界でもどこの世界でも、よく箸にも棒にもかからないのは、当人の内にやる気がまったく感じられない人のことだと言われます。つまり、上手下手の問題ではなく、とにかく体当たりでぶつかっていく姿勢があるかないかの問題なのだと。イエス・キリストもまた、豚に真珠と教えられ、当人自身の中に求めて探す姿勢がなければ、どんなすばらしい神の教えも、その価値が理解されないと、教えられました。私たちは1度目に見つからなくても探し、2回で開かなくても3回たたいて開けてみるような、そんな求め続ける求道の姿勢を大切にしたいと思うのです。これが聖書的な、天命を待つ姿勢です。また、聖書は言います。願いを起こして、そして実現に至らせる。神はそのように私たちの心の中に、願いをもお与え下さるというのです。求めましょう。 「健康法や検査など、努力しても病気は向こうからやってきます。たばこの害は明らかですが〜〜他力の道もまた難きかなということです」 先日私たちの教会の、あるホテルでの夕食晩餐会の席でお招きした講師が、感銘深いお話しをして下さいました。神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。立ち返って静かにすれば、あなた方は救われ、落ち着いて信頼すれば、あなた方は力を得る。旧約聖書イザヤ書30章15節から、毎日の生活を自分から始めないで神様にスタートしていただくのだ、というお話しでありました。聖書の場合、他力とは、まさに神である主、イスラエルの聖なるお方からくる力だというのです。神の力を黙して待つ。それは信仰のきわめて重要な部分です。けれども私たちはしばしばそのことができずに、さきばしった行動を起こしてはしっぱいを経験してしまいやすいものなのです。神はかならず行動を起こされる、最終的にすべてを最善に導いて下さる、と信じきれずに私たちは何としばしば自分の心のままの行動に走り、墓穴を掘ってしまうことでしょう。ダビデ王は昔、こんな詩を残しました。私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。詩篇62篇5節。これは決して彼の泣き寝入りのうたではありません。ただ黙って、つまりは主の救いにのみ、期待して待つという、信仰の告白なのです。そこには信仰からくる勇気があります。彼の信仰はこの場面で黙ってただ神を待ち望む、という形となって現されたのです。昔、ダビデの前にたてられたイスラエルの初代王、サウルは預言者サムエルによって任命され、王としてたてられました。けれどもあるときサウルは戦いに出かける際に、預言者サムエルを通して捧げられるはずだった神へのいけにえを、その到来を待ち切れずに、自分自身の手で勝手に捧げてしまいました。7日間はサムエルとの約束を待ちながらも、もうそれ以上は待ち切れなかったのです。その結果は、彼が神からの祝福を失い、その約束の道からはずれてしまった。それは言うまでもありません。黙ってただ神の約束を待つ。それは確かにたいへんな勇気です。けれども待ち切れずに自分の考えに従って、信仰とは別のもう一本の別の道を選んでしまう誘惑に、私たちは何としても打ち勝たなければなりません。ときにはそんな信仰と勇気とを私たちは人生の中で身につけたいと思います。 「今は平和で爆弾も落ちないけれど〜〜いのちの尊さを語る宗教家や教育家の言葉が人々の心に全然届かない。そういう状況のように思います」 この五木さんの文章、1998年の統計では、年間三万人を越える自殺者があったということですね。ところで、クリスチャンは自殺をしない。自殺をする人はそこにいたるまだによっぽどのことが、あったと思われます。自殺せずにおれないような状況で、それでもなお生き抜くのは、つらいことです。クリスチャンも死にたい、こんな自分なら死んだほうがましだと思う時がないわけではけっしてありません。しかし、それでもなお、私たちは生き抜くのです。実に、神に用いられていった多くの人々は、多かれ少なかれ、人生のどこかでそんな経験をし、そんな心の痛みを負いながら、成長していったのではないでしょうか。少なくとも、イスラエルの二代目の王、ダビデは、その一人でした。若いとき初代サウル王の元を逃れ、あてのない逃亡生活を続けるなかで、彼は取り返しのつかない事件に出合うのです。祭司アヒメレクとその町に住む祭司たちが、サウルの手によって虐殺されるという事件です。しかもその原因は紛れもなくダビデ自身にありました。逃亡中のダビデがアヒメレクの元に身を寄せた時に、彼から剣や食物を手に入れたという情報がサウル王の耳に届いたのです。あのとき自分さえ行かなければ。何度そんな思いがダビデの頭をよぎったことでしょうか。しかもその悲報をはこんできた人物は父を失って悲しみにくれるアヒメレクの息子その人だったのです。ダビデはたまらずにこう告白します。わたしがあなたの父の家の者、全部の死を引き起こしたのだ。旧約聖書サムエル記第1、22章22節。そのときのダビデの心の痛みは知る由もありません。かみしめても押さえ切れない涙。悔やんでも悔やみ切れない出来事。取り返しのつかない事件を私たちはその人生の中で幾度か経験します。しかし、深い痛みとなって残るその心のひだこそが、実は自分自身を大きく育ててくれているのです。神がその深い痛みをも用いてくださるという事実を覚えるときに、死にたいと叫ばずにおれないような状況の中で、それでもなお生き抜く勇気とそれらの出来事を通しての神からの無言のメッセージを受け止め得る信仰を私たちは与えられて行くのではないでしょうか。神はモーセの十戒の中で第6の戒めを与えられました。それは、殺してはならない、ということです。命は神から与えられたもので、自分自身の所有ではありません。他人の命も、自分の命も、勝手に奪ってはならないのです。この神の戒めを覚えつつ、もう一度五木寛之さんの言葉に、耳を傾けましょう。「今は未曾有の命の軽い時代のようです。〜〜自分の命が軽いということは他人の命も軽いということです」。もう一度モーセの十戒、第6の戒め、殺してはならない。あなたは生きていいのだと神は言われるのです。どんな苦しみのなかでも。 「釈迦は生まれるやいなや東西南北の四方に〜〜自分は生老病死を背負った世界中でただ一人の人間だという自覚が必要です」 私は最近、仏教学を3年間学びました。この五木流の解釈はご本人の言われるように、いささか自分流です。これは、釈迦滅後、数百年して、釈迦を神格化する言葉であるというのが私の理解するところであり、仏教界全体の定説です。本当の所はいまの引用文の少し前に五木氏が書いておられる通りです。読んでみましょう。「今から二千五百年以上も昔、北インドで〜〜これだけはどんなに科学が発達しようとも人間にとって変わらない真実であると考える」それではイエス・キリストは自分自身を何といわれたのでしょう。そして弟子たちはイエスの事をどのように考えたのでしょう。マタイによる福音書16章13節以下に次のような記事があります。「イエスがピリポカイザリヤの地方に行かれたとき〜〜またエレミヤあるいは預言者の一人だと言っている者もあります」。イエスの言わば遠回しなご質問にたいして弟子たちはここまですらすらと答えることができました。それは、容易なことです。人々はこう言っている。というだけなのですから。そこには個人的な責任がありません。ところが主イエスは、それで満足されませんでした。ヨハネ、エリヤ、エレミヤの三人は、いずれも救い主の出現前にふたたびくることを予言されていた人々です。それは言わば人間イエスに対し、この世の人々がなし得る最高の評価でした。しかしイエスはそれ以上のお方であられます。先程の聖書の続きを読んでみると、マタイによる福音書16章15節以下「そこでイエスは彼らに言われた。それではあなたがたは私を誰と言うか。シモン・ペテロが答えて言った。あなたこそ生ける神の子、キリストです。するとイエスは彼に向かって言われた。ダルヨナ・シモン。あなたは幸いである。あなたにこのことを現したのは血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。この主イエスの喜びのご様子を想像してみてください。イエスはなぜそのように喜ばれたのでしょう。言うまでもありません。あなたこそ生ける神の子、キリストです。というペテロ自身の信仰告白のゆえです。イエスが生ける神の子であられるということは、決して信者の独断ではありません。聖書によるならば、主イエスがこのように呼ばれ、信じられることを求めておられます。主イエス・キリストは、完全な人間でありつつ、しかも同時に人間にして神、神が人として生まれたお方だというのです。あなたはイエスを誰と告白されるでしょうか。私は道であり、真理であり、いのちなのです。私を見たものは父をみたのです。こう言えるお方は、まさに天上天下唯我独尊ではないでしょうか。 「このところ、激しい大きな波が私たちの周囲に巻き起こっています。津波のようにと言っていいかもしれません。〜〜ひょっとすると、一つの活路が見いだされるのではないかと、わたしは強く感じているのです」 先日の東京での幼稚園児殺害事件は、今の、この社会の縮図であると思います。ヘンリー・ナーウェンというカナダのトロントの、知的障害者のために働いた人が言いました。世界の代表的な宗教に共通する本質的なことがあるとすれば、それは哀れみでしょう。ヒンズー教、仏教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教のいずれの経典でも、神は哀れみ深い方だと描かれています。政治であれ、経済であれ、スポーツであれ、すべてのあらゆる分野で、競争が人間の関係を支配するこの世界で、真の信仰者は競争ではなく哀れみを、神の道として語り継げる存在です。どうしたらこの哀れみを生活の中心にすることができるでしょうか。そこで、聖書に尋ねてみましょう。イエスは言われました。あなたがたの父、父なる神が哀れみ深いように、あなたがたも哀れみ深い者となりなさい。以後、優れた霊的指導者たちは皆、この言葉を繰り返しました。哀れみ、というのは聖書のギリシャ語の言葉で、共に苦しむという意味があります。この哀れみこそ、私たちが本当の自分になれるのは他者と違うところではなく、他者と同じところであるという真理に導いてくれるのです。そうです。霊的に重要な問いは、私たちはどう違うかではなく私たちはどう同じかということなのです。私たちは他の人より優れた者になることではなく、他の人に仕えることによって本当の人間になることができる。これがイエスの言われる哀れみという言葉の意味です。他者より自分が優れていることを示すのではなく、自分も他者と同じだと告白するところに癒しと和解をもたらす唯一の道があるといえるのです。哀れむこと、すなわち、人々が苦しむにあるときに、共にその場にいること。また、弱さを持った人との交わりに自ら進んで入ることは人々の間に義と平和をもたらすために神様がお用いになる方法です。しかし私たちにそれができるでしょうか。生まれながらの私たちには出来ません。しかし、出来るというのです。ただしそれは、愛を得るために競争する必要はなく、愛は私たちを哀れみへと招いているお方から、ふんだんに与えられるという大胆な信仰を持つことによってわたしたちが生きる時にのみ、可能となるということです。イエス・キリストは言葉によってだけでなく、そのご自分の生き方によって哀れみの道を私たちに示されました。つまり私たちの罪を負い、私たちと同じように私たちの苦しみを背負って下さったのです、十字架の上に。イエス・キリストは、神に愛されている子として語られ、そして生きられました。イエス・キリストこそ、「他力」という力の源なのです。 『なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。』 ヨハネ6:27 |