世紀末 今を見つめる 2
いつもラジオ放送を通して、また、シリーズとして再編集いたしましたカセットテープで、希望のこえをご愛聴いただき、誠にありがとうございます。さて、今回は1999年、11月から放送されたものをお届けします。一千年代から二千年代へ、20世紀から21世紀へと、いやおうなしに流されていく時の中で、今私たち一人一人が、家族が、あるいは、地域社会が抱える問題に、どう対処していけばよいのでしょうか。この際、改めて、正面から向き合ってそれらの問題点を見つめ直してみては、いかがでしょうか。題して「世紀末、今を見つめる」。お話しいただきますのは、いつもの西大寺キリスト教会、赤江弘之牧師です。 ビジネスマンを取り巻く環境は激変しています。バブル経済の崩壊以後、長引く不況によって、まず手初めに中高年ビジネスマンのリストラが行われてきました。さらに、ゼネコン、証券会社、銀行など、一部上場企業の倒産が始まってビジネスマンたちは呆然として立ち尽くしています。追い打ちをかけるように、ビジネスマンは金融ビックバンという言葉に代表されるグローバルスタンダードという新しい価値観を突き付けられています。 評論家の江藤淳さんは、こうした状況を第二の敗戦と呼んでいますが、第三の開国と見る見方もあるんじゃないかと考えています。というのも私たち日本人は、明治維新、太平洋戦争の敗戦と二度の外圧による開国を経験してきました。しかし、実際に変わっていない部分がたくさんあった。表面的にはオープンに見せながらも、その実は護送船団方式に代表されるように、鎖国に近い状態で独特の国家や経済体制を形成してきたのです。それがここに来て再び、草履を捨てて靴を履け、袴を捨ててズボンを履けと、要求されている。時代の趨勢を考えると日本人は必然的に第三の開国をして、グローバルスタンダードというなじみのない奇妙な価値観を、否応なく受け入れて行かなければならないところへ来ています。メリル・リンチに転職した山一証券の社員は好むと好まざるとに係わらず、グローバルスタンダードの価値観の中で、今後のビジネスマン人生を送らなければなりません。企業は一株当たりの利益のみ追求して、社員はいつでも切って捨てることができる。自分の周囲は皆敵。自分の収入は自己責任で守らなければなりません。そういった価値観を受け入れて、疑似アングロ・サクソンにならなければこれからのビジネス界では、生きて行けない。そういう時代が迫って来ています。しかし、そうは言っても、私たちの心のなかには有史以来この島国で育んできた文化や感性が生きています。このアジアの一角でシャーマニズム、アニミズムに始まって、神道、仏教を受け入れて来た長い歴史があります。これこそが日本人のアイデンティティーであって、何千年という時間の中で、培われて来た心のありようは、そう簡単に切り替えられるとは思われません。 確かに、五木さんの言われる通りです。しかし、私は二十歳の時に死ぬほどの思いをして、心のありようを切り替えることになりました。それは聖書の神を信じることだったのです。聖書は神を証明などしていません。初めから神であり、そんなことは分かり切ったこととしているのです。だから聖書によると、神を否定するものは分かり切ったことが分からない、話にならない人間なのだといいます。愚か者は心の中で神はいないと言っている。と聖書にあります。考えてみれば神を証明しよう、なんてとんでもないことです。無限とか、永遠を証明するような事柄です。絶対的なものは証明できるものではありません。神を試験管に入れられるものでもないし、顕微鏡だって見えはしません。聖書は神を証明しようなどというばかばかしいことにタッチすることはありません。聖書は、神は事実だと宣言します。事実ということは、ばかでないかぎり分かるということです。これは神が証明してくださるということではありません。神は証明がなくてもご自身を分かりやすく、知りやすく、愛しやすくしてくださっています。聖書によれば、神は人間に手を差し伸べているというのです。新約聖書、使徒の働きという初代の教会の歴史の中に、ご自身のことを証ししないでおられたのではありません。と記しています。神はご自身を、自然の中に、歴史の中に、また、人間の心の中に、証ししておられます。また聖書の中に、そして何よりも、御子イエス・キリストという人物の中に、証ししておられます。このお方は、歴史の中に現実に実在されました。証拠は絶対です。反対など物の数ではありません。しかし、証拠を証拠として受け取らず、天の父の愛を頑強に拒んでいる者に対しては、神にもどうすることも出来ません。いいえ、神はそれほど私たちに自由意志を与え、それを尊んでおられるのです。預言者たちは神を知っていました。いや、神を知らされていました。預言者イザヤの40章の御言葉には、彼らの仕える神がどのような方か力強く記されています。神は大いなる神だ。全知全能、どこにもおられる神だ。あなたの神は大きいか。聖書の神と同じくらい大きいか。と問いかけています。詩篇の記者は、主は私の光。私の救い。誰を私は恐れよう。主は私の命の砦。誰を私は怖がろう。イザヤは多くの偶像の神々の名を記すなかに、現代の文明人は、まさか自分たちがイザヤのいうような偶像に仕えているとは思っていない。しかし、やはりイザヤの時代の人々と同じように偶像を持っています。自分の生活の中で一番上位に置く物。それが神であり、偶像です。あなたの神は何でしょうか。つまりあなたにとって何が一番大切でしょうか。私たち現代人の偶像は、富、財産です。お金が最大の価値を持っているのです。心を切り替えましょう。 『私たちは科学を信じているからこそ、飛行機にも乗る。しかし、初詣での時に手に入れた交通安全のお札を、軽々しくごみ箱にポイッと捨てることには、なぜか抵抗がある。今、日本人はアメリカに行って飛行機に乗るなら、交通安全のお札を捨ててしまえ。と強制されているようなものです。精神部分まで欧米的な価値観に従えと、強いられている。これは大きな葛藤を生んでくるに違いありません。そもそも和製英語だとも言われるグローバルスタンダードとは何か。それは経済システムや市場原理の形を取った一神教世界観だと、私は考えています。欧米の市場原理というのは、神の見えざる手を前提に成立しています。市場原理が単なる競争原理でしかなければ、それこそ弱肉強食の修羅場になってしまいますが、神の見えざる手がどこかで、確かに、働いているのだと人々が信じられる部分があるからこそ、市場が人間的なものとして、機能してきたのです。そういうキリスト教的なより所が、無意識のうちであれ存在しなければ市場原理は成立しません。欧米というのは一見、科学的、合理的な価値観を徹底して追求しているだけように見えますが、実は、非常に根深い宗教感覚が内包されているのです。神の見えざる手を信じる心がなければ市場原理は成り立たない。という考え方が彼らにはあります。今、日本のビジネスマンに突き付けられているのは、経済論でもなく、処世術でもありません。こうした精神的な価値観そのものを受け入れろという哲学的な問題に外ならないのです。これまで日本人はそうした宗教、哲学の問題には触れずに、まさに技術的な部分のみで外国と接して来ました。和魂洋才とはそのことです。そして世界に冠たる日本という技術立国の地位を築いてきた。今後は心の問題、信仰の問題といやおうなく向き合わなくてはならない時代が到来します。洋魂洋才にしろ、と言われているのです。政治の混乱、経済の崩壊、宗教の退廃、自殺者の増加、少年凶悪犯罪の激増。世紀末の混沌とした時代に直面している日本人の底流には、こうしたアイデンティティーの崩壊という大きな問題が横たわっているように感じられてなりません。』 なかなか深い洞察力です。五木さんは資本主義の精神的な支えとなったプロテスタンティズムの倫理という、経済学者マクスウェーバーの経済論をさすがによく知っておられるようであります。そこで私は聖書的資本主義について少しだけお話しをしましょう。マタイの福音書25章には連続したイエス・キリストの例え話がしるされています。その中でイエスは、ご自身の王国の在り方について述べておられます。その聖書の言葉は財産の管理者としてのクリスチャンの一面を現しています。神がモーセを通して与えられた十の戒め。十戒は、犯すことのできない財産権について明白に教えています。盗んではならない。ほしがってはならない。聖書は私有財産、個人企業の権利と義務を教えています。この義務という点で、資本主義も他のすべての組織も失格です。どんな権利も義務を伴います。義務を拒むなら権利も捨てなければなりません。所有権を振り回す無責任な者には資本主義をどうこう言う資格はありません。こんな者は社会主義でも何でも、ただ自分のために利用しているにすぎないのです。彼らのやっていることを見ると、人間が身勝手で、貪欲で、人の物を欲しがるようにできていることがよくわかります。神に背いた罪人だからです。だからイエス・キリストのあがない、つまり償い、救いが必要なのです。クリスチャンの資本主義観は管理者という言葉に尽きるでしょう。人生は神から預かったものであること、自分のすべて、持ち物のすべてがもともと神からきていることを知ることが出発点です。神こそすべてのよい賜物、すべての完全な賜物の与え主です。天から与えられる物の外に人間は何物も受けることはできない、ということです。管理者という言葉は、人がもともと何も持っていないことを現しています。私は裸でこの世に来た。また、裸で彼の国に帰る。人の持つすべての物は主権者である神に属しています。だから人は、自分の命やすべての与えられた恵みをどのように使うかについて神に対して責任を負っているのです。良い管理者は自分の生涯が神から任されたものと見るのですべてのチャンスを逃さないで、つかんで、自分の生活が完全に生産的になるように、また神御自身の栄光が現れるように努めるのです。クリスチャンはこのように考えるのです。自分の才能を惜しんで宝の持ち腐れになるようなことはしません。自分の才能をどんどん投資して利益を増やし、肉にあるときにした行いについて報告するため、神の前に立つときのことを考えて生きて行くのです。こういう生き方こそ新しい日本のアイデンティティとすべきでしょう。 「城山三郎さんと対談する機会のあったとき、日本の事業経営における倫理観のバックボーンについて伺ったことがあります。山さんによると倫理観のバックボーンは二つあったそうです。一つはさむらいの士魂、一つは儒教国家だったということです。ところが戦前からの天皇信仰によって、儒教的なものが中断されてしまう。そして戦後になると戦前から儒教的なモラルを伝えて来た人々がしだいにいなくなり、士魂についても戦争中に懲りたため今は精神的なものはすっかりなくなった。注意書として士魂というのは、さむらい魂という意味ですね。そして今はただ儲ければいいということになってしまっている。おまけに政府までが、やれ、所得倍増だ、列島改造だとはやすためブレーキがまったくきかなくなっているということです。私もそうだと思います。だからと言って西洋の価値観をそのまま導入するというわけにもいきません。そこで私が注目しているのは大阪商人なのです。〜〜〜背後には儒教的な倫理の他におかげという宗教的感覚もあったということになります。 なかなか良い文章ですね。ところで新約聖書にイエス・キリストのタラントの例え話があります。タラントというのは才能ということですね。主人の留守の間に預けられたお金を活用したしもべと土に埋めたしもべに対する主人の評価がされている、その箇所です。その意味は才能なり、あるいは能力を与えられた者はその才能を生かして使うことが要求されています。主人の留守の間に投資して儲けることです。一タラントの人の罪はそれを投資しなかったことにあり、土の中に埋めていたのです。主人が怖くて。この無為無策に対するさばきは明瞭でした。そのタラントは取り上げられてしまいました。神から与えられた物を使わなかったら最終的な評価を受けるとき、それを失ってしまう。保とうとして失ってしまうのです。才能を保つために投資をする。それが人生です。もちろん、そこには危険性があります。だが、儲けるためには出さなければなりません。命を救おうとすると失い、キリストのために命を捨てるとそれを得ることができるのです。一粒の麦が地に落ちて、死ねば多くの実を結ぶ。一千万円の財産もただ持っているだけでは一円の価値もありません。増えません。金の価値はそれによって何が買えるかで決まります。一文惜しみの銭失いということがあります。霊的けちんぼうもまったく同じです。ついでのことですが、人生につきものの事故や破局にぶつかると、人は自分の生き方はこれでよかったのだろうかと考えます。そんなとき今まで大切だと思っていた物が大切でなくなり、いままでつまらないと思ったものが大切な物だったことに気が付くのです。価値の転換がここで起こります。タイタニック号が沈みかかったとき、人々は争ってダイヤの腕輪やブローチ、真珠のネックレスや首飾りをたったひとつかふたつのオレンジと交換しようとしたそうです。生死の境に立ったら、高価な宝石もがらくたと同じです。多分こんなときには宝石泥棒はオレンジ泥棒に早変わりするでしょう。もっともそんななかで、まだ宝石に執着している者がいるかもしれません。いや、実際にあったようです。自分の持ち物を後生大事に握り締めて凍った墓場に沈んでいった人がいるのです。管理者にとって大切な二つの面がここで教えられます。生み出す、つまり使うことと責任です。神は私のなかに才能を育てて下さる。それは私の命の一部になる。そして実り多い人生を送るようにと素材の満ちあふれたこの世界において下さっているのです。神に与えられた才能を使いながら神が与えて下さった材料を使って神の栄光のために仕事をするのです。労働の実に対する神の権利を認めないものは人生を楽しむことはできません。聖書は言います。いったい誰があなたを優れたものと認めるのですか。あなたには人からもらったものでないものが何かあるのですか。もし人からもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか。だから、真の神によっておかげさまなのです。 宗教とは車でいうならブレーキです。経済はアクセルです。〜〜それが私たちが直面している現実です。 このように魂なきシステムは成立しないという五木さんの主張です。五木さんの言われるように宗教はある一面経済活動の最優先に対してブレーキをかける役割を持っている、というのです。イエス・キリストは言われました。あなたが神の子ならこの石がパンになるように命じなさい。四十日四十夜にわたる断食の後にこのようなささやきがありました。 イエスよ。いまあなたは飢えに苦しんでいる。しかし、あなたは神の子なのだから、この石ころをパンに変えることなどぞうさないことだ。自分のためだけでなく、石をパンに変えて飢えた人々に与えるならメシアとしての使命を容易に果たすことができるではないか。空腹の極みにあったイエスにとって、これは魅力的な提案だったに違いありません。また、神の子としての特権を用いて、他の人の飢えもいやすことができるなら、すばらしいと思っても不思議ではないのです。しかし、イエスはそれに応じなかったのです。そして旧約聖書の申命記8章3節の言葉で答えました。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。と書いてある。悪魔の提案のどこに問題があったのでしょう。申命記8章3節の背景にある出来事はこうです。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は荒野で四十年さまよいました。彼らはなぜそのような経験をしなければならなかったのか。それは彼らが不柔順で不信仰だったからです。エジプトの強制労働から解放してくれた神を信頼せずに、彼らはつぶやきました。パンがない、水がない、エジプトにいた方がよかった。エジプトでは肉が食べられた。彼らはいつもパンのことで頭がいっぱいでした。そこで神は四十年の荒野の旅をさせ、彼らが思いもしなかった方法で食物を供給しました。それがマナというものです。毎朝マナを収穫しながら彼らは、神が確かに生きておられ真実に顧みてくださることを経験したのです。人はパンだけで生きるのではない。パンも大切であるが、パンを与えてくださる神を知ることはもっと重要である。この大切なことを彼らは学んだのです。しかし、だからパンなどどうでもよい。飢えている人のことなどかまうな、というのではありません。事実、神は不思議なマナを備えられました。パンの必要に関心を寄せておられるのです。ここで、人はパンだけで生きるのではないと言われていることを正確に受け止めなければなりません。なぜ、石をパンに変えなかったのでしょう。それはこの提案が、パンを与えてくださる神との関係を抜きにしてパンを獲得することへの誘いだからです。悪魔はイエスに、あなたは神の子なのだから、父なる神にパンを祈り求めたらどうかと言わないで、自分の力で好きなように石をパンに変え、神の子としての力を発揮したらどうかと誘ったのです。人間の幸せが、神によって生かされている事実を無視したところで成り立つかのように思わせるところに、誘惑者の意図があります。それはまさに私たちが直面する誘惑です。私たちは富が人間の不幸を解決する、人間は物質的な豊かさによって幸せになるという幻想に惑わされてきました。その最たるものがバブルです。貧しくあればよいということではありませんが、問題はパンを与えてくださる神、私たちの存在の支え手である神との関係を無視した形でのパンの獲得が、悲劇をもたらすのです。イエスは群衆にパンを与えました。わずかのパンをもって群衆を養う奇跡を、一度ならず行いました。けれどもそれは悪魔が示したようなメシヤの使命達成の手段ではありません。むしろ人間の物質的な必要に対する、神の哀れみ深いかえりみを表しています。人間に神との関係を抜きにして、パンのみを求めさせようとする悪魔の論理を、わたしたちは見抜かなければなりません。今、私たちの国も魂なきシステムになっていないでしょうか。 日本人のアイデンティティの崩壊はどこに原因があるのでしょうか。〜〜心がずたずたになっているのではないでしょうか。 五木さんが言われる、クールに。能力主義で。ばっさりやれ。ところが一方ではそれを乗り換えなければならない。そこで矛盾に引き裂かれている。聖書はこの問題の解決について何を語っているでしょうか。強いものと弱いものとの関係と調和。この世を支配し人間とこの地上とを破壊する悪魔的な力に対して、過去、そして現在、神はどう対処してきたか。それは無力を選ぶことだ。神はまったく無力な存在として人間の歴史に介入された。この聖なる選択はキリスト教信仰の核心をなすものである。カナダにいる、ヘンリー・ナーウェンという、神学者で哲学者は、福祉活動をしながらこのように語ります。ナザレのイエスという無力な者となって、神は私たちに現れ、力という幻想を取り除き、この世を支配している闇の支配者の武装を解除し、分裂した人間に新しい一致をもたらしました。全くの徹底的な無力さによって神は私たちに天来のいつくしみを示されたのです。もし私たちが本当に神を愛したいなら、その生涯が弱さで覆われているナザレの人、イエスに目を注ぐべきです。その弱さは神の心へと私たちを導きます。力を持っている人々には親しみにくいところがあります。私たちは力を持つ人を恐れます。彼らは私たちを操作したり、したくない事を強いることができます。力を持っている人々の前で私たちは下手にでます。彼らは私たちの持っていない物を持ち、気持ち次第で与えたり、与えるのを止めたりする事ができます。その人たちを私たちはうらやみます。彼らは私たちの行けない所へ行くことができ、私たちの出来ないことをする余裕があります。しかし神は、私たちが神に対して恐れを抱いたり、距離を取ったり、うらやんだりすることを望まれません。神は私たちに近づくことを、もっと側に来て、その親しさのなかで、母の腕に抱かれた子供のように 私たちが安らぐ事を願われています。だからこそ神は小さな赤ん坊になられました。小さな赤ちゃんを誰が怖がるでしょうか。小さな、弱い赤ん坊は、両親や看護婦、世話をしてくれる人にまったく依存するほかありません。そのように多くの人の助けなくして、食べることも飲むことも歩くことも話すことも遊ぶことも働くことすらできない無力な姿に、神は望んでなられました。そのように人間を頼りにして成長し、その中で生活し、よい知らせを伝えました。そうです。実に神は、ご自分の救いの御業の実現を、私たちにまったく依存するほどまでに無力となられたのです。イエス・キリストが人となってこの世に来てくださった。赤ちゃんとなって来てくださったことをナーウェンは言うのです。イエスは十字架にかかり、金属の付いた鞭で打たれ、肉が砕け、弟子たちの裏切りや敵から受けるののしりで心傷つき、死んで行きました。無力そのものです。しかし、これこそ神の愛を私たちに示すために神が選ばれた手段です。哀れみの中に私たちを包み込み、尽きない慈しみによって怒りを取り除いてくれるのです。弱者を切り捨てる近代グローバルスタンダードの力を誇りとする世界の中で、心が引き裂かれている私たちを救うために、神は私たちと何ひとつ変わることのない弱さを持った人となって来てくださいました。イエス・キリストとして。 社会主義とは資本主義の矛盾の中から生まれた〜〜まず人間の存在を大事に考えることでしょう。自分という掛け替えのないたった一つの存在、そこに価値を見いだしたいと思うのです。 五木さんは二十一世紀は大乱世、人心荒廃の大転換期。その中で人間の存在価値はどこにあるのかと、問いかけています。本当の価値について、聖書の教えていることをお話ししたいと思うのです。私たちは長い年月を通して培われて来た価値観を持っており、その中で生きています。それは自分の存在価値を、あれが出来る、これが出来るということで評価する。すなわち、百の内、八十出来る方が二十出来るより価値があるという尺度を持っています。しかしそれは、優越感と劣等感の世界であって、その中に自分の本当の価値を見いだすことが出来ません。何かが出来ること。英語のdoingに自分の存在価値を見いだそうとする生き方は、かえって不安と恐れに捕らわれる人生になります。何かが出来るかどうかではなく、自分の存在そのものに価値を見い出せた時、初めて本当の人生を送ることが出来るのです。同じ状況のなかでも、それを感謝して生きる生き方と、逆に自分を卑下して生きる生き方とがあります。たとえどんな状態、ハンディの中にあってもそれを恥ずかしいと思うのではなく、今、自分に与えられている物を正しく受け止め、それを精一杯用いて、今、生かされている事を感謝して生きる。それが出来るかどうかは、自分の価値、または、存在を正しく受け止めているかどうかにかかっているのです。あの「五体不満足」という本の著者の話題が浮かびますね。存在というのは、英語でbeingと言います。これをBを大文字で書くと、「神」という意味になります。私たちの存在、つまり、beingは、神と共にあるときに本物となることが出来るという意味でしょうか。イエス・キリストは言われました。「空の鳥をみなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に収めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは鳥よりももっとすぐれた者ではありませんか」。私たちは鳥よりもはるかにすぐれた者です。そうであるならばその自分の存在価値をもっと神様にあって発見し、認めて行くことが必要なのではないでしょうか。あなたの指を見てください。世界に五十数億、いや六十数億の人がいても、あなたと同じ指紋を持った人はひとりもいません。そのように神様はひとりひとりを、ユニークで、特別な存在として作り、他の人ではとって変わることの出来ないものとして見ておられるのです。何かが出来る、出来ないではなく、あなたの存在そのものに価値があると言われるのです。わが家には九十二歳になる母が同居しています。今でも歩いて買い物に出掛け、家事もしてくれます。けれども、年を取ればだんだんと出来ないことが多くなり、自分が役に立って喜ばれるのは嬉しいけれど、もし自分がそれを出来なくなったら、自分の存在価値がなくなるのではと不安を感じることもあるようです。しかし、何も出来なくても自分がそこにいるだけで喜んでくれる人がいることは無上の喜びです。神様は私たち、一人一人をそのように見ていて下さるのです。人はたとい全世界を手に入れても、真のいのちを損じたらなんの得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人は一体何を差し出せば良いでしょう。神様の目からすれば、全世界を手に入れるよりも、一人のいのちの方が価値があると見て下さるのです。そしてあなただけに与えられた、特別な人生なのだと語っておられます。私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。これは何千年も読まれて来た聖書が語っている、あなたへのメッセージです。後はあなたがその言葉を、自分への言葉として受け取って生きるかどうかです。そこで初めて二十一世紀の大乱世を、自信を持って生きて行く力が沸いてくるのです。 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