『他力』より

  2−第1話
 いつもラジオ放送を通して、またシリーズとして再編集致しましたカセットテープで、希望の声をご愛聴いただき誠にありがとうございます。
 さて、今回は、1999年11月から放送されましたものをお届けします。一千年代から二千年代へ20世紀から21世紀へと、いやおうなしに流されていく時の中で、今私たちひとりひとりが、家族が、あるいは地域社会が抱える問題がどう対処していけばよいのでしょうか?この際改めて正面から向き合ってそれらの問題点を見つめ直してみてはいかがでしょうか。題して『世紀末、今を見つめる』
 お話ししていただきますのは、いつもの西大寺キリスト教会赤江弘之牧師です。

           五木寛之著『他力』 Lいま〈他力の風〉の気配を感じて より
 〈他力本願〉とは、安易な〈他人依存〉とは根本的にちがいます。国家や、憲法や、政府や、病院や、学校や、企業や、世間の良識や、マスコミや、銀行や、その他のすべてに頼ることを捨てるところから発する、真の自力の確信こそ〈他力本願〉の姿です。
 そして、その自立の勇気をもたらしてくれる見えない力が、〈他力〉であり、大きな宇宙の生命力である〈本願〉だと、私はいつからか感じるようになりました。
 私たち日本人は、よく無宗教の国民だと言われたりしますが、それは大きなまちがいです。社会的慣習としての宗教行事が目立たなくなってきただけで、心の深いところには強い宗教的感覚が豊かに眠っている。それに私たち自身が気づいていないだけのことでしょう。この列島のなかで、私たち日本人は、どの民族にもまして、濃密な自然と宇宙との共感を抱いて生きてきました。それが見えなくなったのは、ほんの五、六十年の最近のことにすぎません。
 いま、大乱世ともいう時代を前にして、改めてそのことを考えてみる風潮が、きざしてきています。まさに、〈他力の風〉が吹きはじめた、という気がするのです。*
 ここで、現在明治学院大学国際学部のアマトシマロ教授が『日本人はなぜ無宗教なのか』という本の中で言っておられることを紹介しましょう。この本は筑摩新書から出ています。
 「私はかねてから、自然宗教と総称宗教という区別が、日本人の宗教心を分析するうえでは有効だと考えている。総称宗教とは特定の人物が特定の教義を唱えてそれを信じる人達がいる宗教の事である。教祖と経典、それに教団の3者によって成り立っている宗教といいかえてよい。代表的な例はキリスト教や仏教、イスラム教であり、いわゆる新興宗教もその類に属する。これに対して自然宗教とは文字通り、いつ、誰によって始められたかもわからない自然発生的な宗教のことであり、総称宗教のような教祖や教典、教団をもたない。自然宗教と言うと、しばしば大自然を信仰対象とする、宗教と誤解されがちだが、そうではない。あくまでも総称宗教に比べての用語であり、その発生が自然的で、特定の教祖によるものではないという事である。あくまでも自然に発生し、無意識に、先祖たちによって受け継がれ、今に続いて来た宗教のことである。宗教をめぐるさまざまな混乱や誤解は、総称宗教と自然宗教の区別を採用しないところから生じているように思われる。」
ところが同じ著者、つまりアマトシマロが『法然の衝撃』というジンメン書院の発行する書物の中で語っておられることを紹介しましょう。
「近年私は、法然の著作や法語・手紙に連続して親しむ機会を持った。親鸞をとおして日本仏教に近づいた私ではあるが、今では法然こそが、日本仏教を代表する巨人だと考えている。もちろんそのことは私における、親鸞の地位低下を意味するものではない。むしろ法然・親鸞を一体と見ることにより、千寿念仏の概念が一層豊かになりつつあり、それにつけても千寿念仏は、日本の精神史の中ではなんと異端であることか。その詳細はこれから述べていくが、それだけに日本仏教の、あるいは日本宗教の全体構造の中で、千寿念仏の位置を明確にしたいと強く願うようになってきたのである。法然を、キーパーソンに選ぶことには異論もあろう。だが私は本書で詳しく述べるように倫理道徳、政治、死者祭祀、シンギ崇拝など、この世の一切の営みから超越した、宗教的価値の絶対性を初めて、明確に主張した点において、またその救済原理が、すべての人々に開かれた普遍性を持っている点において、法然を最も革命的な人物と見る。ラディカルと呼ぶゆえんでもある。
“ラディカル”はしばしば急進主義者と訳されるが、本来、物事を根本から考える、あるいは根源から考えること、およびそういう人を指す。それゆえに千寿念仏の出現は、それまでの日本人の精神生活のさまざまな局面において、混乱や、問題を生じた。例えば、阿弥陀仏一仏のみを頼りとする所から、他の仏たち、特に、神を拝む必要がなくなるという問題。道徳の無視、祖先供養の軽視、などなどである。」

 この書物によれば、五木寛之氏のいう現在の大乱世の中に吹く他力の風というのは、自然宗教なのではなく、法然・親鸞の浄土宗の説く阿弥陀仏ではないでしょうか。そして、そこに同じ総称宗教の部類に入る、聖書の神によって吹く〈他力の風〉の気配があるということも言えるのです。しかし、私はキリスト教とは、イエス・キリストの創設した総称宗教ではないと思っています。イエス・キリストご自身は単なる開祖ではなく、神ご自身であるというのです。そのことを信じる人が、過去2000年間世界中で、数え切れないほどにいるのです。
 クリスマスに生れた神のみこ、いまあらゆる面で、大乱世のときに、イエス・キリストによる〈他力の風〉の気配を感じる人が、もっともっと起こされますように。 

2−第2話

       五木寛之著『他力』 O延命は果たして意味のあることなのか より
 日本の男性の平均寿命は77歳ぐらいでしょうか。これは世界に冠たる長寿国日本の平均寿命ですから、世界全体をひっくるめて考えると、60年以上生きるというのは不自然かつ人工的に人生を延ばしている、何か自然の摂理というものとズレているのではないかという気がします。
 人間の延命ということが、はたして意味のあることなのか、正しいことなのかという疑問がずっとあります。
 たとえば、痔でもなければ胃潰瘍でもない感じの下血がしばらく続いたことがあって、それを周りの人に話したら、すぐ検査に行けと大騒ぎしました。しかし検査は受けませんでした。これが大腸ガンであったり、悪性ポリープであっても、それはそれで構わない。私の家族は、母親が亡くなったのが42歳、父親が56歳で、弟は片方が幼いころに亡くなって、もう一人の弟は42歳。だから自分だけが60歳をはるかに過ぎて生きていること自体が不思議であって、もしここで死ぬようなことがあっても、それはそれで仕方がないと覚悟したのです。
 生まれてくることについては、非常に不自由で、選択できずに生まれてくるわけですから、死ぬときぐらいは、自分で選択したい。そこでじたばたするのも選択だし、なりゆきまかせも一つの選択です。私自身は、あまり大騒ぎして死にたくないと思っています。*

という文章です。
 さて、ヘンリー・ナーエンというクリスチャンで、元ハーバード大学の教授が、こんなことを言っておられます。
「私たちが何を願い、望むとしても、私たちがどのように死ぬかは予想できないので、死に方について思い煩うのは、無益です。私たちのすべきことは、死に備えることです。少なくとも私たちが死は、自分の存在が消滅するのを意味するのではなく、むしろその存在を明らかにする道であると信じているならば、それは人生で最も重要な課題です。イエスによれば、死が、完全な敗北と完全な勝利が一つになるときです。それは十字架上のイエスの死が、敗北と勝利の一体を示す印だからです。イエスはご自身の死を、“挙げられる”と言う言葉で表現しました。それは、十字架に挙げられることと、復活によって、挙げられることを意味しています。イエスは私たちの死も、彼の死と同様であってほしいと願われています。つまり、死によって、この世から追放され、神の家に喜んで迎え入れられる、ということです。ではどのように死に備えたらよいでしょうか。それは、日ごとに死よりも強い愛によって愛して下さる、神の子とされていることを、十分に自覚しながら生きることです。自分の最後のことをあれこれと空想したり、思い煩ったりすることは無益なことです。しかし毎日を神の娘や、息子として愛されていることを、お祝いする日としていくならば、それが短くと長くとも、その最後の日々を、新たな誕生に向けての日々として、生きることができます。死ぬことの痛みは産みの苦しみです。そのことを経て私たちは、この世という子宮を出て、全き神の子として新しく生まれるのです。ヨハネはそれをはっきりと言っています。
 「御父がどれほど私たちを愛して下さるか考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。世が私たちを知らないのは御父を知らなかったからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者になるということを知っています。なぜならその時御子をありのままに見るからです。」
                          (ヨハネの手紙3章1節2節)
自分が今すでに、何者であるかを自分に言い聞かせることは、やがて自分がどのようになるかに対する、最も良い備えとなります。とても良い、深い文章ですね。この年末年始に静かに死に備えるという、最も重要な課題について、黙想致しましょう。神様の恵みと祝福が、今ラジオを聞いておられる方の新しい年の上にまた、永遠に変わりなくありますように。アーメン。

2−第3話

       五木寛之著『他力』 37 深く悲しむ人ほど強く喜ぶことができる より
 人間が自立して生きるためには、まず自分の中に埋もれているさまざまな感覚を呼び覚ますことが必要です。その一つが五感です。日本人は古来より、五感を大切にしてきました。例えば手触り、愛用の茶碗や着物などが手触りがいい、手触りが悪いなどを評価の基準にしてきました。しかし現在は、そうした感覚は、顧みられていません。プラスチックやガラス、軽金属などが氾濫していて、触るという感覚が、著しく低下しています。さらに匂いや味に鈍感な若者が急増しているらしい、考えてくると、人間に本来備わっている五感の能力低下は、限界まで来ていると言って良いのではないでしょうか。五感を磨くことと同じように大事なことは、強く喜び、深く悲しむということです。人間は、多いに笑い、多いに涙を流せばいいのです。深く悲しむ人ほど、強く喜ぶことができる。たくさん涙を流す人ほど多いに笑うことができるのです。人は時には、憂鬱で、どん底まで深く悩み、絶望しますが、そうしたことも、人間の精神を支える、重要な要素の一つです。*

 そして、結論として続けていうのです。自分の欠点やマイナスを気にせず、振幅の大きい自由で生き生きとした人間の感情の発露が日常生活のうえにもプラスになり、社会生活のうえでも大きな信頼となって跳ね返ってくるのだ、と考えることが大切でしょう。ところで、ある人は言いました。悲しいと何でも良い、片っ端から食べ物を口にほうり込む。それで満腹になるとねむくなって寝てしまう。起きてなんとなく悲しみから救われたような気になる。やけぐいだけではありません。カラオケ、どたばた喜劇、悲劇のヒロインに同情して涙を流すこと。皆、悲しみを和らげてくれるかも知れません。友達からネクラと言われないために、作り笑いをすることもあるでしょう。ようは、悲しみを忘れよう、笑え、喜べ、楽しくやれ、と言うのです。こんな私たちに、主イエスは言われました。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」もう一度言います。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」主はユーモア豊かに教えられましたが、笑ったという記録はなく、むしろ泣いた報告があります。一度はベタニア村のラザロが死んだときです。人間の死の現実に涙されました。もう一度は、都エルサレムが見える所にまで来たときのこと。神に背いて滅びる同胞ユダヤ人のために主は涙されました。それは人間の罪に対する、 悲しみでもありました。使徒パウロも悲しみました。ただし、主イエスと違って、彼が悲しんだのは、死すべき罪人の自分のためでした。「私は、本当に惨めな人間です。だれがこの死の体から私を救い出してくれるでしょうか。」しかしこのように悲しむ者は、慰められるのです。神ご自身が慰めてくださいます。自分の罪を悲しむ人は、その罪を負い、十字架で死んで下さった、主イエスの愛に感謝します。自らの罪深さに、打ちのめされるとき、「あなたの罪は許された」という声に安堵するのです。そればかりではなく、この罪の世の悲しい経験や、死の悲しみも神が慰めて下さいます。痛み・苦しみ・矛盾・不正に満ちた世界が終わり、神の義と愛が完全に実現した世界を、神がもたらして下さるのです。神ご自身が、彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さる。もはや死もなく、悲しみ・叫び・苦しみもない。神に対する自分の罪を悲しむ者は神ご自身の慰めを体験することができるのです。どうか主の慰めが豊かにありますように。
 「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」

2−第4話

五木寛之著 『他力』 40「脳死は人の死」の考えの底にあるもの より
脳死を人の死と認めることは、まさにデカルト的です。「我思う、ゆえに我あり」。思惟しない人間は人間と思わなくてもいいという考え方です。この言葉は中世の全的人間中心の考え方、トマス・アクィナスの「我あり、ゆえに我思う」のもじりだと聞きました。いまの私にはそちらの言葉がはるかに重く響きます。
 人間は存在する、だから「思う」こともできる。まず生きること、存在が先です。
 知的活動、物を考えることによって人間は人間なのだという。これはその時代においては希望に満ちた、しかも激しいプロテスト(抗議)であったでしょう。しかし、いま世界、や地球そのものが危機に際しているときこそ、人間の存在そのものを大事にしなければいけない。
 脳は人間の感情などあらゆるものを支配しているけれども、脳へ情報を送り、働くエネルギーとしての酸素を送り込むのは体の末端です。身体の存在によって脳が活動を支えられている。すべてを脳が支配していると考えるところに落とし穴があるような気がします。 脳が死んだらその人間は死ぬ。それは人間一般の死です。しかし人間の生命というのは、遺伝子のように二重螺旋構造をしていると考えたほうがいい。ひとりは普遍的な人間、もうひとりは絶対かけがえのない、世界中にただひとりの個人です。このふたつが絡まりあって、ひとりの人間をなしている。
 ですから、脳死は人間の死であるとしても、個人の死とは言えないかもしれない。
 かつて、免疫学は心臓や脳に比べて、医学の世界のいわば辺境の学問でした。 それが1990年代に入って大きな注目を集めた理由のひとつは、免疫の働きは非自己を発見して、それを拒絶するために、まず自己を確立するということが注目されたことにありました。人のアイデンティティは、免疫の働きにこそかかっているということです。
 そういう考え方で見ますと、脳がストップしても体の中では免疫の働きは続いています。身体は生きているのです。生きていなければ移植などはできないはずです。内蔵が生きているということは免疫の体系も生きているということ。免疫の体系が生きているということは自己を決定する働きが生きているということなのです。ですから、特定個人としては、まだ死んでいないと考えられるわけです。首から上が止まった後は物体であるという考え方を法律として成立させてしまったことと、遺体の首を切断して校門にさらした異常な行為とは、ほとんど重なっているように感じられてなりません。*

 五木さんの鋭い文明批評と言うべきでしょうか。非常に考えさせられます。また、共鳴します。カナダのヘンリー・ナウエンという人が、その著書『今ここに生きる』という本の中で、人間の存在の重さについて語っています。「誕生日は祝うべきものです。誕生日を祝うことは、試験の合格や昇進・勝利を祝うことよりずっと大切なことだと思います。なぜなら誕生日を祝うことは、あなたがいてくれてありがとう、とある人に言うことだからです。誕生日を祝うことは、命そのものを称賛し、また喜ぶことです。だれでも誕生日に「あなたがしたこと、語ったこと、成し遂げたことのゆえに感謝します」とは言いません。そうではなく、「あなたが生まれたことを感謝します。そして私たちと一緒にいてくれてありがとう。」と言うのです。誕生日は今のときを祝います。過去に起こったことに不平を言ったり、やがて起こるかもしれないことを予想したりしません。ある人をかつぎ出して「みんなが君を愛しているよ」と言うようにすることです。誕生日を祝うことによって命の恵みのすばらしさを改めて思うことができます。この精神にのっとって、人々の誕生日を毎日祝うことが本当に必要です。感謝と善意を、許しと優しさを、そして愛情を表して祝うことです。そうすることによって一人ひとりにこういうことができます。
 あなたが生きていることはすばらしい。あなたがこの地上で私たちとともに歩んでくれるのでうれしい。さあ、共に喜び楽しもう。この日は私たちが存在し、共に生きるために作られた日なのだから。私たちの教会員の中で生まれたときからほとんど自力で生きることのできないお子様がいらっしゃいます。その家族は、このような思いで毎日、子供をお世話をし、そしてむしろ子供に励まされているというのです。
 あなたがいてくれてありがとう。そんな思いの中で、私たちは日々生きてまいりましょう。

2−5話

       五木寛之著 『他力』 42あるがままの自分を信じるために より さて、この20世紀の終末を迎える世界全体が、今一番大きなテーマとして掲げているのが、〈共生〉、〈共存〉、共に生きる、ということです。
 たとえば男性と女性というのはお互いにやはり対立しあうところがある。その対立をどう乗り越えていくか、というのが新しく生まれてきた〈共存〉、〈共生〉という考え方です。世界を見てもそうではないでしょうか。民族紛争とか、宗教的対立とか、各地で大きな矛盾やトラブルが激化している。そこで思想、信仰、民族の違う国々がどうしていくかが、今の大きなテーマなのです。
 最新の免疫論は、異物を発見して排除するという考え方ではなく、いかに自己と非自己とが体内で、共存して生きていくかを探っています。
 皮膚や臓器を移植されたら、生体に拒絶反応が起きます。しかし、母親が胎児を身ごもっているときには、拒絶反応は起きません。胎児は遺伝子からいうと異物です。自分の遺伝子が半分と、父親の遺伝子を半分含んでいますから、その複合体としては、完全に異物なのです。それなのに拒絶反応を起こさないのは、胎児という非自己に対して、免疫は〈トレランス〉なのです。トレランスは〈寛容〉と訳されます。いまこのトレランスがヨーロッパの若い人たちにとってテーマになっています。民族の対立、宗教の対立、そして男と女の対立…。このふたつの間でいかにトレランスに生きていくか、それがテーマなのです。 教育の問題、医療の問題、あるいは精神的な心の安らぎを求める面に関しても、拒絶から寛容へという流れの中で、どのように自己と共存し、どのように認めるかということが大切になってきます。
「いまの自分を信じる」ということは、「いまの自分を認める」ということです。「いまの自分にトレランスである」ということなのです。そして、そう考える自分と、本当の生命である自分と、物としての自分、心としての自分、命としての自分、それぞれお互いに相手を認め合い、共存して生きていくことです。
〈拒絶から寛容へ〉
〈対立から共存へ〉
 それがこれからのテーマでしょう。しかしいまの世相は、どうもそれと正反対の方向へ進んでいるように思われてなりません。*

 相変わらず切れ味の良い文章です。
 では聖書によると、どのように考えれば良いでしょう。つまり、あるがままの自分を信じるために。あるがままの自分を受け入れられないで育った人は、甘えることができず、いつも、心の奥底に孤独や不安を持っています。そして大人になっても甘える場を求め、他人に受け入れられることを願い、人に自分を会わせる人生を送るようになります。人間は皆、何らかの意味で、このような受け入れられていない、という傷を持って育ってきました。人生のどこかでそのような自分に気づき、ありのままの自分になることです。多くの人がありのままの自分を受け入れてくれることを願い、またそういう人を捜し求めて生きています。人はそのために働き、学問を積み、努力しています。なぜなら、そのことによって、誰かに受け入れてほしいと願うからです。けれども、決して満足することはありません。人を許せない、愛せない、信じられない、また他人をあるがままで受け入れられないというのは、自分自身を受け入れ、許していないからです。
 しかし、あるがままの自分を受け入れ、愛して下さるキリストに出会うとき、人生は180度変えられます。イエス・キリストはあなたのあるがままを受け入れ、愛し、また価値あるものと認めておられます。そのことを信じると、本物のエネルギーが内側から沸き上がり、自分以外の状況や、他の人とかかわる道が、開かれていくのです。また限りなく素直に生きる、毎日このキリスト様と生きることに、人生の本当の目的と喜びがあります。
 木に登っているザアカイに「ありのままでいいのですよ。ザアカイ、降りて来なさい。そのままで降りて来なさい。ちびっ子のザアカイよ、欲張りのザアカイよ、自分のことしか考えないザアカイよ、誰にも受け入れられないと言って嘆いているザアカイよ、自分で自分を受け入れることのできないザアカイさん、今日あなたの家に泊めてもらうことにしている。降りておいで」
 今日、イエス様は私たちをこんなふうに招いて下さっています。

2−第6話
 五木寛之著 『他力』 51 今、アクセルではなく、ブレーキを より
 これからの50年間は、「青空」が見えない中で、私たちは峠をこえてゆっくりと下って行かなくてはなりません。アクセルを踏む時代ではなく、ブレーキを制動する時代に入っています。いかに優雅に、いかに巧みにブレーキを踏むか。
 進歩よりも抑制という時代にさしかかっているのです。ですから明るさは見えないけれど、いま何かを考えるとしたら、社会のありようの現実を直視しよう、目を背けることをやめようではないか、ということでしょう。
 いままで、日本人は、現実から目を背け続けてきました。*

 こんなふうに五木さんはお話しをしています。続いて読んでいきます。

 いままで、日本人は現実から目を背け続けてきました。
 昭和20年、日本が敗れる直前まで、少年の私を含めて、ほとんどの日本人が、神風が吹くと考えました。冷静に新聞を見たり、報道を見れば、いくら軍が美辞麗句で飾り、新聞が意識的にそうさせたとしても、迫ってくる事実は、はっきり見えたはずでした。しかし、実際には、敗戦のポツダム宣言を聞いて愕然とした国民が大半でした。
 戦後になっても、現実から目を背けています。たとえば日本人は、本当は天皇制が根本的に好きであり、日本の社会は宗教社会なのですが、戦後の進歩的な文化人を代表とする現代の日本人たちは、それを認めようとしません。その理由は、これらの現実を直視した途端に、日本が明治以後、ヨーロッパ文化を手本として導入した、資本主義・憲法・軍政そして音楽などの文化が、全部ニセモノだったと認めてしまうことになるからです。坂口安吾は『日本文化史観』とか『堕落論』の中で、くり返し書いています。日本人は決定的に絶望することが不得意な国民である、また、他者を決定的に憎むことが不得意な、民族的にそういうことを受け入れない国民である、と。
 絶望する才能にたけていない、それから何かを憎悪したり、痛烈に反省したりということも得意ではない。
 これはもちろん良い面もあります。しかし、自己批判の深さを持てないということは、アジアのほかの国々の人たちから見ると、自分に対する本物の反省のないということになるでしょう。これは、現実から目を背けていることと表裏の関係と言えます。
 日本もひっくるめて、世界はギリギリのところまで来ています。現実を直視することが、不得手な私たち日本人は、敗戦直前のときのように、根源的なことから目を背けていいのかといま、改めて自省せざるをえないのです。*

 この五木寛之さんの言われる、現実を正視とか、根源的なことから目を背けるなということは、聖書の大切な主張とも重なります。それを聖書では、“悔い改め”という言葉で表すのです。悔い改めとは堅苦しい言葉です。しかし、日常罪を悔い改めるとか、改悛の情が濃厚などと良く使われてもいます。民事、刑事の社会的罪を犯した後、改悛し、前非を悔いて新しく立ち直ろうとする意志として、新聞の談話などによく出てきます。この場合の罪は、社会的な罪、法律に違反したための罪であるが、キリスト今日でいう罪は、そうした社会的な罪だけでなく、神に背く罪、誰もが心の中にもつ罪のことです。したがって、悔い改めとは自己の心の中の罪を認め、それを悔いて心を神に向きかえ、キリストによる罪の許しにあずかることを指します。
 バプテスマのヨハネという人物は、神の国に入る条件として、悔い改めを要求しました。イエス・キリストが宣教を始めたときの、最初の声は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」であり、また、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということでした。ここでイエスキリストは人は、この世的、自己中心な態度を捨てて、全生活を、生きておられる神に向き変えることを訴えたのです。
 「私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とも言われました。クリスチャンにとって、悔い改めは、世俗の罪の世に向かっている自分の心を、神の恵みに世界に向きかえる回心、心を振り返る、というその言葉と同じ意味で、それは人生への積極的な生き方へとつながっていると言うのです。これこそが、五木さんの言おうとしておられる、自分に対する本物の反省であり、真の意味で、深く自己批判することではないでしょうか。日本人が痛烈に自己絶望し、自己批判することがないというとき、それは神の前の自分の罪の自覚の乏しさを意味するのではないでしょうか。もちろん、日本人だけでなく、キリスト教国と呼ばれている国々の全ての人が、悔い改めなければなりません。
 「時は満ち、神の時は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」 


4−第1話
 いつもラジオ放送を通して、また、シリーズとして再編集致しましたカセットテープで“希望のこえ”をご愛聴いただき、誠にありがとうございます。
 さて、今回は、1999年11月から放送されましたものをお届けします。一千年代から二千年代へ、20世紀から21世紀へといやおうなしに流されていく時の中で、今私たち一人ひとりが、家族が、あるいは地域社会が抱える問題にどう対処していけばよいのでしょうか?この際改めて正面から向き合ってそれらの問題点を見つめ直してみてはいかがでしょうか。 題して『世紀末、今を見つめる』
 お話ししていただきますのは、いつもの西大寺キリスト教会赤江弘之牧師です。

          五木寛之著『他力』 61 本当の心のバブルが、いま訪れて より
 最近の免疫論の中から導き出された、〈地球免疫論〉という考え方があります。
 この理論は、地球を一個の生命体と考えて、そこに生存する草木や動物や人間を、地球が〈自己〉か〈非自己〉かを判断し、自己の一部と見なせば〈寛容〉し、〈非自己〉の場合は拒絶的に排除する、そういう考え方です。
 その観点からみれば、最近の天変地異の激増や新種の伝染病の発生は、いままで人間という存在を寛容してきた地球が、どうも人間は異分子らしいと認識して、排除し始めているのではないか。つまり、人間を地球に害をなす他者=非自己だと地球が認識したために、人間への拒絶反応が起こっているのではないか、というふうに考えられるわけです。
 この考え方は、恐ろしい予感をはらんでいます。
「やがて何かが起こるのではないか、その何かが近づきつつあるのではないか」という恐怖感によって、ハルマゲドン(地球最終戦争)や末世という言葉が、常識ある人や科学者の心さえもふっと誘うような瞬間がある、ということが考えられます。
 一個の生命体としての地球が免疫機能を発揮して、それまで寛容してきた人間を拒絶し始めた。それがハルマゲドンである、と考えると納得がいくわけです。
 科学の最先端にいる人は、たぶん無意識のうちにそうした恐怖を強く感じているのでしょう。ですから、村井秀夫のような科学者が、オウム真理教のようなカルト教団にいとも簡単に入信してしまったのではないでしょうか。
 科学者だけではありません。阪神・淡路大震災の被災者の間では、復旧もままならず、
「明日はどうなるかわからない」という無常感が深く広がったそうです。
 そうした人たちだけでなく、日本には、20年、30年の長期ローンを抱えている人が大勢いて、中には親子2代にわたるローンの人もいるでしょう。これら、長期ローンを抱えた人の中にも、最終戦争でもハルマゲドンでもいい、一度ローンがご破算にならないかという無意識の願望を持つ瞬間がないとは言い切れない。
 私たちはいま、精神的な確かな拠り所を見失って、心の拠り所がないまま、泡のように浮遊している状態と言っていいようです。本当の心のバブルは、いま訪れているのではないかと思うのです。*

 良い文章ですね。さすがですね、五木さん。本当の心の拠り所はどこにあるのでしょう。聖書を読みましょう。
「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ。そうすれば主はあなたの道を真っすぐにされる。」
「自分を知恵のあるものと思うな。主をおそれて、悪から離れよ。それはあなたの体を健康にし、あなたの骨に元気をつける。」この聖書の言葉の中で、人の役割について3つの条件、神の役割の一つの約束があります。
 3つの条件、それは心を尽くして主により頼め、信頼とは対象に対して、疑いを持たないで安んじていることである。主に信頼せよ。自分の感じや知恵や経験に頼るな。主なる神に信頼せよ。安んぜよ。主の誠実さに疑いを抱くな。人は宇宙の創造者、世界と全ての人類の主権者です。
 2番目に自分の悟りに頼るな。これは議論するなというのではなく、決定の基礎を自分の知識におくなと言っているのです。基礎を神に置け、人間は作られた物に過ぎず、罪深く、弱く、はかないものだというのです。そうじゃないですか?
 3つめにあなたの行くところ、どこにおいても主を認めよ。これは全てのことに神を認めよと言うことです。「食べるにも、飲むにも何をするにもただ神の栄光を現すためにしなさい」という聖書の言葉があります。全てのことの中に神を迎えよ。隠し事をするな。
 これらの3つの条件を満たすならば、神様はあなたの道を真っすぐにされる。という約束を与えられました。単純な条件を満たしたら、あとは神の忠実さに疑いをはさまず、まかせよと言うのです。経済界のバブルの後遺症から立ち上がるだけでなく、心の拠り所を天地を造られた神、ひとり子のイエス・キリストの命と引き換えに愛して下さる神。あなたの信頼をおいて、心のバブルの後遺症に打ち勝ちましょう。

4−第2話

          五木寛之著『他力』この国が平和であるという幻想を捨てる より
私たちを取り巻く政治・経済・教育・宗教に至るまで、いま、時代はいよいよ混迷を深めています。阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、底知れぬ政治的混乱、バブル崩壊からいまだに立ち直ることのできない経済、さらには神戸では中学生による小学生殺傷事件と、世紀末を象徴するような出来事が続発して、私たちの心を暗澹たる思いにさせています。
 そういう時代に登場して人々の心をとらえたのが、プラス思考を訴える『脳内革命』という本でした。私はこの本を批判するつもりはありません。しかし、大事な核心に触れず、入り口で止まっている部分があるように思います。どうしても、プラス思考ができないギリギリの極限状態で、プラス思考で考えようと必死にがんばってもできない人たちをどうするか。
 例えば、酒鬼薔薇という少年を生み出してしまった親は、いったいどう考えればいいのか。彼を自分のクラスから出してしまった教師は、その問題をはたしてプラス思考で受けとめることができるのか。
 また、子供から殴られて殴られて、カウンセラーから「とにかく耐えて我慢しろ」と言われ、涙を流しながらそれに耐えていた父親が結局、息子を殺してしまうという事件がありました。この父親に対してプラス思考で考えろと言えるでしょうか。
 現実にプラス思考だけで救われない世界があります。プラス思考と対をなして、大きなマイナス思考という重要な世界がある。そのマイナス思考のどん底の中からしか本当のプラス思考はつかめないというのが、じつは私の考え方なのです。
 暗黒のなかで、光を探し求めている人間こそが、一筋の光を見て心が震えるほどの感動を覚えることができるのです。人工照明でキラキラ輝いている世界に一年中いる人が光を見たところで、別に驚きもしなければ感動もしないでしょう。
 最近ようやく、暗黒の中にいるという自覚が私たちの中に少しずつ芽生え始めて来ました。ですから自分を照らして、世間を照らし、行く道を照らしてくれる光がいま、欲しいのです。しかし、戦後50年の峠を越したこの数年の間、日本人は焼け跡の中をさまよう迷子のように右往左往しつつ、生きる支えとなる杖や言葉、光を見いだせないままに時代は推移して来ました。
 そして、ますます深まるばかりのこの混迷から抜け出すためには、まずいまのこの国が平和であるという幻想を捨てなければなりなせん。*

 五木さんはこのように、一筋の光がいまほしいと言われます。旧約聖書の中に哀歌という箇所が有ります。悲しみの歌です。作者は滅び行く国の苦難のただ中で歌います。
 19節「私の悩みとさすらいの思い出はにがよもぎと苦みだけ、私の魂はただこれを思い出しては沈む。私はこれを思い返す。それゆえ私は待ち望む。」
 ここで、黒雲の間から、一重の光が差し込むのです。
 21節「私はこれを思い返す。それゆえ私は待ち望む。それまで、主にさばかれ、打たれた悩みを語り続けていた作者が、突如告白した信仰の望みです。それまでの来る死に、嘆きの訴えの中から、望みが沸いてくるはずも有りません。彼は突然望みを見いだしたのです。それは主なる神の介入によることです。人の目は地上のことにのみ注がれていますが、主は上から介入し、人の目を天の主に向けられます。その時、彼は、信仰と希望に生きることができるようになるのです。このマイナス思考のどん底の中から本当のプラス思考が生まれてくるというのです。
 22節「私たちが滅びうせなかったのは主の恵みによる。主の哀れみは尽きないからだ。それは、朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い、主は慈しみ深い。主を待ち望む者、主を求める魂に、主の救いを黙って待つのは良い。人が若い時にくびきを負うのは良い。それをおわされたなら、一人黙ってすわっているが良い。口を塵に付けよ、もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者にほおを与え、十分そしりを受けよ。主はいつまでも見離してはおられない。たとえ悩みを受けても、主はその豊かな恵みによってあわれんで下さる。主は人の子らをただ苦しめ、悩まそうとは思っておられない。地上の全ての捕らわれ人を足の下に踏みにじり、人の権利をいと高き方の前で曲げ、人がそのさばきを歪めることを主は見ておられないだろうか。主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。災いも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか、生きている人間はなぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」
 天に目を向ける者は地上の行き詰まりにいらだったり、絶望のまま終わりません。天と地の全ての者を支配しておられる主を信じて、黙って主の救いを待つことができます。災いも幸いも主の御手から出ることを信じられず、自分のことしか考えられない不信仰な罪人が、おもいがけぬ災いにあうときつぶやくのです。現実の私たちはこの不信仰な罪人であることを認め、悔い改めて主を信じましょう。その時、苦しみに涙を流すことがあっても、それは主が天から見下ろして顧みて下さる時までだと告白出来るようになるのです。


4−第3話
五木寛之著『他力』63 当てにできるものは、どこにもない より
 まもなく、私たちは新しい世紀を迎えます。
 この世紀末を欧米では、ミリネールと呼ぶそうです。ただの世紀末ではありません。一千年、二千年、さらに三千年へ向けての千年単位の「大世紀末」です。その世紀の活断層が私たちの目の前に広がっています。現在、私たちの目の前で起きているさまざまなこと、それはほんの序章にすぎないのかもしれません。
 特に日本人は戦後五十年経て、これまでの時代が精神的支柱のない経済的成長、経済的繁栄だったことに気づき始めています。五十年もの間、平和で安定して時代を生きてきたため、バブル経済の崩壊後、従来の経済成長という価値観に代わる、新しい価値観を見出せずにいるのです。そして、私たちは何もできず、ただ呆然と立ちすくんでいるように
思われます。
 その表れなのでしょうが、政治はますます混迷の度を深めていますし、経済はバブル崩壊後、依然として活力を取り戻せないままです。さらに、宗教はオウム真理教事件に代表されるように、求心力を失っている。もはや、政治、経済、さらに教育や宗教にいたるまで、信じることができない。いわば、“不信の時代〃です。
 それは、日常生活を振り返ってみてもわかることでしょう。絶対につぶれないと言われていた銀行があっという間につぶれ、もはや預貯金を当てにして老後の設計をするわけにはいかない。土地や株式、貴金属さえ頼りにならず、社会的地位や自分が属している企業さえ、必ずしも安全ではありません。
 一瞬のうちに多くの命をも奪ってしまうん阪神・淡路大震災以上の震災や災害が起こったら、と考えると、本当に信頼し、当てにできるものなど、どこにもないと言っても差し支えないでしょう。
 戦後、多くの日本人は、自分の身を国や体制に依存してきました。定年退職するまで企業に依存し、病気になれば病院に依存し、子供の教育は学校に依存してきた。そして、管理主義、偏差値重視の教育は、依存型人間を大量に生産してきました。
 そうすることで、日本人は世界で比類のない経済発展を遂げ、豊かさを手にいれてきた。しかし、わたしはその豊かさと引き換えに、日本人は大切なものを置き去りにしてきたような気がしてなりません。そのツケが“不信の時代”の到来ではないでしょうか。*

 五木氏の説にある以上に今は、不信の時代が、ますます度合いが進んできたと言えるでしょう。二千年を迎えた今ますます時代は、闇を濃くしています。そうした中で、神の言葉である聖書に今こそ耳を傾けてほしいと願います。
旧約聖書 イザヤ書四十章二十七節から三十一節
 「ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは私の神に見過ごしにされている」と。あなたは知らないのか、聞いていないのか、主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることが出来る。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
 鷲が力強く翼をかって、天高く舞い上がって行く様子が、目に浮かぶみことばです。私たちは、果てしなく落ちて行く歩みではなく、一旦は地に落ちたとしても、どん底から本来の力をいただき、顔をしっかりと神様に向けて、天に舞い上がって行く人生でありたいものです。ユダヤ人の歴史において、予言者イザヤの時代は、悲惨でした。他国の脅威にさらされ、国内の治安や道徳は乱れ、信仰は忘れ去られ、退廃と自暴自棄の嵐の中で、壊滅寸前の状況にありました。しかし、だからこそ主なる神を仰げというのです。全てに絶望している今こそ不信の時代のただ中で、主なる神にのみに期待し、待ち望むようにと。私たちは、いつ、どこからでも祝福を受けられます。そのカギは、どこにへたりこんでいようとも自在に引き上げることのお出来になる方に向かって、祈り求めるかどうかにあるのです。しかし、主を求める者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

4 −第4話

          五木寛之著『他力』 71 人はみな泣きながら生まれてくる より
 「人生に希望というものは本当にあるのだろうか」
 この問題は、私が若いときからずっとひそかに考えてきた答えの出ないテーマです。人間はふだん、こういう問題について、あれこれ思い悩むことはあまりありません。しかし何かの理由で、ひどく落ち込んでしまったときなどに、ふと頭をもたげてきます。
 こうしたことを考えて、何となく気持ちが沈んできたりするときに、たとえば若い人なら、クルマを飛ばしたり、カラオケで歌を歌ったりして、気を紛らわせようとするでしょう。問題と正面から向き合うことを避け、目をつぶってやりすごそうとするわけです。
 しかし、こういう問題は、いつかは真剣に問いかけなければいけない瞬間がやってきます。それは早ければ早いほうがよい。若いころからくり返し自問自答しながら生きたほうが、歳をとってから気づくよりもはるかに幸せなのではないか。
 なぜそう考えるかというと、「人生にレディメイドの希望はない」というのが、私の結論だからです。私がいつも引きあいに出す話ですが、シェイクスピアの有名な戯曲である『リア王』の登場人物の台詞の中に、「人はみな泣きながら生まれてくるのだ」という印象的な言葉があります。ここには、三つの否定できない真理が含まれています。
 第一に、人は自分で自分の生まれ方を決めることができないということです。どの時代にどの国の、誰の家に生まれるか、どの民族に、どのような職業の家に生まれてくるのか、体つきや才能、個性、遺伝子も自分では決定できない。人生の第一歩からして、自分の意志を越えた、何らかの力で、本人の努力と関係なく決められてしまうのです。
 第二に、人間の一生は日々、死へ向かって進んでいく旅である、ということです。人間にとって未来には死以外の選択肢はありません。人間は悲しいかな死へ向かって毎日一歩ずつ近づいていく、はかない存在にすぎない。
 最後に、人生には期限があるということです。百歳を越えて生きることは至難のわざです。二百歳まで生きられる人はいません。どんなにお金があって、どんなに権力を持っていても、不老不死は不可能です。
 これら三つのことがまざまざと目に見えるように感じたとき、人間はどうしようもなく、人生のはかなさや、やるせなさを感じ、わけもなく深い思いの淵に沈んでしまうのです。それを明治のころの人々は〈暗愁〉という言葉で呼びました。*

 暗愁というのは、私が言いますと暗く愁えると書きます。そして人は皆泣きながら生まれてくる。人生に絶望をもたらす三つの真理はよくわかります。しかし、ある牧師の短いメッセージも聞いて欲しいのです。聖書には希望が約束されているといいます。愛娘を白血病で天に送った友人の牧師が、その子に“永遠(とわ)”と言う名前をつけました。まさかその子がこのような生涯を送ろうとは思いもせず、彼が永遠の世界を人々に伝えようと仕事を辞め、神学校にいく献身の表明として、つけたわが子の名前でした。そしていよいよ神学校を卒業し、開拓伝道を始める矢先の娘の発病でした。献身の表明で、“永遠”(とわ)と名づけられた彼女は、父親が献身者として公の働きに踏み出したとき、アブラハムによって、イサクが捧げられたように、永遠の神の身許に召されてしまったのです。その葬儀は感動的でした。同じ病で悩む白血病の親の会の方々や、病院でお世話になった看護婦さんたちが、大勢集うなか、天国で再会する希望、永遠の命の希望が明確に、力強く語られました。彼らは天において再び、誰ひとり欠けることのない家族になるでしょう。永遠の命は、確かに存在するのです。ここで聖書のみことばを読みましょう。
 旧約聖書エレミヤ書三十一節十節から十四節 
  「諸国の民よ。主のことばを聞け、遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。主はヤコブを贖い、ヤコブより強いものの手から、これを買い戻されたからだ。そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。−主の御告げ。−」
 人は皆泣きながら生まれてくる。その絶望の人生の中で聖書はいいます。その時若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。私は彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。


4−第5話

        五木寛之『他力』 72「わがはからいにあらず」というつぶやき より
 あなたの信条は何ですか。と尋ねられたりしたとき、心の底にふっと浮かんでくる言葉は「わがはからいにあらず」という低いつぶやきです。
 私はこれまで、できることなら病院へはなるたけ行かない、と言う主義で暮らしてきました。目に見えない大きな力に任せよう、と思って生きてきたからです。健康診断にしても、昭和27年に大学に入るとき診断書を出すことになり、いやいやながら、レントゲンを撮ったのがたった一度きりの被爆体験です。いまでも50歳を過ぎてからの成人病というのは、結局、老いの結果であって、老眼と同じなのではないかと考えています。
 ただ、欠かさずに毎晩、ベッドの中で行う我流のエクササイズがひとつだけあります。 明日の朝、目覚めなかったとして、それでいいのか、朝起きて、今日一日しか生きられないとしても、それでいいのか。この問いかけを、ここ20年近く、毎晩、就寝前にくり返し自分に問いかけてきました。これをくり返し続けていますと、なんとなく生と死が幻想のような気分になってきます。
 私の母親は敗戦の年に42歳で外地で死にました。父親は50代なかばで世を去っています。兄弟も3人亡くしていますので、人よりは少し多く死を日常的に見てきたと言えるでしょう。ですから、人生は大きな流れに任せたいと、つとめてそう自分にいい聞かせてきたのでした。*

このあと、彼の身の上話が続くんですね。それはともかく、実は私も五木さんと同じような思いで、毎日の寝起きをしています。ここで、旧約聖書の 伝道の書12章1節から6節をご紹介したいのです。
 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。
 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉挽き女たちは少なくなって仕事を辞め、窓からながめている女の目は暗くなる。
 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。
 こうしてついに銀の紐は切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。」
 この箇所は老いの哀しみ、衰えの姿をたとえで描写しているところです。必ず訪れる人間の死を描写したところです。今までどんなにみずみずしく生き、生き生きとしていた命も死んだらそれまでで、二度と修復は出来ません。末期ガンの患者のケアに携わっておられる、クリスチャンの柏木哲男先生が、その仕事のさなかで書かれた、
 「生の延長線上に死があるのではなくて、私たちは日々死を背負って生きている。」
と述べられたことが心に響いてきます。確かに人生八十年の時代とは言っても、個人的には誰も八十年の寿命を保証されている訳ではありません。ある日突然、死が宣告されたとしても、揺るがない人生観が私たちには必要です。生と死は裏と表、生きているということは、死に刻々近づいている証しでもあるのです。生と死の一線を越えた人生観をいただいて、死の備えある地上の生涯を、神の愛を信じる、復活の永遠の命を信じる信仰のうちに全うしたいものです。
4−第6話
           五木寛之著『他力』 78 無差別救済と無差別殺人の関係 より
 親鸞の考えの根底には、人を百人殺せと言われてもひとりも殺せない場合もあれば、人を殺すなと言われても殺さざるを得ない状況もある。人間というものはなかなか邪悪と善良に分けられるものではない、という人間への認識があります。
 私が『蓮如』を書きながら、あるいは『歎異抄』を読みながら、いつも考えていることはたったひとつ、「いまのこの時代にこういう親鸞と蓮如が生きていたなら、どういう発言をするだろうか」ということでした。
 たとえば、関東の門徒が聖人を訪ねてきて、いろいろ質問したように、いま親鸞にたずねる人がいるとします。「御聖人、麻原彰晃という人物もまた救われるのでしょうか」とか、「酒鬼薔薇という少年の事件を、どう考えればいいでしょうか」と。そう問われた場合、どう答えられたであろうか。親鸞聖人は新聞社のコメントには答えなかったかもしれない。しかし、NHK教育テレビか衛星放送なら出られただろう。しかし、蓮如さんならば昼のワイドショーにだって出られたかもしれない。
 親鸞を考え、蓮如を考えるということは、おふたりがいまおられたならば、そこで何を
言われたかということに帰一するのです。私も質問したいことは山ほどあります。
 オウム真理教に対する世論の非難の最たるものは、サリンによる無差別大量殺人でした。アウシュビッツでナチスはユダヤ人を選別して殺しました。これは差別殺人です。もちろん、どちらも許されないことです。しかし、救済の論理には差別的な救済と無差別救済があり、真宗の救済は悪人成仏ですから、無差別救済なのです。この無差別救済と無差別殺人は、ひょっとするときわどいところで表裏一体なのではないか。
 もし蓮如が生きていたなら、オウム真理教と命懸けで法論を挑みながら戦ったのではないかと思います。
 蓮如は親鸞が残した信仰を、子供だましのような方法で民衆をまどわす他の寺のお坊さんに対して、八つ裂きにしても飽き足りないというほどの激しい言葉で批判した人です。
親鸞の教えを歪めて人々を惑わせるものは断じて許せない、と。ましてや麻原は、となると蓮如は絶対に許さなかったのではないか。だが、〈悪人正機〉の立場からすると、そんな麻原もなお救われるか、という問題もあるわけです。
 ともあれ、蓮如が蘇っていまの世の中を見たとすれば、痛恨の思いをするのではないかと思います。*

 キリスト教をユダヤ人から全世界に広めたのは、パウロという人です。彼はキリスト教の迫害者で、多くのクリスチャンを殺した人でした。パウロは次のように言っています。
 「私は以前は神を汚す者、迫害する者、暴力を振るうものでした。それでも信じていないときに知らないでしたことなので、哀れみを受けたのです。私たちの主のこの恵みはキリストイエスにある信仰と愛と共に、ますます溢れるようになりました。キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られたという言葉は真でありそのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人の頭です。しかし、そのような私が哀れみを受けたのは、イエス・キリストが今後彼を信じて、永遠の命を得ようとしている人々の見本にしようとまず私に対して、この上ない寛容を示して下さったからです。」
 親鸞の師、法然の教えは、仏教の教義にしても社会に対しても革命的なものでした。有名な話ですが法然は、悪人救済を標榜して、「善に名を持て往生を説く、言わんや悪人をや」と申しました。それに対し親鸞は、法然のこの教えを受け継ぎつつも、悪人救済から悪人正機、悪人こそ宗教救済の選民なりと、大胆な展開を試みました。歎異抄を見ると「善に名を持て往生を説くいわんや悪人をや。他力を頼みたてまつる悪人、もども往生の勝因なり」とあります。悪人正機は悪いことをしたら救われる、というように、短絡に解釈すべきでないことは言うまでもありません。
 パウロが聖書の中で、「それではどうなのか、律法のもとにではなく、恵みの元にあるからといって、私たちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではないと言っていることと、思い合わせて、興味深いものがあります。
 ここで悪人とは、良き事を成そうとしても出来ない、前世の罪業の深さに気づいた人のことです。一方善人とは、自分が善事ができると、本当はできないのに誇り高ぶっている人を指しているのでしょう。こうした自己の捕らえ方は、信仰の土台の本質的な違いこそあれ、「私の内に、すなわち私の肉の内に、善なるものが宿っていないことを私は知っている。なぜなら、善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないのである」と嘆く、パウロの告白に驚くほど似ているのです。とすれば法然、親鸞によれば、麻原彰晃もおのが罪業を認めて、阿弥陀仏に帰依し、念仏を唱えれば救われることになり、もちろんパウロも麻原被告が自分の罪を悔い改め、イエスキリストの十字架の身代わりの死を自分のためと信じるなら、救われるというのです。しかしその時、麻原被告はどんなに自分の罪を悲しむでしょうか? それにしても、今の彼の態度は救いようもありません。