鬼ノ城は古代吉備路の中心地を見下ろす山城です。
約30haの山頂部にはいくつかの池があり、敵の侵入が予想される周囲約3kmを城壁で囲みます。
鬼ノ城の石垣の上からの眺めです。
遠くに吉備の中山が見えます。 また、白村江の戦いで負けたため、唐と新羅の連合軍が攻めてくるのに備えて作った七世紀の朝鮮式山城とも言われています。そのころの硯が倉庫跡付近で発見されたそうです。 かなり広く、場所によっては高い石垣を築いて今でも崩れていません。 忘れ去られた同様の山城は最近多く見つかり、北九州から瀬戸内をはさんで奈良まで続きます。 鬼ノ城には東西南北四つの門の遺跡があります。 |
発掘現場です。石垣は土に埋まっています。
城壁と水門です。
今でも水が滴り落ちています。
遺跡全体の調査が完了し、往時の姿を復元してもらいたいものです。
似たような遺跡として奈良の高安城、滋賀の三尾城、兵庫の城山城、香川の城山城と屋島、銅鐸が出土した岡山の大廻小廻山、広島の茨城と常城、山口の岩城山、愛媛の永納山、福岡の御所ヶ谷・鹿毛馬城・大野城・怡土城・雷山城・杷木城・高良山城・女山城、長崎対馬の金田城、佐賀の帯隅山城・おつぼ山城・基肄城、熊本の鞠智城、その他長門城、三野城、稲積城等未発見の城があります。
近年新発見が続く新しい古代山城ですが、いつ作られたのかわかりません。古墳を削って石を積んだ等、石積や版築の下から遺物が出れば築城年代推定が容易ですが、石垣の下は発掘しません。また、補修したり倉庫にしたり神社仏閣になったりと後世利用した際の遺物も出てきます。築城場所の標高、地形、池の有無、工法の差などからいくつかのグループに分けられます。
インターネットで検索すると紹介されている例もありますので調べてみてください。
私見では標高が低く、戦術上最適地でなく、石垣が目立たない場合は神武東征で服従した国ツ神の築城で、後に征服者が立派に補修して税倉庫等に流用し新支配者の力を示し、支配者交替を喧伝したのでしょう。もしくは、遺棄して忘れ去ったか。
銅鐸を旧勢力の象徴とすると、それを埋蔵したというのは攻められて敗れたから掘り出せなかったわけだし、突然の敵襲時に逃げ込む施設だから戦術上のポイントではなく生活場所近くとなり、目立つ石垣は土で塗り固めるんじゃないかな。
てきとーなことを考えつきます。