山陽新聞を斬る!

ここでは岡山の地方紙『山陽新聞』から、おかしな記事を取り上げ批判します。


9/16 27面 ちまた 日本の残虐行為後世に伝えよう 長尾洋子 68 主婦(総社市)
9/17 27面 同上 戦争を反省し平和憲法を守る 原田泰治 69 団体職員(倉敷市)
9/21 20面 同上 首相靖国参拝あまりに勝手 三宅みどり 66 主婦(倉敷市)

新聞には読者欄が付き物である。
特に朝日新聞の「声」という読者欄は、己がイデオロギーに合った投稿ばかりを採用する素晴らしく「公正中立」な読者欄として名高いが、
地方紙のそれも朝日に負けず劣らず素晴らしい。
今回はごく短期間に集中投下されたゴミクズ投稿のいくつかを、取り上げてみよう。

『五日付本欄の「歴史観 の教育法各国の自由で は」のご意見には同感。 ただし、では、日本国の 犯した侵略および残虐行 為の事実は日本国民に伝 えられているでしょうか。』
(9/16 日本の残虐行為後世に伝えよう)

タイトルからして馬鹿げているが、内容はもっと馬鹿げている。
このオバサンは、もうすぐ70になろうかという年にもなって、現物の教科書すら見たことがないのか。
歴史教科書がどれほど「残虐行為の事実」で溢れ返っているか、今さら言うまでもないことだ。
それは日本国の解体というイデオロギーに基づいて、嘘すら平然と載せている。

『私が二歳の時、父は日 中戦争の従軍カメラマン として赴き、帰国後、日 本人のした残虐行為を話 していました。その時の 記憶が五十歳代になっ て、ふとよみがえり、日 本が領土拡大という欲 望の下にアジア諸国に 対して行った行為を調べるるきっかけとなったのです。』

何を調べたのかは想像がつくが、このオバサンは確信的左翼に間違いない。
お前たち左翼がでっち上げた嘘の歴史で教育された結果、
子供の心は荒廃し切ってしまったのだから、まことに教育の力は大きなものである。
だからこそ、こういう馬鹿どもの撒き散らすプロパガンダを、徹底的に叩き潰す必要があるのだ。

『現在六十四、五歳以下の方々は、 この戦前の狂信的国粋主義の教育の恐ろしさを知 る由もありませんが、善きにつけあしきにつけ教 育の力は大きなものです。過去に犯した日本国の 罪を、正直に教育の場で後世に伝えていくこと が、関係国との交流正常化に、また人間を悪魔と 化す戦争をなくする道にもつながるのではないで しょうか。』

冗談も休み休みに言え。
「過去に犯した日本国の罪を、正直に教育の場で後世に伝えていく」教育を施された結果、
「おじいちゃんは人殺し」「サイテー。死ねよジジイ」「日本人に生まれて恥ずかしく思う」などという感想を書くようになった子供たちが、
近隣諸国との友好関係を築けると本気で思っているのか。
こんな子供たちばかりになってしまったら、外交以前に日本という国がまず無くなるだろう。
もちろん、このオバサンを始めとした左翼は、それこそが望みなのだから、
心にも無い美辞麗句を並べ立てているだけなのだが。

『ポツダム宣言も無視 し、本土決戦、一億総玉 砕を叫んだ指導者たちの 責任は重大である。その A級戦犯を裁いた極東国 際軍事裁判は正しかっ た。戦死した英霊をまつ る靖国神社に、A級戦犯 を合祀したのは大きな間 違いであった。中国など が非難するのは当然であ る。』
(9/17 戦争を反省し平和憲法を守る)

まさか投稿者間に連絡網があるわけではなかろうが、前日のオバサンの投稿を援護・補完するような投稿が続くのは、
もちろん、山陽新聞の馬鹿どもの仕業だろう。
それにしても、このオッサンの投稿もかなりキている。
東京裁判が正しかったなど、堂々と言えるのは左翼以外にあり得ない。
東京裁判のいかがわしさは、当時唯一の法律専門家として加わっていたパール判事自らが、国際法違反だと訴え、
その後、国際法学上では法の精神を踏みにじる違法なものであったとするのが通説となったほどだ。
そのような違法な裁判に基づいた戦犯分類など、正当性はゼロである。
そして、A級戦犯合祀は当時の国民の合意であり、首相の靖国参拝も行われている。
それを中国が非難し始めたのは、ごく最近のことだ。
この程度のことは、歴史を正しく学べばすぐに分かるはずのことだが、
左翼お得意の「歴史を正しく学ぶ」ことも、自分たちに都合の悪いことには適用されないらしい。

『最近、本欄に「首相の 靖国参拝なぜ悪い」との 意見がたびたび載って いますが、私は反論しま す。最大の理由は、中国 や韓国など近隣国と仲良 くしてほしいからです。』
(9/21 首相靖国参拝あまりに勝手)

そして最後を飾るのは、またもや60台のオバサンである。
(これは偶然だろうか。極め付けの左翼投稿者が揃って60台というのは)
のっけから、仲良くしたいから参拝ヤメロという次元の低い言動で呆れる。

『当時、軍国主義のけん引車 的な役割を果たしたのが 靖国神社なのです。いわ ば靖国神社は「過ちの象 徴」「悲劇の象徴」とも 言えるものです。』

こいつも確信的左翼だろう。左翼が口癖のように言う「軍国主義の象徴、靖国神社」というフレーズが飛び出す。
戦死した人間が祀られることのどこがおかしいのか。ではアーリントン墓地は軍国主義の牽引車か。
日本人はカミを祀る民族だから、神社に祀っているだけだ。
その日本人の風習をことさらに軍国主義だとけなす精神が信じられない。

『首相は英霊に感謝のま ことをささげると言われ ますが、あまりにも手前 勝手です。かつて中国・ 重慶で、日本軍が大規模 な無差別爆撃をした事 実。植民地支配など中国 や韓国に多大な被害を与 えた歴史的事実を忘れて はなりません。』

我々も左翼がばら撒いた「歴史的嘘」を忘れてはならないだろう。
自分たちのプロパガンダのために、嘘を平気で垂れ流す行為こそ、「あまりにも手前勝手」ではないか。

『中国には多額の援助をしているの に、いつまでたっても友好関係になれないのは、 取りも直さず首相が靖国参拝をやめず、被害国で ある中国、韓国の意をくまないからではないでし ょうか。一国のリーダーとして、アメリカに追随 ばかりしないで、中国や韓国をはじめとするアジ アと仲良くする手段をとってもらいたいものです。』

こいつも靖国を巡る戦後の歴史を調べもせずに、嘘を平然と並べ立てる。
第一、60台の人間ならリアルタイムで当時を生きていたのだから、知らないはずが無い。
にも拘らず、靖国を参拝するから中国・韓国と仲良くなれないなどと嘘を言うとは、
イデオロギーに染まった左翼の面の皮の厚さは、南極の氷よりもぶ厚いらしい。

そして一週間の間に、狂ったように左翼意見ばかりを読者欄に採用し続けた山陽新聞社は、
彼らに勝る面の皮の持ち主ということか。
このような「マスゴミ」はさっさと退場してもらいたいものだ。


8/7 4面 焦点評論 アジア杯サッカー「反日」噴出 共同通信編集委員 岡田充

先ほど行われたサッカー、アジア・カップは、日本の連覇というまことに慶賀すべき結果で終わった。
だが、大会期間中、ある事実が日本の、いや世界の人たちの眉をしかめさせた。
それは中国人サポーターの異常な行動である。
彼らは日本チーム及び日本人サポーターに対し、罵倒を始め暴虐の限りを尽くした。
日韓ワールドカップにおいて、韓国人サポーターがこれと等しい行為を働いたが、
このときマスコミは事実を隠蔽し、友好的な日韓関係が築かれたと捏造した。
それがある程度成功したのは、韓国人サポーターの暴虐が、直接日本ではなく、対戦国のドイツやアメリカに向けられたものであったからだが、
今回は日本に直接向けられたものだけに、隠蔽は諦めたようだ。
だが、だからといって事実を正直に伝えるようなマスコミではない。
7日の焦点評論では、驚くべきデマ・プロパガンダが繰り広げられていた。

『中国各地で行われているサッカーのアジア・カップで、中国人 観客の「反日意識」の噴出が伝えられ、ただでさえ暑いことしの夏を一層暑苦しくしている…(中略)…中国人の反日感情は根 が深い。昨年も遺棄毒ガス兵器による住民死傷事件や、日本人の集団買春事件が起きると、インタ ーネットに反日主張が掲載された。』

またもやお決まりのプロパガンダである。
日本軍の「遺棄毒ガス兵器」など存在しない。すべては中国共産党軍に引き渡され、彼らが自分で各地にばら撒いたのである。
当時は蒋介石の国民党軍と覇権を争い熾烈な戦いを繰り広げており、中共軍は日本軍の所持していた毒ガス弾を、
その戦いに使おうと巻き上げたのである。
今、中国各地に眠っている遺棄毒ガス兵器は、すべて中共軍の不始末である。

『今回「反日意識」が噴出した中国側の事情につ いて日本では、一九九〇年代からの反日愛国主義 教育▽経済格差への不満のはけ口を日本に向けた ▽日中戦争で旧日本軍の大爆撃を受けた地方の特 殊性−を指摘する論調が目立つ。 それぞれ根拠のある指摘だと思う。だが、その 背景に日本側の責任に触れたものは少ない。中国 側は「一部日本メディアによる誇張」とたしなめ たが、日中双方に蓄積された「反日」「嫌中」と いう感情的対立は無視できない背景だ。』

よくもこれだけ嘘っぱちな分析ができるものである。
「背景に日本側の責任」などこれっぽっちもない。
ないものは触れられない。それを岡田とかいう共同通信編集委員は、
責任に触れていないのはけしからんと言うのである。
さらに、「中国側は「一部日本メディアによる誇張」とたしなめた」という言い方は、
前述した3点の指摘を誇張だという中国側の駄法螺を、全くその通りだと阿諛追従しているのである。
そして最大の出鱈目は、「日中双方に蓄積された「反日」「嫌中」という感情的対立」という文言である。

『一九九〇年代後半、中国は急成長し経済大国へ の道を突き進む。一方の経済大国、日本はバブル 崩壊から立ち直れず、自信を喪失。途上国の中国 が「世界の工場」「巨大市場」として実力をつける と、それが「脅威」に映る。自信を失った日本人の 怨嗟が中国に向き、「一党独裁を維持し人権、民 主主義のない」遅れた国″への優越感と重なり、 倒錯した中国観や嫌中意識が目立つ。書店には中 国の脅威を強調する本が並び「暴支膺懲」(中国 を懲らしめよ)など、日中戦争時代のスローガン を見出しにとる雑誌すら現れた。』

岡田氏は共同通信ではなく、人民日報の編集委員ではなかろうか。
「自信を失った日本人の怨嗟が中国に向いた」など、
三流の評論家かさもなくば特定のイデオロギーに毒されたプロパガンダでしか出てこないフィクションだろう。
何を根拠にそのように分析できるのか。
いや、根拠など要らないのだ。岡田氏はとにかく日本を悪く言いたいだけなのだから、
根拠不要の思い込み・でっち上げ何でもありで、日本人の「倒錯した中国観や嫌中意識」があると放言するだけである。

『日本の中国に対するゆがんだ大国主義と言っていい 意織だ。日本の景気回復が「中国特需」によるこ とは言うまでもないし、日中間の経済依存関係は、共通利益だ。』

自分の妄想をぶちまけた挙句、ゆがんだ大国主義があるなどと言われてもチャンチャラおかしい。
歪んでいるのは岡田氏の頭の中身であって、日本ではない。
また、日本の景気回復が「中国特需」だというのも妄想だ。
デジタル家電を始めとする内需の拡大が牽引しているのであり、
中国市場の幻想に乗せられて痛い目に会った企業の話はごまんとある。

『歴史学者の河上民雄・東海大名誉教授は、小泉 純一郎首相の靖国神社参拝について「彼は、 近隣諸国の批判はものともせずと言ったが、 ドイツ首脳がこんな発言をすれば欧州連合 (EU)から即パージだ」と批判。サッカー 事件についても「旧日本軍が重慶や済南で行 った残虐行為を若い日本人は知らないし、メ ディアも十分伝えない」と指摘する。』

そしてマスコミお得意の、御用学者を使った歴史問題攻撃である。
こういうプロパガンダを平然と行う人間に、名誉教授という称号を与える日本の学会も相当歪んでいると思うが、
毎度お馴染みの「ドイツ」「旧日本軍の残虐行為」というキーワードで、反論を封じようという魂胆が浅ましい。
ドイツが各国の教科書記述について、ドイツを悪く書きすぎていると注文を付けているのは周知の事実だし、
重慶爆撃は虐殺でもなければ史上初でもない。
左翼がプロパガンダの為に「ネタ」として使っているのであり、
こういうものを臆面もなく新聞紙上に載せること自体、マスコミの良識を疑わせる。
まあもっとも、彼らに良識があるとも思えないが。

『両国が戦った第二次大戦が終わって来年で六十年。そろそろ二世 代を経た現在、双方のゆがんだ大国意識をま ず正視し、そこから対立、矛盾を整理し直し、 共通利益をあらためて見いだす努力が必要 だ。そのためにも途絶えている首脳交流の再 開が不可欠である。』

この評論記事の真ん中に、こう大書してある。
「日中に歪んだ大国意識」
そして結論で双方のゆがんだ大国意識を直しましょうと言うのだが、
詐欺もいい加減にしろと言いたい。
この評論のどこに中国の歪んだ大国意識を指摘する部分があっただろうか。
皆無である。記述は日本のゆがんだ大国意識とやらの批判に割かれ、
ひたすらに「日本人、悪なり」と断罪するのである。
それで「日中に歪んだ大国意識」と大きくサブタイトルを入れるとはどういう了見か。
結局、編集委員岡田氏は、日本人はけしからん、中国様に逆らうとはとんでもないと言いたいだけなのだ。
本当に事実を分析し評論するのなら、日本人に大国意識など正常なものも歪んだものも含めて一切無いし、
寧ろ無さ過ぎるのが問題で、現在の苦境にあるわけだ。
歪んだ大国意識とは、まさに中国のための言葉であり、かの国がどれほど歪み切っているか、
今回のアジア・カップで曝け出したと言えるだろう。
マスコミの中国礼賛の体質は、文革のときから全く変わっていない。
彼らの歪んだマスコミ意識こそ正視すべきであろう。


7/11 11面 話題の一冊

偏向した新聞というのは、書評欄も偏っていて保守派の本なぞ一冊も紹介せず、
左翼の本ばかり採り上げるのだが、ここまで来ると滑稽ですらある。
日曜の書評欄、話題の一冊に採り上げられた高橋哲哉、斎藤貴男著『平和と平等をあきらめない』の書評が、
どれほど滑稽であったか、じっくり味わってもらいたい。

『護憲派は今や"守旧派"扱いである。 力がないから抵抗勢力とさえ呼ばれない。 論壇などの護憲論も、世論調査で改憲派が多数となって、 さらに歯切れが悪くなった感じだ。 最近まで自明の社会的合意のように語られていた護憲平和は、 いったい何だったのか。』

冒頭から左翼の愚痴である。
あれほど世論を洗脳していたはずなのに、どうして護憲がこんなにも力を無くしてしまったのか。
左翼はその理由を薄々気が付いているはずだ。
ただ、彼らは直視したくないだけなのである。

『そんな割り切れない思いを抱く人々に読まれているのだろう。 本書で対談するこの二人ほど今、オーソドックスな戦後民主主義的発想で、 政府や社会状況を断定的に批判できる論者は、もうほとんどいない。 極め付きの左翼対談と思う人もいるかもしれない。』

もちろん、「割り切れない思いを抱く人々」とは左翼のお仲間たちのことであり、
彼ら以外の一般大衆は、やっと改憲というごく当たり前の世界常識に気付いたのであるが、
そういう現実に「割り切れない思いを抱く」左翼たちは、
書評欄にお仲間の本を大々的に取り上げ、少しでも大衆を再洗脳しようと必死なのだろう。
だがやはり、「極め付きの左翼対談」だと自作自演をバラしてしまうあたり、
厳しい現実を左翼はひしひしと感じている証拠なのだろう。

『確かに「平和と平等という価値は建前としてさえ尊重されず、 逆に、冷笑や公然たる攻撃の対象となっている」と高橋が断じる 日本の現状に対する批判は、厳しい。』

左翼の十八番、平和と平等の語句が踊る。
彼らはさも良識や道徳が日本で踏みにじられているかのように装うが、詐術も甚だしい。
今、大衆が胡散臭さを感じ敬遠し始めたのは、左翼が長年独占してきたカッコ付きの「平和と平等」である。
左翼は「平和と平等」を錦の御旗に、日本の伝統と文化を破壊し、家庭解体、国家解体をしようと策動してきたのではないか。
そしてその結果、殺人を平気でする子供を大量生産する社会が到来し、
やっと大衆は左翼の言う「平和と平等」がどれだけ間違っていたかを思い知ったのだ。
美辞麗句を並べ、その実、正反対なことを営々と積み重ねてきた人間が、
「日本の現状に対する批判は、厳しい」などと言うのは盗人猛々しい限りだ。

『だが、読んで印象に残ったのは、自らの思想的な位置についての認識だ。 自分が同世代のなかで特殊な、あるいは突出した意見をどこかで形成したと いう記憶はまったくない」(高橋)「(自らは)変わってない。 ぼく自身は右も左も、だれかがつくった思想の枠組みに染まること自体がいやだった」(斎藤)』

それはそうだろう。周りはみな左翼の中で思想形成をしたのだから。
ごく少数のガチガチのマルキストを除いては、うす甘い左翼というのが日本の左翼のほとんどだろう。
教師はだいたいアカだし、若いころから保守だなんて人間は少ないから、
「平和」「平等」「護憲」などという単語が、普通の言葉だという感覚の中で青春を過ごせば、
学校を出るころには左翼思想が一丁上がりという具合である。
そのこと自体にこの本の著者たちに責任は無いが、問題は学校を出た後も自らの思想を疑うこともせず、
知見を広げようともせず、左翼思想の住人に安住したことだろう。

『哲学者の高橋と経済畑出身のジャーナリストの斎藤に共通する 「左みたいなポジションに取り残された」感覚は、 ここ数年の戦後民主主義をめぐる世論の激変ぶりを 浮き彫りにしている。』

取り残されたのではなく、左翼の洗脳から大衆が目覚め、
彼らと大衆の認識のズレがここ数年、拡大する一方だというのが正解だろう。
確信犯で左翼思想に居る人間が、世論の変化で左翼に追いやられたと被害者面するとは図々しい。

『そういえば、今は護憲派の重鎮のような存在感があ る鶴見俊輔さんの立ち位置にも似たものを感じる。』

鶴見俊輔!私は上で「ごく少数のガチガチのマルキストを除いては、うす甘い左翼というのが日本の左翼のほとんどだろう」と述べたが、
鶴見俊輔こそはその「ごく少数のガチガチのマルキスト」なのだ。
彼は旧ソ連のシベリア抑留を正当化し、日本の経済発展を呪った。
こういう左翼の総本山の一人とも言うべき名前を出してくるとは、
さすがに左翼の書く書評欄だけのことはある。

『6月の発売後の出足は、版元の予想を上回り、すぐに重版された。 都市部の男性中心に関心が高いという。 とはいえ7千部である。たかが7千か、されど7千か。 この集団を"化石"とみるか、"ー粒の麦"ととらえるかで、評価は変わるだろう。』

すぐに重版されたというから、どれだけ売れたのかと思えば、たったの7千部である。
左翼系の本は、2〜3千部しか売れないと言われているから、
それから考えるとまあ売れている方なのだろう。
どのみち万単位で売れている保守系の本には遠く及ばないが。
そういう現実は知っているから、せいぜい虚勢を張るしかない。
どう足掻いても左翼のインチキに大衆が二度と騙されることは無いのに、
「たかが7千か、されど7千か」と虚勢を張り、
「この集団を"化石"とみるか、"ー粒の麦"ととらえるかで、評価は変わるだろう」と思わせぶりな台詞で、
己を大きく見せるしか無いのだ。
書評といいながら本の内容にはほとんど触れず、今のわが身を嘆く愚痴ばかり。
敗北した左翼の最後の咆哮。虚しくも滑稽なことこの上ない。


5/23 3面 緊急識者インタビュー

22日の小泉首相訪朝は、その結果に様々な論議を呼んだが、翌日の新聞紙上はそれ一色であった。
表向き拉致問題の解決を叫びながら、あの手この手で北朝鮮の肩を持とうと画策する左翼マスコミだが、
今回もその偏向体質が遺憾なく発揮された。
『緊急識者インタビュー』として、ノンフィクション作家の吉岡忍の意見を載せていたが、
これが真に酷い内容であり、愚かさという点で日本外交に比肩する代物であった。
では、『非難より信頼醸成必要』と題されたそれを見てみよう。

『今回の首相の再訪朝で(中略)被害者家族は納 得できないだろう。その心情は非常によく理解で きるし、怒りの表明は当然だと思う。 しかし、拉致問題をめぐる情緒的な報道が過剰 になるあまりに、日本社会全体に北朝鮮に対する 敵対的な感情が広がっていることには強い懸念を 抱いている。拉致問題の解決にとっても長期的に はマイナスとなるのではないか。』

拉致問題をめぐる報道が「情緒的」で「過剰」だと断じる点で、既にこの人間の頭はおかしい。
いわれなく肉親を誘拐された、その悲しみを伝えることのどこが情緒的なのか。
数十年にわたる家族の悲しみを伝えることは、まさに「真実の報道」であり、情緒的な報道とはまるで違う。
そしてその悲しみの大きさは、一般人には計り知ることの出来ないほど巨大なものであり、過剰だというに及ばない。
家族の情愛を理解できない吉岡忍は、平然と情緒的な報道が過剰だと言ってのける。
さらに家族の悲しみよりも、北朝鮮に対する敵対的な感情が広がっていることの方が気に掛かるというのだから、
一体この人間に情というものがあるのだろうかと疑いたくなる。

『北朝鮮側の非を指摘する のは容易だ。しかし、問題 の最終的解決のためには、 両国間に一定の信頼関係を 醸成することが必要だと思 う。今の日朝関係は、特に 一昨年の小泉純一郎首相の 訪朝後、政府、民間とも、 まさに敵対関係と呼ぶべき 状況にある』

吉岡忍は拉致事件をどういうものだと考えているのだろうか。
工作員が日本国内に忍び込んで日本人を誘拐した・・・これが北朝鮮の敵対行為でなくて何だというのか。
このような言語道断な犯罪行為の解決に必要なのは、犯人との信頼関係ではなく、意志と実行力である。
向こうの犯罪を、こちらが信頼を損ねることをして敵対関係になったと言い立てるとは、痴呆も極まれりである。

『日朝関係がここまでこじ れたまま現在に至っている ことは、長年にわたる日本 外交の失敗でもある。アジ ア諸国との関係は過去半世 紀、戦争責任や戦後処理の まずさのためにぎくしゃく したままだった。原因の一 つは日本の対米追随外交に もあった。』

吉岡忍という痴呆老人の戯言はますますヒートアップする。
拉致は戦争責任の取り方が拙かったからだと言わんばかりのこの物言いに、
拉致家族の人たちはもちろん、まともな神経の人なら怒りを覚えるだろう。
ありもしない戦争責任を捏造し、アジア諸国との関係をギクシャクさせてきたのは、
マスコミをはじめとする左翼人士ではないか。
もし、お前たちが言うように北朝鮮が日本の戦争責任とやらのお返しに、
無関係で善良な日本国民をさらったのだとしたら、
左翼マスコミ・知識人こそ責任を取って切腹でもすべきだろう。

『日本独自の外交モデルと して日朝国交正常化を実現 させることは、(中略)日本外交にあ らたな可能性を開くので はないか。 その下他作りには、民 間の力も重要だ。サッカ ーW杯や「冬のソナタ現 象」で最近の日韓関係が 非常によくなっているよ うに、文化交流は時に国 家間の外交以上に関係改 善に貢献する。』

吉岡忍はノンフィクション作家だそうだか、今日から「ノン」の文字を外したら如何か。
日韓サッカーW杯が、どれほど日本人、いや世界中の人に嫌韓感情を植え付けたことか。
お前たちは事実を隠蔽・捏造することで、両国に友好が築かれたと宣伝しまくっていたが、
韓国人が為した様々な非道は、世界中のジャーナリストが伝え、
日本ではマスコミが口を緘した分、インターネットが真実を伝えた。
日韓サッカーW杯を取材した外国のジャーナリストは、日本の素晴らしい接客精神を褒め称え、
韓国の悪逆非道ぶりに憤慨し、口を揃えて日本単独開催なら良かったと言ったものだ。
このような事実から目を逸らし、「最近の日韓関係が非常によくなっている」とのたまうことは、
立派な捏造であり、フィクションだ。

『国際環境は日朝関係改 善に好都合な状況にある のに、日朝両国政府によ る拉致問題解決の失敗に よって好機が失われつつ ある。「解決とは何か」 という定義すら難しい拉 致問題だが、政府だけで なく民間の努力も含め、 乗り越えていくしかない と思う。』

何処をどう見たら「国際環境は日朝関係改善に好都合」だと言えるのか。
核ミサイルの問題一つにしたって、常に危ない綱渡りであり、
日朝の二国間どころか多国間において状況は悪化こそすれ改善されていない。
もちろん吉岡忍は、それを承知の上で「捏造」して北朝鮮を擁護しようと必死なのだ。
だからこそ、「解決とは何かという定義すら難しい」と言ってのける。
拉致問題の解決の定義は単純明快である。
拉致及びその疑惑がある人について完全に情報が公開され、生存者が全て帰国することである。
法律用語で言うところの原状回復というやつだ。
こんな当たり前のことをすっ呆けて「定義すら難しい」というのだから、
吉岡忍は確信犯であり、まさに北朝鮮の擁護をしたい左翼勢力の尖兵なのだ。
こういう人間を識者と銘打ってインタビューするのだから、
左翼マスコミの底意は透け透けである。
いい加減、自分たちが国民から遠く離れた場所で道化を演じていることに気付くべきだろう。


1/31、2/1、2/3 はるかなる隣人 日朝の迷路

山陽新聞では以前から、『はるかなる隣人 日朝の迷路』というタイトルで、長期連載をやっている。
日本と北朝鮮の戦後の関係を、様々な方面から光を当てて分析する、と言えば聞こえはいいが、
要は「拉致、拉致と叫ぶのは間違っている。日本は植民地支配をした過去を反省すべきだ」という棒引き論を、
多方面から補強させるという壮大なゴミクズ企画である。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、ここに採り上げることすらしなかったが、拉致家族会の蓮池透氏を引っ張り出して、
愚劣なイデオロギーの補強に使おうというのであれば、黙っていられない。
今回は、三回にわたって掲載された石丸次郎氏(アジアプレス大阪事務所代表)と、蓮池透氏の対談記事を批判する。

『蓮池 相手の出方によっては「制裁を実行に移すぞ」と強気に出ることでイニシアチブを取る方法があ るのでは。(中略)強く出るための手段をつく るべきだと思う。』
(1/31 6面)

蓮池透氏は、さすがに長年家族会で頑張ってきた人だけに、現実が分かっている。
北朝鮮のような無法者国家と交渉しようと思うなら、相応の「覚悟と武器」が必要だろう。

『石丸 でも忘れてならないの は、拉致問題は協議で解 決するもの。実際の制裁 発動と協議の両立は難 しい。解決の手段であ る制裁が目的と化さない か心配。』
(1/31 6面)

いきなり強烈なストレートがきた。この空想的言動は何なのだ。
話し合いで何でも解決とは、旧社会党をはじめ左翼勢力が常套句にしてきたものだ。
話し合いで平和になるから武器は要らない。
話し合いで拉致は解決するから制裁は要らない。
石丸氏は、左翼の妄念に凝り固まった言動で切り出してきた。

『石丸 いま北朝鮮の貿易総額 に占める日本の割合は十 分の一程度。日本との付 き合いがすべてストップ しても、北朝鮮が崩壊し たり、降参して政策を変 えるほどの打撃があるか どうかは疑問。』
(1/31 6面)

続けて無知丸出しの発言で畳み掛けてきた。
経済制裁とは、単に貿易をストップすることではない。
寧ろ、日本がやろうとしている経済制裁とは、日本から北朝鮮への送金をストップすることに主眼が置かれており、
金王朝を支えている朝鮮総連からの送金の、首根っこを押さえてしまおうというものだ。
だから経済制裁は北にとってほとんど致命的であり、交渉の材料として高い効果が望めるのだ。
その程度のことも知らずに、いや、おそらく知っていてわざとスライドさせているのだろう。
偏向マスコミの世論のミスリードの片棒担ぎを意図的にやっているに違いない。
(石丸氏は脱北者の取材を長年続けている記者である。それが北の事情を知らないわけがない)

『石丸 好きであろ うが嫌いであろうが隣国 だから、付き合っていく ための大きなビジョン が必要。その中で過去の 植民地支配の清算もす べきだ。「清算はきちん とする。でも核と拉致問 題を解決しない限り一 歩も前に進みませんよ」 ということを基本にビジ ョンをつくるべきだっ た。』
(2/1 8面)

そして左翼の本音が出た。お馴染みの「過去の植民地支配の清算」論である。
言っておくが、日本は朝鮮を併合して一つの国家となったことはあったが、
植民地としたことはない。
当時、どれほど投資して半島のインフラ整備をしたことか。
東南アジア諸国が、米英仏蘭の下、どのような支配を受けていたか、比較すればすぐに分かることである。
まあ植民地論争は置いておくとしても、
「拉致」という疑問の余地なき犯罪行為と、「徴用」という法律に基づいて執行された行政を、
いっしょくたにする粗雑さは救い難い。

『石丸 人道援助もやるべき だ。北朝鮮の国民は独裁 政権の下で未曽有の苦し みを味わっている。(中略)わ たしたちが民衆には心を 寄せているとのメッセー ジはあの国の中に伝わ る。』
(2/1 8面)

左翼はどこまで御目出度いのだろう。
援助物資は軍の備蓄に回り、学校教育で「偉大な将軍様」と「憎き日本」をさんざん刷り込んでいるのに、
日本に感謝するわけがなかろう。
小泉首相訪朝時ですら、偉大な将軍様に頭を下げに来たと自国民に宣伝した国だ。
援助物資が日本から送られていることも知らされてないし、
知らないから感謝もない。
石丸氏はどういう取材をしているのだろうか。
脱北者の証言(援助物資が入れば闇市に流れ、価格がいくらか下がる)を己の言説の補強に使っているが、甚だ怪しいものである。

『蓮池 今後のことを考える と、日本は経済支援とい う大きなアドバンテージ を持っていると思う。北 朝鮮は経済支援が欲し いはず。それを使わない 手はない。制裁というム チは必要だけど、裏交渉 でアメをちらつかせるし たたかさがあってもいい。』
(2/1 8面)

石丸氏の左翼的空想平和主義に基づく戯言を聞かされた後だけに、
蓮池氏の現実的な考えが一層際立つ。
ひょっとしたら石丸氏を道化として、蓮池氏を引き立てようという深慮遠謀なのだろうか。
無論、左翼マスコミがそんな親切なことを考えるはずがないことは、
次の段ですぐに分かる。

『石丸 (家族会の) 支援団体「救う会」はい ろいろな人を抱えてい る。(中略) わたしの住んでいる大 阪の「救う会」のホーム ページを見ると「経済制 裁で金正日政権をつぶし 拉致問題を解決する」「経 済制裁を阻むものは謝罪 外交、土下座外交」「戦 後に終止符を打ちましょ う。教科書問題、靖国問 題、拉致問題…」と書い てある。
 別の政治目的を持った 人が拉致を利用している ようにも思う。その中で 世論が形成されていく現 実に憂慮を覚えている。 核武装、靖国まで出て くると、拉致被害者を 応援したいが拉致問題 についていけないという 人がわたしの周りにも多い。』
(2/3 4面)

対談の最終回に突然、話題がガラリの変わって驚く。
前二回は北朝鮮に対する交渉の仕方について語っていたのに、
何の脈絡もなく、拉致問題が保守反動に利用されていると言い出したのだ。

『蓮池 それは、わた しも憂慮している。わた したちは、拉致された家 族を取り返したいと運動 しているわけで、その気 持ちを了解してもらっ て、その一点で支援して いただきたい。わたしも 靖国の専門家でないし、 触れたくない。北朝鮮打 倒に拉致を利用するとい うのは不服。ごく一部の 特殊な人がやっている運 動と思われても嫌だし、 国民運動にしないといけ ないと思うから。』
(2/3 4面)

石丸氏の振りに対し、蓮池氏がこう答えるのは当たり前だろう。
例えばつくる会だって、採択運動をどこかの個人・団体が別の目的のために利用したら、
いくらそれが同じ保守だとしても、「利用されるのは迷惑」と言うだろう。
こういう当たり前の話をわざわざ切り出し、
蓮池氏の当然の回答をもって保守そのものを貶めようとする石丸氏の、
ひいては左翼マスコミの姑息かつ陰険なやり方は頭に来る。

『石丸 征伐隊事件があ った。「抗議」の意味を 超えた、許し難いひきょ うなテロ事件だ。』
(2/3 4面)

もういい加減にして欲しい。征伐隊を名乗る者たちの行為は、
右だ左だという以前の話であることは明白である。
それを左翼マスコミは、鬼の首を取ったかのように、すべての保守は危険であると煽り立てる。
では聞くが、浅間山荘事件やよど号事件を起こしたのは右と左どちらだったか。
左翼過激派がテロを散々やらかしたが、これをもって左派はすべて危険だと君らは書いたのか。
左翼マスコミにプロパガンダはあっても、公正さなど欠片もないのだ。

『(石丸 続き) 彼らは なぜ朝鮮総連の一地方支 部などをターゲットにし たのか。拉致と在日朝鮮 人をひとからげに考えた からだろう。彼らも報道 に接しているわけで、北 朝鮮報道に問題はなかっ たのか。報道に携わる者 として自戒を込めて思っ た。』
(2/3 4面)

この一文には脱力する。自戒でも何でも勝手にすればいい。
朝鮮総連が本国の犯罪行為にどれほど加担したかは、今や明々白々ではないか。
この期に及んで総連はとばっちりを受けたのだと言い切る石丸氏の識見は、
ねじれ切って異次元空間のごとき様相を呈している。
いや、彼らにしてみれば自分たちこそ正常なのだろう。
北朝鮮を守るためならカラスを白と言う事すらやってのける。
こういう人間がうじゃうじゃ居るマスコミこそ、大いに自戒してもらってすぐに業界を解散してもらいたい。

『石丸 拉致は、冷戦構 造の中で南をのみ込む方 策として、倫理に反し日 本を利用してもよしとす る政権がやった国家犯罪 で、それが民族対民族の 問題になるのは不幸だ。』
(2/3 4面)

「倫理に反し日本を利用してもよしとする政権」とは、一体どこのことを言っているのか。
まさか金日成がすべてやったことで、金正日は無罪であると弁護しようというのだろうか。
拉致の真相を知る人間なら、このような言い方はまずしないはずだ。
何故なら、拉致事件は金日成政権の下で、金正日が工作機関のトップとして指示してやらせたものであり、
元工作員も彼の下で人数を競うように日本人を拉致したとの証言している。
そういう人間がいまや国のトップにあるわけだから、まさしく現在進行形の犯罪であり、
特定政権がどうのこうのという発想が出てくる事自体、おかしな話なのである。
ましてや、「それが民族対民族の問題になるのは不幸だ」などという発想は、
日本人の側から出るものでは無い。
一体、拉致問題というまごうことなき犯罪を、「民族対民族の問題」にすり替えているのはどこの誰か。
当の北朝鮮であり、そのお先棒を担ぐ左翼マスコミではないか。
その発露が、こういう「紙資源の無駄遣い」記事に表れているではないか。
わが国にこういうマスコミが存在していることこそ「不幸」であろう。

ちなみに石丸次郎という人は、長年脱北者の取材を続け、ギャラクシー賞という報道の賞をとった人間だそうだ。
まず北朝鮮の専門家といってよい人間だろう。
それをしてこのような発言がバンバン飛び出すのだから、
左翼偏向マスコミの、事実を捻じ曲げる体質が如実に表れている。


11/22、23 有事法制関連

11/21、有事法制関連の国民保護法について政府で動きがあり、22、23日と連続でちょっとした量の記事が載った。
マスコミが反権力を正義の御旗にして、国民の真の利益を無視している事は今さら言うまでもないが、
十年一日、いや百年一日のごとく同じ論調を繰り返してよく厭きないものだと感心する。

『運用に厳格な歯止め必要』
『国家総動員の懸念も』
『私権制限拡大の危険』
『地方自治体・市民団体 早くも疑問の声』
『国家統制どこまで』
(以上、11/22 2、3、4面見出し)

一体これは何なのだろうか。
よく新聞を熟読玩味する人は少ない。見だしを斜め読みするだけだと言われるが、
このおどろおどろしい見出しの連続は、それを考慮の上でやっているプロパガンダ行為であろう。
ここだけ見れば、何か恐ろしい法案が成立しようとしていると錯覚させられる。
しかし、マスコミの歪んだ主観を除けば、記事が伝えるのは有事法をきちんと整備しようという政府の考えであり、
反対者が無知・無理解な「雄叫び」で抵抗しているという事実である。

『だが、全国知事会 長の梶原拓岐阜県知事は 「自衛隊が住民の生命財 産を守るためにどう行動 するか明確にすべきだ。 自衛隊が戦争優先では第 二次世界大戦の沖縄と同 じ運命になる」と強調。』
(11/22 3面)

この人は自衛隊の任務を何だと思っているのか。
外敵と戦うことにより国民の生命を守ること。これが自衛隊の第一の任務である。
自衛隊は軍隊であるのだから、「戦争優先」なのは当たり前の話だ。
さらに沖縄の真実も知らずに、左翼の嘘を平然と垂れ流すとは、とんでもない首長である。
沖縄戦の悲劇は、有事の住民の避難を指揮・勧告する自治体首長が、さっさと逃げ出したことに起因する。
避難命令も出されないまま、戦場に取り残された市民が、
他に守ってくれそうな人が無いから軍隊を当てにして寄ってきたのだ。
しかし軍隊が居る場所というのは最前線である。
軍隊と行動を共にした市民が、戦争に巻き込まれるのは必然であり、そういう意味で沖縄は悲劇だったのだ。
梶原拓岐阜県知事は、歴史の悲劇を繰り返したくないなら、
まずは自身が住民の生命財産を守るためにどう行動するか、考えるべきであろう。

『「実態は国民規制の立 法。既存の法律との関係 などを厳しく監視してい く必要がある」。国民保 護法案に「航空労組連絡 会」の竹島昌弘氏は懸念 を示す。』
『一方、「許すな!憲法 改悪市民連絡会」の高田 健氏は「既に公表されて いる鳥取県の住民避難マ ニュアルを見ても、北朝 鮮が日本に攻め込むこと を前提にしているのは明 らか」と指摘。「北東ア ジアの平和という観点で 運動を組織していきた い」と話し、国会審議の 過程で法案への反対運動 を盛り上げる考えだ。』

意見を言わせる人選に、マスコミの左翼大好きの体質が現れている。
労組や憲法改悪と叫ぶ人間がまともな市民か。
googleで「許すな!憲法改悪市民連絡会」を検索すれば、左翼系市民団体との共闘の記録が色々出てくる。
あの教科書ネット21の俵義文とセットで検索しても、色々ヒットする。
市民団体=善というまやかしは、今の時代通用しないのだ。

『要旨は、基本的人権の尊重 を掲げ、不当な差別、思想や 良心、表現の自由の侵害を禁 じている。(中略)しかし、有事への対応は強 制措置を伴うものであり、自 由と権利の擁護について心配 な部分も少なくない。』
(11/23 社説)

そして社説ではまたもや珍説・奇説である。
敵軍の上陸でもテロでもよいが、目の前に銃を抱えて迫ってくる一団があるのに、自由だ権利だもあるまい。
まずは命を永らえるのにどうすればよいかを考えるのが筋であり、
自国の軍隊に助けて貰おうというのは自然な考えである。
その際に自分の土地を陣地構築のために供するのを、権利の侵害だと拒否した結果、
敵を食い止められずに自分が死んでしまっては、喜劇そのものではないか。
権利だの自由だのは、それを保障する安全と国があってこそのもの。
その程度のことも分からずに、有事には権利が侵害されると憂いて見せるマスコミは、
精神倒錯を起こしている。

『要旨は、国民の役割を「義 務」の表現を使わず「必要な 協力をするよう努める」とし ている。広範な私権制限につ ながる規定とどう調和させる か、課題と言えよう。(中略)今回、法の適用対象として 大規模テロを加えた。対応は 柔軟になるが、私権制限を伴 う法が、むやみに発動される ことになっては困る。』

私権、私権とうるさいことである。私権乱用も甚だしい。
「私」が最上級の価値を持つと考える左翼マスコミにはうんざりである。
「何をするのも俺様の自由」という考え方が、今の日本を堕落させた。
生命の危機に際しても、なお「俺様の自由」を貫こうというのか。
その結果、君たちが滅ぶのは自由だが、迷惑を被る国民の立場を考えろ。
公器と自称しながら、「公」のことなぞこれっぽっちの考えないマスコミの、
腐った根性が滲み出ている。

『個々人の生 活に大きな影響を及ぼす法整 備である。政府に必要な説明 を求め、議論を高めて国民の 意見を反映させた法にしなけ ればならない。』

そう思うのなら、まずはマスコミが報道姿勢を改めるべきであろう。
左翼思想のプロパガンダを続ける限り、政府に国民の意見が反映されることなどあり得ないのだから。


5/13 社説 鴻池発言

長崎で12歳の子供が殺人を犯すという衝撃的な事件があった。
その衝撃は各界に及んだが、鴻池防災担当相は「親を市中引き回しの上、打ち首に」と発言。
すると案の定、ハイエナマスコミは飛びついた。
山陽新聞社説も仰々しく取り上げている。

『長崎市の男児 誘拐殺人事件に ついて鴻池祥肇 防災担当相が 「(加害者の) 親を市中引き回 しの上、打ち首にすればいい」 と述べた。なんとも時代錯誤 の不穏当な発言であり、人権 感覚を疑わざるを得ない』

人権!仰々しく取り上げるからには、さぞや論理の冴え渡った論説を書いているのかと思いきや、人権とは。
今更こんな陳腐な言葉を前面に押し立てて、誰が説得されるというのか。

『同事件が私たちの社会に与 えた衝撃は大きい。
(中略)
警察の調べを見 る限り、決して突発的な犯罪 といえず、根は深いとみられ るからである』

確かに根は深い。
何しろ、親、学校、社会…ありとあらゆる教育が、左翼によって破壊しつくされた結果がこれなのだから。

『少年は十四歳未満であり、 刑法には問えない。だからと いって「親の責任を」という のはあまりに短絡的ではない か。

子供の教育の失敗は、第一に親の責任である。
こんな当たり前のことも分からず、「短絡的」などと称する社説子こそ短絡的だろう。

『鴻池担当相は政府の「青 少年育成推進本部」副本部長 も務める。事件に心を痛め、 再発防止に全力を挙げるとい うのが本当の政治であろう』

美辞麗句を並べ、実質何も言っていない。
典型的なマスコミ言語である。
心を痛め、全力を挙げる?
具体的にどうするのだ。肝心のそこに踏み込まなければ、空虚な言葉の羅列に過ぎない。

『近年、神戸の連続児童殺傷 事件、佐賀のバスジャックな ど青少年による異常な犯罪が 相次いでいる。少年犯罪は社 会を映す鏡と言われる。複雑 な要因を丁寧に解き渦ぐして 事件が起きるのを未然に防止 し、青少年の健全な発達の方 策を探ることは私たち大人の 責任である』

「少年犯罪は社会を映す鏡」
なるほど、確かにそうであろう。
少年たちの凶行は、如何に教育が崩壊しているかを如実に物語っている。
これほど明快・単純なことが分からず、「複雑な要因」だとのたまう社説子は、よほど眼が悪いのだろうか。
良い眼鏡屋を紹介するから、さっさと眼鏡を作るべきだろう。

『鴻池発言はその意味で、責 任回避のお粗末な発言としか いいようがない。閣僚として の資質を疑われても仕方があ るまい。それにしても最近、 政治家の問題発音が目立つの はどうしたことか。言葉を大 事にしない政治家の増加は政 治の質を劣化させる』

責任回避のお粗末な発言は、この社説そのものだろう。
教育の崩壊を恥じるべきは、まず大人たちである。
特に親は責任大である。
そのことを指摘した鴻池発言は、まことに正鵠を得ているとしか言いようが無い。
このような正論を、問題発言化しているのは、他ならぬマスコミ自身ではないか。
森元総理はマスコミのこの手口にやられ、石原都知事も共同通信社にやられた。
それがどの面下げて「それにしても最近、政治家の問題発音が目立つのはどうしたことか」などと言えるのか。
厚顔無恥もここに極まれりである。
言葉を大事にしないのは、マスコミ自身である。
このようなゴミクズ社説を書き散らし、恬として恥じないマスコミの存在は、政治の質を劣化させる。


5/1〜5/3 憲法記念日関連記事

憲法記念日になると、憲法改悪反対、九条を守れとシュプレヒコールを揚げるのがマスコミの恒例行事だが、
今年はいつになく力が入っていた。
大規模テロやイラク戦争などで有事というものが身近に感じられ、
国民の改憲意識が高まっている事に危機感を抱いているのだろう。
その中からいくつか目立った記事を拾い上げ、批判していこう。

まずは『滴一滴』(5月2日付)から。  *『滴一滴』とは天声人語に相当する所
『高知県生まれの自由民権思想家・植木枝盛…(中略)…その植木を語 る上で欠かすことのできない著作に「日本国国憲案」がある』
『連合国軍総司令部(GHQ)が現行憲法の 草案を作成する際、日本の憲法学者らの案を参考 にしたとされ、その学者の中に植木の研究者がい たという。「日本国憲法と植木枝盛草案との酷似 は、単なる偶然の一致ではなくて、実質的なつな がりを有する」(家永三郎編『植木枝盛選集』)』

植木枝盛といえば、左翼が必ず民主的憲法の先達として持ち上げる人物である。
これを持ち出して憲法を語るとは、山陽新聞の左翼体質をものの見事に表している。
日本国憲法成立の過程については、小山常美『日本国憲法無効論』が詳しい。
要するに、GHQが民間の草案を参考にして作ったというのは、まったくのデマである。
押し付けという事実から目を背け、日本国憲法を民定憲法として崇め奉るために左翼が作り出した神話なのである。

『現行憲法の制定に外的圧力は決定的要因であっ た。が、日本に自由と民主主義を希求する思想的 連なりの上に成立し、国民に受け入れられたこと も忘れてはならない』

したがって、「思想的連なりの上に成立し、国民に受け入れられた」というのは歴史歪曲以外の何ものでもない。
こうして軽くジャブを出したところで次である。

憲法インタビュー 作家・池澤夏樹さんに聞く(5月3日付)
『憲法はそもそも、制定当時の米国の最もリベラルな 理想主義が反映された。これを、米国による「押しつ け憲法」とする見方があるが、この憲法が当時いかに 歓迎されたかを見ない形式論、感情論にすぎないと思 う』

コラムで神話を流布するだけでは飽き足らず、文化人を引っ張り出して補強する。
馬鹿らしいが、いやらしいやり方でもある。
繰り返すが憲法が当時歓迎されたというのは、形式論、感情論にすぎない。

『戦争を経た日本人の目に、言論の自由や人権、戦 争放棄の条文が、どれほどうれしく輝かしいものに映 ったか。しかしその記憶は忘却され今は想像するしか ありません』

しかもこの池澤氏に至っては、感情論を通り越して妄想論になっている。
当時の日本人は新憲法に大喜びしたんだ、証拠は無いが俺はそう想像するぞ、というのである。

憲法と日本の針路 下 山内敏弘龍谷大教授(5月1日付)
『日本国憲法の平和主義は、日本自身が直接当事 国にならなかったとしても、国際社会の紛争に対 して武力行使によらないで解決していくという考 え方だ。ところが、残念なことに小泉政権は憲法 の平和主観にのっとった対応をしなかった』
『日米同盟を重視し、米国を支持した理由の一つ は北朝鮮問題だろう。北朝鮮には核開発をやめて ほしいと言いたいが、一方で日本と韓国が米国の 核の傘の下にいるという状況で、極東地域におい て核の極めて大きな不均衡が存在すると北朝鮮が 認識するのは、事実とし て当たり前だ。 いたずらに北朝鮮の軍 事的な脅威をあおって、米国の軍事的対応に追随 する政策をとるのは大きな問題がある』

いちいち反論するのも馬鹿らしく感じる。日本の大学教授とやらは、かくも低レベルなのはなぜか。
平和主義、平和主義と念仏を唱えるだけで中身が無い。
挙句の果てには盗っ人の擁護である。
この教授の言は、
「警察が拳銃で武装している状況で、武力の極めて大きな不均衡が存在すると強盗が 認識するのは、事実として当たり前だ」
こう言っているのと同じである。強盗の武装化を正当視し、いたずらに脅威を煽るなとはどういう了見か。

『北朝鮮情勢を追い風に有事法制の制定に向 けて進んでいるが、どうして今、有事法制な のか、あらためて議論をしないといけない。 自衛隊法、防衛庁設置法自体が憲法の平和主 義からすれば違憲だと考えるが、 有事法制はさらに違憲性を上塗りする。国民に強権を発 動し、人権を制約する有事法制の目的は、米軍と一体となって対外的軍事行動を行うところにある』

これは「定型文」であるから、意味がない。
南無阿弥陀仏と唱えているのと同じである。
「どうして今、有事法制なのか」といえば、「北朝鮮情勢」が不安定だからである。
こんな分かりきった事を理解しない、というより理解したくないから、
「追い風に」などと原因と結果をすり替えているのである。
そして「違憲」「人権」「米軍と一体」などの文句をちりばめれば、
ハイ、9条擁護論の出来上がりである。
実にお手軽で浅薄な論理だ。

社説 憲法記念日(5月3日付)
『昨年、政府が提出した法案は「武力攻撃事態」の概念が はっきりせず、併せて提出すべき国民保護法制を欠いてい た』
『有事とは何か、基本的人権は守れるのか、文民統制(シビリアンコントロール)は大 丈夫か。再び日本を「戦争のできる国」にしないため、厳 密な議論がいる』

有事法制を議論するのに、「再び日本を「戦争のできる国」にしないため」もないものである。
有事とはまさに戦争に他ならない。今のままでは日本は戦争のすべてを超法規的に処理せざるを得ない。
そのような国家としてあるまじき法の真空状態を解消して、
きちんと文民統制しようというのが、有事法制である。
そして国家が何のために戦うかといえば、国民の基本的人権は守るためである。
こんな当たり前の事を無視して、厳密な議論もないものだ。

『二十一世紀にふさわしい憲法はどういうものか。二〇〇 〇年一月、衆院憲法調査会が設置された』
『国民は九条を高く評価し、国民主権、基本的人権の尊重 とともに現憲法を貫く基本理念として胸深く受け入れてい る。同調査会はこのことを忘れてはならない。最終答申に 向け各党は協議を続けることになるが、必要なことは国民 の目線に立ち、あるべき日本の姿と憲法論を戦わせ、国民 的議論を深めることだ』

誠に奇怪な物言いである。
国民が各種調査において、九条と現実のねじれを認識し、改憲を支持してはいても、
九条を高く評価し、基本理念として胸深く受け入れているなど聞いた事が無い。
だいいち、憲法論議をしようものなら改憲論者と非難し、
永年「国民的議論」を封じてきたのはどこのどいつか。
盗っ人猛々しいとはまさにこのことだろう。

これらの「定型文」は、空虚な言葉、実体の無い念仏であり、
もはや国民に何の感銘も与えないのだが、左翼マスコミもそれを意識してか、
最近は開き直りとでも言うべき意見が出てきた。
過日、石原都知事再選にぶつぶつ文句を言っていた東大助教授、佐藤氏である。
佐藤氏は、現憲法には本当の民定憲法でないことによる後ろ暗さがあり、
それに口を拭っていた(神様扱いしていた)として次のように続ける。

神様扱い脱した憲法 佐藤俊樹(5月2日付)
『修繕するかしないのか は、話しあえばいい。しか し、くたくたでおんぼろが悪いとは、 私は少しも思わない。そりゃあ見栄えがする 方がもっといい。だが、神でないものを神様扱 いするよりは百倍も千倍もましだ。五十年かけ て、私たちは神様扱いなしでもやっていけるよ うになったのだ。これは進歩である』

あれだけ国民の支持があっただの、押し付けではないだの神話を流布しておきながら、
今ごろになってこんなことを言い出すとは呆れかえる。
護憲のためならいくらでも無節操になれるマスコミの腐った根性が垣間見える。

『憲法はくたくたで、おんぼろかもしれない。で も、私たちは変な神様頼りをせずに生きている。 それは十分胸をはってよい。問答無用のオーラなん ていらない。魔術もいらない。くたくたでおんぼ ろであることは、私たちの誇りである』

「神話」のご威光が通用しなくなったから、今度は使い古し万歳論である。
言い方を変えても中身がないのは相変わらずだ。
憲法とは何であるかをまともに認識しているのなら、
こんな戯言は出てこないだろう。
おんぼろ、すなわち時代にそぐわなくなった物をいつまでも有難がっていては、
国民の生命・財産を守る事は出来なくなる。
どこの国でも幾度となく改憲を繰り返し、常に時代に合わせて国民の利益を図れるよう努力している。
ところが、佐藤氏はそんな常識もご存知ないらしい。
おんぼろ憲法のために国民が死んでもよいとでも言うのか。

しかし、憲法論議といえば九条問題だと、
十年一日の議論を繰り返しているマスコミをはじめとする左翼は、化石か何かのようである。
現行憲法には九条以外にも問題点は多い。
それらを真剣に議論するならば、到底紙面が足りぬであろう。
結局、マスコミはまともに憲法を論じる気がないのだろう。
だから問題をすべて「平和」の二文字でしか語らない。思考停止である。
これならば、頭を使わず格好だけはつく。
こんな愚かなマスコミに引き摺られる国民こそいい迷惑である。


4/8 3面 焦点評論 教育基本法改正 共同通信編集委員・山田博

先日に続き、イラク戦争の中でも教育基本法改正に反対する左翼偏向マスコミは、
その手綱を緩める事はない。
「手探り続く日中関係」と題された記事の真下に、何の脈絡もなく改正批判の論説記事が配置されているのは、
そんなマスコミの執念の現れではないだろうか。

『どう変えるかは答え られるが、なぜ変える のかと聞かれてもまと もに答えられない。教 育基本法改正を求めた 中央教育審議会の答申 をひと言で言えば、こ んなことになるだろ う』

どう変えないかは答えられるが、なぜ変えたくないのかと聞かれてもまともに答えられない。
改正反対を唱えるマスコミをひと書で言えば、こんなことになるだろう。
彼らがやっているのは、根拠無きラベリング、悪魔化である。
とにかく印象操作にひたすら努めるマスコミの腐った性根が、この前文から滲み出ている。

『答申は「人格の完成 を目指す」とした現行 法の普遍理念は維持し ながら、「国を愛する 心」 「公共の精神」な ど八項目を新たに加え るというのが骨格だ。』
『だが、こうした理念 を新たに加えなければ ならない理由になると 途端に説得力がなくな る』

説得力は充分にある。現在の社会状況の荒廃と、そこに足りない要素との関連。
繰り返し中教審は説明しているではないか。
それを無視して「作文」しているのはどこの誰か。

『凶悪犯罪、いじめ、 不登校や家庭・地域の 教育機能低下などを挙 げ「教育は危機的状況」 と強調するが、なぜそ うなったのかという肝 心の分析が欠落してい るのが一番の要因だろ う』

これが典型的な「作文」の例である。 危機的状況になぜ陥ったかという分析が、公共の精神や愛国心の欠如ということである。
一体、マスコミは中教審報告の何を読んでいたのか。
肝心の分析が欠落しているのは、マスコミの頭の方だろう。

『診断がはっきりしない のに、基本法改正という 処方せんは決まってい る。まさに「答申は諮問 で示した方向を追認した だけ」 (文科省幹部)。 審議は形だけ整えればよ かったということであ り、初めに改正ありきの 政治的思惑先行を象徴す る』

診断ははっきりしているのに、改正反対という評論は決まっている。
これこそ「初めに反対ありきの政治的思惑先行」を象徴するものであり、
マスコミが如何にイデオローグ剥き出しで記事を作るかの証左であろう。

『実は、裏ではこんな動きがあった。〜(中略)〜根幹にかかわるとの 認識がありながら堂々と論じない。こっそりまとめた意見は無視さ れる。こんな中教審を 見ていると、今回の答申も、限りなく軽く見える』

そしてまた印象操作である。
中教審の審議が密室でコソコソ行なわれたと言い、こんな中教審の答申では駄目だという。
これは言うなれば人格攻撃である。
あいつはこんな人間ですよ、ロクでもない奴ですよと風聞を広め、
意見そのものには触れずに人格を貶める事によって、その意見の正当性を失わせる。
これが言論機関のマスコミのすることか。
言論を商売にしているのなら、あくまで意見の当否を問うべきであり、
このような人格攻撃で相手を貶めて自分が正しいように見せるなど、恥ずべき行為であろう。

『極め付きは諮問時の事務方トップにいた小野元之前次官の委員就任だ。 〜(中略)〜委員も個人的には多くが「おかしい」と答えるのに、肝心の審議 会ではとがめる声は皆無。あぜんとする思いだった』

印象操作の極め付きはこれだろう。
不正な天下りがあったように書き立て、中教審とは不正をする政治家並みに信用できぬところと言わんばかりである。
一体、委員の人事が教育の本質を巡る中教審の審議に、
どれほど関係があるというのか。
マスコミがやっているのはワイドショー紛いの「煽り」であり、
何ら根拠ある論ではまったく無い。

『教育について最も権威があると言われた中教審が「重み」を取り戻す日は来るのだろうか』

結局、今回の評論記事では、何が論じられたというのか。
ただ印象操作・煽りをしただけで、根拠も分析も無い。
意図的にラベリングしておいて「中教審が「重み」を取り戻す日は来るのだろうか」もないものである。
このようなマスコミとしては最低の、恥ずべき記事を書いたのは誰かと思えば、
去年の11/15の焦点評論でも改正反対をぶち上げていた山田博編集委員であった。
本当にマスコミというのは、最低の人間の集まりである。


3/21 8面 国家と個性どう折り合う 「解説」

イラク攻撃が始まり、世間が騒然となっている中でも教育基本法改正の動きは続いている。
一面トップで攻撃開始が伝えられた21日の紙面は、中教審の改正答申についても報じられていた。
教育基本法改正については、一貫して愛国心否定、改正絶対反対を貫いてきた山陽新聞だが、
今回も例によって例の如く、「解説」と銘打って批判記事を載せてきた。

『教育基本 法の改正を 提言した中教審答申は随 所で「日本人の育成」を 強調し、教育改革の重要 な理念として位置付け た。しかし子どもたちに 「日本人としての自覚」 を求めることが、教育を 取り巻く問題の解決に どう結び付くのか、納 得させるだけの説明は ない』

またまたお決まりの文句から始まっている。
この解説子をはじめ、マスコミは問題の本質を見ようとせず、
「為にする批判」を繰り返す。
目上を敬わず、個人の自由とエゴを履き違え、イースター島のモアイ像に落書きするような人間を作り出したのは、
紛れも無く現行の教育基本法ではないか。
その「個人の自由」万能主義が害悪をもたらした。それは国民一般に共通する認識である。
一方に振れ過ぎた振り子を中庸に戻すのが、「日本人としての自覚」という公共心なのだ。
これほど納得のいく説明はなかろう。

『中教審委員の平均年齢 は六十代半ば。高度成長 期からバブル経済の時期 を担い、日本を経済大国 に押し上げてきた世代だ けに、日本の現状への失 望感は強い』

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
解説子は何が何でもケチを付けようと必死である。
中教審メンバーは経済しか分からない人間で、日本経済復活の為に教育を弄ろうとしていますよ、
教育の本質なんか分かっていませんよと言いたいらしい。
こういう印象操作やレッテル貼りは、マスコミの十八番である。
まったく非論理的であり、こんなことを「解説」する必要がどこにあるのか。
委員の方々は社会人として立派にやってきた先達である。
君らマスコミより、よほど識見高いというものだろう。

『しかし、現代の消費社会を生き、物質的に恵ま れた子どもたちに「日本 のため」「新しい公共の 担い手に」と呼び掛ける 声は届きにくいだろう』

たしかに声は届きにくい。
なぜならこの解説子に代表されるマスコミが、このように率先して妨害するからだ。

『答申は一方で、一人ひ とりの個性を伸ばすこと の重要性も強調した。国 家や公共など集団への貢 献を求めることと、個性 を発揮するように育てる こととはどう折り合いを 付けるのか』

この解説子は底抜けの馬鹿なのか。
公と私、個人と集団は相互補完関係のものだ。いわばコインの裏表。
片方だけ重視したり、片方だけで存在しうるものではない。
つまりバランスが大事なのだ。答申はその当たり前のことを言っているに過ぎぬ。
それを「どう折り合いを付けるのか」などと、まるで共存できないもののように決めてかかる解説子は、
非常に偏った物の見方しか出来ていない。

『「日本人」という概念 も今では単純ではない。 人種や国籍が違う子ども たちが学ぶ教室も珍しく なくなった。こうした教 室で「日本」や「日本人」 だけを教えるわけにはい かない。答申は「真の国 際化」という課題にも答 えを示さなかったといえ る』

無知蒙昧もここに極まれリ。
例えばアメリカ。かの国は人種の坩堝といわれるほど多種な人種で国家を構成しているが、
義務教育ではどういう教育をしているのだろうか。
教室にはアングロサクソン系、ユダヤ系、黒人、中国系、日系、・・・と色々居るだろう。
果たして、このような教室では「アメリカ」や「アメリカ人」だけを教えるわけにはいかないと、
アングロサクソン系にはアメリカ史、ユダヤ系にはユダヤ史、黒人にはアフリカ史、
中国系は中国史、日系は日本史・・・と個別に教えてくれるのだろうか。
答えは言うまでもない。このような教室でも「アメリカ」や「アメリカ人」だけを教えている。
彼らは一様にアメリカ史を習い、アメリカ国旗に忠誠を誓い、アメリカ国民として行動するのだ。
それは国家の義務教育として当たり前なのである。
自国の国籍を持つ国民に、自国の歴史を教える。自国民として教育する。
世界中、どこに行ってもそれが普通なのだ。
そんなことも分からないとは、この解説子は相当に知的レベルが低い。
こんなレベルの低い記事で紙面を作り、金が取れるのだから、マスコミというのは誠に結構な商売である。


1/15 2面 焦点評論 共同通信編集委員 榊原元広
1/16 2面 社説 首相靖国参拝


一国の首相が戦没者を追悼する。それはどこの国でも当たり前に行われている事であり、およそ他国からクレームが付くなどありえない。
例えばベトナムが、アメリカ大統領にベトナム戦争の戦没者が葬られているからアーリントン墓地に行くなと言ったことがあるだろうか。
このように戦没者を弔う事は普遍的なことであり、これに口出しするなど内政干渉、非常識な事なのだ。

ところが唯一、世界で非常識がまかり通る国がある。
他ならぬわが国とその周辺国だ。

新年早々、小泉首相が靖国神社に参拝した。彼の腰砕け参拝には色々言いたい事もあるが、ここでは置いておこう。
問題は新聞である。15日の山陽新聞紙面は、まさに靖国批判一色であった。
今回は15日と16日の記事をまとめて批判しよう。

15日は「焦点評論」で、16日は「社説」において偏向報道の頂点を極めていた。

『小泉純一郎首相の靖 国神社参拝は、内外情 勢を熟慮した賢明な政 治行動とは、どうしても思えない』(15日)

内はともかく、なぜ「外」を熟慮する必要があるのか。本来、内政干渉の中韓こそ批判すべきであり、
それこそマスコミの役目であろう。
こうして「首相の行動は問題だ」と煽って「賢明でない政治行動」にしているのは、他ならぬマスコミ自身ではないか。
こういうのをマッチポンプ(自作自演)というのだ。恥知らずも甚だしい。

『靖国参 拝の個人的心情も、多 くの国民が共有するも のだろう。それと、公 的存在としての首相の 政治選択の是非は、区 別して考えたいから だ』(15日)

これは異なことを言う。
靖国に対する想いが、多くの国民が共有するものであるならば、その国民の代表たる首相が参拝するのは理の当然ではないか。
それを区別して考えようとは、この榊原という共同編集委員は、民主主義の民意すら踏みにじっている。

『日本の政治リーダー が歴史的な国際環境に 配慮せざるを得ないの は当然であり、その結 果、個人的な思いを貫 くことができない場合 もある。その意味で、 今回の行動は短慮に過 ぎると言わざるを得な い』(15日)

どこまでも嘘を吐くのがマスコミの習性か。
日本の置かれた「歴史的な国際環境」とやらが既に、デタラメなものであるという事は、
歴史的事実ではないか。
東京裁判は違法であると、国際法学上では認められている。
それを無視して、日本を永遠の侵略国家と見なし、封じ込めようとする中韓の意図の片棒を担ぐとは、
日本のマスコミの性根はとことん腐り切っている。

『いまは、核開発や拉 致問題に関し、国際社 会が一致して北朝鮮に 方針転換を求めていく 時期ではないか。とり わけ中国、韓国と協調 して事に当たること が、最も重要な外交課 題になっている。その 阻害要因になる動き は、慎まなければなら ない。中国、韓国は直 ちに、今回の首相の参 拝に強く反発してお り、国際協調への悪影 響が心配だ』(15日)
『首相のこの時期の靖国神社 参拝は、日韓関係の協調体制 にひびを生じさせ、日米韓の 連携に悪影響を与える恐れが あろう。首相の参拝は、思慮 を欠いたものといわれても仕 方がない』(16日)

そしてマスコミお得意の「国際協調への悪影響」という煽り文句である。
そもそも国際関係とは何か。それは自国の利益をどうやって最大にするかという、
いわば「狐と狸の化かし合い」みたいなものである。
そこに人類恒久平和とか勝手な夢想を持ち込んでも冷笑されるだけだ。
日本のマスコミはそこが分かっていない。
国際関係において振られる正義の御旗なぞ、化粧に過ぎないのだ。
だがそう言ってしまうと見も蓋も無いので、各国とも譲歩等の調整をするのだ。
北朝鮮に暴発してもらいたくないとの思いは同じでも、そこから各国が抱く打算は全く違う。
それを忘れて国際協調などと声を挙げたところで、他国への無条件な隷属になるだけだ。
もっとも、マスコミは日本を中韓の奴隷にしたいから、わざと危機を煽っているのだが。

『歴代首相が、村山富市 首相が戦後五十年の区切 りに出した歴史認識に関 する談話を引用するだけ で、より踏み込んだ見識 を披露しないのも情けない』(15日)

マスコミの痴呆もここに極まれリである。
古今東西、戦後50年国会決議と村山談話くらいの愚行はないだろう。
何しろ東京裁判史観なる「偽史」を、国家として承認すると公言してしまったのだ。
ドイツですらナチスは悪だとしても、ドイツの歴史そのものを悪だとはしなかった。
それより踏み込んだ見識とは、榊原編集委員は一体何を期待しているのか。
つまるところ日本は中韓の奴隷ですと公言しろと言いたいのだろう。
つくづくマスコミ人とは無知蒙昧である。というより、無知蒙昧な人間が就く職業なのだろう、マスコミというのは。

『官房長官の私的諮問機 関「追悼・平和祈念のた めの記念碑等施設の在り 方を考える懇談会」は昨 年末、「国を挙げて追悼 ・平和祈念を行うための 国立の無宗教の恒久的施 設が必要」だとする報告 書をまとめた。〜(中略)〜  この構想は自民党、遺 族会を中心に極めて評判 が悪い。小泉首相も、こ の報告書に冷ややかだ。 十六日の自民党大会に向 け、党の保守層ヘアピー ルし、小泉支持を取り付 けようと思ったとも受け 取れる。といって、新追 悼施設の建設に自ら水を 差す動きに出るのは納得 しかねる』(15日)
『混乱や対立を繰り返さない ために首相の意向を受け、官 房長官の諮問機関が昨年末、 国を挙げて追悼・平和祈念を 行うための国立の無宗教の恒 久的施設が必要とする報告書 をまとめている。報告書の提 言する新しい追悼施設の在り 方をめぐる議論を急がなくて はならない』(16日)

日本の政治家は愚行を犯すのが余程好きだと見えて、今も「無宗教の追悼施設」などという奇怪なものを作ろうと画策している。
これにもろ手を挙げて賛成しているのが、やはりマスコミなのである。
無宗教の追悼という矛盾に気付かぬほど、この人たちは宗教オンチなのか。
死者の霊を弔うという行為そのものが、宗派の如何を問わず宗教的行為である。
そこに各国・各民族の伝統によって、形式が整えられる。あるいはキリスト教であり、あるいはイスラム教であり、日本では神道・仏教なのである。
日本には靖国神社という立派な追悼施設がある。これ以上の死者への弔いがあるだろうか。
無宗教で弔いという宗教的行為をしようとは、死者への侮辱以外の何ものでもなかろう。
こういうことが分からない日本の政治家と、分かっていて日本の国家解体、中韓(といってもほとんど中国だろう)へ奴隷化のために、ありとあらゆる虚偽を尽くすマスコミのタッグは、実に始末が悪い。

『政府の公式行事は国立 の新たな施設とし、靖国 神社は私的参拝とする。 そうでなければ、野中広 務氏が一九九九年に提唱     したA級戦犯分祀と、靖 国特殊法人化は検討され ていい』(15日)
『靖国神社にはA級戦犯が合祀されて いるなどを理由に内外の批判 が高まったことから』(16日)

そしてまた嘘を吐く。
A級戦犯問題は、つい最近になって言われ始めたことだ。
もともとどんな形になろうと靖国参拝に中韓は反対なのである。
ところが野中を筆頭とする親中国派売国奴たちが、「A級戦犯分祀」というイカサマを言い始めた。
これなら中国様もお怒りを静めてくれるという判断である。
しかし、中韓が靖国参拝に難癖を付けるのは、日本をいつまでも自分たちの家来としておくため、
歴史カードという外交手段を使うのが有効との判断によるものだ。
だから、A級戦犯の次はBC級戦犯を、その次は日清戦争を・・・、と最後は靖国そのものを壊すところまでいかない限り、
中韓は「日本は侵略を反省していない」と何時までも言い続けるだろう。
こういうカラクリを知っての上で、マスコミは嘘を紙面で広めようとする。これを専門用語で「プロパガンダ」というのだ。

『靖国神社が明治以来、 国家主義の精神的側面を 担ったのは、紛れもない 事実である。同時に、兵 士らの鎮魂、慰霊の思い が張り付いていて、遺族 らの思いは格別である。 半面、周辺諸国の嫌悪感 に加えて、靖国参拝に違 和感を持つ年配者も存在 する。そんな両面性を熟 慮すれば、従来のやり方 で参拝するのはやはり、 控えた方がいい』(15日)

両面性。よくもまあ平然とこのような言葉が吐けるものだ。
その両面性の片面は、紛れもなくマスコミが作り出したものである。
虚偽で塗り固めた暗黒面だ。
それを粉砕してこそ、はじめて靖国の慰霊が平穏なものとなる。
マスコミの虚偽を打ち崩すためにも、従来のやり方の参拝をどしどしすべきなのだ。
小泉首相はまるでダメだが、次の首相には是非、8月15日の参拝を実現してもらいたい。


12/27 13面 検証W杯の遺産 下 日韓共催

今年はサッカーワールドカップが日韓共催で行われ、大変話題となった。
日本代表も悲願の決勝進出を果たし、国内は大いにサッカーで盛り上がった。
だがその一方で、共催国の韓国は類を見ない独善的、傲慢な態度で、世界中から嘲笑を浴びた。
それはネットを通じて今まで韓国のことをよく知らなかった一般人にも大いに伝わり、
かつてない嫌韓感情を広めてしまった。
しかし、反日マスコミはそれが気に入らないらしく、年末になって今ごろW杯の検証と称して嘘の記事を書いてきた。
これは誇張でも比喩でもない。正真正銘、嘘を書いているのだ。

『日韓共催のサッカーワールドカ ップ(W杯)で韓国代表の奇跡の ような躍進が続いた6月下旬。
日本では新聞、テレビが韓国内の熱 気を肯定的に伝える一方で、イン ターネット上のサッカー関連サイ トでは韓国への感情的な中傷や不 満が爆発的に膨れ上がっていた。』

「新聞、テレビが韓国内の熱気を肯定的に伝えた」とはお笑い種である。
情報統制をかけて韓国に都合のよい情報しか流さなかったことが、マスコミ用語で「肯定的」というらしい。
今思い出しても、マスコミ各社が気味が悪いほどに、韓国を褒め称える記事しか流さなかった事にぞっとする。
それゆえに、ネット上ではマスコミが決して伝える事のない真実の情報が、
広範に流れ、それに基づいて批判が巻き起こっていたのだ。
感情的な中傷や不満では決してなかった。

『「そこまでして勝ちたいか」「韓国の政治的な工作だ」―。
韓国戦で相次いだ誤審問題は、韓国への非難に形を変えて噴出。
韓国サッカー事情を日本語で伝えるホームページ(HP)を開設している韓 国在住の日本人女性は
「応援が多かったのに、9割ぐらいがふざけるな≠ニいう内容に変わった。
かえって日韓のサッカーファンは溝を深めたような気さえする」。
殺到する匿名の書き込みにHPの掲示板は閉鎖を余儀なくされた。』

誤審問題が韓国非難に形を変えた……嘘である。
誤審問題は韓国批判の一つのクライマックスであって、別のものが形を変えたのではない。
度重なる韓国の「蛮行」が、誤審問題で頂点に達して爆発したのだ。 あれを見てなお韓国を応援できる人間など世界のどこにも居ない。
掲示板を閉鎖したHPの主には可哀想だが、それが至ってまともな反応というものだろう。

『一方、準決勝のドイツ―韓国戦の大型映像での観戦が行われた東 京・国立競技場で多くの日本人がドイツ寄りだったことをとらえ、
韓国の主要メディアは「日韓共催の意義に反する」と批判的に報じ た。
W杯を通じた「日韓親善ムード」の背後では、いまだ根深い相 互不信感が顔を見せた。』

ドイツ代表の話が出ているので、いかにマスコミが嘘をついているか、そのドイツ―韓国戦を例に説明しよう。
ドイツ代表はスタジアム入りしたとき、信じられないものを目にした。
「ナチの子孫は帰れ!」と書かれた横断幕である。
(ハーケンクロイツの入ったものもあったが、これはさすがに事前撤去されたそうである)
そしてカーン、クローゼといったドイツ主要選手の遺影を掲げて歩く韓国サポーター。
いかに熱狂的なサポーターとはいえ、いったいここまで非礼なことをする人間たちが、
世界のどこにいるだろうか。
あの悪名高いフーリガンですら、こんなことはしない。
韓国サポーターはドイツに限らず、対戦相手に対しことごとく無礼千万、非道の限りを尽くした。
他にも対戦前夜に一晩中「テーハミングク」の大合唱を宿舎で聞かされ、寝不足のまま戦わされたポーランド代表や、
相手の国家斉唱のとき大ブーイングで邪魔をするなど、
この手の話は枚挙に暇がない。

これら事実はネットで広がり、真実を知った人たちは韓国に呆れ、幻滅し、
必然的結果として、韓国を応援する日本人はほとんど居なくなったのだ。

また、韓国人は日本戦は特に凄まじい応援をしてくれた。
相手国がゴールすると大歓声、日本がゴールすると大ブーイングという非常に心温まる対応で、
「日韓共催の意義」とやらを実に明快に示してくれた。

以上のような経緯から、多くの日本人がドイツを応援するようになったのは、まったく当然の話であり、
当の韓国が「日韓共催の意義に反する」と批判的に報じるなど、
冗談にも程があろう。
このような韓国の馬鹿さ加減が招いた不幸を、「根深い相互不信感が顔を見せた」と嘘を書く。
さすがイデオロギーのためには事実を曲げるのが得意のマスコミだけはある
日本のマスコミはいっさいこれら韓国人の蛮行を報道する事はなかった。
ことごとく握りつぶした。
だからこの検証記事は嘘を書いていると断言できるのである。

『「日本の一般の人々の韓国に対する知識は確実に増えた。10 年は日韓の関係改善を前倒しした」
と評価するのは日韓のスポーツ交流史に詳しいジャーナリストの大島裕史さん。
インターネット上の現象は、匿名投稿の 特性によるものだ、
という研究者の指摘もある。』

嘘吐きマスコミは、自分たちが情報統制できないインターネットを非常に恐れている。
だからネットは匿名だから便所の落書きですよとレッテル貼りに余念がない。
韓国非難は便所の落書きの特性だと学者も言っておられるぞと、
そう印象付けて真実を隠そうと必死である。
かさねて言うが、ネット上でマスコミが黙殺した真実が流れたから、嫌韓感情が生まれたのだ。
流言飛語ではない。すべては事実なのだ。

『W杯後に日本の内閣府が実施した「外交に関する世論調査」 の結果では、日韓関係を「良好だと思う」とした人は58.3%。
韓国に「親しみを感じる」は54・2%。ともに過去最高の数字。
多くの日本人はW杯を通じ「焼き肉とキムチ」だけでない多様 な韓国像に触れた。
それだけでもW杯の共催は、日韓の未来に大きな遺産を残したと言える。』

内閣府の調査がいつ、どこで、どんな層を対象に行われたのか分からないので、
この数字は何とも言えないが、大きな遺産を残したのは確かだろう。
大きな負の遺産を。関係改善を10年は後退させたのは間違いない。

そしてこのような嘘を書いて報道だとのたまうマスコミが存在する限り、
日韓関係の改善などありえないだろう。
とりあえず、山陽新聞か共同通信かは知らないが、この記事を書いた「村山」なる記者は、
嘘を書いた罪で首にすべきであろう。


12/16 9面 「報道と読者」第8回会議詳報

拉致事件に関する報道の歪みは、ここで何度も指摘してきた。
その特徴は国家犯罪という点を意図的に隠していること、過去の植民地支配と棒引きにすること、引き裂かれた家族という情緒的報道に終始すること等だが、
本日の紙面にはまことに面白いものが掲載されていた。
その名も『北朝鮮拉致事件報道を検証』である。

内容は共同通信社(地方紙に記事のほとんどを配信している。どこの地方紙も同じ記事が載るのはそのため。朝日新聞と並ぶ左翼偏向マスコミ)の第三者機関「報道と読者」委員会の第8回会議の詳報であるのだが、
今まで山陽新聞を彩ってきた偏向記事を頭に置いて読むと、これは共同通信社の「言い訳」ではないかと思える。

この委員会を構成するのは次の3名。評論家の内橋克人氏、元最高検検事の土本武司氏、学習院大教授の紙谷雅子さん。
では、この3名がどのように共同通信の報道姿勢を検証しているか見てみよう。

内橋委員「北朝鮮のような閉ざされた国家には、従来の取材方法、調査報道が通用しないという認識が必要だ」
土本委員「拉致事件は人権の著しい侵害行為であるだけでなく、日本の主権侵害の面を持つ国家犯罪だということを強調すべきだ」

全くその通りである。今まで紙面に登場する識者は奇妙奇天烈な者ばかりであったが、今回はまともな識者のようだ。
そう、このような認識こそ、拉致事件報道で前提となる認識であり、これがごっそり欠けていたからこそ、一体どこの国の報道機関かと首を傾げるような記事が横行していたのだ。

紙谷委員「被害者の置かれた立場から、出てくる情報と期待されているのに出てこない情報がある。それはなぜなのかを補う解説がますます必要だ」

ここまでは3氏の言うとおりだ。北朝鮮というのは全体主義国家である。それに対して自由主義諸国と同じ姿勢で取材していては、独裁者に都合よく利用されるだけである。

紙谷委員「なぜ北朝鮮は事件を告白し、情報を出してきたのか。〜(中略)〜冷静に判断できる紙面になったのではないか」

おやおや?ちょっと変な意見が出てきた。あの意図的なまでに北朝鮮よりの記事のどこが「冷静に判断できる紙面」と言えるのだろうか。
正論が出ていただけに、怪しい雲行きを感じさせる。
次は家族取材への検討だ。

紙谷委員「利用されているとしても積極的に情報を伝えていく方が、重要な情報と気付かなくてもちゃんと情報が 伝わってくる。取材の自主規制には、危うい面もあるのではないだろうか」

どうも3氏の中では、この紙谷委員が曲者のようだ。
報道を食品に喩えてみよう。
原材料が明らかに不良品だと分かっているとしよう。それを知りながら使って「不良品でも食えないわけじゃないし、栄養もあるから」などと言ったら、この会社は明日にでも潰れるだろう。
紙谷委員は不良原料を故意に使う会社に責任無し、消費者が自己責任を取れと言っているのだ。
なぜ取材の際、裏を取るという行動が必要なのか。それを理解していれば、こんな紙谷発言は出てこない。
独裁者の宣伝でもなんでもいいからとにかく流せでは、報道機関の名に値しないだろう。

その点、土本委員と内橋委員は、「特殊で微妙なケースであることを念頭におくべき」「(北朝鮮に)商 業主義的な競争に乗じられる心配も付いて回る」としっかり釘を刺している。

そしてメディアの責任、過剰取材の防止という観点の検証が続くが、ここでも紙谷委員一人が明後日の方向を向いている。

紙谷委員「似た事件が発生し〜(略)〜同じ背景だとその時に理解するのは非常に難しかった〜(略)〜全体像は分からなかったのでは。〜(略)〜半島への関心は韓国までだった」
「自主規制をして取材が限定的になっている。〜(略)〜被害者側が伝えたい情報だけが伝わり、うがった見方をすれば情報操作となる。〜(略)〜メディアが、簡単に自主規制に乗ってしまうのではないかとの、不信をもたらす可能性もある」

どうやら冒頭示した見識は、何かの間違いだったようだ。
紙谷委員の暴走は止まるところを知らぬ。
当時、すでに元北朝鮮工作員などの複数情報筋から、北による拉致というのは相当明らかになっていた。
しかし、政治家・マスコミとこぞってこれを黙殺し、今の今まで何もなかったかのように振舞ってきた。
その有り様は家族会の人たちが一番ご存知のところだ。
これは決して難しいとかの問題ではなく、故意に無視しつづけた結果なのだ。
さんざん、北は王道楽土、南は軍事独裁と報道しつづけて、北に都合の悪い事は絶対に報道しなかったマスコミの報道姿勢は糾弾されてしかるべきであろう。

また、被害者に対する報道が限定的で情報操作だとは、この人は相当頭がおかしい。
紙谷委員はついさっき、利用されていても積極的に情報を伝えろと言っていたではないか。
その舌の根も乾かぬうちに、利用されるのはけしからんとまったく正反対のことを言い出すとは。
こういうのをダブルスタンダードと言う。

対照的に内橋委員と土元委員は終始、冷静な意見を出していた。
過剰取材の商業主義的側面や、過去のメディアの責任など、指摘すべき点をしっかり押さえていた。

さて、こうして3氏による共同通信社の報道検証が行われたわけだが、
まず思ったのが、3氏とも紙面を読んでいないのではないかということだ。
内橋委員と土元委員は冷静な意見を述べていたが、しかしその意見と紙面の記事とのつき合わせがない。
つまり、あなたの意見は立派だけれども、では紙面ではどうなの?というところが全く無いのだ。
紙谷委員に至っては論外である。
そして全体的に形式的であるということだ。
別に「共同通信の」という所を「朝日新聞の」に書き換えても通用するような検証内容であり、具体性に欠ける。
つまり、我々はこのように記事を常にチェックしていますよとポーズを取っているようにしか見えないのだ。
何より、この委員の検証が生かされているかどうかは、紙面を見れば一目瞭然だ。
相変わらず北朝鮮よりの報道で、歪んだ報道を繰り返している。
共同通信がこの委員会をきちんと活用しているのなら、とっくにまともな紙面になっていてよさそうなものだ。

この記事では大きなタイトルがこう入っている。
『「国家犯罪」強調を』
何かの冗談ではないか。何しろ共同通信はその一番重要な点をひた隠しにして、
植民地支配と棒引きにしろとか、いったん帰国させろとかいう悪質な意見ばかり載せてきたのだ。
それだから今回の検証記事は、一層「ポーズ」の印象を深める。
紙谷委員みたいな人間を委員に潜り込ませて、自分たちに都合のよい意見を言わせていることからも明らかだろう。

マスコミの権力こそ糾弾される最たるものである。
このような好き勝手をしているマスコミが、社会の公器などと厚かましいにも程があろう。

おまけだが、北朝鮮を「朝鮮民主主義人民共和国」とフルネームで呼ぶのは何故かとの質問に答えるコーナーがあった。
ここでも土本・内橋両委員が「北だけ正式名称はおかしい」「民主主義ではないのに民主主義とは?」とずばり指摘していたのに対し、
紙谷委員だけが「向こうがどう呼ばれたいかが重要。向こうの目で見れば民主主義だ」と呆れる意見を述べていた。
こういう頭のおかしな人を委員とか識者と呼んでいる限り、共同通信の偏向報道は一生直らない。
そしてそれを無条件で載せる地方紙も。


12/4 24面 北朝鮮反日活動理由も考えよう へいむぅ 投書欄

11/16紙面に掲載された「相手を考慮せず強引な日朝交渉」という投書に、ここで反論したのを覚えておられよう。
あれから紙面においても随分、批判の投書を取り上げていたので、少しは山陽新聞も自分で考える気になったかと思っていたら、本日の投書欄を見てやはり本音は北朝鮮シンパかと絶望した。
今度は高校3年生の投書を利用して、北朝鮮擁護を画策している。
今回は短いので全文を掲示してみよう。

 『先日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を″卑劣な犯罪国″と書かれた投稿文を読みました。私は違う意見です。
 人間が国と国の間の問題を話し合う時、同じ土俵にたつのは難しいことだと私は思います。拉致問題で考えてみると、基 本的に日本人は今現在の問題を述べ、朝鮮人は過去の問題から持ってきて述べます。でもどちらが 良いなんて言えなく、交渉がうまくいかない一つの要因となっていると私は思います。
 得体の知れない国のようになっていますが、かつて日本人はそこに住んでいました。反日活動は確かにすごいと思います。 今の日本を見てほしいと思います。しかし、なぜ反日が起こったのか、私たちが学ぶことは必要だと思います。拉致 は犯罪です。でも一方的に″卑劣″とは言えないのではないでしょうか。』

ひょっとして高校生を騙って山陽新聞が捏造したのだろうか。そう思うくらい稚拙で、基本的知識がまるっきり欠如した酷い投稿である。今時の高校3年生(もうすぐ大学受験ではないか!)が、社会についてこの程度の知識しか持ち合わせておらぬとしたら、学校教育は完全に崩壊したと言えるだろう。

学力低下はさて置くとして、この投稿の知識欠如を指摘していこう。まず拉致とは何かということだ。平たく言えば誘拐である。例えば、日本人がアメリカ人を誘拐したとしよう。そして「私の母はアメリカの原爆で殺された。だから過去の問題を考えれば、私が通りすがりのアメリカ人を害するのは当然である」と言ったら、この誘拐は正当化されるのか。
答えは否である。
過去の問題はどうあれ、「現在」「法律を犯し」「他者の人権を侵害している」のだから、これが卑劣な犯罪でなくて何であろう。

そして何故、かの国では反日が盛んなのか。それは建国の経緯上、そうでないと国民を繋ぎとめていられないからだ。
金日成が抗日ゲリラとして活躍して北朝鮮を建国したと、向こうの「正史」は教えている。もちろんそれはデタラメであり、本物の金日成はどこでどうなったか分からない。現在、金日成と呼ばれる人物は、実はソ連の息がかかった人物であり、戦後にソ連軍とともにやってきて、朝鮮統治を任されたに過ぎない。
そういう嘘の建国史を土台としている以上、日帝(日本帝国主義)と友好関係を結ぶことは、虚構が暴かれることになりかねない。
だから北朝鮮は反日を国是とするしかないのだ。

さらにお馴染みの「過去の問題」。
学校現場ではマルクス主義に毒されているから、この高校生は知らないだろうが、あれは嘘である。
日朝間に如何なる問題も存在しない。強制連行も従軍慰安婦もみんな嘘なのである。
マルクス主義を信奉する教育界が、日本を永久に奴隷国家とするために、国に誇りを持てなくしようと嘘で塗り固めた「自虐史観」を蔓延させたのである。

こうして北朝鮮は、日本に対して敵対行為を続けるのであり、拉致という明白な国際法違反についても、「過去の問題」というデタラメで相殺しようとするのである。

さて、このような基本知識欠如の感想文(事実に基づかないのだから論ではない)を載せるとは、山陽新聞も浅はかなことをする。
この高校生の知識欠如は致し方あるまい。
本人も「私たちが学ぶことは必要だと思います」と言っているから、せいぜい真実の歴史を学んで、後日自分がとんでもない事を口走った事を反省してもらいたい。
しかし、山陽新聞には弁解の余地はない。
本来、こういう欠陥投稿を審査して落とすのが新聞社の役目であろう。
にも関わらすこのような投稿を載せたということは、最近の正常な判断に基づく投稿が気に食わないから、
世論を北朝鮮擁護に誘導しようと「高校生」というブランドに頼ったのであろう。
そら、高校生だってこのくらい考えてますよとアッピールしようとしたのであろう。
なんと姑息で卑劣な新聞だろう。
こういうやり口は朝日新聞が最も得意とするところだが、地方紙でもそういう手法の研究には余念がないと見える。
このような山陽新聞はトイレットペーパー以下であると言っておこう。


11/25 15面 中教審報告 わたしの読み方 下 芹沢俊介 評論家

教育基本法改正反対の大合唱も、これでひとつのクライマックスか。今回は本命の登場である。
あの拉致問題で比類ない見識を見せてくれた芹沢氏が、中教審報告を批判する。

『後ろ向きに承認せざるを得ない状況になってきた』と芹沢氏。おやおや、これはまた弱気ではないか。『グローバリズ ムが想像以上に加速しているなかで、経済界が教育にいろんな要請をするのは必然だと思 う』。なるほど、さしもの芹沢氏もグローバリズムの前には素直にひれ伏すのか。『個の多様性が定着すれば問題にならない』。つまり、芹沢氏は中教審の報告に反対したいが、グローバリズムから能力主義が要請されるのは仕方が無いし、結果として個の多様性に繋がるから渋々認めよう。それが「後ろ向きに承認」ということらしい。

さらに芹沢氏は「後ろ向き」の理由を語る。『「教育は学校で」という枠組みが崩れて いないという印象を持った』『反対するにして も、正面を向いてしまえば、その枠組みの中 での闘いになる。僕はもともと、教育や学校 は怖いもの、という意識がある。だから正面 から闘わないで『学校を出なくちゃ社会に出 られないなんておかしい』というスタンスに 立ちたい」』。
冒頭、何時になく弱気な発言から始まったが、さすがは芹沢氏。「素晴らしい見識」を披露してくれる。
学校教育の枠組みが崩れていないことがご不満らしいが、義務教育とはどこがやるものなのか。世界の国々で、義務教育を放棄しているところがどこにあるのか。あまりに突飛な発想にめまいを覚える。
そして正面から闘いたくないという理屈にゲンナリする。ひとつの論点を取り扱うとき、正面から向き合わないでどうすると言うのか。 学校や教育が怖いとは、この人は学校教育に恨みでもあるのだろうか。問題に正面から向き合いたくないから、論点の土台そのものを破壊しようとは、さすがは左翼だけはある。

そして学校教育否定を正当化しようと詭弁が続く。『報告は、不登校やいじめ、学級崩壊を「危 機」として挙げているが、これらは学校とい う集団中心のシステムが根本にある』『集団より自分が大事、とい う考え方が受け入れられない限り、こうした問題は解決しない』。
世の中には集団生活に不適合という人がいる。私もそういう人を無理やり学校に行かせるべきとは言わない。しかし、不登校にしてもいじめにしても、原因が一つというわけではない。ケースバイケースであろう。いったい何を根拠にして、芹沢氏は学校システムが原因だと断じるのか。不登校はともかく、いじめはまさに「集団より自分が大事」という発想で起こっているのではないのか。集団は悪であり、個人こそ至高の存在だというこの思想が、戦後の日本を滅茶苦茶にしたのではないか。至高なる個人が理屈をこねれば、たちまち電車内の化粧も、暴走族も、殺人さえも浄化される。芹沢氏には現実が見えていない。

こうして芹沢氏は学校教育解体論をぶち上げる。『日本ぐらい豊かな国では義務教育の制度 は解体してもいい。だからといってみんなが学校に通わなくなるわけじゃない。それに教育の本質は『自己教育』しかないと思いますから』。
学校に行きたくても行けない子供が世界にはいる。一方で、豊かな国は義務教育を解体しろという。馬鹿馬鹿しいにも程がある。芹沢氏の言はただの驕りでしかない。義務教育を安心して受けられる環境にあることが恵まれたことだという認識がないから、傲慢な考えを正当化できるのだ。
世界の極貧国の悲劇は、教育が普及せず産業が発達しない事にある。芹沢氏はアフリカの極貧国を見て回ってきては如何か。
ましてや「自己教育」などまやかしである。応用は基礎を学んでこそだ。無から有は生まれない。教育という文字を見るがいい。「教え」「育てる」。つまり己一人で完結できるというのは嘘であり、師から教えられ育まれ、はじめて自分で考える事ができるようになる。学校がなくても自己教育でなどというのは、教育を知らぬ素人の妄想に過ぎない。

キテレツ評論家の妄言はさらにヒートアップする。『「(新しい公共について)どこまで侵 入したら反発されるか」を探り合う具体的経験から公共性を獲得していく。「これが規 範だと上から押し付けても通用しない。基礎となるのは一人であって、個々人が自分の快 適さを追求するなかで互いに折り合いをつけていく。それが僕の考える、新しい公共です』。
芹沢氏は底抜けのアホである。人間だれしも自分だけが得をしたい、楽をしたいと考える。これは人間の性質であり仕方がない。そんなエゴイストな人間がどうやって社会を運営しているか。一つは法律という形で明示される規範を作り、一つは道徳という形で暗示される規範を作り、人間同士がぶつかり合わぬようしているのだ。公共性と言う場合、専ら暗示される規範つまり道徳の割合が高い。
そのような道徳は、その共同体が長い年月の中で培ってきたものだ。そして道徳は伝承されることで共同体運営が安定する。伝承の場は家庭であったり学校であったりする。教育において公共性というのが重視されるのは、円滑な社会生活のため必然なのである。
芹沢氏はそんな当たり前のこともご存知でない。個人の快適さを前面に押し出したとき、何を持ってそれを掣肘するのか。互いに己の快適さを至高として考えている以上、折り合いなどつくはずが無い。個人を最高価値だとしてしまったら、個人と個人のぶつかり合いにおいて止めようが無いということが分からないのか。
折り合いをつけるとき、どういう価値観でもってするのか。それが公共性ということである。芹沢氏の言はまったく逆転してしまっている。
こんな程度の低い言説では、中教審報告の批判にすらなっていない。ただ芹沢俊介という低脳な人間が、取材にかこつけて電波を飛ばしているだけだ。

こんな低レベルな人間に評論させるようでは、山陽新聞も低レベルな新聞だと言えるだろう。


11/23 2面 強硬論に流されないで 社説

アメリカが次々と北朝鮮の核開発疑惑を明らかにしている。ついにはCIAが北朝鮮は既に核を保有していると指摘した。これは日本の国防にとって極めて危険な状態だ。
ところが社説子は平和ボケの毒が全身に回ったと見えて、腰を抜かすような能天気な論説をしてきた。

『だが、核保有はあくまで推 定であり、それをもって脅威 をあおるようなことは、この 間題の対話による解決を妨げ ることになりかねない』と、脅威を煽るな、話し合いをせよと訴える。
この社説子は何のために未来予測をするのか全く理解していない。例えば企業などは情報を集め、将来がどうなるかをある程度予測して、危機なり何なりを回避する。そのプロセスで、将来重大な危機ありという「推定」がされたとき、脅威を煽る言葉だ、そんな未来予測は無視しろ、という重役が居たらどうか。いや、まさにそうやって危機を無視しつづけたのが今の企業不祥事ではないのか。
ある情報に基づく推定は、それ自体はひとつの可能性にすぎない。しかしだからといって無視してよいものではない。
推定だ、煽りだと喚き散らすこの社説子は、まさしく今の企業不祥事に連なる現実を見ようとしない愚か者だろう。

この愚か者の社説子はさらに続ける。
『今後も冷静な対応が大切だ。今、必要なのは北朝鮮に関 する精度の高い情報である。〜(中略)〜日本も独自の情報収集に 力を入れ、政策の立案・決定 に誤りがないように努め、外交交渉を有利に導かなければ ならない』
翻訳すると、アメリカの情報は疑わしいから、日本で独自に情報を収集して、軍事力強化という間違った決定をせずに、あくまで話し合いを続けなさいという事らしい。
しかし、世界で一番優れた情報収集能力を持っているのはアメリカである。今さら日本が独自でやったところで、アメリカ以上の確度の高い情報など得られるはずも無い。何しろわが国はスパイ衛星の一つも持っていないのだ。
また、仮に独自の情報収集により、CIAの報告と正反対のものが手に入ったとき、どう判断するのか。そのとき、わが国の情報がCIAより確度が高いとどうやって証明するのか。
CIAの情報を裏付けるものであった場合は?それでも話し合い一本槍なのか。
社説子はこのような現実的な思考を放棄して、空想を述べているに過ぎない。危機は無いから話し合えと空想をもとに理想を語っているだけなのだ。

そして締めくくりである。
『政府は来年二月に初の情報 収集衛星(偵察衛星)を打ち 上げ、宇宙からの安全保障情 報の収集を行う。そこで得ら れた情報なども活用し、日米 韓が結束して北朝鮮の核開発 を断念させる外交努力が求められる』
現実を見たくない社説子は、CIAの報告を無視してあくまで核開発と言い張る。もはや現実は核開発から核保有と幅の広いものになったのに、あくまで北朝鮮は核開発しかしていないと言い張るのである。
そして現実を無視して、日米韓が結束して核開発を止めさせようと呼びかける。今ごろ偵察衛星を打ち上げたところで何になるのか。やはりノウハウ等で常にアメリカに遅れをとらざるを得ない。そんなものに過大な期待はできないと考えるのが現実的思考である。
しかし、自分にとって嫌な現実を無視したい社説子は、日本の偵察衛星を高評価し、これを使って北朝鮮の核開発を止めさせるのが最良の道と理想を語る。
CIAの報告を受けて現実的思考を展開するなら、日本は核開発から核保有までを視野に入れ、従来の話し合いから軍事力行使までを頭に入れて幅広い対応を取る必要がある。今までの話し合い一本槍では最悪の事態に対応できないだろうことは、今回のCIAの報告が指し示す。
平和ボケした人間は平和、平和と唱えていれば平和になると思っていて、軍事力というオプションを遠ざけていればそれでよいと思っている。この社説子はまさにそうだ。軍事力という嫌いなものを避けるため、核保有を核開発と言い換えて、だから話し合いで平和が来ると言い張る。北朝鮮が日本の全域をミサイルの射程に収めている現実があり、そこにCIAの報告により、全国どこにでも核爆弾が落ちるという恐怖の現実が突きつけられた今、社説子の空想的平和主義は日本にとって百害あって一利なしであろう。


11/20 4面 なぜいま教育基本法改正 下

中教審批判論文も「下」とあるから今回で終わりか。もっとも他のコラムや評論で非難を続けるつもりであろうが。
最後を飾るのは「競争原理」非難だ。「『新しい時代を切 り開くたくましい日本人』という表現は、経済原理しか働いていないような感じがする」という中教審委員の永井多恵子氏の意見から始まる。
ところでどうして中教審委員の批判の言葉ばかり出てくるのか。これだけ見ていると、如何にも内部にも大反対があるのに無理やり報告書をまとめたかのように印象される。
いや、まさにマスコミが狙っているのはその印象操作なのだろう。発言の前後の状況、文脈が不明であれば、その言葉の意味判断は難しい。委員の発言から前後の脈絡を無視して批判的な言葉だけ抜き出していけば、「ほら、内部でも批判だらけだぞ」という体裁を繕える。
あくまで推測だが、都合よく委員の言葉をつまみ食いしているのではないか。

次に「エリート教育」という見出しで、教育現場で起こっている競争重視の改革を説明する。理数系重視、統一学力調査、学校選択制。ここだけ読むと何故これが非難される事なのか理解できない。
今までの教育は「結果の平等」に傾きすぎて、できる子供の成長の芽を摘んできた。この程度の競争なら、行き過ぎた結果の平等に対してバランスを取り戻すものではないのか。
文科省が円周率が3であるなど、常識外れな改革をやって国民から総スカンを食ったのは記憶に新しいところだ。誰も過度の競争は望んでなかろうが、同時に過度の平等にもいかがわしさを感じているのだ。

だがマスコミは、競争原理を寸分も許さない。
『法政大の佐貫浩教授(教育学)は、教育への競争原理の導入に警 鐘を鳴らす。「幼いころからの競争で子どもが本来の目的を見失い、競争自体が自己目的化してしま う恐れがある。そこで挫折を味わうと、学習から逃避するなど子どもの力を逆に奪うことになる」』といって、競争が子供から力を奪うと力説する。
しかし徹底して競争を排して本当に子供のためになるのか。少し考えれば分かることだが、世の中には競争だらけだ。会社における能力給の導入や終身雇用制度の廃止などは、まさに競争そのものではないか。子供たちはいずれは成長して嫌でも競争社会の中で生きてゆく事になる。
もしそのとき、子供が今まで競争というものを一遍たりとも経験した事がなく、競争無き平等社会から、競争だらけの実社会に放り込まれたらどうなるか。おそらく競争の経験ない子供は、右往左往するばかりで路頭に迷うだろう。実に酷いことではないか。

そもそも教育には実社会に出て行くための訓練という意味合いもある。ならば子供のときから競争に慣れさせておいて、大人になったとき実社会を生き抜く力を養っておくのも重要であろう。
問題は何事もほどほどがよいということであって、過度の競争にならなければ、競争原理そのものは非難されるべき理由はない。

『中間報告には「心豊かで」と修飾語が付いたが「たくましい」は最後まで消えなかった』と締めくくり、冒頭取り上げた「たくましい日本人」というけしからん表現は残ったと言わんばかりだが、「たくましい」という普通の言葉さえ、ここまでマイナスイメージを煽り、何としても教育基本法を改正させまいとするマスコミの妄念にはうんざりする。
そうまでして競争原理を嫌うのなら、是非とも山陽新聞をはじめとするマスコミ各社は、社長から平社員まで一律同額給与制をやったら如何か。


11/19 4面 なぜいま教育基本法改正 中

中教審報告への非難は、まさにあの手この手の様相だ。今回は「若者不在」「教育勅語」「管理教育」がキーワードである。
冒頭「この会議の年齢層は高い」という中教審の一委員の声を取り上げ、若者の将来を決めることなのに若者の意見が反映されていないと非難する。
最近思うのは、こういう若者に媚びる大人の増加だ。年齢を積み重ねる事によってしか得る事のできない経験と能力というのは間違いなく存在しており、だからこそ高齢者でも働けるようにという動きがあるのではないか。また、若い頃は年長者に反対され「石頭め」とか思っても、歳を取って思い返してみると、ああ正しいこと言っていたんだなあと思い返すようなこともある。
何でもかんでも若い者の意見を取り入れればよいというものではない。
若者の将来を決めることだからこそ、年長者の意見が重要なのだ。そんなことも分からず、若者に媚びることしか知らない人は、さっさと中教審を辞めて貰いたい。

さて次は「教育勅語」である。自民党の麻生太郎政調会長や森前首相を引き合いに出し、『戦前、戦中生まれの思いがにじむ中間報告』として『「子どもを信頼していない。管理しやすい子どもをつくろうとしている」と須黒さんは警戒する』と続ける。
教育勅語をまともに読んだことがなく、悪魔の教典か何かの如くイメージしているマスコミは、こうやってラベリングによる悪魔化ばかりしてくる。最近はインターネットで現代語訳が読めるので、不勉強な記者諸兄は一度ゆっくりと熟読玩味なされては如何か。

そして締めは「管理教育」。
不登校だった石井さんという人の意見を紹介する。『個を尊重する基本法を読み感動した』『不登校生は管理主義の学校にずたずたにされ』『ルールは互いの個を尊重して成り立つ。押し付けないで』。これで記事の最後を飾る。
何とも姑息な誘導である。若者不在、教育勅語と負のイメージを植え付けた所で、管理教育というとどめの一撃。これで中教審の報告は隅から隅まで真っ黒な悪の権化であると決め付けられたのだ。
この記事にはまったく理性的な検証も論理もない。

それにしても記事中登場する「東京の私大に通う須黒さん」とは何者か。おおよそこのような記事にインタビューされて答える人間は、その筋の運動家か、市民団体とやらに所属する人で、マスコミが望むような回答しかしない。
そう思ってGoogleで検索してみると、案の定引っ掛かった。
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/event/1206shukai.htm
http://www.asahi-net.or.jp/~cj7h-mrgc/PTA/activities.html
何のことはない、あの悪名高いネット21の関係ではないか。マスコミはとことん性根が腐っている。これでよく戦前の軍部が批判できるものだ。
自らの意見に沿うように左翼運動団体すら利用するのだから、公正なマスコミというのが偽善でしかない事がよく分かる。


11/18 15面 中教審報告 わたしの読み方 上 西原博史 早稲田大学教授

中教審が愛国心を軸にした報告を出して以来、新聞紙面はすっかり「反・愛国心キャンペーン」になっている。今日もまた改正反対を訴えて知識人の意見を掲載していた。
前置きによるとこれは前後編の記事のようで、今回は早稲田大学の西原氏、次回は評論家の芹沢氏(拉致問題でとんでもない認識を披露し、ここでも散々批判したあの芹沢氏である!)らしい。
では、西原氏の意見を見てみよう。

『教育基本法は〜(中略)〜戦前のように、教育がお国のため、天皇 のために役立つ国民を作り出す作業になってはならないという反省があったんです』

マスコミにしろ知識人にしろ、どうしてこうもステレオタイプの思考しかできないのか。
彼らは本当に戦前の教育を研究した事があるのか。戦前=天皇陛下万歳=臣民製造作業という実に偏見に満ちた決め付けばかりで、実態を研究しようという意思が微塵も感じられぬ。

『その法律をなぜ見直す必要があるのか〜(中略)〜「基本法があるためにできないことは何 か、という視点でみると分かる。一つは能力主義で、もう一つは愛国主義。この二つの導 入が法改正を目指す本当の理由だと私は思います〜(中略)〜四十人学級を維持したままで個に応じた 教育をするのは無理です。集団教育体制のなかで能力主義を強めれば、多くの子が置き去りにされるでしょう」』

西原氏はやや変化球を投げてきた。今まで愛国心一本槍でマスコミは批判してきたが、この人は能力主義による落ちこぼれの問題を取り上げた。
しかしやはり的外れな言説である。能力別教育をしないのは、寧ろ個人の違いを無視したものだ。「個人の尊重」を何よりも重んじるマスコミならば、西原氏の意見は個性を無視する管理教育だと批判すべきではないのか。

『愛国主義の問題はさらに深刻であり、法改正の核心だと西原さんはみる。「国というものが何なのか、どう行動した ときに国を愛することになるのかという判断基準を国に握られる可能性がある。それは基本法がもともと『あっ てはならない教育』として排除してきたイデオロギーの注入になりかねない」』

前振りが終わったところでやはり核心にきた。このマスコミ・知識人の、反・愛国心にかける執念は一体どこから来るのだろうか。
さておき上の言説も理屈にもなっていない物言いで、うんざりさせられる。
わが国を愛する心を養うということが、どうして「判断基準を国に握られる」ことになるのか。また、どういった状況を想定しているのか。論理の飛躍も甚だしい。
さらに愛国心教育を「イデオロギーの注入」というが、西原氏は現場を知らないのか。今まさに行われている教育は、反国家反権力というイデオロギー教育なのだ。歴史教科書一つとっても、マルクス主義史観というイデオロギーで塗り潰されているのだ。

『一九八九年の学習指導要領の改定では、入学式、卒業式などでの 「日の丸・君が代」が「指導するものとする」という言葉で事実上義務化され、九九年には 国旗国歌法も施行。最近の話でいえば、本年度、福岡市の小学校が 「国を愛する心情」や「日本人としての自覚」を三段階評価する通知 表を採用している。「人の内面を評価す るようになれば『いろんな考え方があること が認められる』という今のシステム、教育の 根幹がひっくり返る恐れがあると思います」』

どうやら「判断基準を国に握られる」とは、国旗国歌や通知表のことらしい。この人たちは馬鹿ではなかろうか。
どうも「国」という文字が絡むと「パブロフの犬」になるようなので、そんな条件反射人間にも分かるように説明しよう。
例えば山陽新聞の記者でありながら、社旗を座布団代わりに尻に敷いていたり、社歌の斉唱のとき「俺はこの歌が嫌いだ」と喚き散らして妨害する同僚がいたらどう思うか。たったこれだけの話なのだ。それに「個人の尊重」だの「思想・信条の自由」だのご大層な肩書きを付けて尊重しているから、おかしなことになる。
常識に立ち返れということだ。自分が所属する共同体には自ずと愛着も湧こうし、そのシンボルには何らかの敬意を払うものだ。その当たり前の常識を、反国家反権力のイデオロギーでかき乱しているのが今の教育現場であり、現行教育法はその後押しをしているのだ。
一体、どこの国で義務教育で反国家を教えるところがあるというのか。如何に「いろんな考え方があることが認められる」とはいっても、自分たちの生活する共同体をぶち壊す考え方を許容できるわけがなかろう。ましてやそれが義務教育で行われているとあれば尚更だ。


11/17 2面 初めに改正ありきは困る 社説

「パブロフの犬」は今回の中教審で愛国心が前面に出たのが余程気に障るらしく、2日後は社説においてまた「条件反射」を繰り返してきた。
今日の社説は片方が拉致被害者の支援に万全を尽くせというものであったが、愛国心批判を最初に持ってきて、文量も多かったところを見ると、愛国心というのは拉致問題より由々しきことだと考えているのか。
さて、社説の中身を見てみよう。

まずは現行の教育基本法を『「国家のため」が主眼だった戦前の理念との決別宣言であったことは言うまでもない』と褒め上げるが、どうもこの社説子は戦前とは大東亜戦争当事のごく狭い期間としか認識していないのではないか。
総力戦となった近代の戦争において、戦時に国家主義的教育が行われるのは止むを得ない所だ。そうして国家のあらゆる資源を投入した方が勝つというのが総力戦である。その戦時下の教育をあげつらったところで何の意味があるのか。
戦前というからには開国以来のスパンで見るべきであろう。ならば明治〜昭和初期まで行われた教育の理念とは何だったのか。
それは教育勅語を読めば一目瞭然である。マスコミをはじめとする単純細胞は、「臣民」「義勇公に奉じ」という語句に条件反射を繰り返すのみで中身を読もうとしない。しかし、冷静に教育勅語を読めば、親孝行しなさいとか学問や職業に励みなさいとか、一般的な徳目を説いているだけである。「国家のためが主眼」などというのは出鱈目もいいところだ。
社説子はこうしてまず間違った戦前教育の規定をしておいて、中教審の報告を批判する。

『その基本法を見直すのであれば〜(中略)〜審議は未消化、見直しの必要性の根拠についても判然としないと言わざるを得ない』。

おやおや、先日もそうであったが、新聞記者とは余程現実を見るのが嫌いと見える。この社会の現状を見て、今さら見直しの根拠が判然としないもないものだろう。

『学校教育の混迷ぶりは、だれの目にも明らかだ。しかし報告書はここで一気に「わが国が立ちいかなくなるという危機感を持って教育を根本から見直していかなければならない」と導く。悩める子どもたちに言及するのではなく、いきなりわが国≠持ち出 す感覚をどう理解すればよいのだろうか』

私はわが国≠ニいう言葉に条件反射しかできない社説子の感覚こそ疑う。教育が崩壊すれば日本の国としての力が衰え、もう二度と今のような豊かな生活はできないだろう。自動車一つとっても、高い教育レベルの労働者が、品質の高い物を作っていたから世界中で売れたのだ。教育レベルの低い者は単純労働から抜け出せないというのは、経済社会の法則だ。
教育にわが国の将来の危機感をにじませるのは当たり前の話ではないか。

『「公共」には日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心、国際性の視点を含む、とする。しかし、あまりにも 愛国心、公共心を強調するのは危険である。現行の「個人の尊重」が骨抜きにされてしまう。愛国心を基本法で規定 してしまうと将来、時の権力者に乱用される恐れがないとはいえまい』

こうして批判していて呆れ返ることは、向こうがあまりに単純な思考であることだ。
この社説子もご多分に漏れず愛国心=危険としている。どういう理屈でそうなるのか、ここには書かれていないが、おそらく愛国心が戦争を呼ぶというのだろう。
そしてその論拠が戦前の軍国主義・国家主義だということなのだろう。
そういう発想が下敷きにあるから「時の権力者に乱用される」という言葉が出てくる。まったくステレオタイプな思考である。
愛国心が戦争生産マシーンなら、世界中から愛国心を追放すればよい。そうすれば人類は恒久的平和を得られる。実に単純な話ではないか。まったく世の中は学芸会の劇より簡単だ。
言うまでもないがそんな単純モデルで世の中は出来ていない。そもそも戦争とはクラウゼヴィッツが言うように政治の一手段である。したがって国家という仕組みがある以上、人間は嫌でも戦争と向き合わねばならない。その上でどのようにコントロールするか。それこそ人間の理性というべきだろう。

『審議が不十分だったことも問題だ。先月後半、論議がヤマ場に向かっていたとき、多忙から一度も審議に加わらな かった委員が約半数の七人もいたという』

これはもう完全に「為にする議論」だ。審議会の多くは有名人が名義貸しをしているだけで、委員全員が揃うことはまれだという。つまり現行の審議会というシステムそのものに問題があるのであって、それを言い出せば中教審のみならず、ありとあらゆる審議会が「審議が不十分」として批判の対象となろう。
そのことを隠してこんな事を言い出すのは、まず中教審批判という結論ありきだからに他ならない。

『中教審は来春にも最終答申をまとめる予定だ。成案に向けては、基本法に何があるた めに、あるいは何が欠けているために、いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下などが起 きているのかとの現状を踏まえた議論を行い、国民に理解できる答申にしてほしい』

自分たちの見たくないものは見ようとしないから、こういうおかしな言葉が出てくる。
愛国心、公共心が欠けているから不道徳きわまりない社会が出現しているのだ。そのことを国民は口には出さずとも肌で理解している。個人の尊重、自由を声高に叫び過ぎて、どこかバランスを失してしまったことを感じている。
その当たり前のバランス感覚がないから、社説子のように「パブロフの犬」になるのだ。

『教育基本法は憲法に準ずる重さを持っている。「初めに改正ありき」の手抜き審議で は後々、あまりにも失うものが多くなる』

この憲法とのセット思考というのも、彼らの単純思考の一つだろう。
法律というのは一度作って終わりではない。常に国民の常識と照らし合わせながら、研鑚してゆくものである。それゆえに重みも生じるのだ。
だが今の憲法にしろ教育基本法にしろ、どこにそのような研鑚があったのか。GHQが作ったまま50年も放置してきただけではないか。そんなものにどんな重みがあるというのだ。
かつて明治憲法が不磨の大典と呼ばれて聖視されたことを、折りにつけ批判するマスコミが、こと現行憲法・教育法に限っては不磨の大典だから変えるなとは、自家撞着も甚だしい。
社説子は「初めに非難ありき」の手抜き社説では失うものが多いことを自覚なされてはいかがか。


11/16 31面 相手を考慮せず強引な日朝交渉 松田敬一 投書欄

朝日新聞には「声」という名の投書欄がある。あそこはネット用語で「電波」と称されるおかしい投書がたくさん掲載される。1〜2年前には左翼運動家などその筋の人ばかり掲載していたのがばれて(肩書きは○○職員とか主婦とか普通なので分からないようになっていた)、今では投稿者の素性には気を使っているようである。もっとも掲載される投書が一定の方向性を持っていておかしいという根本は何も変わっていないが。
さて、では我が山陽新聞はどうか。たかだか一地方紙の投書欄なんかたいしたことあるまいと思うなかれ。時々、朝日の声欄と互角の投書があるから、さすがは山陽新聞、なかなか侮れぬ。
今回は日朝交渉に対する投書である。
日本もやっと国家として目が醒めたか、今回はよく対応している。しかしこの方はそれが不満らしい。

北朝鮮赤十字の人間が、離日のさいに言った「日本政府は政府間の合意を守らず、子供と親を引き離す非人道的なことをした責任は免れない」を取り上げ、交渉は相手の立場を考慮して行うべきだとして北朝鮮赤十字や拉致被害者の北朝鮮に残っている子供たちの考慮せず、強硬路線を進めていると非難、『相手の信頼を失う対応の仕方では、双方が納得のゆく合意形成は難しいと思われる。相手の立場を年頭に置いての合意形成の努力なくしては、真の問題解決は望めないのではないかと思えてならない』と結論する。
今までも知識人(基本知識が欠落しているのに知識人とはこれ如何に?)のおかしな論説を散々批判してきたが、この投書主も見事なまでに同じ思考をしている。
原因を考えてみよう。蓮池さん他5人はどうして北朝鮮に居たのか。拉致されたからである。拉致とは何か。無理やり連れ去る事である。すなわち誘拐である。彼らは北朝鮮の国家犯罪の被害者なのである。
さて、そのような基本事実を押さえているなら、北朝鮮赤十字の人間の言葉はどう感じるか。「盗っ人猛々しい」これに尽きるだろう。およそ他国から人を誘拐しておいて、非人道的も何もないものだ。北朝鮮こそ「子供と親(例えば横田さん一家)を引き離す非人道的なことをした責任は免れない」。こんな犯罪国家の開き直りとも言える発言に、いちいち考慮しなければならない理由など微塵も無い。
ましてや遺骨と称して提出したものが偽物だったりと、「相手の信頼を失う対応の仕方」を平然と繰り返している。こんな事をしている限り「双方が納得のゆく合意形成は難しい」のは当たり前の話だ。
この投書主の松田氏はまるっきり認識がひっくり返っておられる。その批判は北朝鮮に向けてこそ言うべきであって、日本政府が非難される所以は無いのだ。

奇しくも、朝日の声欄においてもこのような「子供と親を引き離す非人道的なこと」という方向で意見統一されているという西尾幹二氏の分析がある。(インターネット日録参照)
やはり山陽新聞も本音は北朝鮮支持なのかと思わざるを得ない。


11/15 2面 「個人の尊重」骨抜き 解説
     6面 焦点評論 再び人間像を説くのか 共同通信編集委員 山田博
     同面 識者談話 松本健一 暉峻淑子


中教審の中間報告において、教育基本法を愛国心を基本に全面改正せよとの意見が出たのを受け、今回の山陽新聞はまさに偏向報道の面目躍如といった紙面であった。
まずは2面の解説記事において、『「個人の尊重」骨抜き』と見出し。軍国主義からの脱却を目指した戦後教育の理念を否定したと書き出し、「日の丸・君が代の強制など国家統制の危惧」「規範意識が低下、教員の指導に従え、などと子供を敵視した表現」と続き、「現行法は憲法に準ずる重さ・・・初めに見直しありきでまとめられた報告」と結ぶ。
さらに6面では共同通信編集委員が評論をうつ。まずは中間報告の文言が1966年の中教審答申とそっくりであり、三十年以上前のカビの生えた古文書を持ち出したと軽くジャブ。現行教育基本法の批判点である「よい個人になることがよい国家・よい社会の形成者になる」が、中曽根元首相など一部政治家の主張だと言い、中教審は政治セレモニーだと決め付け。「なし崩しの理念転換」「(以前、「期待される人間像」が相手にされなかった)同じ轍を踏むつもりか」とまくし立てたあと、「子供の現実に目もくれず、見直しの文言いじりに精を出す中教審の見識を疑う」と締める。
いったいこの連中はどこに目が付いているのか。戦後50年以上にわたって行われた教育の結果、何が生み出されたか。少年犯罪の低年齢化・凶悪化、学級崩壊、援助交際という名の売春、ジベタリアン等々・・・・・・。恐ろしいばかりの社会崩壊現象だけではないか。これが現行教育法の理念「個人の尊重」の無残な結果であるところは衆目の一致するところだ。
「個人の尊重」がゆくところ、電車の中で化粧するのも自由、授業中に走り回ろうが自由、援交しようが自由という、まことに涙が出るような「自由」が謳歌されてきたではないか。
この社会の現状を見て、教育基本法の理念が正しいなどと堂々言えるとは正気の沙汰ではない。
要するにマスコミは「パブロフの犬」なのだ。愛国心という言葉に反応して条件反射のように騒ぎ立てる、中身のない連中なのだ。
それが証拠に上の記事の酷い事。2面の解説で現行法は制定から五十五年たって憲法に準ずる重さだと古さを褒め称えたかと思えば、6面の評論では中間報告の文言は古い文書のコピーだと古さを非難している。ならば現行法こそ「カビの生えた古文書」であろう。彼らが「為にする議論」をしており、本気で考えていない事がこれだけでも分かるのである。

そして「パブロフの犬」は自分たちの反応を裏付けする識者の意見だけを載せる。
6面に識者談話として2人の大学教授の意見があるが、どちらも愛国心の危険視ということで一致している。
上段の松本氏は現行法の問題点を指摘し、なかなかよいことを言っているが、「公」が「国や社会」に限定されているのは戦前をイメージさせると愛国心にやや懐疑的である。
下段の暉峻氏はもっと過激である。「愛国心を法で規定すると時の権力者の意向によって決められ、内心の自由を侵し非常に危険」「愛国心の強調は憲法改正や有事法制への地ならし」と左翼のアジビラそのままの文言が並び、強烈に愛国心を否定する。
推測するに二人も過激な意見が並ぶと拙いので、片方を穏健派の意見にしてバランスを取った(といっても愛国心敵視には違いないが)のだろう。

このような露骨な紙面作りをしてまで「愛国心」に敵意を燃やし、断固葬ろうとする神経が理解できない。
愛国心=戦前・軍国主義という単純な図式なのだろう。馬鹿馬鹿しい限りである。
そもそも人間とは社会的動物であり、何らかの共同体を作って生きてきた。その共同体は時代と共に大きくなり、「近代国民国家」という形に到達した。その結果として、共同体への帰属心は愛国心と呼ばれるようになったが、それは不自然でも危険でもない。ごく自然な感情である。
家族や会社や町内・・・人間は大小何らかの共同体に属している。そして自分の属する共同体には幾ばくかの愛する心を持つものだ。それは山陽新聞社という共同体に帰属する記者とて同じ事だろう。(いや、俺は山陽新聞社などこれっぽっちも愛しておらぬという記者殿がいたら是非教えてほしい)
そして最大の共同体である国に、愛する心を持ったとて何の不都合があるだろうか。それは社会的生き物である人間の必然的な心の動きである。

教育基本法の「個人の尊重」がなぜ失敗したのか。それは人間は社会的生き物だという基本を無視したからである。隔絶した個があって、それを精錬すれば共同体ができると空想を描いたからである。
人間はおぎゃあと生まれたときから共同体に属する。家族という共同体の最小構成単位に生まれた時点で属している。無から人間は生まれないのだ。
そのような事に思い至れば、共同体への視点無き「個人の尊重」が、如何に空虚なものか自ずと知れよう。
安定した共同体が無ければ、個人も安心して生きては行けないのだ。(今の日本の閉塞が如実に示している)

マスコミはいつまで「パブロフの犬」を続けるつもりか。少しは自分の頭で考える事をしてみてはいかがか。


10/31 17面 思想の空間 大沢真幸 京大助教授

知識人、文化人と呼ばれる人たちは、一般人より高い教養を持っていると思われている。だからこそ大学教授や評論家などの職業が勤まるのだと。
だが、拉致問題に関する彼らの発言を見るに、無知・無教養な人間が知識人と呼ばれているらしい。この大沢氏の論説もその類例だ。
大沢氏は『野蛮な全体主義』として北朝鮮の金正日体制を批判している。かの国では独裁者の言葉が「現実」であり我々の社会とは違うのだと述べている。
そこまではよい。正論だとおもう。だが結びへ向けて話がおかしくなってくる。
大沢氏はヒトラーや金日成の言葉は直接の法源であり強力な宣言文であると前置きした上でこう言う。

『有事や危機とは、通常の法が適用できない状況 であり、宣言文が支配する世界である。有事がまさに宣言されれば、通常 の法の適用を制限していたさまざまな前提が撤廃 され、為政者、警察、官吏の恣意的な決定が「宣言」のように、そのまま事実=法として機能しう るからである』
『たとえば、ブッシュ・ドクトリンは、差し迫った脅威を認識するだけで 「自衛権」を行使できると主張する。つまり、相手が直接の軍事行動に出 ていなくても、アメリカが脅威を認識し、そう宣言するだけで相手は「アメリカを攻撃したこと」 になる。アメリカ(大統領)の宣言が、事実を創出しているのである』

この人の頭は大丈夫であろうか。独裁国家の独裁者の発言と、一国家の国防に関する諸決定が同値であると言い放つとは。
大沢氏の頭の中ではヒトラーや金正日といった独裁者の言葉と、アメリカのような民主国家が発動する国家意思が同じ物だとされている。馬鹿馬鹿しい限りである。
言うまでもないことだが、有事(戦争)というのは無法状態ではない。通常法は機能しなくなる一方、戦争法(戦時国際法)という別のルールに縛られる。つまり有事というのは宣言次第で好き勝手が出来るという事では決してなく、平時とは別のルールで動くということに過ぎない。
それは先の国会で散々揉めた事柄の名前を見ても明らかだ。「有事法制」。そう、つまりは有事にどのような法律で動くかという話なのだ。
どうも大沢氏は戦争=無法状態だと思っているらしい。無知にも程があろう。
そして己が無知を棚に上げ、こんな言葉で締めくくる。

『われわれはナチスに、そして北朝鮮に、おぞましい過去の遺物を見る。 だが、その遺物の脅威を強調すればするほど、われわれ自身が、そのおぞ ましい姿へと変容していることを自覚すべきである』

学者先生というのは難しい言葉を使って一般人を煙に巻くので、これが何を言っているのか解読に甚だ苦労するが(個人的意見ながら己の意見を平易に開陳できない輩は無能であると思う)、どうやら北朝鮮を敵視して有事に備える事は、「宣言文が支配する世界」に突入する事になり、それは独裁国家と同じですよと言いたいらしい。
ご丁寧にも「おぞましい過去の遺物」と言っているからには、日本の戦前を指しているのだろう。戦前=天皇絶対・軍部独裁、=金正日独裁体制、=戦争突入、ゆえにけしからんぞと言いたいのか。
こんな雑な思考しか出来ない人が京大教授とは、大学の質も随分落ちたと嘆かざるをえない。手前味噌ながら、大沢氏は扶桑社の歴史教科書でもう一度勉強し直してはいかがか。
どうにも今回の拉致問題における知識人の主張は妙なものが目立つ。それも一様に故意か無知かは分からないが、戦前日本の「悪」と結びつけて語るものが多いように思う。
新聞に登場する知識人がどれもこれも同じパターンの思考しかしないのは実に奇異だ。
いや、社説と完全に相容れない意見を掲載しつづける新聞というのももっと変だと思うが。


10/25 16面 拉致家族が伝えるもの 芹沢俊介 評論家

毎日、拉致事件に関する記事が途絶えることが無い今日この頃、10/25の山陽新聞には一人の評論家の意見を載せていた。
これがまた類を見ないほど酷いものである。
芹沢氏は新たな段階と称してこう言う。

『拉致家族から家族へ、これがテーマである。このことは、被害者の位置から加害者北朝鮮を非難し続けるだけの段階が終わったことを意味している。』

この人は血も涙も無い冷血漢か、北朝鮮のシンパかどちらであろう。
日本のマスコミの姑息な偏向報道により、拉致問題は生きて帰った人間にのみ焦点が当たっているが、とんでもない話である。
死亡とされた八人。本当に彼らは死んだのか。また、非公式な拉致被害者100人あまりはどうなったのか。それらがすべて解決しない限り、「被害者の位置から加害者北朝鮮を非難し続けるだけの段階」は永遠に終わらないのである。
一体、この芹沢俊介という男は何を考えているのか。
さらに芹沢氏はこう続ける。

『さて今後の生活というとき、すぐに考えるべき二つの問題がみえてくる。一つは、二十四年におよぶ北朝鮮での生活をすぐに根こぎにすることがはたしてつぎの確かな喜びにつながるかという問題である。』
『社会を貫通する変化のこのような速度差に、い わゆる「中国残留孤児」帰国者とその二世の少な くない人たちが適応不全を起こしてしまった現実 をみつめるとき、生活の場を移すということがい かに困難をともなうかということが推測できるだ ろう。金銭的物質的な援助で解決できないむずか しさをはらんでいる。日本にすみやかに家族ごと 戻ってくればすべてが解決という単純な話ではな いのだ。』

まず前提が間違っている。国家テロにより拉致された人と、戦争の混乱の中で孤児となった人が同列であると考えられる時点で、この人の頭はどうにかしている。
テロという甚だ理不尽な手法で、強制的に北朝鮮に住まわされた人にとって、如何にその期間が長かろうがまず日本に、親元に戻ってもらい原状回復するのが当たり前であろう。
芹沢氏の言は誘拐犯と長いこと生活を共にして情が湧いたから、人質と誘拐犯を無理に引き離すべきでないと言うのと同じである。 まったく狂っている。
さらにこの狂った言葉は止まることを知らない。

『二十四年という歳月は現実的に考えても、間違えると「在北朝鮮日本人二世」 という問題を生み出しかねない。いや、いままさに生み出されそうになっ ている。
かつての日本が在日朝鮮人問題を作り出したように。どうしようもない 国、北朝鮮という鏡には、過去の日本が映ってい る。こんなかたちで歴史が繰り返されようとして いるなどとは想像だにしなかった。政治はこの問 題をどう解決するのだろうか。』

この手の知識人は、何かというと戦時中の朝鮮人強制連行を言い出し、拉致事件と比較するが、この芹沢氏もその例に漏れない。
あまりに馬鹿馬鹿しい言説なので反論する気力も削がれるが、朝鮮人強制連行など存在しない。
戦前は朝鮮半島は日本国であった。よって内地と同じく徴用令が適用され、朝鮮人は国民の義務として、他の日本人も経験したのと同じように、徴用されたのである。
村にトラックが乗り付けて若い連中をさらっていった・・・などというのは嘘八百であり、そのような証拠はどこにも無い
こういうずさんな知識で評論家が務まるとは、思っていたより評論家とは気楽で無責任な稼業のようである。

『生活という視点でみたとき、これら二つの問題 を、物質的な貧富の差や政治体制の違いに解消で きないことが理解できよう。本来的には、日朝の 行き来が自由になることによってしか解決できな いだろう。国交の樹立に向けて、もう後戻りはで きない。そのことをこのたびの五人の一時帰国が 伝えている、そう私は考えるのである。』

外務省は拉致被害者などどうでもよく、国交回復ありきという。ならば芹沢氏は北朝鮮シンパで且つ、外務省のお先棒担ぎということか。
我々は北朝鮮と国交回復できなくても何ら困らないのだ。どうせあの国は国交があろうが無かろうが拉致被害者を帰さないのだから。
だからせいぜい経済援助をちらつかせて、拉致被害者を一人でも多く取り戻す努力をすればよい。いくらでも「国交の樹立に向けて」後戻りできるのだ。
それが嫌なのは芹沢氏のようなエセ評論家だけだろう。
さて、このような人間の意見を掲げるとは、山陽新聞は紙面作りをどう考えているのか。
ちなみに同日の社説で拉致事件解明のため一歩も引くなと訴えている。
その舌の根も乾かぬうちにこのような論説を掲げるようでは、表向き国民感情に配慮しているが、本音は北朝鮮シンパであると勘ぐられても仕方なかろう。
「多様な意見を」を隠れ蓑にヌエか精神分裂のような紙面になったのでは、読むほうはたまったものではない。山陽新聞はジャーナリズムというものを真剣に考えたらいかがか。


9/25 5面 日中国交30周年 慰安婦訴訟に二人三脚

今年は日中友好条約が結ばれてから30周年ということで、この前から上のタイトルで連載記事が掲載されている。
今回はいわゆる従軍慰安婦訴訟で中国人被害者の訴訟を手伝っている日中の弁護士のお話だ。
どうやら山陽新聞は従軍慰安婦問題というものをご存知ないらしい。
発端は吉田清治という詐話師のでたらめに、吉見義明教授が資料の曲解を行って広がったものである。
今では軍または政府が強制的に人狩りをしたということは資料的にデマであることが証明されている。彼女らは民間の業者の詐欺に引っ掛かったにすぎず、日本が強制的に人狩りし慰安させたというのはまったくの嘘なのである。
昔は売春は公的に認められており、業者は貧しい農村から金で若い娘を買っていったものだ。それはどこの世界にもある貧困の悲劇の一幕に過ぎない。中国だけでなく、日本の寒村もそうだったのだ。あまり知られていないが、軍の慰安所の慰安婦というのは、日本人のほうが多かったのだ。
ところが80年代、左翼はこれを日本の戦争犯罪とでっち上げ、国家攻撃のダシにしたのである。それが従軍慰安婦問題の始まりだった。
最初、左翼は軍による強制連行を言い立て、ゆえに日本は国家として賠償責任があるとした。ところがいくら探しても国家関与を示す資料は出てこない。それはそうだろう。上に述べたように、民間業者の営業活動の話なのだから、国家関与などあるわけが無いのだ。
ところが小賢しいことに左翼は「広義の強制」ということを言い始める。つまり国家の関与があろうが無かろうが、意思に反して強制されたのは間違いないから強制連行だというのだ。
呆れた物言いだ。こういうのを俗に「やくざの因縁付け」というのだ。
ところがこの特集記事、そのようなことはいっさいダンマリを決め込み、可哀想な中国人被害者、それを助ける素晴らしい日中の弁護士という「物語り」に仕立てている。
そして最後にこう結ぶ。

『「一日も早い日本政府による謝罪と賠償を実現させたい。被害者への償いとは、結局は日本の信頼回復のための事業だと思う」。厳しい局面が続くが、大森さんは康さんとの連携を強め、あくまで「過去の清算」を訴えつづけるつもりだ。』

デマに対して日本はどうして謝罪や賠償をする必要があろうか。こんなことを続けても信頼回復にも過去の清算にもなりはしない。昔はこういう人たちのことをこう言ったものだ。「売国奴」と。
それにしてもこの連載記事は共同通信からの配信なのだが、無批判に機械的に配信された記事を載せるとは、山陽新聞社には自分で考えるジャーナリストはいないと見える。


9/18 3面 北朝鮮の個人補償実現を 高崎宗司 津田塾大教授

残念なことに日本人拉致問題は既に8人の方が亡くなっているという哀しい事態となった。
ごく普通の日本人ならば、この結果に怒りを感じずには居れまい。
ところが大学教授という人種は、まことに変わった感性の持ち主らしい。
本日の山陽新聞には、津田塾大教授と称する先生の「卓見」が披露されていた。
この先生、今回の北朝鮮への補償のあり方が経済協力方式というのが余程気に入らないらしく、「困窮している北朝鮮の足元を見る形で」とか、「知恵を絞らないと・・・・・・いずれ北朝鮮の人からも不満の声が出てくる」などと非難ごうごうだが、極めつけは最後の一文であろう。

『亡くなった人は気の毒だし、親御さんら家族の納得できない気持ちも分かるが、北朝鮮にもかつて日本に強制連行され、今でも同じ悲しみを味わっている人もいる。拉致問題を重要視しすぎて、日本の植民地統治に対して同じく謝罪と補償を行わねば、北朝鮮の人の日本へのわだかまりは解けないのではないか』

8人が死亡という結果を受けてこんなことが言える感性を疑う。
そもそも「強制連行」なる嘘をもとに話していること自体、けしからんのだが、植民地統治という政治上の政策における出来事と、平時の一国家による組織的テロ行為を同列に並べ、前者の謝罪と補償をしてわだかまりを解けとは論理飛躍も極まれりである。
8人の死亡した経緯はどうあれ、これはもはや拉致監禁殺人である。国民の生命・財産を守るのが政府の一番の責務であるなら、この非道な隣国の行いを、何にもまして追求するのは当然である。
今、現在、進行中である(まだ生存しているが帰国はしていない4人や、他にも100人ほどいると言われている)国家によるテロに対し、これを重視してはいかんとは、この先生はそうとう頭がおかしいのではないか。
今ある危機を過去の歴史問題で相殺し、それで日本国民の生命・財産を守ることができるのか。むろん否だ。
そんなことをして喜ぶのは金正日ただ一人だ。おそらくこの先生は北朝鮮から献金でも受けているのだろう。
さて、山陽新聞よ。こんなたわけた識者の意見を載せるということは、貴社も同意見であると見なしてよいのかな?


9/15 6面 「日本海」か「東海」か

小泉首相の訪朝で騒がしい中、このようなタイトルの記事を見つけた。
現在、国際水路機関で海図に表記される名称の改定作業が行われている。
これは半世紀振りに行う世界の海図のガイドライン改定で、ここに韓国が日本海を「東海」と変更せよとねじ込んでいるのだ。
もっとも韓国の「東海」主張は今に始まった事ではなく、以前から喚いていたことなのだが、たまたま今年は国際水路機関の半世紀ごとの改定にあたり、これ幸いと国際機関にごり押しを始めたわけである。
もはや韓国のこのような態度について、多言を要しまいが、問題はこれを取り上げる日本のジャーナリズムの態度である。
この山陽新聞記事は、3分の2を問題の解説に使い、その部分はまずまず公正で正確だと言える。
問題は結論の3分の1である。「しかし世界的に見ると地域で名称が異なるケースは少なくない」とし、ドーバー海峡とカレー海峡(英・仏)、東シナ海・南シナ海と東海(中国・ベトナム)の例を出し、最後は日本人OLの「日本海でも東海でも好きな方を使えばいいじゃない」という言葉で締めくくっている。
つまり、山陽新聞は日本海と東海の併称が望ましいと言っているのである。
何を馬鹿なことを言っているのか。ならばもし世界地図に日本国ではなく倭国と表記しろと言われたら、日本(倭)と表記するのか。
地名というのはそれ相応の由来があって、そのように呼ばれているものだ。それを自分勝手な都合で捻じ曲げるとは、これほど他者の文化を馬鹿にする行為もないだろう。
韓国がローカルな呼び方として東海と呼称するのはよい。韓国内の地図には東海とおおいに表記して結構。だが、それを世界地図レベルに書き込めとは常軌を逸した行為だ。
ましてや、その行為を容認し、推進するような記事を当事者たる日本国のマスコミが書くなどというのは、まったくもって不見識としか言いようがない。
世界地図では「日本海」と書き表すのが19世紀以来の伝統である。そのことを踏まえれば、韓国の「東海」主張は退けられてしかるべきものなのだ。これが韓国内を越えて普遍化する理由はどこにもない。
山陽新聞はこの点、悪質な論理のすり替えを行っている。問題は如何なる地図でも日本海と書けということではない。世界地図に限ってどう表記されるべきかという問題なのである。
つまり韓国の国内でどう呼称されていたかということと、国際的にどう呼称されていたかということは別なのだ。
それをぼかしてドーバーとカレーのような例を出し、巧みに併記こそ普遍的であるかのように見せかけている。まったく詐欺と呼んで差し支えなかろう。
一つ日本の例を出そう。樺太に間宮海峡があるが、国際的にはタタール海峡と呼ばれている。日本の学校の地図帳などには間宮海峡(タタール)と併記されている。このような国内の呼称と世界の呼称が違うことは珍しくも何ともない。
だが、日本が世界地図のタタール海峡を間宮海峡に直せと主張したことがあっただろうか。また、そのような主張が正当性を持ちうるだろうか。
繰り返すが韓国が国内の地図に「東海」と記すのはよい。一向に構わないしそれが普通だろう。だが、それを国際的呼称とする理由はどこにもないのである。
山陽新聞はこの点不勉強であろう。


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