新「歴史教科書への考察」3
明治憲法体制をどう見るか 上
歯科医師 石井雅之
◇歴史叙述の難しさ
前回、前々回と平成十四年度版各社の歴史教科書
についての検討をお伝えして来ました。記事となっ
たその文章を読み返してみるにつけ、歴史の記述の
難しさを改めて感じております。
一つ一つの事柄への捉え方が違えば、それらの事
柄の積み重ねである歴史への評価が全く異なるもの
となってしまいます。筆者のように自分で歴史の叙
述を行うだけの知識もなく、他人の記述のあれこれ
を比較するのみの立場の人間は、特に自分自身の各
項目に対する捉え方の公平性についてより一層の注
意を払う必要があることが改めて痛感されます。大
変な作業を始めてしまったものだと改めて呆れてし
まいます。ただ、前回にも書きましたが、特定の立
場からの筋書きをあらかじめ前提として、過去の出
来事を無理やり当てはめてしまうような手法だけは
固く戒めたいものだと思っております。
「歴史」というジャンルそのものについての定義
についても、考え方は人によってかなり異なってい
るようです。例えば、大日方純夫著『はじめて学ぶ
日本近代史』(大月書店)によれば、「歴史」には「事
実としての歴史」と「認識としての歴史」があり、
前者は空間的・時間的に膨大で、その全てを知るこ
とは無理。我々が知っている(と思っている)のは、
過去のある部分へのイメージ、つまり後者であり、
両者の間には多少の断層・距離がある。事実に肉薄
し得る認識を再現するためには物事を見極める眼力
・歴史認識の能力を磨くことが不可欠であり、これ
らを総合するのは理性の力にかかっているとされま
す。つまり歴史を叙述する人物の「理性」を磨くこ
とで、その人の「認識」を「事実」に肉薄させるこ
とができると言っています。
このような考え方は一見合理的なようですが、叙
述する人物の「理性」の正しさを誰が判定するのか、
その裏付けになっている「磨かれた歴史認識」は何
に基づくのかという点で、危うさを感じざるを得ま
せん。意地の悪い読み方をすれば、「私は理性を磨
いているから、私の記述が事実だ」という押しつけ
をしているようにも思えます。独りよがりの認識を
押しつけられてはたまりません。
ところが、ここに記述されていたような歴史の捉
え方をする人は、今までの歴史教科書執筆者にも多
く存在していたようです。九年度版教科書の多くに
は、前書きに当たる部分で、歴史を勉強する際にど
のような認識で取り組むべきかということが記述さ
れています。以前のご紹介と重複するものもありま
すが、岡山県下で使用されていた三社のものを改め
てご紹介します(下線は引用者)。
まず日本書籍ですが、「歴史を掘る」という題の
前書きの中に、
《変化している歴史をよく見ると、一定の流れがあ
り、それを、科学的に正しく見る目を養うことも重
要です。過去のできごとの積み重ねが、将来の日本
や世界につながるのです》
と記述しています。
教育出版は、「歴史の学習を始めるにあたって」
という前書きの中に、
《世界の歴史は、人が人として生きるための、人権
の確立へ向かっての歩みであったということができ
ます。人と人との間の不当な差別をなくし、人間の
平等と世界の平和を実現することを目ざして、これ
からの学習を進めていきましょう》
と記述しています。
大阪書籍は、「歴史を学ぶにあたって」という題
の前書きに、
《歴史は、有名な人物だけのものではありません》
とし、《民衆のくらしや文化、そして政治や社会の
しくみも勉強していきます》と記述し、さらに
《日本人はまわりの地域の人々、もっと広くいえば
全世界の人々とかかわりをもってきました》として
《広い立場から歴史を学ぶことが、何よりも大切で
す》と結論づけています。
筆者は三年前にこれらの部分の記述を目にした
時、言いようのない違和感を感じたものでした。再
三申し上げておりますように、上記の三社はかつて
ワースト・スリーと呼ばれ、学習指導要領より左翼
史観に基づく「裏検定」に忠実な教科書として
知られておりました。申し上げるまでもなく、日本書籍
の記述は露骨な唯物史観で、歴史は発展法則に基づ
いて進歩するという科学的社会主義の立場に立つも
のです。教育出版は、冷戦崩壊後に行き場を失った
左翼が拠り所にした、人権・平等・平和を目指して
進歩しようという、いわば屈折した唯物史観です。
大阪書籍はこれらとは別の立場から、民衆・近隣諸
国の視点で日本の歴史を記述するとしています。い
ずれにしても、これらの教科書の執筆者の視点は日
本の歴史の中にはなく、その流れから離れた場所に
立って、過去を批判的に描くことを自らの「理性」
だと考えているようです。
扶桑社の「新しい歴史教科書」は、上記の傾向を
批判して誕生したという経緯から、当然このような
立場はとっていません。市版本をお求めになった方
々はご存知のように、序章の最初に「歴史を学ぶと
は」と題した前書きがあることは前記の各社の構成
と同様ですが、そこに書かれている内容は全く違い
ます。先ず、
《歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人
がどう考えていたかを学ぶことなのである》と定義
がされ、《歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁
く裁判の場にすることもやめよう。歴史を自由な、
とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、
じっくり事実を確かめるようにしよう》
という呼びかけがされています。この意見に筆者は
全面的に賛成です。この教科書の執筆者は、他人事
としてではなく、日本の歴史の内側から記述をして
います。
検定申請時の「白表紙本」には、この前書きに「歴
史は科学ではない」というくだりが載っていました
が、検定で削除されました。執筆者(西尾幹二氏?)
は、特定の史観に沿って記述された現行教科書への
アンチテーゼとしてこのような表現をされたのだと
思いますが、その点を検定担当者が理解できなかっ
たのか、あるいは他社への批判は御法度なのか、惜
しいことだったとおもいます。
十四年度版の各社は、口絵を多用するなど、頁の
構成がずいぶんと変わっている関係からか、前書き
にあたる文章をほとんどの社が掲載していません。
前記の三社のように特定の立場から記述することを
改めたから前書きが不要になったのか、ただ単に明
言を避けて口を拭っただけなのかは、本文を検討し
た上で判断しなければならなくなりました。
◇明治憲法体制
日本史の流れの外に立って、批判的に記述される
事柄の代表例に「大日本帝国憲法(明治憲法)」と、
その憲法の下での政治体制(これらを総称して、こ
こでは「明治憲法体制」と呼びます)があります。
大日方著・前掲書によれば、
《この体制のもとで、近代国家日本は軍事優先、国
民生活無視の路線を進み、民主主義を置き去りにし
たまま、国民を戦争へと駆り立てていき、その結末
は一九四五年八月に訪れることになる》
というような記述になります。この大日方氏は日本
書籍の歴史教科書の執筆者でもあり、ここに書かれ
ているような「戦前日本の暗黒面の根元を帝国憲法
に求め、日本軍国主義はその悪の憲法の体制下で侵
略戦争に明け暮れて、アジア諸国や国民に大きな苦
痛を与えた」というのが、今までの各社の歴史教科
書に共通する「物語」でした。
このような考えは、日教組などによる戦後教育の
主流の考えでもあったため、大多数の国民の「常識」
となってしまっている感があります。しかし、帝国
憲法を扶桑社の前書きにあるように「自由な目」で
検討すれば、このような「常識」が果たして正しか
ったのかという疑問が生じてきます。
例えば、八木秀次著『明治憲法の思想』(PHP
新書)によれば、
《この時代(引用者注・昭和十年頃)、明治憲法は
外来思想たる「ファッショ」に幻惑された者によっ
て排斥されようとしたのであり、また多く憲法の理
念に反する運用が行われたのである。その意味では
明治憲法は負わなくてもよい罪を負っている可能性
が高い》
とされています。制定時の由来と精神が忘れられ、
むしろ憲法を排斥する動きが主流になっていたとい
う指摘です。この見解は大日方氏等のいわゆる「常
識」的な認識と全く正反対ですから、両者の描く「常
識としての歴史」は正反対のものとなります。
八木氏は続けて、
《明治憲法は日本国憲法との比較対照で常に悪役を
演じさせられている。しかし、これらの記述(引用
者注・明治憲法は天皇主権で、国民の権利は制限さ
れた。無制限の人権は日本国憲法で確立された)は
意図的である。(中略)明治憲法の今日の評判の悪
さは不当であり、そこには何か裏がありそうである。
そしてそれは他ならぬその制定の過程に後ろ暗い所
のある現行憲法を明治憲法との比較対照で少しでも
よく見せるためのトリックである可能性が高い》
と記述しています。
小山常菜箸『歴史教科書の歴史』では、日本国憲
法の制定の経緯についてはほとんど触れられてこな
かったとし、
《日本国憲法が米軍占領下の、GHQ起草の憲法案
を基にしていることが明らかにされると、いっせい
に明治憲法の評価が貶められ、天皇制絶対主義的叙
述が増えていく。/こうして、「悪い内容の明治憲
法を変えるためには、多少でたらめで日本国憲法を
つくってもしようがない」という論理で、「日本国
憲法」の成立過程のいかがわしさを補うことができ
ると考えられるかもしれない》
と、八木氏と同様の見解が示されています。
扶桑社の歴史・公民教科書は明治憲法を讃美し、
軍国主義復活を招く「あぶない教科書」だとする批
判が反対派によって声高に叫ばれ、先日の愛媛県で
の採択時にも何とかの一つ覚えのようにネガティブ
・キャンペーンが展開されたことは記憶に新しいこ
とと思いますが、明治憲法と軍国主義・国粋主義と
の関係が、現行憲法正当化のために意図的に創作さ
れたものであったとすれば、このような批判は全く
根拠を失ってしまいます。筆者自身は八木・小山両
氏の見解に説得力を感じますが、教科書を採択する
権限を有する方々は、これだけ正反対の見解が示さ
れていることを認識されておられるのでしょうか。
採択時に何も教科書全体を検討しなくても、このよ
うな典型的な論点についてだけでも、教師の選定資
料を鵜呑みにせず、自分自身の価値観で判断しても
らいたいものです。
◇九年版各社の記述
それでは、各社の九年版の明治憲法体制に関する
記述を『歴史教科書の歴史』をもとにご紹介し、そ
の上でそれぞれの論点について、十四年度版がどの
ように変わっているか、あるいは変わってないか検
討していきたいと思います(全体傾向−引用者が要
約)
まず、制定の経緯について、以前から明治維新を
絶対主義改革と決めつけ、自由民権運動を重視する
傾向は見られたが、善玉としての民権派と、悪玉と
しての政府を対立的に捉え、政府は民権運動に迫ら
れて立憲政治を始めざるを得なかったという論理展
開をしている。
憲法自体については、「アジア初」とは述べるも
のの、三権分立・大臣責任に触れず、天皇がもっと
も権力を振るうとし、国民の権利は否定的に紹介す
る。立憲君主制と位置づけない。
政党内閣制の成立よりも普通選挙を重視する。つ
まり「自由主義」より「平等主義」を重視する。と
同時に治安維持法を重視し、ソ連の脅威には触れな
い。結果として大正デモクラシーを否定する方向で
記述する。
「自由主義的民主主義」は権力分立(三権分立)
・競争原理(複数政党前提の政党内閣)・国民代表
性(国民から選挙された議会)の三点の原理を全て
重視する。国家権力の自由主義的運営に重点を置く。
「平等主義的民主主義」は第二の原理を無視し、第
三の国民代表性の原理、国民・人民の政治への直接
参加を重視する。国民の政治参加の拡大に重点を置
く。
『歴史教科書の歴史』による、明治憲法体制に対
する九年版各社の記述の特徴は以上です。これらの
観点に加え、筆者は昭和初期の軍部中心の内閣に対
する各社の評価と、ファシズムをどのように定義し
ているかを追加して検討してみました。
従って、今回の観点は1.明治憲法制定までの経緯、
2.明治憲法の位置づけ、3.明治憲法下の政治体制、
4.軍国主義とファシズムの位置づけ、の四点になり
ます。
◇観点1.明治憲法制定までの経緯
『歴史教科書の歴史』によれば、以前から自由民
権運動を明治憲法よりも重視する傾向が強く、政府
側の立憲政治準備に触れる社は多くても二社しかな
かった、とされています。ここで一度後戻りします
が、『歴史教科書の歴史』では「五箇条の御誓文」
自体の解釈にはあまり関心が示されていません。し
かし筆者は、政府側の立憲政治への取り組みに対す
る評価を行う場合、特に御誓文で示されている「公
議與論」をどのように解釈するかが記述の分かれ目
ではないかと感じています。
九年・十四年版とも、多くの社は
《広く意見を取り入れること》(日本書籍)
あるいは
《世論を大切にして政治を進めること》(東京書籍)
等の軽めの解釈にとどめています。扶桑社のみが
《議会を設定し、(中略)近代的な立憲国家として
発展していく方向が切り開かれた》
と、明治天皇の意志として記述されています。これ
は全部で十五冊の教科書中他に例を見ない解釈で、
反対派から攻撃される的の一つになっています。例
えば、大月隆寛遍『どうちがうの?新しい歴史教科
書VSいままでの歴史教科書』(夏目書房)では
《これはあきらかに誤読であろう。/これでは自由
民権運動が議会開設をかかげて運動をくり広げた意
味もなくなるし、なぜ明治天皇が議会の開設に意欲
をもっていながら、じっさいには明治20年代まで
開設が延びてしまったのか、という問題になってし
まう。「広く会議を興し」はあくまでも広範に開か
れる会議であって、議会そのものではないのだ》
と指摘しています。他の十四冊の執筆者と同様の見
解だと思われます。
筆者自身の考えでは、明治政府に課せられた最大
の課題の一つに「条約改正」がありますが、特に「治
外法権」の撤廃のためには、当然、立法府の開設・
司法の確立が必要条件となるはずです。であるなら
ば、憲法の制定が必然となり、明治政府がそれを目
指さない訳がありません。初めから意欲があったの
に二十年以上もかかるのはおかしいように言います
が、西南戦争が終って国内が安定するまでに既にそ
の半分の年数を要しています。それだけ困難な事業
を明治の人たちがやり遂げたのだという想像力は働
かないのでしょうか。「五箇条の御誓文」を意図的
に軽んじ、明治政府への評価を貶めようとする悪意
を感じてしまいます。
自由民権運動は九年版の各社では非常に(異常
に?)大きな扱いをされ、特に「五日市憲法」を始
めとする民間の憲法私案や、秩父事件・福島事件な
どの激化事件を取り上げる傾向が顕著でした。その
扱いについては西尾幹二・藤岡信勝著『国民の油断』
(PHP文庫)には、
《さらにおかしなことは、教科書の「部分と全体」
のバランスの喪失です。教科書の分量、頁数は限ら
れていますから、どうしてもあることを書こうとす
ると、他のことが書けなくなる。今の教科書では必
ず反体制のモメントというのを書かなければならな
いようなので、より重要なテーマが押しのけられ》
た例として紹介されています。民間憲法私案を大き
く取り上げることは
《今の日本の特定の一党一派、進歩的文化人たちに
つごうのいい歴史観を子どもの頭に植えつけるため
の情報操作であって、歴史ではありません》、
激化事件を大きく扱うのは
《アジアで最初の立憲国家の成立のいっさいを反体
制感情の一色で塗りつくす目的に奉仕していること
は明らかです》
と断じています。筆者もこの意見に同感です。
十四年版では、ゆとり教育に伴う三割減が響いた
のか、自由民権運動を扱う頁数自体は減少傾向です
が、激化事件や民間憲法私案の記述全体に占める割
合は、相変わらず大きいものがあります。例えば、
日本書籍では憲法制定過程を述べる五頁中、自由民
権運動に三頁、その内、各一頁が激化事件と民間の
私案の記述でありこれとは別に「自由のさけび」と
題したコラムを設け、民衆の自由への憧れを強調し
ています。また帝国書院では、かつての「五箇条の
御誓文」と「五榜の掲示」のように、「五日市憲法」
と「大日本帝国憲法」を並列に紹介(説明は「五日
市憲法」のみ)し、
《憲法とは其の国の基本的な考えを示したきまりで
す。二つの憲法のちがいがわかるかな》
と吹き出しを入れています。しかも五日市意法は平
等・権利・自由に触れた部分を紹介し、帝国憲法は
天皇統治、権利・自由の制限の条文を紹介するとい
う恣意的なやり方です。明治政府は、民衆の願いを無
視して強引に天皇絶対で国民の権利を抑圧する憲法
をごり押ししたという印象を中学生に持たせること
を意図した洗脳教育だと言わざるを得ません。
唯一、扶桑社は自由民権運動について、立志社・
自由党・立憲改進党を紹介しますが、民間憲法私案
については国民の愛国心の現れとして本文に少し触
れるのみで、内容の紹介はせず、激化事件の記述は
一切ありません。濃い記述が特徴の扶桑社にしては
非常にそっけない扱いになっています。この点につ
いて大月隆寛遍・前掲書は
《扶桑社版は、自由民権運動の具体的なことがらに
何も触れていない》
と批判し、
《自由民権運動は日本の国民が政治参加を求めた輝
かしい歴史であり、政党政治の母体である》
のに記述が乏しすぎるとし、
《より詳しいという意味で他社版(引用者注・この
本が比較している他社版とは九年版のこと)に軍配
をあげたい》
と結論づけています。筆者は、他社版が異常に「詳
しすぎる」のであって、扶桑社の記述の方がバラン
ス的に好感が持てると思うのですが。
また、実際の憲法制定の経緯について、九年版で
は
《民権論者の反対をふせぐため非公開で憲法草案を
作成》(大阪書籍)
に代表されるような「国民に秘密で憲法を作った」
とする社が七社中東京書籍を除く六社、
《君主の権限の強いプロイセンの制度を取り入れよ
う》(日本書籍)
と、「君主の権限」と「ドイツ(あるいはプロシア)」
をモデルとして記述するのは七社全部、というよう
に見事な横並びの傾向を見せていました。
十四年版では「非公開」とする社は八社中四社と
ほぼ半減します。特に岡山県で使用される歴史教科
書では、以前からの東京書籍に加え、大阪書籍、帝
国書院が「非公開」との記述をしないため、津山地
区で使用される日本書籍が
《国民には秘密にして憲法の起草を進め》
とするのみになります。
注‥帝国書院は「非公開」としなくなった反面、
それまで記さなかったベルツの日記(後述)を紹
介するため、「国民が憲法の内容を知らされてい
なかった」という意味合いでは変化なしという見
方もできます。
それに引き換え、「君主権の強いドイツ」との記
述は相変わらず残り、唯一扶桑社が
《ベルギーやプロシア(ドイツ)などヨーロッパ諸
国の憲法に範をとって》
と他社と異なる見解を示しているのみです。この
点については三浦朱門著『「歴史・公民」全教科書
を検証する−教科書改善白書−』(小学館文庫)は
《プロイセン憲法自体がベルギー憲法を範としたも
のであり、(中略)明治政府は何も欧米の大国だけ
を手本としたのではない。こういう点を明らかにし
ただけでも評価できる》
としています。(以下次号)