日本に対する謝罪と激励の弁 上
       ―和田春樹氏との出会い―
                           トロント在住・元韓国仁荷大学教授 朴贊雄

 十月十六日から二十一日にかけて、韓国ソウルの ホテル・アカデミーハウスで、韓国民主化運動記念 事業会主催の「韓国民主化運動海外支援者の集い」 が開かれた。この事業会は一年前に設立されたもの で、政府の予算で運営されている。六十七人の参加 者はそのほとんどが六十歳以上の高齢者であり、そ のうち三十三人が日本からの参加者であった(うち 七人は在日韓国人)。
 今かえりみるに、この催しは慰労性のもので、参 加者達には自身の感想とか主張を述べる機会が全然 与えられなかった。
 参加者の中には、朴正煕独裁当時その政権の苛酷 な弾圧に根強く抵抗したあげく国外追放となった、 アメリカのジョージ・オーグル夫妻やジェームズ・ シノット神父等も加わっており、日本からは小田実 (作家)・自柳誠一(元枢機卿)・中平健吉氏等のお 名前が見られた。
 僕は会議三日目、バスが光州から釜山への走行中、 座席を和田春樹氏(東京大学名誉教授)の隣にとっ てもらって、彼との対話の機会を得たことを幸いに 思う。

    ◇和田さんの鞄と破戒僧
 和田さん愛用の革製の手提げ鞄は、誰が見てもハ ッとするような型崩れで色褪せた、古ぼけたしろも のであった。僕が「古色蒼然」とお褒めしたところ、
「あきらめようかとも思ったが、やっぱり捨てる気 にならず、靴屋さんに縫ってもらった。鞄と和田と どっちがもつか競争になったみたい」
とおっしゃった。
 それで僕は、僕の靴の話を始めた。今僕がはいて る靴は半年前に買った、誰もがはいているような 尋常な靴である。それまで僕は十余年間ボロボロの 靴をはいていた。家内から何年も前から「そんな靴 はいけません」ときびしい小言をきき続けてきたが、 僕は頑としてうけつけなかった。誰にも打ち明けな かったけれども、これはわけあってのことである。
 朝鮮戦争に従軍した僕は、一九五一年(昭和二十 一年)三月二十三日に、ソウル北方のブン(さんずいに文)山で展開さ れた戦闘落下に加わり、短期間ながら敵弾とびかう 戦闘経験を持つ。この時僕は第一線の歩兵、そのな かでも兵士等の苦労というものがどれ程ひどいかと いうのを体験した。毎日、背嚢と銃を担いで長時間 行軍するだけでも大変なのに、雨の日にはずぶ濡れ になって道なき道を歩いたあげく、石だらけの土に 個人壕を掘ってこもると、戦闘準備はおろか手も足 もマメだらけの有様。その寒さ、その眠さ、その辛 さ。こうなるとかえって死ぬ方がましだという気に なってしまう。
 兵士等はサイズのあわない崩れた靴をはいている 者が多い。そして歩き、そして闘い、上官達には叱 られ、罵られ、殴られ、飯に食いはぐれながら死ん でいった。朝鮮戦争三年間に韓国の兵士等が四十二 万、UN軍の兵士等が四万(うち米兵三万四千人) の死者を出した。僕が十何年も、ボロ靴をこれ見よ がしにはき続けてきたコンタンは、「君たちの死と 苦しみを決して忘れないぞ」という僕のギリギリの 義理心の一端を表している心算だったのだ。それが、 四月のある日家内が僕の靴を買ってきた。いとこの 姉さんから靴のクーポン券を頂いたので、それで買 ってきたのだという。
 その時僕は、その靴を退けずに黙ってはくことに した。そして幾週か過ぎて、何かの機会に僕の心情 をうちあかし、僕がとうとう破戚僧になったのだ、 という話を和田さんに話した。韓国では仏教の僧侶 は妻帯・肉食・飲酒が許されず、この戒めを破った 者は被戒僧として僧職から追われることになってい る。僕は和田さんに続けた。
 今、韓国と北朝鮮の著しい国力の差、自由と繁栄 の違いはいったいどこから来たのであろうか。韓国 の人民が北の人民と較べて、その素質や能力におい ていささかなりともましな点があったであろうか。 いや、全く同じ民族が一挙に両分されただけのこと で、その素質や能力は全く同一である。
 そのわけは簡単だ。アメリカが、朝鮮戦争で北の 侵略を押し返し、戦後南朝鮮に巨額のドルを注ぎ込 んだだけのことである。北の侵略を追い返し、乞食 同然の韓国に衣食住と軍備を与え、数十万の兵士を 派遣して瀕死の韓国を蘇らせたおかげである。その 後、韓日修交以後、日本の経済援助(経済協力とい う言葉を僕は軽蔑する。援助は援助というべきだ) の功も大きい。
 実は僕は八月十九日から二十二日までの四日間、 東北亞平和研究所主催の「韓国民主化運動の現在・ 過去・未来」というゼミナールにも参加したばかり である。この八月の集いにしろ十月の集いにしろ、
 「国内外に住む韓国民の不屈の闘争の結果、韓国の 独裁が倒され今や民主化の偉業は達成された。これ を記念して祝杯を高く」
というムードが根底に布かれて、昼夜分かたず連日 乾杯に明け暮れた感がある。
 金日成−金正日世襲独裁下の住民が人類史上類な き煉獄の独裁におののき、その内三百万はすぐる五 年間に餓死している。また二年程前から北の住民三 十万程が脱北して飢えと恐怖を耐え忍びつつ旧満洲 にさまよいながら、韓国への亡命を図っている現状 の中で行われたこの種の乾杯の連続に、僕は大いな る戸惑いを感じた。北の住民が韓国国民の繁栄には 及ばずとも、韓国国民が享受する程度の自由を勝ち 取るまで、このような乾杯はおあずけにすべきであ ろう。

    ◇北朝鮮政府による日本人拉致
 金日成−金正日政権は、一九七七年以来、日本の 海岸地帯や欧羅巴等外国から、七十人以上の日本人 を拉致してスパイ養成学校等で利用している。日本 の警察はその中十三名に関しては確実な証拠を持っ ているという。
 北朝鮮政権による日本人拉致という国家犯罪に対 し、僕はその発生当時から(池田文子さんが東奔西 走していた時代から)本能的な憤激を抑えがたく、 日本国民に対し、特にその家族の方々に対し謝罪と 羞恥の念を禁じ得なかった。拉致というのは色々な 犯罪のうちでも質の悪いものである。その中でも、 国家機関が外国の海岸を犯して非特定の青年男女を ひきさらって自国に連れ帰り、被拉致者とその家族 の人生を踏みにじるばかりでなく、彼らを生涯精神 的苦痛に苛ませるというのは、人間の考え得る罪質 の限界を超えるものである。
 一九七三年(昭和四十八年)の韓国政府による金大 中拉致事件も、人間としてなすべからざることであ り、特に犯行後日本政府と日本国民に対してシラを 切った浅ましさは憎んでも余りあるが、これに較べ ればその残忍性において子供だましの領域を出な い。
   ところが、去る九月十七日、金正日が日本の戦後 賠償欲しさに国交正常化を急ぐあまり、自分の犯し たこの拉致劇の一部を白状したのは、真実の一部が 明らかになったという点で、不幸中の幸いといえよ う。しかし彼らは、
「十三人を拉致したがそのうち八人は死亡した。生 き残った五人は二週間だけ日本訪問を許す」
と言って出た。これが拉致犯人が被害者家族に言え る台詞だろうか。いやそれよりも、若者十三人中一 人ならいざ知らず、八人が死んだとあっては、統計 学上全然あり得ないことである。しかも、遺骨と言 って持ってきた骨を調べてみたら、女性老人の骨だ ったという。開いた口がふさがらない。
 日本側が北朝鮮に対し、被拉致者全員とその家族 を返すよう恐る恐る要求したのに対し、北朝鮮側が 曾ての日本統治時代を引き合いに出しながらこれに 応じない姿勢を見せるのに対し、僕の正義感は天を 衝く。あれはあれ、これはこれ、全然別の問題なの だ。日本は被拉致者全員とその家族を即時引き戻す 権利があるばかりか、謝罪と多額の賠償をもまくり あげねばならない。謝罪と賠償はいつも日本だけが するものと決まっているのではない。また、このよ うな犯罪国家、人権劣等国家と国交正常化を図るの が正しいかどうかも考え直す必要があろう。
 戦後賠償もそのカネが本当に北朝鮮人民のために 使われるという目途が立たない限り、決して渡して は成らない。今このカネを金正日に渡すということ は、その独裁政権を強化して北朝鮮人民を永遠の奴 隷に縛りつける結果をもたらすだけである。僕は 「謝罪と賠償はいつも日本だけがするものと決まっ ているんですね」と和田さんに言ったが、彼は黙っ ていた。日本の学者として一寸応対しにくい話題だ ったかも知れない。
 この問題に関し、日本政府が拉致家族の陳情等を うるさがり二十五年間もおざなりにし、北朝鮮に対 し批判や追求の姿勢を取らず、かえって多量のコメ を送った等、日本公務員としての職務を遺棄して日 本の威信を落とし、被害国民とその家族に対して罪 を重ねていったことを、僕は残 念に思う(日本政府だけでなく、 与野党も知識人もジャーナリズ ムも、国民全体が拉致被害者家 族のか細い「タスケテ」の声を長い間聞き捨ててい たのだ)。
 今韓国や日本の政治家・学者・宗教指導者等は、 核兵器を持っている金正日政権に対して目に余る低 姿勢を取り続けている。彼が極悪非道の政治家(?) たるは火を見るよりも明らかなるに、彼の機嫌を害 わぬようオロオロしている姿は見るに耐えない。
 この度(九月十七日)金正日による拉致犯罪の白 状以降、日本政府が今までとうって変わって拉致問 題と正面に取り組んでゆく姿は、甚だ遅まきながら も頼もしい限りである。ほんとにしっかりやっても らいたい。
 僕がこんな話をするのは、戦争マニアに取り憑か れているためではない。へッピリ腰でオジオジして いる限り、どこまでも付け上がってくるのが金正日 である。「寄らば斬るぞ」の覚悟でピタリと正眼に 構えれば、テポドンや不審船も事前に防げた筈だ。

 切り結ぶ刃の下は地獄なり 踏み込みゆけばあとは極楽

 これは日本の代表的剣豪、宮本武蔵の辞世の歌と 言われるものである。
 二〇〇一年(平成十三年)五月一日、金正日の総 領息子、金正男が偽造のドミニカ旅券を使って妻子 を伴い成田空港に密入国するのをつかまえたもの の、小泉政権は、何と治外法権の礼遇で幾人かの外 務省役人さえ付き添わせて彼らを北京まで奉送し た。これに対し、僕が「カツコ悪いですね」と軽く 評価したのに対し、和田さんは別に気にとめなかっ たのか何の答えもなかった。
 また、一九五九年から八四年にかけて、在日朝鮮 人が新潟から北朝鮮に「帰還」した。「祖国建設の ための帰還」として、日本政府も超党派で支援した。 その中には、在日朝鮮人と結婚した日本人妻千八百 人や日本人夫、その子どもなど、日本人約六千八百 人もいたという。
 その時帰還した在日朝鮮人が北に着いてから独裁 の弾圧に苦しめられたのは、「自分の意志」と「自 分の脚」で行ったのであるから自業自得としても、 これに付いて行った日本人男女六千八百人は拉致と は言わぬまでも誘拐に当たるものである。日本政府 は、彼らの里帰りや帰国権等移動の自由権を北朝鮮 から勝ち取らねばならない。

    ◇韓国人の名前の付け方
 金日成親子の話が出たついでに、僕は和田さんに 韓国での名前の付け方の一般ルールを説明した。
 韓国では中国同様、姓は一般に一字であり名は一 般に二字である。その二字のうち一字は兄弟共通の 文字で、残りの一字がその個人の名前となる。僕の 場合、「朴」は姓で、「贊」は兄弟共通の文字(これ を行列という)であり、「雄」が僕の個人名である。 そしてこの個人名には親や祖先の名をつけてはいけ ない。こうすることは親に対するとんでもない不敬 を犯すことになるのだ。
 中国や日本では天子の名に限ってこれを諱とし、 全国民がその名前を敬遠する仕組みであるが、韓国 ではこの諱の概念を一般国民にまで援用して運用さ れ、これがしっかりと守られているのだ。
 金日成一家のように「日」の字が親子共通になっ たり、「正」の字が更に共通になったりするする例 は、韓国の両班(ヤンパン)はもとより、常民にも 皆無に近い。この一例だけでも彼の無知無学文盲の オサトが知れるのだ。しかし、北の人民にして誰か がこれを口外するとすれば、彼は直ちに首をはねら れるであろう。
 これに対して和田さんは、ご自分もお子さんに自 分の一字を譲っているとおっしゃった。
「それは日本では当たり前でしょう。乃木希典のご 子息が勝典と保典だったじゃありませんか」
 乃木は戦争が下手であったとか、切腹など人権違 反だ等といわれるようだが、僕は彼を尊敬する。そ の当時の人権水準で彼の真実性は、万人の規範とな ろう。(ちなみに和田氏のお名前は最初から僕の気 に入っている。和田は僕の中学校校長の苗字だった し、春樹には名付け親の温情がにじんでいる。)

    ◇金大中の太陽政策
 韓国軍事独裁時節に反独裁運動圏には金大中系と 金泳三系がヘゲモニーを占めていた。金大中は、朴正煕・全斗煥時節 には国事犯として死刑判決までお りていたのだが、彼を守りきってくれたのが他なら ぬアメリカ政府と歴代大統領だった。
 一九七二年の朴正煕維新独裁の出帆当時から、ど うしたわけか韓国では反米感情が徐々に拡がり、一 九八七年の六・二九市民革命頃からはソウル大はじ め各大学は反米感情の砦と化し、民主韓国産みの親 であるアメリカに対する若者たちの罵声は高く、一 九九七年末、金大中大統領当選後は、これが次第に 露骨化して、このアメリカに対する罵声の真には、 彼の姿が見え隠れしている。
 何と能なき者よ! 何と情なき者よ!
 何と義なき者よ! 何と知なき者よ!
 何と視野なき者よ! 何と良心なき者よ!
 何と正義感なき者よ! 何と腐敗せる者よ!
 金日成−金正日左翼世襲独裁は、人間の想像しう るあらゆる悪をすべて盛り合わせた有史以来最悪最 酷の政治形態である。如何なる悪事をつくしても南 の韓国を赤化統一するのを唯一の目標として足掻い ているのがその現実である。金正日の今年(二〇〇 二年)の新年辞を一瞥しても、その中に「革命」と いう用語が五十六度も出て来る。これは、赤化統一 を意味するものである。そして「強勢大国」が十四 回、「先軍政治」も十二回出て来る。こうして国民 を煽動するのである。
 金日成は朝鮮戦争中、南朝鮮で二十余年間地下共 産党を守ってきた朴憲永(京畿中中退)と李康国(京 畿中、京城帝大卒)を、こともあろうにアメリカの スパイと銘打って処刑した。彼らの内輪喧嘩という ものの、僕は彼のこの飛び抜けた虐殺行為を忘れら れない。
 ところが、これに対応する金大中大統領の政策は、 イソップ物語よろしく金正日政権に太陽光線をたっ ぷり浴びせて彼の外套を脱がし、南北統一を果たす という、まことに危険千万、滑稽至極、荒唐無稽な ものである。そこで彼は休戦地帯に埋め立てた地雷 を撤去し、南北を結ぶ道路を拓き鉄道をつなぎ、北 朝鮮に天文学的数字の現金を果てしなく注ぎ込んで いる。
 拉致犯人に巨額を与えてその改心を待つというの だから、これは狂気の沙汰と言えよう。万が一これ に成功したとしても、このように正義を蹂躙し悪を もてなす政治は許されてはならない。これは金正日 に対する赤化統一への招待状ともいうべきものだ が、今金正日が赤化統一に踏み切れないのは、三万 七千の米軍が駐留しているからなのだ。
 不義甚だしければこれを宥めこれをすかし、これ を苛立たすことなく怒らすことなく、或いはこれに 従い媚びを売り悦びを捧げ、忍苦と同情の心もて、 たゆまずに多額の金品を与え、何百の国民を拉致さ れようと殺されようと、核兵器を作って積み重ねよ うと、如何なる侮辱と罵詈雑言にも耐え忍べば、必 ずやその報いあるべし。これが金正日に対する金大 中の信条である。
 今僕の手元に、金大中自筆の日本製金縁の色紙が ある。縦二十七センチ、横二十四センチの厚紙に、 あまり冴えない筆跡で「事人如天」「一九八四年・ 聖誕節」「朴贊雄教授清賞」「後廣・金大中」とした ためたもので、二つの落款(ハンコ)が押してある。 ところが彼は今、この揮毫とはうらはらに「鬼に事(つか)えるに 天の如(ごと)くす」を地でいっている。
 思うに、有史以来、此の世には暴虐を極めた暴君 が数多くあったけれど、これだけ極悪非道の者にこ れだけ金品を注ぎ込んだ者はまたとあるまい。「悪 魔が悪魔に見えぬ者は、彼自身が悪魔に化したもの である」と、誰かがよくも喝破したものである。
 一九五三年休戦以来、北朝鮮に拉致・抑留されて いる韓国国民四百八十七人の中、只の一人も救い出 せず、救おうともせず、自由民主国家である韓国政 府の顛覆を図って逮捕投獄された非転向(金正日へ の忠誠をひるがえさぬ)長期囚六十三人(この中に は原敦晁さんを拉致した辛光洙も含まれている)を、 全員ごっそり北朝鮮に献上しながら(二〇〇〇年九 月二日)、これが「人権国家としての韓国の真面目」 であると彼は言った。これは、彼が正義感と人権意 識に欠けた白痴であることを証明するものである。 国家の元首として自国民を護れぬばかりでなく、護 ろうともしないこの一事だけでも、これは国家反逆 罪に値するものだ。金大中は国の守りを完全に米軍 に委ねて、このような平和遊戯を弄んでいるのか、 それとも本気に南朝鮮をごっそり金正日に捧げよう としているのか、どちらにしろ大多数の国民は今、 不安にかられ憤激に満ちている。
 ところが今度の集いの別れの晩餐会席上で、韓国 キリスト教界の元老姜元龍牧師は、
「日本国民が北朝鮮による拉致問題を大げさに取り 扱うのは間違いである。日本の過去の悪業と較べれ ば、これは取るに足らないことだ。朝鮮半島で戦争 が起これば、南も北もー挙に灰塵に帰するであろう。 だから在日韓国人は日本政府に働きかけて、在米韓 国人はアメリカ政府に働きかけて、戦争が起こらぬ 説得して欲しい」
と、三国語同時通訳のマイクの前で述べられた。平 和のために拉致問題等には目をつぶれとおっしゃる のだ。
 僕はかねてから仏教・キリスト教を問わず韓国の 宗教の倫理からの離脱を指摘してきたが、ここでも それが首をもたげている。正義を伴わぬ平和は奴隷 の平和である。正義あってこそ真の平和は保たれる のだ。僕が
「自由と繁栄はただで手に入れられるものではない。 今韓国人たちは彼らの自由と繁栄がただだと思って いる。しかし、これは朝鮮戦争百万の犠牲の上に建 てられた金字塔であり、これを護るために今この瞬 間にも精強なる米軍が駐留し、衛星が絶え間なく北 朝鮮を上空から監視しているのだ」
と話したところ、和田さんが一言はさまれた。
「Freedom is not free.ということですね。ワシ ントンに立てられた朝鮮戦争戦没将兵記念塔に刻ま れた言葉です」
と、大事なコメントをして下さった。
 僕は朝鮮戦争にも従軍し、民主化運動にも一生を 捧げたが、今の韓国の自由と繁栄の礎は、朝鮮戦争 に根ざしたものであり、民主化運動の功は二の次で あると、和田さんに話した。

    ◇韓国政府の日本に対する罪状
  1 金大中拉致事件
 一九七一年の大統領選挙戦で朴正煕大統領と対決 して実質的に勝ちながらも、不正選挙のため惜敗し た金大中氏が、一九七二年十月、維新直前にソウル を抜け出て約一年米国滞在後、一九七三年七月十日、 日本にわたって反独裁運動を展開中、八月八日、東 京グランドパリスホテルから何者かに拉致され、五 日後の十三日夕べ、ソウル東橋洞の自宅前で釈放 (?)された事件が起こった。
 この事件は誰が見ても韓国中央情報部のしわざで あることがわかる。しかるに政府はまたも不逞傲慢 に、正面きって国民を愚弄し、日本に対してはかえ ってその責任を追及した。
 ところが事件発生一年後、一九七四年八月十四日 に至り、韓国政府は捜査の中止を決定してこれを日 本側に通告した。これはまさに奇想天外の事件解決 策と言えよう。自ら犯した犯行が明らかなるに、ま さに想像を絶した鉄面皮ぶりである!これは日本政 府と日本全国民を愚弄するばかりでなく、良心的な すべての韓国人をも激憤させた処置であった。
 しかるに事件発生二十七年後、日本の月刊誌『文 芸春秋』二〇〇一年二月号に、朴正煕大統領が、李 秉禧無任所長官を日本に遣わし、日貨四億円を田中 角栄首相に渡して謝罪していたという長文の報告書 が、現場に立ち会った田中の腹心木村博保氏によっ て発表された。
 韓国側は、一九七三年十月十日に日貨四億円の賄 賂を田中首相に渡しておいて、十一月二目に金鍾泌 総理を日本に送って謝罪し、翌年八月四日に「犯人 はどうしてもつかめない」と公式発表して日本側に 捜査中止を通告し、金大中拉致事件にけり(?)を つけたというのである。
 これは朴大統領が国家の権力を濫用して、日本の 主権を侵害した重大事件であったにも拘わらず、そ のすべてが四億円の賄賂で解決(?)されたのだ。 この事件で朴正煕は韓日両国国民を共に愚弄してお り、田中は日本国民を背信した。
 韓国は今でもこの事実を正式に通告し謝罪すべき である(奇しくも当時の被害者が今は大統領の椅子 におさまっているけれど)。特にこの事件に際し事 実を報道したかどで追放された日本の各新聞社とそ の記者連に対しても、謝罪し損害賠償すべきである。 朴正煕はドイツ等各地からも、声伊桑氏等数多の韓 国人を国際拉致した前歴を持つ。

2 日本マスコミ各社の、対韓国独裁闘争(?)の経歴
▽ 日本の読売新聞は一九六六年六月七日ソウル支局開設以来、韓国政府により三次に亘ってソウル支局を閉鎖された。
  一次閉鎖(一九七二年九月八目から十二月六日まで三ケ月間)
  二次閉鎖(一九七三年八月二四日から一九七五年一月十一日まで一年三ケ月間)
  三次閉鎖(為郷恒淳編輯局長の平壌発言のため、一九七七年五月四日から八〇年五月十八日まで二年八ケ月間)
▽ 朝日新聞輸入許可取消事件(七四年二月四日から九月二十三日)
▽ 光州民衆蜂起事件関連
 ▼朝日新聞閉鎖(八〇年七月三日から八一年五月二十八日)
 ▼時事通信閉鎖(八〇年七月三日から八一年一月二十日)
 ▼産経新聞警告(八〇年七月三日)
 ▼毎日新聞のソウル支局長前田康博氏記者追放、国内販売禁止(七九年一月十二日から記者 常駐八一年五月十八日)
▽ 共同通信支局閉鎖(八〇年五月三十日から八一年一月二十日まで八ケ月間)
▽ 北朝鮮も読売新聞を追放(七九年五月)

3 同年(一九七四)八月十五日、光復節(韓国の 独立記念日)記念式場で、在日韓国人文世光が壇 上の朴正煕大統領を狙って撃ったピストルの弾丸 が逸れて、大統領夫人陸英修が死亡した事件に際 し、金鍾泌総理は八月二十日、全国のテレビ網を 通じて「文世光が在日韓国人だとしても、法律的 ・道義的責任は日本にある」として、反日運動開 始の信号弾を打ち上げた。八月二十一日から全国 的に数十万の国民が日本糾弾デモに狩り出され、 ソウルでは連日、日本大使館の前で声討大会が開 かれた。八月二十八日には全国の地方都市で動員 された人員が、百五十万に達した。九月六日には、 一千四百余人が日本大使館前でデモ、その中二百 余人が大使館の正門を壊して乱入し、大使館のヴァントラック一台を焼き、 館内の什器を壊し、日章旗を引き下ろして焼き払った(またも焼いたか日のみ旗!)。

4 卜政権は当時民青学連事件を捏造して反政府運 動を展開する大学生達を弾圧する過程において (一九七四年四月から七五年二月)、これに巻き 込まれた早川嘉春、太刀川正樹等二人の日本青年 を起訴、彼らに二十年の懲役を求刑して多大な苦 痛を与えたことに対しても、彼らとその家族に対 し、またこの事件で全日本国民に精神的苦痛を与 えたことに対して謝罪すべきである。彼らは大法 院繋留中に釈放され、一年目に日本に帰された。

 以上、日本に対する罪状の数例を挙げたにすぎない。
 何と不倫低劣滑稽な政権であったことよ! しか しこれは全国民の責任でもあり恥辱でもある。とこ ろが、韓国人にそのような歴史認識がない。
 日本は韓国政権によるこれら基本人権蹂躙の不法 悪質処置に対し、正式に謝罪と弁償を求めるべきで ある。三十五年間の古傷のためにまさか日本が韓国 と北朝鮮に永遠の免罪符を与えたものではなかろ う。(以下次号)


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