巡洋戦艦



  1906年に戦艦ドレッドノート Dreadnought が進水したとき、全砲が大口径砲の戦艦の時代が始まった。英国の第一海軍卿ジョン・フィッシャー提督卿(First Sea Lord, Admioral Sir John Fisher)は、すでに同じコンセプトを装甲巡洋艦にも拡大させることを決めていた。 彼が正しく判断したように、当時の装甲巡洋艦では新しい時代の戦艦艦隊を偵察するという任務を遂行できそうになかった。海外の基地で装甲巡洋艦の役割について議論したときに彼が語ったように、装甲巡洋艦は戦うには弱すぎ、逃げるには速力が遅すぎた。

  新しい艦に求められた2つの本質的な特性は、ドレッドノートの場合と同様、まず中間砲を全廃して可能な限り多数の大口径主砲に集約すること、そしてもう一つは高い最高速力を可能にする信頼できる機関を導入することであった。

    巡洋艦の速力は偵察しようとする戦艦艦隊より高速でなければならなかった。そのためには装甲防御を犠牲にしなければならない。これはフィッシャーの考えによれば、速力と砲力は最大の防御だという概念であった。これら2つの本質の1つ目は、前ド級艦にも搭載され、ドレッドノートにも使われた2連装の 30.5 cm (12インチ)砲を使うことができた。2つ目の要求には、あのチャールズ・パーソンズによって発明され発展をもたらされた舶用タービンを用い、石炭焚き水管ボイラーで発生させた蒸気で推進するシステムが適していることがわかった。 1903年に進水した英国の軽巡洋艦アメジストとドイツのリュベックは、この新しい推進装置をすでに採用していた。

  1906年2月、排水量 17,250 トンのインフレキシブル Inflexible が起工された。この艦は2連装砲塔に格納された 30.5 cm 砲8門と対水雷艇用の10.2 cm 速射砲を16門装備していた。この艦の装甲帯は船体中央部で15 cm であり、両側へ10 cm まで次第に薄くなっていた。そして後部砲塔より後ろへは延びていなかった。この装甲帯基準は「マイノーター Minotaur」級装甲巡洋艦で使用されたのと同じであり、最初インフレキシブルは装甲巡洋艦に類別された。しかしこの艦と姉妹艦のインドミタブル Indomitable、インヴィンシブル Invincible は速力25ノットを達成し、新たに巡洋戦艦に類別されることとなった。





英国艦インフレキシブル Inflexible。初期に建造された巡洋戦艦の1隻。


 ドイツもフォン・デア・タン Von der Tann を建造して、すぐに英国の後を追った。この艦はインフレキシブルより大型であったが、装備した主砲8門は口径 28 cm でしかなかった。その代わり装甲帯は船体中央部で 25 cm の厚さを持たせられており、船首と船尾方向へ 10 cm まで薄くなっていた。速力はパーソンズタービンによって25ノットまで出すことができた。

 英国とドイツとの間で展開された建艦競争の中で、巡洋戦艦の設計においても同様の対照的なパターンがとられた。英国海軍は装甲をかなり犠牲にして大口径砲を優先し、ドイツは装甲防御を優先して大口径砲を犠牲にした。英国艦インデファティガブルとニュージーランドは、1911年と1912年に進水した艦であったが、艦の大きさと艦砲装備は前級と似たものであった。 対する同時期のドイツ艦、ゲーベン、モルトケ、ザイドリッツは 22,635 トンから 24,600 トン、 28 cm 砲であったが、装甲帯は最大 30 cm あった。 1914年と1915年に竣工したデアフリンガー、リュッツォーも同様であった。 この2隻は主砲を 30 cm 砲8門へと強化していたが、ほとんど同時期の英国艦ライオン、プリンセス・ロイヤル、クイーン・メリー、タイガーは 34.3 cm(13.5 インチ)砲8門を装備していた。しかし装甲帯はわずか 23 cm (9インチ)しかなかった。

 
第1次大戦前にそのほかの国の海軍で唯一、巡洋戦艦の設計を採用したのが日本だった。その最初の艦は英国ヴィッカース社の、ジョージ・サーストン卿の設計になる 27,000 トンの金剛であった。この艦の主砲は 35.6 cm (14 インチ)砲8門で、速力はパーソンズタービンで28ノットを達成していた。金剛は1912年に進水し、続いて比叡、霧島、榛名が建造されたが、これら3艦は日本で造られた。これら4艦はすべて1930年と1936年に近代化改装がなされ、高速戦艦へと変貌した。

 第1次大戦が勃発したとき、英独両国とも巡洋戦艦はただちに作戦行動の最前線に就いた。地中海ではゲーベンがアルジェリアのフィリッペヴィレ(※現スキクダ)を砲撃し、軽巡洋艦ブレスラウといっしょに、トルコと合流するためダーダネルスさらにコンスタンティノープルを目指した。トルコはドイツの同盟国を言明すると考えられたからだ。英国の地中海艦隊には、巡洋戦艦インフレキシブル、インドミタブル、インデファティガブルがいたが、ドイツ艦隊の迎撃に失敗し、作戦行動を許すことになり、関係した将官は面目を失った。

 4か月後には、インヴィンシブルとインフレキシブルが、ドイツの中将フォン・シュペー伯爵に率いられた装甲巡洋艦シャルンホルスト、グナイゼナウを中心とした艦隊を、南米フォークランド諸島沖で迎撃した。ドイツ艦隊はコロネル沖海戦で装甲巡洋艦グッド・ホープとモンマスを撃破して勝利したばかりだったが、今度は自分たちが圧倒され、撃沈された。
これは巡洋戦艦の優位性を高らかに示すものだった。




最大速力で走行中の英国海軍巡洋戦艦インドミタブル。戦闘におけるこの艦種の多大の損失は、巡洋戦艦が戦艦の代わりを務めることはできないことを示した。


 北海では英グランド艦隊(Grand Fleet)がドイツの大洋艦隊よりずっと優位にあったので、海戦は初期には偵察艦隊同士の小規模の遭遇戦があったのみである。それらのうち、1914年8月28日のものでは、中将デイヴィッド・ビ―ティー卿(英)率いる巡洋戦艦5隻からなる艦隊が、ヘルゴラント・バイトでの交戦に割って入った。この艦隊の到着によって、ティルフィット准将(英)のハリッジ部隊敗北の危機から転じて、ドイツの軽巡洋艦3隻と水雷艇1隻を沈める勝利となった。ハリッジ部隊は軽巡洋艦と駆逐艦からなる艦隊であった。

 それ以後ドイツは、第一偵察艦隊による奇襲作戦を仕掛けることに転じた。この艦隊はヒッパー少将に率いられ、主力はザイドリッツ、モルトケ、デアフリンガー、フォン・デア・タンからなる巡洋戦艦であった。装甲巡洋艦ブリュッヒャーが、最高速力25ノットという理由でいっしょに配属されていたが、ブリュッヒャーの 20.8 cm 砲は、他の艦より砲力で劣っていた。

 これら一連の作戦の最初は1914年11月3日のヤーマスへの砲撃で、これは奇襲に成功し英国からノ妨害もなく完遂された。 しかし12月にヒッパーの巡洋戦艦隊が、全大洋艦隊に支援されて、スカーボローとウイットビーを砲撃しようとしたときには、英国はドイツの無線暗号を解読する力があり、予め警告が発せられていた。 こうして英国はドイツ艦隊を迎撃するために艦隊を展開させることができたのだが、冬の北海の夜明けの霧の中での混乱と、両陣営の過ちのために、起こったかも知れない大海戦は起こらなかった。 結局ヒッパーは辛うじて逃げ去った。

 この件にもかかわらず、新たな作戦がヒッパーの巡洋戦艦ザイドリッツ(旗艦)、モルトケ、デアフリンガーにブリュッヒャーを伴い、1915年1月に
ドッガー・バンクの漁船団に対して行われた。 1月24日の早朝、ビーティーのライオン、タイガー、プリンセス・ロイヤル、ニュージーランド、インドミタブルが迎撃した。 ヒッパーは逃げに入り、双方走行しての砲撃戦が展開され、その中でブリュッヒャーが撃沈された。 ザイドリッツは 34 cm 砲弾を後部砲塔に打ち込まれ、バーベットを貫通して爆発し、砲塔と弾薬庫の両方が火災となったが、直ちに弾薬庫に注水することで、辛うじて沈没を免れた。 ライオンはデアフリンガーからの 30 cm 砲弾が3発命中し、大破して速力が落ちた。 そして信号連絡を誤って理解したため、ビーティーの隊は残った戦力を、すでに運命の決まっていたブリュッヒャーに集中させてしまい、ドイツの巡洋戦艦に逃亡を許してしまった。

 ドイツはザイドリッツの手痛い経験から学び、一瞬の発火から発生する危険の再発を避ける方策を採った。 対する英国は、教訓となったはずの実例をその目で見たにもかかわらず、なんら対策を採らなかった。 その結果は、次に巡洋戦艦が対戦したとき、すなわち1916年5月31日の
ユトランド沖海戦で悲惨なものとなった。 その日、ドイツの大洋艦隊はヒッパーの巡洋戦艦隊が、戦艦隊のおよそ 100 km 前方を進む隊形で出撃した。 このときには巡洋戦艦隊は、デアフリンガーの姉妹艦リュッツォーが就役しており5隻となっていた。 ドイツは英グランド艦隊(グランドフリート)が到着する前に、英艦隊の一部をおびき出して交戦に持ち込もうとしていた。 しかし英国は無線傍受の情報によって、今度も事前に警戒していた。 そしてローサイスからビーティーの巡洋戦艦隊が、またスカパ・フローとクロマーティーからグランド艦隊の本隊が、既に出撃していた。

 
ビーティーの艦隊は、34.3 cm (13.5 インチ)砲8門搭載の巡洋戦艦ライオン、プリンセス・ロイヤル、クイーン・メリー、タイガーと、30.5 cm(12 インチ)砲8門搭載の巡洋戦艦ニュージーランド、インディファティガブル、そして 38.1 cm (15インチ)砲8門搭載の高速戦艦4隻、バーラム、ヴァリアント、ウォースパイト、マレーヤからなる艦隊で構成されていた。 これら高速戦艦4隻はもともとグランド艦隊本隊に加わっていたが、ビーティーの艦隊に不足していた砲力を増すために、インヴィンシブル、インフレキシブル、インドミタブルと入れ替わっていた。 これら英国の2艦隊(ビーティーの艦隊とグランド艦隊本隊)はスカゲラク海峡(※デンマークとノルウェーの間の海峡)入り口の沖で、5月31日午後3時頃に合流する予定であった。

 しかし彼らが会合地点に到着する前、午後2時30分にユトランド・バンクでビーティーとヒッパーは出合ってしまった。 ドイツはビーティーの艦隊をドイツの戦艦隊が前進しつつある南へ向けさせようと策動した。 ビーティーは敵の5隻に対して6隻の巡洋戦艦を率い、自信満々で高速戦艦4隻の到着を待たずにドイツ艦隊を追跡した。 その結果として戦艦戦隊が介入してくるまでの15分間続いた砲撃戦の中で、ドイツの艦の方が優れている点を何点か見せた。

 まず第一に、ドイツの艦は英国艦よりも装甲が頑強であった。 しかしこれは、見かけほど重要ではなかった。 というのは砲撃戦が展開された距離では、高角度の砲弾の貫通衝撃に対する防御力はほぼ同等だったからである。 より顕著な差はドイツの砲弾の質にあった。 英国のものより適切な遅延発動ヒューズと爆発が鋭敏すぎない爆薬を使用していた。 そのため命中したとき、貫通してから爆発した。 対する英国の砲弾は貫通する前に爆発する傾向があった。 さらに英国艦はドイツ艦より内部隔壁が少なかったため、より広範囲な被害を被った。 ドイツの艦は北海での作戦向けに設計されていたため、乗組員は普段、港の陸上で生活しており、艦内での居住性にそんなに注意を払う必要がなかった。 ドイツのダメージコントロールの対策も英国のものより徹底していた。

 しかし両国の軍艦の間でもっとも重要に異なって点は、弾薬庫と砲尾との間の「パイプライン」で弾薬を守るために採られた方法であった。 砲弾が命中した結果で着火したとき、一瞬の発火が砲塔や弾薬庫に広がると、その結果発生する爆発によって艦は破壊されるか重大な損傷を受ける。

 ドイツ艦では一瞬の発火対策として弾薬筒が昇降機に搬入され搬出されるすべての箇所で防火扉が設置されていた上に、弾薬筒は金属カバーに入れて運ばれ、装薬充填の最終段階では金属の薬莢ケースに入れて砲身内へ送り込まれた。 対する英国のコルダイト(※ひも状の無煙火薬)は、絹のカバーに収められて無防備のまま運搬され、薬莢の各端部では点火薬がむき出しであった。

 この弱点の結果として、ビーティーの艦隊とヒッパーの艦隊の砲撃戦の間に、まずインディファティガブルが、次いでクイーン・メリーが爆破されて沈没した。 このときこれらの艦は砲塔を貫通されていた。 ライオンも同様の運命をたどりそうであったが、砲塔の1つの英国海軍乗組員たちの英雄的な献身によって救われた。 彼らはドイツの砲弾が砲塔を貫通したとき、自分たちの命を犠牲にして弾薬庫に注水した。 ドイツの艦も繰り返し命中弾を浴びており、特に高速戦艦の 38.1 cm 砲弾を強烈に受けていたが、隊列外に脱落した艦はなかった。 英国艦隊の生き残った艦はすべてビーティーの後を追い、彼がドイツの戦艦隊が南から近づいているのを発見したとき、グランド艦隊が用意していたわなへ導くように全艦の舵を切った。

 戦闘のその後の段階で、ヒッパーの巡洋戦艦隊はグランド艦隊本隊を導いていた3隻の巡洋戦艦に対して短時間の砲撃戦に入り、インヴィンシブルが姉妹艦と同じ運命をたどった。 ドイツ側では、その日の終わりまでにリュッツォーが非常に大きな被害を受けていたので自沈せざるを得なかった。さらにデアフリンガー、フォン・デア・タン、ザイドリッツもすべて交戦不能の状態に被害を受けており、水密区画の少ない英国の巡洋戦艦であれば沈没していたであろう状態であった。 事実ザイドリッツは、港にたどり着く前に浅海に着底した。

 高速で強力だが防御力が弱い英国巡洋戦艦の、ユトランド沖海戦でのドイツに対する戦績が相対的に貧弱に見えることは、フィッシャー提督の速力と砲力が最良の防御だという理論が誤りだったとみなされた。 巡洋戦艦のコンセプトは支持を失ったが、英国は1914年にレパルスとリナウンを起工したことを通して巡洋戦艦をさらに手中にし、関わり合っていった。 しかし
1920年までには巡洋戦艦のコンセプトは捨て去られ、代わって高速戦艦が追及され、第二次大戦までに巡洋戦艦は1隻も起工されていない。



 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



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