装甲艦から戦艦への発達
後に戦艦となって進化を遂げる船の最初の名称は「装甲艦(ironclad)」だった。この名称は、木製の船体でありながら、防御のために金属で被覆された軍艦につけられた適切な表現だった。木製軍艦が砲火に対して脆弱なことは、1853 年のシノープの戦い(クリミア戦争中に起こった黒海シノープでの戦い)で見事に実証された。このとき、6隻のロシアの船から発射された炸裂弾は、およそ数分のうちに13隻のトルコの船に火災を起こさせた。爆発性の炸裂弾が発明されたとき、それは遠からず木製船殻が完全に葬り去られ、鉄製さらには鋼製の船体の時代がくることを意味していた。
木製の戦列艦は1858年まで建造された。しかしその翌年には、最初の航洋装甲艦グロワール Gloire がフランスで進水した。この船は木製であったが、喫水線に沿っての部分と他の重要な部分は、12.5 cm の厚さの装甲板によって守られていた。帆を装備していたが、公称馬力
4200 馬力の機関は、約13ノットの速力を発揮できた。
グロワール。クリミア戦争の浮き砲台から発展したこの船は、世界最初の航洋装甲艦だった。進水は1859年。
英国は、この挑戦的に建造された船に対してすばやく反応した。それはウオリアー Warrior の建造である。この船は主として鉄で造られた。ただし船体中央部はチーク材で裏打ちされていた。この船は 115 m の長さで、対するグロワールは
77 m であった。ウオリアーも帆を装備し、機関は 15 ノット近い速力を出すことができた。これらのフランスと英国の船はともに実戦を経験することはなかった。
装甲フリゲート、ウオリアー。フランスのグロワールへの対抗を意図してイギリスが建造した。グロワールより速力が速く、徹底した鉄製船殻が特徴だった。
装甲艦の設計者たちにとって、1860年代に起こった2つの出来事が重要な意味を持った。1つ目はアメリカの南北戦争中に起こった、結局勝ち負けのはっきりしなかった交戦で、それは間に合わせに造られた装甲艦メリマック
Merrimack と、スウェーデン人、ジョン・エリクソンによって特別に創作されたモニター Monitor の決闘であった。もう1つはラムの力を見せた戦いで、1866年に戦われたリッサ海戦で、オーストリア船フェルディナント・マックス Ferdinand max によってイタリア船レ・ディタリア Re d'Italia が沈められた。
設計者たちはこれらの問題に対して、装甲と大砲の妥協という、どうしても避けられない折衷案と、ラム攻撃が不可能になるような機動性を備えることで解決を図った。永年にわたって炸裂弾は改良が加えられてきており、現実に航洋軍艦のどんな装甲も貫通させることができるようになった。一方で、絶えず大砲の射程が向上してきたことと、機関が改良されてきたことで、将来の艦隊行動においてラムは有効な武器にはなりそうもなかった。それでも造船技師が将来の主力艦の最も効率的な設計を作り上げるまでには、数十年を要した。そして時代遅れのラムは、ずっと後に珍品でしかなくなるまで、ずっと一般的な特徴として残ったのである。
保守的な頭の海軍士官たちが、帆がラムと同じくらい時代錯誤であることを悟るまでに、長い時間が掛かった。1869年、キャプテン Captain が進水した。これは帆走軍艦の最後の部類に入るものだった。この船の主な特徴は、旋回砲塔式の砲と三脚型の帆柱、そして帆作業を容易にするために砲塔にかぶさるように取り付けられた帆柱甲板であった。そのため主甲板が低く、造船専門家たちは、この船は乾舷が不足しているため、航洋航海には耐えられないだろうと見た。そして彼らの見方は正しかった。1870年に多大の犠牲者を伴って、浸水して沈没したのであった。
直ちに対応して建造されたのがE・J・リード卿設計のデヴァステーション Devastation だった。この船には12インチ(30 cm)の4門の前装砲が装備されており、防御板の厚さは 25〜30 cm あった。この船は1本のマストと2つのスクリューを備えていたが、帆の設備は無かった。そしてリードが期待したとおりの成功作だった。
デヴァステーション。蒸気動力のみで走行した英国で最初の軍艦。マストは単に見張り台と手旗信号要員のためのものだった。1871年進水。
前装式の大砲が19世紀まで継続して使われたのは、十分に強靭な砲尾を作るのが困難だったからである。砲尾装填こそが本来望ましい方式であることは、以前から知られていた。しかしずっと無視されてきた。それは満足な材質が得られなかったことと事故が頻発したためだった(大口径砲の砲尾装填が実現するには1886年まで掛かった:砲撃の節の記述)。
真に大口径砲の船という考えを抱いたのは、イタリアの造船家、ベネデット・ブリンだった。彼の理論はデュイリオ Duilio とダンドロ Dandolo で具現化された。これらの船は1876年に進水した。これらの船は非常に目立つ外観をしていた。1本の中央マスト、間隔を置いた2本の高い煙突、丈夫なボート甲板、そして重装甲された砲塔、この砲塔に装備された
46センチ砲は広い射角が可能であった。この2隻の船は排水量 11,000 トンを超える大きな船だった。優雅な姿とはとても言えなかったが、この船が建造された目的には完璧に適合していた。そして
15ノットという、当時としては高速だった。
1876年に進水したイタリアの装甲艦デュイリオ Duilio 。際立って進歩した設計だった。砲塔には大口径の砲が装備されており、これは他の国々も即座に追随した。
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オーストリア人ジョヴァンニ・ルピスとフィウメ(※現クロアチアの都市リエカ)で働いていた英国人技師ロバート・ホワイトヘッドの功績である魚雷の発達は、1880年代までに戦艦がこの新しい武器を装備した高速の水雷艇から防御しなければならないことを意味していた。適切な武器として、副砲としての速射砲が追加された。そして戦艦は、特にフランスの型は
1893年のシャルル・マルテル Charles Martel が好例であるように、いくぶん異様な動く要塞のような形態で進化を続けた。しかし戦艦の主目的はやはり、同種の艦、すなわち戦艦と戦うことだった。
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・ ・ ・ それは後発ではあったが、ドイツが本気で建艦に取り組んでいることを示すことになった。
ドイツの挑戦それ自体が不十分なことを示すように、1つの出来事が極東の海域で1905年5月27日に起こった。それは全世界の海軍が考えなければならない内容であった。この海戦
( 対馬海戦すなわち日本海海戦 ) は史上唯一の、戦艦が勝敗を決する決定的な役割を担った、艦隊同士の交戦だった。リッサ海戦は指揮がまずかったための混戦に過ぎなかった。そしてこの極東の海戦の11年後に起こるユトランド沖海戦では、戦術上の意義で戦艦が不十分であることを示した。しかし日本海海戦では、日本の東郷提督がロシアのロジェストヴェンスキー提督に率いられた艦隊を撃破し、12インチ(30.5センチ)の炸裂弾を装備した大口径砲が存分に破壊力を示した。「巨砲崇拝」が事実によって正当化され、そしてさらに言えば、当時驚異的と考えられていた9000 m(10,000ヤード)を超える射程で大砲が有効なことがわかったので、近い将来の海戦に必要な形態が明らかになった。すなわち、巨砲の斉射、十分な速力、強靭な装甲である。
その解答が1906年に建造されたドレッドノート Dreadnought だった。この艦はフィッシャー卿(Lord Fisher)の指揮の下にわずか1年あまりで建造された。この艦はそれ以前のすべての戦艦を時代遅れにし、海事用語に新しい用語を作った。これ以後は世界の海軍一覧表にド級艦と前ド級艦の分類がなされた。それ以外の区別はそれほど重要ではなくなった。
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(「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)
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