ユトランド沖海戦

  第一次大戦の決定的な海戦



  
第一次大戦で唯一の大海戦1916年5月31日にユトランド海岸沖(※デンマークの北海に面する海岸沖)で起こった。5月30日、ドイツの艦隊がスカゲラク海峡(※デンマークとノルウェーの間の海峡)の英国船舶を攻撃する目的で出港した。艦隊の構成は、フランツ・フォン・ヒッパー中将が率いる巡洋戦艦部隊と、これを支援するラインハルト・シェア提督率いる戦艦艦隊であった。巡洋戦艦部隊は巡洋戦艦5隻と軽巡洋艦4隻、駆逐艦30隻から成り、一方戦艦艦隊は戦艦22隻(うち6隻は前ド級艦)、軽巡洋艦5隻、駆逐艦31隻で構成されていた。無電の情報から、英国の海軍本部はドイツ艦隊の出撃が差し迫っていると推測し、敵艦隊を遮る位置を占めるため、同じ日にグランド艦隊(Grand Fleet)をスカパ・フローとローサイスの基地から出港させた。英国艦隊もデイヴィッド・ビーティー中将卿指揮する巡洋戦艦隊と、ジョン・ジェリコー大将卿の戦艦艦隊から成っていた。巡洋戦艦隊は巡洋戦艦6隻、高速戦艦4隻、軽巡洋艦14隻、駆逐艦27隻から成り、戦艦艦隊は巡洋戦艦3隻、戦艦24隻、装甲巡洋艦8隻、軽巡洋艦12隻、駆逐艦54隻で構成され、この2つの英国艦隊は目的地点で集結する予定だった。英国の2艦隊はともに相手の同種艦隊を主砲の口径で凌駕しており、特に「クイーン・エリザベス」級高速戦艦4隻はドイツ艦隊のどの艦よりも優っていた。




1列縦隊で進行するドイツ大洋艦隊の戦艦群。 ユトランド沖海戦でドイツが被った被害は英国より少なかったが、ドイツ海軍は第一次大戦での制海権を英国から奪い取るという挑戦には失敗した。



  ビーティーの艦隊はジェリコーの艦隊の 105 km 前方、南東の位置を進んでいたのだが、5月31日午後2時までに何も発見できなければ反転するということになっていた。ちょうどその反転をしたとき、前衛艦の東側面にいた英巡洋艦ガラティアが、ヒッパーの艦隊の西側面にいたドイツ巡洋艦エルビングと接触を持った。ビーティーは直ちに南東方向へ引き返し、午後3時20分、敵の巡洋戦艦群を視認した。不幸なことにビーティーの動きに追随していた高速戦艦群が遅れ、その距離は 16 km に開いていた。3時45分、先端が開かれ、ヒッパーは戦艦艦隊に頼るため南東へ反転した。12分後、英国の
巡洋戦艦インデファティガブルがフォン・デア・タンとの戦闘で爆沈した。両国の艦隊の距離は、今や約 12,800 m であり、短時間のうちに残りの英国艦もすべて深刻な損傷を受けていた。この危機的なときに4隻の高速戦艦が戦闘に加わったが、4時26分、クイーン・メリーもまた、デアフリンガーとザイドリッツとの戦闘で爆沈した。しかし今や、ドイツの艦もクイーン・エリザベス級15インチ砲(38.1 cm砲)の一斉射撃で被害を受けつつあり、ヒッパーは方向を変えて逃げに入った。

  4時38分、前方で偵察に就いていた巡洋艦サウサンプトンが、ドイツの戦艦艦隊が巡洋戦艦を援護するため北方へ急いでいるのを発見した。ヒッパーはこの時再び北方への針路を取り、ビーティーは巡洋艦の報告を確認した後、ヒッパーと同じ行動を取った。この時のビーティーの反転は、ドイツ艦隊をそれまで幸運にも逃れていたわなの中へ誘い込もうと努めたものだった。ヒッパーもシェアも、英国戦艦艦隊の主力はまだ港にいると信じていたので、それが水平線のすぐ向こうにいるとは思いもしなかった。




ユトランド沖海戦概念図。(本文の内容を基に訳者作成)



  一方ジェリコーにとっても、ドイツの戦艦艦隊が来ていたとは驚きだった。というのも海軍本部が戦艦艦隊はまだ港にいると思わせていたのだった。ジェリコーは居ても立ってもいられない気持ちでドイツ戦艦艦隊の位置、コース、スピードについての情報を待っていた。ジェリコーの艦隊は6列縦隊で、もやのカーテンの中を南東方向へ20ノットで進んでいた。各隊列は4隻の戦艦が先頭で列を成し、それぞれの先頭艦は横並びの配列だった。左最前列はフッド少将率いる3隻の巡洋戦艦だった。中央で横に広がるのは軽巡洋艦だった。右翼には装甲巡洋艦が配置されていた。5時30分、ビーティーはヒッパーの艦隊を先回りして遮るため、自分の艦隊を北北東方向に転進させた。英国の2艦隊はお互いが視認できる距離に入った。この2艦隊が同調するまでに20分が経過した。そしてジェリコーは敵の戦艦艦隊が想定していたより 18 km 近いことを認識した。これは戦闘隊形を整える時間がないことを意味した。しかしジェリコーはまだ敵の艦隊がどういう動きをするかについて、正確な情報を掴めないでいた。彼がこの重要な情報を待っている間に、フッドの3隻の巡洋戦艦がヒッパー艦隊の3隻の軽巡洋艦を視認し、交戦に入った。巡洋戦艦3隻はすぐに敵の巡洋戦艦に気付かれ、この敵の巡洋戦艦はフッドの艦隊を4隻の戦艦だと報告した。この報告によってシェアはこれをグランド艦隊の小規模の分遣隊だと思い、北方へ突進した。

  6時15分、ジェリコーはビーティーから大変必要としていた情報を得、自分の戦艦艦隊を左翼の縦隊に展開させる命令を出した。
この艦隊行動が進行している間に、装甲巡洋艦ディフェンスとウオリアーがドイツの巡洋戦艦の砲火にさらされた。ディフェンスは爆沈し、ウオリアーは深刻な被害を被ったので曳航されたが、その後沈没した。しかしシェアはまだ、自分の艦隊が英国の戦艦艦隊本隊に向かっていることに気付いていなかった。ジェリコーの艦隊展開の結果、英国の戦艦隊はシェアの艦隊と彼らの基地との間に位置しただけでなく、ドイツ艦隊の前方に直角に、戦術的に非常に有利な位置を占めることが出来た。この時までには250隻の艦艇の煙が、もやと入り混じって、先頭海域の視界に重大な影響を与えていた。ビーティーは残る4隻の巡洋戦艦を率いてグランド艦隊の前衛を占め、フッドの3隻の巡洋戦艦に加わり、再びヒッパーの巡洋戦艦の射程内に入り、双方の間で砲撃戦が再開された。6時29分、デアフリンガーからの斉射が、フッドの旗艦インヴィンシブルを直撃し、インヴィンシブルは真っ二つに折れて沈没した。




英国巡洋戦艦インフレキシブル。(インヴィンシブルの同型艦)



  ドイツの巡洋戦艦隊とその後に続く戦艦群が、もやから抜け出し、待ち構える英国戦艦艦隊の視界の中に入って来たとき、ドイツ艦隊は激しい砲火の雨あられに迎えられた。その矢面に立たされたのは先頭艦群だった。シェアは自分たちが非常に不利な状況に置かれていることをすぐに悟って、「戦闘反転(battle turn)」で艦隊を脱出させた。すなわち最後尾の艦から始めて全艦が180度反転した。15分後、シェアの艦隊は西の方向へ進みつつ、もやの中へ消えていた。視界が悪かったため、ジェリコーは敵のこの予期せぬ動きを視認することができなかった。また監視員たちも、それを報告することができなかった。

  この時、ドイツ駆逐艦の2艦隊があまり積極的ではない攻撃を仕掛け、しかし戦艦マールボロに1本の魚雷が命中した。それによってマールボロは速力が17ノットに落ちた。6時55分、シェアは戦術的な意図から艦隊を再度反転させることを決意し、もう一度戦闘反転して英国艦隊の方向へ向かった。この動きは巡洋艦サウサンプトンによってジェリコーに報告された。5分後戦闘が再開された。7時15分にシェアがもう一度戦闘反転を行うまでには、射程は 3000 m にまで短くなっていた。しかしこの短い戦闘の間に、シェアの巡洋戦艦と先導の戦艦群は猛打を受けていた。
巡洋戦艦リュッツォーが戦列から離脱を余儀なくされ、その後自沈した。シェアは巡洋戦艦隊に、敵に立ち向かうよう命令し、駆逐艦艦隊にも戦闘に加わるよう命令して、その隙に反転して再度西へ向かって高速で退却した。




ドイツ巡洋戦艦ザイドリッツ。



  ドイツ駆逐艦艦隊の一団となっての魚雷攻撃に、ジェリコーは戦場を立ち去らざるを得ず、もやが濃くなり始め、光線も暗くなる中、こうして英独の両艦隊は反対方向に進んでいた。今度もジェリコーはドイツ艦隊の動きについて情報が得られず、敵艦隊が消えたのは視界が悪くなったためだと思っていた。7時35分、ジェリコーは敵に近づくため引き返した。その10分後、シェアは基地から遠く離れてしまったことを懸念して、針路を南方方向に取った。この時までに英独の艦隊は 19 km 離れていた。

  8時25分、ビーティーの巡洋戦艦隊はドイツ艦隊と最後の交戦を持った。この時ドイツ艦隊は勇敢に命令を実行しようと務めたが追い返された。この戦闘の間に前ド級戦艦隊に何発かの命中弾があった。この時には前ド級戦艦隊がドイツ艦隊の先頭に立っていた。9時14分シェアは基地へ向かう針路を取った。一方、ジェリコーは夜の巡航隊形に再編成していた。

  ドイツ艦隊の針路は英国戦艦隊の後方を通過し、駆逐艦隊の真ん中を通過することとなった。駆逐艦隊はドイツ艦隊と激しい戦闘を展開することとなったが、この戦闘は一切ジェリコーに報告が届かなかった。ドイツ艦隊は見事にその場を逃げ去り、翌日午前3時30分、無事ホーン・リーフ灯台船にたどり着いた。

  
英国の損失は巡洋戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦8隻で、乗員6097名を失った。これはドイツの損害より大きく、ドイツ側の損失は巡洋戦艦1隻、戦艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦5隻と乗員 2551名だった。しかしそれでも、ドイツ艦隊はその後、戦闘活動を続けられる状態ではなくなった。







 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



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