レイモンド・エイムズ・スプルーアンス
(Raymond Ames Spruance) 1886−1969
通常は慎重さで知られるレイモンド・スプルーアンスは、ミッドウェー海戦で参謀長の助言に留意し、大胆に攻撃隊を早い時刻に発進させた。そしてそれが成功につながった。
レイモンド・エイムズ・スプルーアンスは、ミッドウェー海戦の直前に、アメリカ空母第16任務部隊の指揮官に任命されて、有名になった。そしてあの重大な戦闘をアメリカ艦隊が戦術的に支配力を保って終えたのだった。彼のミッドウェーおよびその後の空母戦闘、とりわけ2年後のマリアナ沖海戦での功績は、ニミッツ提督の人を選ぶ目の確かさの証拠となった。しかしスプルーアンスは、訓練された空母の専門家ではなかった。ミッドウェー海戦の前は、彼は単に物静かで几帳面な、砲術の専門家として堅苦しい人物としてしか、知られていなかった。すなわち、服装においても行動においても空母士官の影響を受けたものを何も身に付けていない、「空母艦員」提督、戦艦男であった。
スプルーアンスは1886年に、メリーランド州ボルティモアで生まれた。しかしインディアナ州で育てられ、そこでアメリカ海軍兵学校へ入学した。 第一次大戦を戦艦ペンシルヴァニアで仕えた。そして戦後、砲術指揮官による砲撃管制をアメリカ海軍が採用するのを促進するという特別任務を背負って英国へ渡った。戦間期、彼は1927年にアメリカ海軍大学校で上級教育コースを修了し、高い指揮能力を身に付けた。その後戦艦ミシシッピで管理士官を務めた。彼は2度、海軍大学校の職員メンバーとなった。彼の上級大佐としての務めは、カリブ海での一続きの仕事で締めくくられ、1941年9月に、少将の位で巡洋艦部隊の指揮を執ることとなった。
真珠湾攻撃から1942年5月まで、スプルーアンスはハルゼーの空母第16任務部隊で巡洋艦と駆逐艦を指揮した。ミッドウェーの危機が今にも起こりそうに大きく差し迫ってきた5月16日に、任務部隊が緊急に真珠湾に呼び戻されるまで、マーシャル諸島やウェーク島、マーカス島で、日本軍を攻撃してはすぐ退却するという戦法を繰り返していた。 その真珠湾への帰路の航海中にハルゼーが職務遂行不可能な皮膚病に倒れ、真珠湾へ到着するとすぐに入院した。ニミッツがハルゼーに、誰を代替者として推薦するか訪ねたとき、ハルゼーは躊躇なくスプルーアンスを推薦した。この極めて重大な任命に、技術的にもっと適任な他の多くの士官がいたが、ニミッツはハルゼーの直感に賭け、第16任務部隊(空母エンタープライズとホーネット)をスプルーアンスに任せた。
スプルーアンスはフレッチャー提督の全体指揮のもとにミッドウェーへ航行した。しかし彼が空母運用の複雑な状況に順応する中で、最大の資産となったのはハルゼーの優れた部下たちだった。スプルーアンスが賢明に彼の部下の専門的知識を信頼したことが、ミッドウェー海戦を勝利したと言うことができる。というのも南雲の空母部隊が最終的に位置特定された時、スプルーアンス自身、アメリカ軍攻撃隊の最初の発艦を9時00分に予定していたのであった。しかしスプルーアンスの参謀長、ブラウニング大佐は、日本軍が米艦隊を発見し攻撃する前に日本軍を捉えるため、航空機の航続距離を超えた地点から、2時間早く攻撃隊を発進させることを強く勧めた。スプルーアンスは自分の肩に掛かっている太平洋の戦いの全重みを考えて、ブラウニングの助言を採用した。その結果は南雲の4隻の空母の内、3隻を10分以下の短時間内に破壊できたことであった。スプルーアンスはフレッチャーから戦術的命令を受け取ったとき、彼は賢明にも撤退している日本艦隊を追撃しないことを決めた。彼は既に、ミッドウェーを守るという不可能に近かった任務を成功させており、山本の主力戦艦艦隊を攻撃して破滅を招くことを拒否した。
ミッドウェー海戦の後、スプルーアンスはニミッツの下で参謀長として務め、1942年の9月、太平洋艦隊の副司令長官となった。1943年の8月には中部太平洋部隊の指揮官に任命され、そして1944年4月から、一続きの恒常の仕事、即ちハルゼー指揮下の第3艦隊と、スプルーアンス指揮下の第5艦隊として知られた、空母を中心とした艦隊の指揮を始めた。1944年6月には、マリアナ諸島への侵攻部隊を掩護することを任され、スプルーアンスはミッドウェー海戦で実績を残した、実際的な手法を繰り返した。即ち、彼はマリアナ沖海戦で、小沢機動部隊の航空攻撃に対して、それを撃破する強力な空母戦闘機部隊を使って、守りを固めた。もっと精力的に日本軍を追跡しなかったことを批判されたが、それでも彼は日本海軍の最も危険な兵器、すなわち空母部隊を追撃して破壊していた(※空母飛鷹の撃沈等)。彼が第5艦隊で行った最後の作戦行動は、硫黄島と沖縄の強襲であった。
戦後、スプルーアンスはニミッツの後を引き継いで太平洋艦隊司令長官になった。そして1946年3月に海軍大学校の学長となり、1948年7月に退職するまで務めた。後にはフィリピン共和国のアメリカ大使を1952年から1955年まで務め、1969年に死去した。
(「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)
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