タラント空襲

   護送船団護衛の合間を利用して攻撃したのが実態



  第二次大戦の2年目が始まったとき、海戦の勝敗を決する艦として、航空母艦の価値を主張する基礎は何も無かった。航空母艦には、その功績となるような大きな勝利は皆無だった。逆に潜水艦や海上艦艇、航空機からの攻撃に著しく脆弱なことがわかっていた。しかし英国の艦隊航空隊の空母が1940年11月11日の夜にタラントを空襲したことは、空母の批判家に決定的な応酬となった。海軍の歴史の中で初めて、強力な戦艦艦隊が、それも安全と見られていた強力な基地の中で、290 km も離れたところにいる1隻の敵軍艦によって、撃沈されたり機能不全にされたのである。

  1940年の夏、提督アンドルー・カニンガム卿の英国地中海艦隊は、極度の重大局面にさらされていた。8月にイタリアの戦艦艦隊が、新造の15インチ砲(38.1 cm砲)戦艦、リットリオとヴィットリオ・ヴェネト、および大規模に改装された 12.6インチ砲(32 cm砲)戦艦、カイオ・デュイリオとアンドレア・ドリアにより増強されていた。これにより、
カニンガムの戦艦艦隊を6対4と数で上回り、さらにイタリア戦艦の高速性能により英国艦隊は決定的に速力で負けていた。

  しかし9月初めに、優劣の差は英国側でわずかに改善された。カニンガムの艦隊には、戦艦バーラム、防空巡洋艦カルカッタとコヴェントリーが増強され、さらに新造空母イラストリアスが加わって、旧式空母イーグルと2隻になった。これらの歓迎すべき増強部隊は、9月5日にアレキサンドリアに到着した。

  イタリア艦隊には、その戦力的優勢さを利用して、艦隊戦闘で地中海の中央部および東部の支配を決定的にしようという意図は見られなかったが、
カニンガムは自分の方に有利な部分を利用して、タラント港に停泊中のイタリア戦艦艦隊に攻撃を加えようと計画した。それは航空母艦による長距離の攻撃力を利用しようというものだった。

  
カニンガムとライスター少将によって策定された、空母を指揮してタラントを攻撃するという「作戦ジャッジメント(見識)」は複雑な冒険的作戦だった。というのは地中海艦隊のすべての動向と、予定を合わせなければならなかったからである。地中海艦隊は、ジブラルタル経由でやってくる増援軍を引き受け、兵器や補給品をマルタへ運ぶ護送船団を護衛するため、しょっちゅう航行していた。「作戦ジャッジメント」は艦隊航空隊の遅くて脆弱なソードフィッシュ機が、視界を確保できるとともに、最大限の防御も確保できるように、適切な月明かりの中で行う必要があった。そしてこの作戦はイタリア艦隊の動向を、どれだけ正確に航空偵察できるかにかかっていた。




 地中海地図(訳者作成)
       


  このイタリア艦隊の動向という重要な情報は、英国空軍用に購入されたアメリカのマーチン・メリーランド偵察機3機から首尾よく得られた。これらの航空機は10月初めにマルタに到着していた。こうした高速で高空から偵察する「目」によって、タラントや他のイタリア海軍基地の様子を絶えず監視することができ、その偵察で撮られた写真によってカニンガムとライスターは必要とした情報をすべて得られた。

  「作戦ジャッジメント」は当初、10月21日で計画されていた。しかし一連の不運が重なってこれは不可能になった。まずイラストリアスが格納庫内の火災で損傷した。そしてイーグルはその前にイタリアの航空攻撃によって生じた損傷のために、攻撃部隊から落後した。さらにイーグルからイラストリアスへ移送されたソードフィッシュの多くが、燃料タンク内での燃料油の汚染のために使えなくなった。結局「作戦ジャッジメント」は11月11日の予定で再計画された。

  直前の航空機不備のため、使えるソードフィッシュは当初予定の30機から21機に減った。しかし攻撃はタラント港の防御を調査して、細心の注意を払って進められた。イタリアの戦艦群は外港すなわちマル・グランデに停泊しており、ここは円弧形に幕のように上げられた気球と魚雷防御ネットで守られていた。照明弾を投下するソードフィッシュが東から進入してマル・グランデを明るく照らしている間に、主力の魚雷攻撃部隊が2波に分かれて西から攻撃するよう考えらていた。注意をそらせるために内港すなわちマル・ピッコロの船を爆撃することも含まれていた。これはイタリアのサーチライトに忙しく空中を探させ続けることによって、魚雷投下部隊がサーチライトの光に目をくらまされるのを避けるためであった。




タラント攻撃は艦隊航空隊のフェアリー・ソードフィッシュ雷撃機によって実行された。これはそのソードフィッシュ機が魚雷を投下した数秒後の写真。



  作戦は11月6〜7日に地中海艦隊が、その典型的な別の複合任務で出航したときに始まった。カニンガムは戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、マレーヤ、ラミリーズで、そしてライスターは空母イラストリアスで、わずかな駆逐艦の護衛とともにアレキサンドリアを出発した。艦隊はギリシャとクレタ島への船団、それに加えてマルタへの小規模の船団を護衛していた。そしてマルタからアレキサンドリアへ向かう空(から)の補給船を受け持つことになっていた。加えて、西地中海からの別の増援部隊を待機していた。これは戦艦バーラムと巡洋艦グラスゴーとべリック、駆逐艦6隻が、2000人の軍隊をマルタの守備隊のために運ぶというものだった。この複雑な行程が完了したとき初めて、イラストリアスが「作戦ジャッジメント」を始めるために解放されるのであった。

  すべての船団が安全に航行して到着するまで、また西地中海からの増援部隊が加わるまでの緊張した3日間の間、英国地中海艦隊はタラントから 560 km 以内で作戦行動を取っていた。この期間、カンピオーニ提督のもとでイタリア戦艦部隊は出撃さえすればいつでも、「作戦ジャッジメント」を台無しにすることができた。マルタから指揮されていた英国の優れた偵察とは対照的に、カンピオーニはイタリア空軍から良い支援を得られていなかった。それでも彼の軍艦の多くは偵察機を搭載しており、それらを海上に送り出して自分で偵察を行うことはできた。彼はそれと知らずに英国の思うつぼにはまり、自分の艦隊をタラント港に置いておいた。11月11日までにカニンガムはジブラルタルからの増援部隊を出迎え、マルタからの最新の航空写真で、イタリアの戦艦5隻が居心地よくタラントに停泊していることを知った。6隻目は11日の午後にタラントに帰っているのが見つけられ、「作戦ジャッジメント」の攻撃部隊の標的は完璧に揃った。

  イラストリアスは11日の18時に地中海艦隊と別れた。カニンガムは次のメッセージを送ってイラストリアスを急がせた。「貴艦の諸君の大事業に幸運あるように。諸君の成功は地中海の戦いの方向を左右する最も重要な意味を持つ」と。イラストリアスは20時30分までに発艦海域に近づき、第1波攻撃隊を送り出す準備を進めていた。この攻撃隊はウィリアムソン少佐に率いられたソードフィッシュ12機で構成されていた。6機が魚雷を装備し、他の6機は爆弾で、そのうちの2機はマル・グランデを明るく照らすためのマグネシウム照明弾を装備していた。ヘイル少佐に率いられた第2波攻撃隊はさらに小規模で、9機のソードフィッシュで構成され、そのうちの5機が魚雷を装備していた。魚雷には初めて新型のピストル「デュープレックス」が取り付けられていた。これは接触型ピストルと共に磁気感応型という特徴を持っていた。通常の方法で命中すれば、既存の魚雷と同様に爆発する。一方もし魚雷が深いところを走って敵艦の下を通過したときには、磁場の変化で魚雷が爆発するというものであった。

  ウィリアムソンは第1波攻撃隊を率いて空へ舞い上がり、編隊を組んで北西のタラントへ向かった。ヘイルは第2波で1時間後に後を追った。23時直前、爆撃と照明の機が牽制の任務のために編隊を離れ、一方魚雷攻撃機は攻撃のための位置取りをするため、西方で旋回行動をした。

  爆撃機と照明弾投下機は順調に仕事をこなし、静止したイタリア艦船は完璧に明るく照らされたが、ウィリアムソンの攻撃隊は陸上砲台と軍艦の砲からの激しい対空砲火の中を飛ばなければならなかった。ソードフィッシュのパイロットたちは対空砲火の間を縫うように降下して、攻撃態勢の高度 9m (30 フィート)まで下がる中で、2つの予期していなかった有利な点を見つけた。最近の嵐の被害で、イタリアの防御幕気球のうちの約10個が地面に落ちており、有効な隙間を作っていた。そして魚雷防御ネットは十分に展開されていなかった(これは英国艦隊がアレキサンドリアへ引き返したと思ったのと、カンピオーニが翌12日にイタリア艦隊を出航させ、クレタ島のスーダ湾の連合軍基地を砲撃しようと計画していたためであった)。しかしパイロットたちにとって一番助かったのは、対空砲の射手たちの砲撃が不正確なことであった。しかしながらウィリアムソンは戦艦コンテ・ディ・カヴールに向けて魚雷を発射したときに射ち落とされた(ウィリアムソンと彼の観測手は捕虜となった)。他に2人のパイロットがなんとか戦艦リットリオに命中弾を得、他のパイロットは失敗した。その間に爆撃部隊はマル・ピッコロの標的を攻撃しつつあり、火災が始まり、第2波攻撃隊にとって良い指標になった。他に失われた機は無く、第1波攻撃隊のソードフィッシュは、午前1時15分までに無事にイラストリアスに戻った。




わずか3か月前に完工したばかりのイタリア戦艦リットリオは、4本の魚雷の標的となり、停泊地に着底した。



  ヘイルの第2波攻撃隊では、爆撃機1機が攻撃に参加するのに失敗したが、他のソードフィッシュは目的空域に23時50分に到着した。第1波攻撃隊と同じ戦術で、リットリオにさらに2本の魚雷を命中させ、1本をカイオ・デュイリオに命中させた。アンドレア・ドリアとヴィットリオ・ヴェネトは被害を免れた。巡洋艦ゴリツィアも被害を受けなかったが、これを攻撃しようとしたソードフィッシュを撃墜し、乗員は死亡した。他の7機のソードフィッシュは12日の午前2時50分までにイラストリアスに帰還した。

  「作戦行動はよく実行された」というのが、空母イラストリアスが艦隊に合流したときの、カニンガムの簡潔な合図だった。これは戦争の最高に控えめな表現の1つである。攻撃に参加した21機のうち、わずか2機のソードフィッシュの損失で、戦艦カヴールを全損にし(この艦は復帰することはなかった)、リットリオとデュイリオを5か月間戦闘不能にする打撃を与えた。地中海の海軍の均衡は覆った。カンピオーニに残された、稼働可能なイタリア戦艦は2隻のみとなった。

  タラント空襲がイタリア人の士気に明らかに破壊的な影響を与えたことを別にしても、その波及効果は実際の結果に劣らず劇的だった。ただその効果は一時的なものになるのであるが。タラント攻撃の結果は、英国によるギリシャへの軍隊や補給品の流れを、イタリア艦隊が妨害することができなくなったことを意味した。カニンガム優勢なイタリア軍に、いつでも対抗しなければならないという危険から解放された。そして大西洋方面での、重要な護送船団護衛任務のために、2隻の戦艦(マレーヤとラミリーズ)を回すことができた。この2隻の戦艦は、東地中海を去るとき、マルタへのもう1つの補給品輸送船団を護衛した。

  しかしタラント攻撃の恩恵は1941年1月に劇的に終わった。ドイツ空軍がシチリア島に到着し、地中海中部の完全な制空権を確立したのである。それでもタラント空襲は、海軍攻撃機が戦艦に代わる海戦における最も重要な勢力であることを、真珠湾攻撃で唖然とするほど見事に立証する、その13か月も前に初めて実行された決定的な試行であった。





 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



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