東郷 平八郎

             1847 − 1934




ここに礼装で写真に納まっている東郷平八郎提督は、日本海海戦で日本艦隊を勝利に導いた後、国民的英雄になった。


 
  日本で最も偉大な海軍の英雄、東郷平八郎は、内に秘めた激烈な感情をもち、死をも恐れない武士道精神を具現化しているような人物であった。彼の長い経歴そのものもまた、彼の国が封建的鎖国国家から世界をリードする力を持つ地位へと驚くべき変質を遂げた、そのことを象徴するような生涯であった。

  東郷は1847年に九州薩摩藩の侍の家に生まれた。そして初めて戦闘を見たのは16歳のときだった。一対の刀と時代遅れの火縄銃の伝統的なスタイルで武装し、父と二人の兄が、薩摩の海岸要塞から砲撃するのを手伝った。相手は鹿児島湾にいたイギリス軍艦で、薩摩軍が撃っていたのは旧式の球形砲弾であった。

  若き日の東郷が最初に海に出たのは、薩摩藩の小艦隊へ自発的に乗り組んでのことだった。この艦隊は、ペリー提督のアメリカ艦隊が1853年から1854年にかけて来航して以来、日本で最初に組織化された海軍だった。このペリー艦隊の来航は、日本が外国との通商に開国する端緒となった。1867年、若き天皇睦仁が皇位に就き、明治維新によって帝国の力の回復が始まった。「外国の野蛮人」が教えてくれることは何でも学ぶべきとの強い信念を持って、東郷は国家に奉公し日本の帝国海軍士官1期生のひとりとなった。学生となり英語を学ぶため外国語学校へ通った後、1871年、海軍訓練大学ウースター校(naval training college HMS Worcester)で学ぶため英国留学生に選ばれた。

  東郷は二番目の任務として、英国に発注した2隻の鉄製船体巡洋艦、扶桑と比叡の建造を監督する日本の士官チームに加わった。この英国での二番目の仕事にひとしきり取り組んだことは、東郷にとって最高に幸運だったと言わざるを得ない。というのはそのことによって、1877年の薩摩の不幸な反乱に関わらずにすんだからである。その反乱は伝統的な忠義心による誇りに縛られたものであったが、彼の家族の残りの者は反逆者側についていたのだった。実際のところ、東郷は反逆罪の汚名を着せられることもなく、1878年に比叡で帰国し、翌年少佐に昇進した。

  東郷が司令官にふさわしいことを示したのは、1892年から1895年まで英国製巡洋艦「浪速」の艦長としてであった。ちょうどその時中国との戦争が起こったのだった。1894年〜1895年の日清戦争では、20世紀の日本が常習することになる策略を最初に使った。すなわち、宣戦布告前に艦隊により先制攻撃したのである。浪速と他の3隻の巡洋艦は坪井少将の遊撃艦隊を編制し、中国の朝鮮への輸送を断ち切るべく向かった。東郷は中国のスループ型砲艦(※10-32門の砲を装備した軍艦)広乙 Kwang-yi を沈め、防護巡洋艦済遠 Tui-Yuen を損傷させたのみならず、軍隊輸送船として中国がチャーターしていた英国船高陞 Kowshing も沈め、国際法の専門家たちの間で大論争となった。英国政府が、東郷は自分の法的権利を超えてはいなかったと結論付けたとき、完全に無実であると証明された。彼は引き続き、ヤールー川で中国艦隊を打ち負かし(※鴨緑江海戦、黄海海戦とも言う)、旅順港を攻め落とし、台湾を占領するという戦いの中で、名を上げ続けた。そして戦争が終わったとき、彼は少将になっていた。

  1900年、今や中将の東郷は、義和団の乱の結果として発生した中国に対する国際軍事行動に、日本艦隊を指揮して参加し、名誉を増した。しかしロシアとの緊張は増し続けていた。それはドイツ、ロシア、フランスの三カ国が日本に圧力をかけ、1895年に日本に旅順を放棄させて以来続いていた軋轢である。その結果としてロシアが旅順の租借権を獲得した。それが1904年〜1905年の日露戦争における一番の原因となった。

  この戦争では東郷は、日本の連合艦隊の最高司令長官として、戦艦三笠に司令長官旗をはためかせながら指揮を執った(この戦艦三笠は、英国のネルソンの艦ヴィクトリー Victory と同様、記念艦として日本で今も保存されている)。再び奇襲攻撃によって戦争が始まった。今度は旅順への攻撃だった。この攻撃は2月9日に撃退されたが、東郷がロシア艦隊を港内に封鎖したことで、日本が朝鮮と南満州沿岸の制海権を維持できた。8月24日、ロシアのヴィトゲフト提督(Admiral Vitjeft)は旅順港の封鎖から脱出した。しかし黄海海戦の激戦で、数で勝る東郷の艦隊に負けた。

  この黄海海戦は東郷の最も厳しい戦闘だった。1905年5月27〜28日に戦われた日本海海戦(対馬海戦)で東郷の艦隊に迎撃され撃破されたバルチック艦隊は、調和が取れてなく訓練が不十分であった。それに比べヴィトゲフトの艦隊はずっと手ごわい敵だった。

  日本海海戦はロシアの敗北受諾を確実にし、加速させただけではなかった。東郷を国民的英雄にし、ネルソンとトラファルガーの勝利と同様の見方を日本にもたらした。ついでに言えば、ネルソンと比較されることを、東郷はうれしく思ったであろう。偉大な英国の提督を手本にしており、乗艦した艦の自分の部屋にネルソンの肖像画を掛けるのが常だった。東郷の記されるべき最後の官職は皇太子裕仁(昭和天皇)の教育指導主事だった。国内でも海外でも祝福され敬意を払われ、東郷は1934年に亡くなるまで日本で最も尊敬された元老だった。
 




 (「世界の海軍史 近代海軍の発達と海戦」より抜粋)



     
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