第一次ソロモン海戦 

                    




 

連合軍司令官、旗艦で離脱

 連合軍のガダルカナル島への上陸艦隊司令官ケリー・ターナー少将は、まだ荷降ろしを完了していない貨物船も送り返すべきか、あるいは、もう一日、航空援護なしに上陸海岸沖に停泊させておく危険を冒すべきかを決断しなければならなかった。海兵隊が陸上で何を必要としているかにもよるが、彼はヴァンデグリフトに無線で問い合わせるよりも、その夜、自分の旗艦である攻撃輸送艦マコーリー艦上で打合せするよう呼び寄せた。 

 ターナーはまた、英国海軍のビクター・クラッチリー少将も招いた。彼は侵攻海岸を敵の水上部隊から守る巡洋艦・駆逐艦部隊を指揮していた。砂色の髪をして髭を伸ばしたクラッチリーは、ほんの数週間前にオーストラリア海軍に出向していた。第一次世界大戦で下級士官として獲得したヴィクトリア十字章の受章者である彼は、ナルヴィク港に勇敢に侵攻した戦艦ウォースパイトの指揮官でもあった(第3章参照)。フレッチャーの任務が日本の空母の攻撃をかわし航空援護をすることであるならば、クラッチリーの任務は水上攻撃から橋頭堡を守ることだった。そのために、この英国人提督は8隻の巡洋艦 (アメリカ艦隻、オーストラリア艦) を、つのグループに分けて指揮した。

 クラッチリーは、敵が接近してくる可能性の最も高い経路を自分の指揮に割り当てた。それはガダルカナル島の西端にあるエスペランス岬と丸いこぶ状のサボ島の間の幅10マイルの航路だった。クラッチリーはそこに、6隻の重巡洋艦のうちオーストラリア軍のキャンベラ、アメリカ軍のシカゴ、そして自身の旗艦オーストラリアの3隻を配置した。日本軍がサボ島の北方を回って橋頭堡に接近しようとした場合に備えて、クラッチリーは他の3隻の重巡洋艦をその海域に配置し、プエルトリコ生まれのアメリカ人として初めて海軍兵学校を卒業したという栄誉を持つフレデリック・リーフコール米海軍大佐の指揮下に置いた。どちらの巡洋艦群に対しても、クラッチリーは巡洋艦の西方に哨戒駆逐艦を1隻ずつ配置し、事前に警告を発せられるようにした。残る2隻の巡洋艦、アメリカの防空巡洋艦サン・ファン San Juan とオーストラリアの軽巡洋艦ホバートは、いずれもアメリカ海軍のノーマン・スコット少将の指揮下にあり、橋頭堡の東側の危険が少ないと思われた海域を哨戒した。

 その後、批評家たちはクラッチリーの艦の配置に難癖をつけ、「6隻の重巡洋艦の戦力を1つのグループにまとめるべきだったか」と修辞的に尋ねた。その是非はともかく、クラッチリーはその夜、少なくとも疑問の残る別の決断を下していた。ターナーから会議への召集の連絡を受け取った彼は、会議に艦の搭載艇や駆逐艦で出席するのではなく、自分の旗艦で出席することを決め、米重巡シカゴのハワード・ボーデ大佐に第一巡洋艦グループの指揮を一時的に任せた。その結果、第一巡洋艦グループの重巡は3隻から2隻に減った。さらに悪いことに、彼はリーフコールにその海域を離れることを知らせなかった。

 連合軍の指揮官の誰も知らなかったことは、クラッチリーがターナーとの会議のために自艦オーストラリアで東に向かい、フレッチャーが撤退要請に対するゴームリーからの返事を待っている間にも、日本軍の大規模な水上部隊が西からガダルカナル島に迫っていたことだった。



三川艦隊の出撃

 その水上部隊の指揮官は、数週間前にラバウルで創設されたばかりの日本海軍の第8艦隊を率いる三川軍一中将だった。生来攻撃的な三川は、ツラギの日本軍守備隊からの 「死守する」 という毅然とした報告、実際彼らはその通り行動したのだが、その最後の報告を受けて行動に駆り立てられた。その報告は同日朝時5分にラバウルに着信し、三川は8時までに重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻の水上部隊をラバウルに集結させる命令を出した。正午、東京の永野修身軍令部総長に戦闘計画を送り、出撃の許可を求めた。三川の要請に対する永野の当初の反応は、そのようなせっかちな攻撃は危険であり、「無謀」でさえあるというものだった。しかし、最終的には現地司令官に判断を委ね、その日の午後時半には三川は24ノットで海上を南東に向かっていた。

 1942年8月のこのとき53歳(同月末に54歳になる)だった三川は、南雲の真珠湾攻撃に随伴した戦艦戦隊や、インド洋で大暴れし、ミッドウェー海戦で終焉した機動部隊の戦艦支援部隊を指揮していた。(※ただしミッドウェー海戦では、機動部隊内の戦艦戦隊ではなく、攻略部隊の戦艦戦隊を指揮した)。彼はミッドウェー海戦でのアメリカの急降下爆撃機の壊滅的な効果から、アメリカの空母がもたらす脅威を特に敏感に感じ取っていた。目的地に向かう途中、彼は2度無線封止を破り、ラバウルにそれら敵空母の行方についての情報を求めたが、ラバウルも彼以上の情報は持っていなかった。20

 午後遅く、長航続距離のハドソン哨戒機が上空を通過した。これはミルン湾(※ニューギニア島東端の湾)から飛んできた、マッカーサー司令部の一部に属する機であったが、三川は自分の意図をパイロットに混乱させるため、一時的に東から北に針路を変えた。しかし彼は心配する必要はなかった。ハドソン機のパイロットは、三川の部隊を巡洋艦隻、駆逐艦隻、水上機母艦隻と誤って認識していた。報告が不正確だっただけでなく、その伝達が時間以上遅れた。これはアメリカ軍の、南西太平洋における指揮系統の厄介な分割構造の弊害であった。そのためか、ヌーメアのジョン・S・マケイン海軍少将率いるカタリナ飛行艇とB-17の哨戒部隊は追跡調査を行わず、ターナーが後に 「航空偵察の見事な失敗」 と呼んだ手落ちだった。その結果、サボ島の北と南にいたアメリカ軍の海上部隊は、三川艦隊の接近を予知警戒することはできなかった。

 三川の巡洋艦艦隊が重巡鳥海を先頭にガダルカナルとサボ島の間の航路に入ったのは、月9日に日が変わり0時を40分過ぎた真っ暗な時間だった。その夜は月が出ていなかったが、三川の大前敏一参謀長は「視界はむしろ良好だった」と回想している。アメリカの駆逐艦ブルーは、まさにこのような脅威を早期に警告するために、正確な場所に配置されていた。しかもこの艦はレーダーを装備しており、アクティブモードになっていたが、それはSC (航空捜索) レーダーであり、水路の両側の陸地からの偽反射波が測定を妨害していた。鳥海はレーダーを持っていなかったが、鋭い視力の見張り員が、ブルーが海峡の入り口を横切って哨戒しているのを見つけた。三川は艦隊の速力を落として、発見されるかどうか見守った。大前は後に、艦橋の「皆の呼吸が止まったようだった」と回想している。誰もが、ブルーが静かに通り過ぎ、反転して去っていくのを見つめていた。鳥海では 「呼吸が正常に戻り」 、三川は速力を30ノットまで上げた。1時36分、連合軍の巡洋艦シカゴとキャンベラを視認した。






連合軍代理司令官、接敵連絡を怠る

 重巡シカゴのボーデ大佐が、敵が近くにいるかもしれないという最初の兆候を知ったのは、駆逐艦パターソンが無線で 「警告、警告。奇妙な船が入湾している」 というメッセージを送った1時45分だった。パターソンはまた、侵入者を照らすために照明弾を発射した。しかし、アメリカの巡洋艦では、そのような警告は決定的なものとして受け取られず、マタパン岬沖海戦のカッタネオ提督のように、ボーデは大口径の砲弾が艦の周囲に巨大な水柱を噴き上げ始めて初めて、敵軍が実際に迫っていることを知った。

 三川は砲撃を開始する前に既に、麾下の艦に酸素魚雷の総攻撃を命じていた。大前は 「1本1本が水を叩く音」 を響かせたと思い起こした。こうしてボーデは、敵の最初の砲弾が彼の周囲に着弾し始めたとき既に、水中を魚雷が走っているとの報告をいくつも受けており、魚雷の進路を探るためにシカゴに取り舵いっぱいを命じた。数本の魚雷は数メートル以内を通過して外れたが、そのうちの本は艦首を吹き飛ばした。しかしシカゴはまだ操艦できた。クラッチリーの不在で自分がその場にいる最上級士官であることを忘れていたのか、ボーデは接敵緊急連絡を出すのを怠り、自分の艦を操ることに集中した。一瞬の混乱の中、彼は数分間西に向かい続け、損傷したシカゴは事実上戦闘から離脱した。後に、海軍情報局が作成した公式報告書では、「シカゴはまだ状況を把握していなかったようだ」 と明記されている。ある乗組員は 「何が起こっているのか誰もわからず、艦橋は大混乱だった」 と回想している。シカゴの進路の乱れによって、三川の巡洋艦群はオーストラリア海軍のキャンベラに砲火を集中させることができ、キャンベラは4分足らずの間に24発の砲弾の命中を受けた。シカゴが戦場から遠ざかり、キャンベラが燃えて沈む中、三川はリーフコールの3隻の巡洋艦を攻撃するため、サボ島を反時計回りに旋回しながら北上した。

 ボーデが接敵報告を出さなかったことで、リーフコールの艦船はシカゴやキャンベラと同じように急襲されることとなった。北の集団の中に到達した三川は、サーチライトを照らし、それを指差し棒として使った。夜に輝く白い指のように、それは「ここだ。..この艦を撃て」と言わんばかりに、次から次へとアメリカ軍の艦を照らした。巡洋艦アストリアが最初の犠牲となった。初期の斉射によって飛行機格納庫で火災が発生し、闇夜の中の明るい炎は日本軍にとって鮮明な標的となった。8インチ砲弾の連続命中により、艦は動力を失い、海面に浮かんでいるだけの死に体となった。次はサミュエル・ムーア大佐のクインシーだった。致命的な十字砲火に巻き込まれたクインシーは、主砲を敵に向ける前に粉々に命中弾を浴びた。ムーア自身、砲弾が艦橋を直撃したとき、そこは 「死体だらけ」 と化し、初期の犠牲者となった。瀕死の重傷を負ったムーアは最後の命令で操舵士に、沈没を防ぐため、破壊された艦をサボ島の海岸に乗り上げるよう指示した。この試みは失敗に終わり、1本の魚雷がクインシーの弾薬庫に命中したとき、ある生存者の言葉を借りれば、艦は 「文字通り海から跳ね上がった」。クインシーは35分に沈没した。

 リーフコールの旗艦ヴィンセンスもまた、沈没しつつあった。初期の艦橋への被弾で通信手段が破壊されたため、接敵報告を送ることもできず、リーフコールは、わずか数分の間に艦が大口径砲弾と「本か3本の魚雷」の両方に被弾しているのを見ており、2時14分に総員退艦を命じた。アストリアは一晩中浮いていたが、翌日、横転して沈没した。


三川艦隊、輸送船を攻撃せず撤収

 アストリアが沈んだ、その頃には三川の艦隊はとっくに消えていた。彼は連合軍の水上部隊を殲滅した後、そのまま進み、連合軍の輸送船に大口径砲を向けることができたかもしれない。砲弾は十分に残っていたが、日本軍が主要攻撃兵器と考えていた魚雷はすべて使い果たしていた。しかし彼の最も差し迫った懸念は、輸送船を攻撃するために分散した艦隊を再編成するのに数時間かかり、その頃には太陽が昇っているだろうということだった。夜が明ければアメリカの空母機が群れをなして彼の艦隊に襲いかかり、後に彼が書いているように、「ミッドウェーで我々の空母が味わったような運命をたどることになる」。それに、先の爆撃作戦のパイロットたちは、すでに侵攻軍の艦船のほとんどを排除したと報告していなかったか? 自分がやろうとしたことはやり遂げたと結論づけた三川は、日の出までに航空機の航続圏外に出るため、午前2時25分、北西への撤退を命じた。

 その時点で、三川が恐れていたアメリカの空母はまだガダルカナル島の南で援護の位置にいたが、ボーデもリーフコールも戦闘中であることを報告していなかったので、フレッチャーは15分にターナーから、シカゴが魚雷の命中を受け、キャンベラが炎上していることを聞くまでそのことを知らなかった。フレッチャーはその知らせをゴームリーに転送したが、3時半に来たフレッチャーの撤退許可申請に対するゴームリーのそれを承諾する反応は変わらなかった。その時間後、三川が西に逃げていたとき、フレッチャーは東に撤退して給油の待ち合わせ場所に向かった。その後、ターナーは第一次ソロモン海戦(サボ島海戦)での惨事をフレッチャーのせいにしたが、アメリカの空母は戦闘が終わるまで撤退を開始しておらず、また、ほぼ確実に壊滅させられていたかも知れないターナーの輸送艦隊を救ったのは、三川が空母を恐れたからだった。

 第一次ソロモン海戦(サボ島海戦)は連合軍にとって屈辱的な敗北だった。真珠湾攻撃を除けば、アメリカ海軍史上最悪の敗北だった。あまりのひどさに、ミッドウェー海戦後の日本当局と同様、アメリカ政府もこの結果を公式の秘密とした。海軍の公式発表に基づき、ニューヨーク・タイムズ紙は18日に次のように報じた。「日本の軍艦が上陸作戦を妨害しようとした。....が阻止された。日本軍の水上部隊は我々の軍艦に迎撃され、輸送船や貨物船を砲撃する前に撤退を余儀なくされた」と。厳密に言えば正しいが、意図的に誤解を招くような表現だった。海軍は世間の反応を気にするあまり、沈没した巡洋艦の生存者を事実上隔離し、アメリカ政府は2か月後になってやっと、この惨事の事実を認めた。

 この戦闘の余波の中で、多くの粗捜しと責任のなすりつけがあった。結局、キングの指示で、アメリカ海軍は元合衆国艦隊司令長官アーサー・J・ヘップバーン大将を中心に調査を行った。彼の報告書が出されるのに翌年の春まで掛かったが、その中で彼は、不十分な航空索敵、不十分な連絡、十分な 「戦闘意識」 の欠如など、長い誤りのリストを挙げた。ターナーはその場にいた最上級将校だったが、彼は犯人というより被害者として認識された。また、おそらく連合軍の調和を考えてのことであろうが、ちょうど戦闘終了時に戦闘現場に急遽戻ったクラッチリーも非難を免れた。キングは後に、「人とも厄介な立場に置かれていることに気づき、2人とも使える手段で最善を尽くした」 と珍しく共感を示した。一方で、キングとヘップバーンはフレッチャーとボーデ大佐には同情的ではなかった。ヘップバーンはボーデ大佐を 「とがめられるべき能力不足」 で有罪とした。この報告書が公表された数日後、ボーデは拳銃自殺を遂げ、この戦闘での連合軍の最後の犠牲者となった。

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 ヘップバーンの報告が示したように、アメリカ軍の手抜かりと任務のミスがこの結果を招いたが、この戦いが単に連合軍の敗北ではなく、日本軍の勝利でもあったことを認めることは重要である。つまり、三川の指揮下にあった艦と乗組員は、準備万端であり、警戒態勢を整え、規律正しく、効率的で、その結果最終的に成功を収めた、ということである。日本は、自国の艦船、飛行機、そして特に訓練された兵士が、米国のそれよりも質的に優れているという強い確信のもとに参戦した。第一次ソロモン海戦(サボ島海戦)の結果は、そのような確信があながち見当違いではなかったことを示唆した。

 この惨敗で連合軍にとって不幸中の幸いがあったとすれば、それはターナーの輸送船がほとんど無傷であったことだ。これらの船は、1942年にアメリカ軍が利用できた大型輸送船のほぼ半分を占めていた。もし三川がラバウルに向かっての後退を急がず、さらに前進してそれら輸送船の相当数を撃沈または損傷させていたら、ガダルカナル作戦だけでなく、世界中の連合軍の作戦を危険にさらしていただろう。一方、輸送手段が無傷であっても、ガダルカナル島の海兵隊は不安定な立場にあった。連合軍が島に拠点を維持しようとするならば、紛争のある海を渡って増援軍と補給の安定した流れを維持しなければならないだろう。


 Craig L. Symonds 著   粟田亨 訳
 原書 World War II at Sea : A Global History



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この翻訳は、20241024日に、私が出版社「えにし書房株式会社」 と出版契約を結び、20255月出版予定と明記されているのですが、監修者(等松春夫氏)が監修終了予定日を1月から回延期し、停滞して今に至っています。原書の内容が優れているだけに、出版が遅れる時間の損失が惜しく、また原書の著者と、情報提供してくれた海上自衛隊に申し訳なく、私の翻訳内容の一部を公開して皆さんの意見を仰ぎます。