マリアナ沖海戦 



            

19446月のDデイは、ノルマンディー侵攻がその中心に位置したが、Dデイはノルマンディーだけのものではなかった。連合軍兵士がフランスに上陸してからわずか9日後、アメリカ海兵隊の2個師団が、ノルマンディーから7,500マイル(12,000 km)離れた、太平洋中部マリアナ諸島のサイパン島に上陸した。サイパンへの上陸は、第二次世界大戦最大の海戦の一つである、フィリピン海海戦(即ちマリアナ沖海戦)を引き起こすことにもなった。

 フィリピン海は、囲まれた水域というよりは、西太平洋の一部に付けられた呼び名である。西はフィリピン諸島、東は 1500 マイル(2400 km)離れた細長いマリアナ諸島に囲まれている。20年以上もの間、日米両国とも、将来両国の間で戦争が起こった場合、その結末は西太平洋のどこか、その中でもおそらくはフィリピン海での艦隊決戦にかかっているだろうと考えていた。その想定は、戦前の戦略計画、図上演習、そして毎年の実際の海軍演習に影響を与えてきた。ミッドウェー海戦の結果にもかかわらず、双方とも、真に決定的な戦い、つまり戦争の帰趨を決する戦いはまだこれからであり、それはフィリピン海海域で起こるだろうと考えていた。


マリアナ諸島の重要性

 マリアナ諸島を構成する15の島々は、日本とニューギニアの中間位置の中部太平洋で、南北に450マイル(720 km)の弧を描く。アメリカがこのマリアナ諸島を標的にする決断を下した背景には、2つの要因があった。ひとつは、マリアナ諸島最大の島グアムが、戦前からアメリカの領土であり、194112月に日本軍に占領された最初のアメリカ領だったことだ。しかしそれ以上に重要だったのは、マリアナ諸島からアメリカの長距離爆撃機 B-29 スーパーフォートレスが日本本土、とりわけ東京に到達できるという事実だった。そして15の島のうち3つは軍事基地を置くのに十分な大きさで、その最北端、すなわち日本に最も近い島がサイパンだった。そこはアメリカ軍が最初の上陸を計画した島であり、ひとたびアメリカ軍の手に渡れば、建設部隊(シービーズ)が飛行場を建設し、連合国軍が既に2年間近くドイツに対して行っていたような爆撃作戦を、新型爆撃機 B-29 を使って日本に対して実行できることになる。






 マリアナ諸島は日本軍にとっても大きな意味を持っていた。日本軍にとって、これらの島々は日本本土の前にある最後の地理的障壁、つまり最後の本土防衛が可能な位置を構成していた。さらに、アメリカの爆撃機が日本の都市上空を自由に飛び回り、それによって天皇の命が危険にさらされるということは耐えがたいものだった。連合国がラバウルを迂回して以来、日本軍の方針は艦隊を温存するというものだった。しかし今や、アメリカ軍が日本の最後の防衛線を突破する恐れがあり、艦隊を戦闘に投入する時が来た。もしアメリカ軍がマリアナ諸島を攻撃してきたら、連合艦隊司令長官古賀大将は艦隊を出撃させ、「総力を挙げて決戦に臨む」考えだった。

しかし彼はその機会を得ることができなかった。というのは、3月末の台風で飛行機が墜落し、死亡したためだった。彼の後任には豊田副武(とよだそえむ)大将が就任したが、彼は何の変哲もない容姿の男(歴史家のジョン・プラドスは「彼は戦闘提督というより鉄道車掌に似ていた」と示唆している)で、元海軍調達部長であり、実質的に戦闘経験がなかった。それでも彼も、同じ戦略を維持した。つまりアメリカ軍がマリアナ諸島を攻撃した場合、日本軍は艦隊を戦闘に投入するということであった。豊田は言った。「我々は、1回の決戦で、大きな敵の戦力集中の中核を一撃で粉砕することによって、我々の目的を達成しなければならない。」

アメリカ軍もまた、そのような戦いを心待ちにしていた。大いに期待されたその対決の性格は、時間の経過とともに、ユトランド沖海戦のような戦艦同士の激突から、遠距離での空母の交戦へと変化していたが、決戦という考え方は、日本帝国海軍の文化と同様に、アメリカ海軍の文化にも深く根付いていた。太平洋戦争の重要な段階に入った両国は、遅かれ早かれフィリピン海で全面対決になるだろうと予想していた。



米軍の戦力

 サイパン侵攻のためのアメリカ軍の増強(コード名はフォリジャー作戦 : Operation Forager 略奪者)は、オーバーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)の準備と同時に行われた。火力で測れば、サイパン侵攻のための艦隊はノルマンディーに投入された艦隊よりも規模が大きかった。レイモンド・スプルーアンスが侵攻軍全体を指揮し、その指揮下にはピート・ミッチャーの強力な第58任務部隊が含まれた。この部隊はその時、空母15隻、戦艦7隻、巡洋艦11隻、駆逐艦86隻で構成されていた。この部隊は、127,571 人の兵士と海兵隊員を運ぶ 56 隻の侵攻輸送船と84隻の LST(戦車揚陸艦)を含む侵攻軍を、援護することになる。アイゼンハワーがノルマンディー上陸作戦のためにあと1隻か2隻の LST を確保しようと奔走していた時期に、太平洋で84隻の LST が採用されたことは、ドイツ第一主義が事実上放棄された強力な証拠だった。

サイパン侵攻にはノルマンディーよりもはるかに長い海上輸送を必要とした。ネプチューン/オーバーロード作戦の侵攻軍が英仏海峡を50マイルから100マイル越えるだけだったのに対し、サイパン侵攻軍の輸送船や上陸用船の多くは、目標の海岸から3500マイル以上も離れた真珠湾で積み込み作業をした。ネプチューン/オーバーロードの場合、LST は最初の上陸から数週間にわたり、ほぼ一定のローテーションで増援と補給物資を海岸に往復させることができたし、実際にそのようにした。対照的に、サイパンの場合は、人員、装備、物資、弾薬のすべてを、広大な太平洋を1回の大航海で運ばなければならなかった。アイゼンハワーはマーシャルに対し、ノルマンディーでのLSTの不足により、侵攻部隊が補給なしで最長3日間海岸に足止めされる可能性があると警告していた。一方、サイパンに侵攻した兵士たちは、計画上では大規模な援軍や物資が到着するまでに3か月間足止めされることになっていたが、もちろん日本軍も、事実上援軍から切り離されてしまうため、手持ちの兵力だけで戦わなければならないだろうと考えられた。

サイパン侵攻軍は5月最後の3日間に真珠湾を出港した。途中、全く予期せぬアナウンスで退屈な時間が破られた。「この放送を聞くように。フランスへの侵攻が始まった。 最高司令部はこれまでの上陸は成功したと発表した。以上だ。 この知らせは大きな歓声を呼び起こし、自分たちのDデイを間近に控えた兵士たちの士気を高めたことは間違いない。6



搭乗員の練度など日本軍の実態

 迫り来る脅威に対応するため、日本の艦隊司令長官である小沢治三郎は、かなりの攻撃力を用意していた。最近の損失にもかかわらず、日本帝国海軍は世界で3番目に強力な海軍力を維持していた。小沢は5隻の大型空母で出撃する計画を立てており、そのうちの1隻はわずか2か月前に就役したばかりの新造空母、大鳳で、これは装甲飛行甲板を備えた唯一の日本の空母だった。また、4隻の小型空母も保有しており、これら9隻の空母を合わせると473機を空中に投入することができた。それらの航空機の多くは、アメリカ軍がコード名「ジュディ Judy (彗星艦爆のこと)」と名付けた洗練された新型の横須賀 D4Y 急降下爆撃機と、アメリカ軍が「ジル Jill (天山艦攻のこと)」と呼んだ中島 B6N 雷撃機だった。紙上の性能値では、これらは194112月に真珠湾を攻撃した機よりも強力な攻撃力を持っていた。

その一方で、それらの新しい飛行機のほとんどを、比較的初心者が操縦することになる。日本の空母パイロットは1941年には世界最高だったが、それ以来、あまりにも多くのパイロットが戦闘で命を落とした。アメリカ軍は、優秀なパイロットを本国に送り返して新しいパイロットの訓練に当たらせたが、日本軍はそのようなことをせず、パイロットがほとんど残らなくなるまで最前線に留まらせ続けた。新しいパイロットたちは、その中には10代の若者もいたが、熱意は十分に持っていた。単に経験が足りなかったのだ。7

小沢はまた、山本の元参謀長だった宇垣纏のもとにある、強力な水上部隊を作戦統制していた。その水上部隊には日本のスーパー戦艦、大和と武蔵も含まれていた。1930 年代に建造が開始されたとき、日本軍はこれらの巨大軍艦が太平洋戦争の切り札になることを期待していたが、これまでのところどちらの艦も本格的な砲撃を行ったことはなかった。ここでついに、これらの艦が設計された目的のための決定的な交戦が行われることとなった。

パイロットの訓練不足のほかに、小沢が抱えていたもう一つの問題は燃料不足だった。日本軍は 1942 年の栄光の時期に南アジアの油田を占領することに成功したが、1944年までに石油はかつてないほど不足していた。これは主にアメリカの潜水艦による被害のためで、アメリカの潜水艦が日本のタンカー船隊を襲い、1944年の最初の5か月間で21隻のタンカーを沈没させていた。小沢の艦艇は戦闘に向けて出航前に、未精製原油をタンクに補充した。そうした原油は艦艇を必要な場所に走らせることはできたが、揮発性の点で取り扱いが難しく、またボイラーを汚す傾向があった。これは、1944年半ばに日本軍がいかにギリギリのところで活動していたかを示している。

小沢が持っていた有利な点の一つは、日本の航空機には装甲も自己密封式(セルフシーリング)の燃料タンクも装備していなかったため、アメリカの航空機よりもはるかに軽量だったことだ。そのため日本軍の航空機とそれを操縦するパイロットは非常に脆弱だったが、同時にアメリカ軍機よりも長い航続距離を得ることができた。それにより、アメリカ空母まで300マイル(480 km)の距離から発艦し、アメリカの空母を攻撃した後、再武装と燃料補給をするためにグアムの基地に着陸し、その後帰路に再びアメリカ軍を爆撃してから自分の艦に戻ることができた。その間ずっと日本の空母はアメリカの航空機の航続距離外に留まることができた。小沢はまた、グアムとサイパン両方の陸上航空機からの支援を頼りにした。連合艦隊司令部は、戦闘が始まる前に、グアムからの飛行機がアメリカ空母の3分の1を沈めるだろうと彼に保証した。しかしそれについてはアメリカ軍も既に懸念しており、ミッチャーの空母はグアムの飛行場に対して、侵攻前に一連の壊滅的な空襲を行った。小沢はこのことを知らず、サイパンに近づいたとき、マリアナ諸島に450機もの日本の航空機が支援の準備ができて存在していると信じていた。実際には、彼が到着するまでに、その数は50機にも満たなくなっていた。

小沢の空母部隊は613日にフィリピン南方のタウィタウィ基地を出発した。アメリカの潜水艦はそこに日本の水上部隊が集結していることに気づいており、小沢提督の艦艇が出港したとき、アメリカ潜水艦レッドフィンが出港のことをスプルーアンスに報告した。 小沢の空母群は北に向かい、フィリピン諸島を通過し、615日にフィリピン海に出たが、そこで別の米潜水艦フライングフィッシュに発見された。そのわずか1時間後、別のアメリカ潜水艦シーホースが、南から宇垣の水上部隊が接近していることを報告した。10

これらの目撃報告を受け、スプルーアンスは日本軍が少なくとも2つの大艦隊を自分の方角に派遣したことを知った。日本軍が複雑な戦闘計画を好むことを知っていた彼は、2艦隊のうちの1つ ― おそらく空母部隊 ― がアメリカの主力艦隊を引き離すためのおとりとなり、それによって南からやってくる水上部隊がその背後に滑り込んでアメリカ軍の輸送船群を攻撃するように意図しているのではないかと思った。2日後の617日、潜水艦カヴァラが別の目撃報告を送った。それは少なくとも15隻の大型軍艦が西から接近しているというものだった。15隻。スプルーアンスは、残りの艦はどこにいるのか疑問に思った。これは小沢部隊の一部なのか、それとも宇垣部隊の一部なのか? 実際には、2つの艦隊は統合していたのだが、それを知らないスプルーアンスは、相手の行動を推測しようとした。もし自分が小沢だったら、アメリカ地上軍から物資や支援を奪うために「輸送船群を排除」しようとするだろうと彼の旗艦秘書チャールズ・バーバー氏に語った。「私が小沢だったら部隊を分割し、空母部隊を使ってアメリカの軍艦を引き離し、一方で輸送船群に対処するために高速艦を何隻か派遣するだろう」と彼は思案した。スプルーアンスは自分の一番の任務が橋頭堡の防衛であると信じていたので、火力支援のために古い戦艦をサイパンの近くに留め、一方ミッチャーの空母とウィリス・リーの高速戦艦にはサイパンの西180マイルの迎撃地点に就くよう命令した。そして特にミッチャーに「サイパンとこの作戦に従事している部隊を援護するように」と指示した。



米空母部隊司令官ミッチャーの葛藤


 空母をこのように配置する利点は、海岸で苦戦する海兵隊を支援できる距離内にアメリカの空母を維持しておけることだった。一方、ミッチャーにしてみれば不本意な点は、これらの命令により空母が事実上、サイパン近くに拘束されてしまうことだった。この国の最初の海軍パイロットの一人であるミッチャーは、空母は攻撃兵器だと信じており、接近してくる日本軍を攻撃するために空母を使用したいと望んでいた。彼はミッドウェー海戦のとき、自分の航空隊を間違った方向に向かわせたため、敵空母部隊の破壊に参加する機会を逃した。今、彼はスプルーアンスの空母戦術についての、というよりまさに空母の目的についての誤解のために、2度目のチャンスを失うのではないかと恐れていた。1920年代から海軍の作戦計画者たちが考えていた艦隊決戦の勝利を達成するチャンスがここにあった。彼にとって、そして彼の飛行士たちにとって、保守に凝り固まった戦艦提督の警戒と思われるものによって、その運命から遠ざけられているのは腹立たしかった。12

スプルーアンスの決断に影響を与えたもう一つの要因は、スプルーアンスもウィリス・リーも日本軍との夜間戦闘を望んでいなかったことだ。アメリカ軍のレーダーの改良により、それまで日本軍が夜間交戦で享受していた優位性は大幅に減少していたが、スプルーアンスはミッチャーに、米空母が日中は小沢の艦隊に向かって西に進むことができるが、敵が暗闇の中をすり抜けないようにするため、夜間は向きを変えて東に向かわなければならないと指示した。ミッチャーはその命令に抗議し、スプルーアンスに再考を求めるメッセージをちらつかせた。返答は簡潔だった。「私たちは私の最初の命令を遂行する」。



小沢艦隊攻撃隊が発進


 619日未明、小沢は米軍索敵のため43機の偵察機を送り出した。そのうちの数機は上空哨戒中のヘルキャットに迎撃されたが、午前730分に1機がサイパンの真西160マイルにいるミッチャーの任務部隊の位置を発見し報告した。小沢の空母からの距離は380マイルであり、兵器を搭載した飛行機が往復するには長すぎたが、小沢はその後自分たちの飛行機がグアムに着陸できると信じていたため、とにかく発進させた。その距離は疑問の余地なく、より重いアメリカの航空機にとっては長すぎたため、ミッチャーは再びスプルーアンスに、敵に近づくために西に向かうことができるかどうか尋ねた。スプルーアンスは「提案された変更は得策ではないようだ」と返答した。彼はミッチャーに、「他の高速艦(敵艦)による巧みな身のかわしの可能性も残っている」と念を押した。そのメッセージがミッチャーの旗艦に届いたとき、ミッチャーの幕僚のひとりは、自分の帽子を甲板に投げつけて踏みつけた。


 619日の朝は、澄んだ青空と事実上無限の視界があるような中で夜が明けた。 護衛艦1隻に乗艦していたアメリカ人水兵は、「これ以上望めないほど素敵な一日だった」と振り返る。(その同じ日に、7500マイル離れた英仏海峡では、猛烈な嵐がオマハビーチとゴールドビーチに人工的に作られた港を破壊しつつあった)。午前10時前、アメリカ軍のレーダーは西から接近する多数の「敵機」を確認した。ミッチャーは「ヘイ・ルーブ」と無線で呼びかけてグアム上空の飛行機を呼び戻し、さらに140機の戦闘機を空に飛ばすよう命令した。ヘルキャットは敵攻撃機を迎撃するために西に飛び、爆撃機と雷撃機は邪魔にならないように東に向かった。レキシントンのジョセフ・R・エガート大尉は、全空母の戦闘機隊長を調整し、レーダーを使用してパイロットを、接近する日本軍に向けて誘導した。レキシントンから飛び立ったパイロットの一人、アレックス・ヴラシウ中尉は、その朝エガートの声に異常な興奮を感じたと思った。 接敵が報告されている方向のフロントガラスを見つめていると、「少なくとも50機の敵機が統制の取れてない大きな塊」となって自分に向かってくるのが見えた。実際には69機の敵機だった。小沢はすべての飛行機を一度に送るのではなく、約1時間間隔で何波にも分けて送ることに決めていた。ヴラシウは、敵を発見したときの共通の呼びかけを使って、無線で「タリー・ホー!」と戦隊の仲間たちに伝え、侵入者に襲いかかった。

*昔のキツネ狩りの「タリー・ホー!」という叫び声が、アメリカとイギリスの海軍(空軍でも)のパイロットが敵を発見したことを知らせるために使用された。呼びかけ用語として「ヘイ・ルーブ」を使用したのは、アメリカ海軍特有のものだった。この用語は、1942年初頭、初代レキシントン(CV-2)上空で上空戦闘哨戒(CAPCombat Air Patrol)飛行していた戦闘機パイロットが、逃走する日本軍機を追跡するために空母から離れすぎたときに初めて使用された。彼らを本来の任務に呼び戻すために、レキシントンの無線通信士(おそらく以前はサーカス団員)が、サーカスやカーニバルで仲間の巡業者たちに応援を求めるために使われていた用語を使った。それ以後、「ヘイ・ルーブ」は空母にパイロットを呼び戻す一般的な略語になった。



 

 水上艦艇から空戦を眺めていたアメリカの水兵たちは、最前列の席で息を呑むような景色を眺めていた。通常、航空機の飛行機雲は高度3万フィート(約9000 m)以下では現れないが、619日には異常な大気の状態によってはっきりと見えた。その澄んだ青い空を背景に、飛来する日本軍機の後ろには長く白い筋が伸び、迎撃しようとするアメリカ軍機の後ろにはさらに多くの筋が伸びていた。その筋は任務部隊から50マイル(80 km)離れたところで集結し、湾曲線と円が織りなす狂乱の中に溶け込んでいった。ある目撃者は、飛行機雲が「青い空を背景に十字に交差する白い弧を描いていた」と回想する。





         
襲来する日本軍機を米軍機が迎撃するのをアメリカの水兵たちが見守っている。
U.S.Naval Institute




 

 アメリカ軍は日本軍の2倍の機数と経験豊富なパイロットを擁しており、日本軍の爆撃機や雷撃機がバラバラになって海に落ち始めると、すぐにその事実が顕著に表れ始めた。あるアメリカ人パイロットは「空は煙と飛行機の破片でいっぱいだった」と回想した。そこを生き延びた日本軍機は、護衛艦群から放たれる対空砲火の範囲内に入るまで、ヘルキャットに追いかけられながら目標に向かった。対空砲火の範囲に入る時点で、ヘルキャットは離脱し、日本機を下にいる艦艇の砲手に任せた。駆逐艦トワイニングの砲術士官は「空は彼ら彼我の航空機でいっぱいだった」と回想した。彼の艦と他のすべての護衛艦は、あらゆる口径の速射砲で攻撃を開始し、「鋼鉄の堅固な幕」を張って、更に日本軍爆撃機を撃墜した。第1波攻撃に参加した69機の日本軍機のうち、わずかに1機だけが戦艦サウスダコタに十分な距離にまで近づき、爆弾を投下した。空母に到達できた機は1機もなかった。


 その功績のほとんどはアメリカ軍パイロットのものだった。エセックスの航空団を率いていたデビッド・マッキャンベル中佐は自ら5機を撃墜した。ヴラシウ自身も6機を撃墜した。「煙がまだ空中に立ちこめている」空戦の現場を横切って戻ってきたとき、ヴラシウは「海上に燃えるような油膜」が「長さ35マイルにわたって模様を描いて」広がっているのを見たと回想している。


日本軍機と正規空母の損害


 その朝の後刻に、より大規模な日本軍の攻撃が1回あり、その日の午後にはさらに2回の攻撃があった。ヘルキャット戦闘機の群れと対空砲火の弾幕を通り抜けることに成功したのはわずか数機だけだった。1機が空母バンカーヒルに至近弾を与えたが、大きな被害はなく、空母は飛行作業を続けた。長い一日が終わるまでに、日本軍は358機の飛行機を失い、パイロットを含む搭乗員のほとんどを失った。アメリカ軍がグアム上空で撃墜した飛行機を加えると、日本軍の航空機損失は400機を超えた。アメリカ軍の航空機損失は33機だった。さらには、日本側のその膨大な犠牲にも拘わらず、アメリカの艦船は重大な損害を受けてはいなかった。戦闘があまりにも一方的だったので、空母レキシントンに帰還した後、民間人としても熱心な狩猟家であるジギー・ネフ大尉は、ポール・ブイエ飛行隊長に「まるで七面鳥撃ちのようだった」と語った。ブイエがそれを報告書に記したため、その呼び方が定着した。この戦闘を戦った飛行士たちにとって、これ以後フィリピン海海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」として知られることになる。

ミッチャーはパイロットの能力に満足していたが、敵空母を追撃する機会を与えられなかったことに依然として失望していた。彼はまだ知らなかったが、日本の空母部隊は既に大きな打撃を受けていた。その日の朝810分、それは航空攻撃が始まる前だが、アメリカ潜水艦アルバコアのJW・ブランチャード中佐は、新鋭空母大鳳に魚雷1本を命中させることに成功した*。装甲のしっかりした大鳳はそれを振り払ったかのように、ほとんど速力を落とさず、飛行機を発進させ続けた。しかし、艦の奥深くでは、破裂した航空燃料タンクから漏れ出たガソリン蒸気が甲板スペースに広がり始めた。一方、もう一隻のアメリカ潜水艦カヴァラの艦長ハーマン・コスラーは、真珠湾攻撃以来の歴戦の空母翔鶴を視界に捉え、わずか1200ヤード(1100 m)の距離から魚雷6本を発射した。そのうちの3本が命中し、格納庫甲板で燃料を入れていた雷撃機の間で二次爆発を多数引き起こした。午後130分、火災が鎮火できなくなったため、松原博艦長は退艦を命じた。翔鶴は艦首から沈没し、艦尾はほぼ垂直に立ち上がり、1200人以上の乗組員を道連れにして海中に没した。そのわずか30分後、先に被弾した大鳳の内部で拡散したガソリン蒸気が引火して大爆発を起こし、大鳳も沈没した。小沢は大鳳を旗艦としていたが、旗艦を重巡洋艦羽黒に移し、乗り移った。空からの攻撃がなくても、小沢は最大かつ最も強力な空母2隻を失っていたのである。

*大鳳は、小松幸男兵曹長の行動がなければ、2発目の魚雷命中を被っていたかもしれない。大鳳から発進した後、彼は自分の艦にまっすぐに向かう魚雷の航跡を見つけた。彼は飛行機を旋回させ、魚雷に衝突させて事前に爆発させた。



米攻撃隊発進


 しかし、ミッチャーはサイパンに繋ぎ止められている(と彼は見ていた)ことに不満を持ち続けていた。ついに620日、日本軍の艦隊が完全に撤退すると、スプルーアンスは鎖を切り、ミッチャーを解放して日本の艦隊を索敵に行かせた。それはミッチャーが期待していたよりも時間が掛かってのことだった。東の風が吹いていたため、19日の空戦中は飛行機の発進と回収のため、ずっと敵から遠ざかる方向に向かって航行することを余儀なくされていた。その結果、彼が敵を追跡するために向きを変えた時には、彼の艦隊は戦闘が始まったときの地点から100マイル以上東にいた。その失われた距離を回復するだけで4時間かかり、午後遅くになってようやく偵察機の1機から確かな目撃報告を受け取った。そのパイロットの報告によると、敵空母は275マイル離れており、それはアメリカの爆撃機にとっては少し遠すぎた。それとも?。ミッチャーは、自軍の航空機が攻撃を行っている間に、自分たちの空母が全速力で西に向かって航行すれば、帰還のための飛行距離は大幅に短縮され、ほとんどの航空機が安全に帰還できるだろうと計算した。彼が後の行動報告で書いているように、これが日本の攻撃部隊を「きっぱりと」破壊する最後のチャンスかもしれないと考えた。彼は攻撃隊を発進させることを決断するまでに、ほんの10分ほど迷った。最初に飛行甲板上にいた航空機が空中に舞い上がった後、偵察機のパイロットは修正報告を送ってきて、それによると日本の空母は最初の報告よりも遠く、330マイル以上離れていた。ミッチャーは攻撃隊を呼び戻さなかったが、第2波の攻撃隊準備は取り止めた。

 216機のアメリカ軍機が夕暮れ時に日本軍に追いついた。薄れゆく光の中、一部は日本軍の対空砲火の瞬きに導かれて、アメリカ軍は急襲して攻撃し、小沢が残していた少数の戦闘機を簡単に撃退した。そして空母飛鷹を撃沈し、瑞鶴ほか数隻に損害を与えた。生き残った日本の空母は、わずかな航空機を除いてすべてを奪われ、本国への帰国航海を続けた。


米軍のパイロット救助努力


 しかし、米軍のパイロットはまだ空母に戻らなければならず、すでに飛行していた距離を考えると、それは大きな問題だった。アメリカのパイロットたちはグループになって東へ向かい、そのほとんどが燃料を節約するのに最適な高度である7,000フィート(2100 m)で飛行し、燃料計の針がどんどん下がっていくのを見つめていた。そんな中で、多くの飛行機のエンジンが咳き込み、ブツブツと音を立て、そして停止した。ガス欠だった。パイロットたちは短距離無線機で自分の状況を伝え、呼び出し符号と場所を形式的に告げた後、次々と着水していった。残りの機は東へ飛行を続けた。




マーク・ミッチャーは1944年6月20日、米空母レキシントンのオープン艦橋で、タバコを片手に、小沢の空母への攻撃からパイロットが戻ってくるのを待っていた。 
U.S.National Archives photo no. 80-G-236867



 ミッチャーは空母レキシントンの艦橋ウイングで待機し、日が暮れていく中、続けざまにタバコを吸いながら時折あごをさすっていた。彼は発進命令を出した時点で、パイロットたちが帰還するのは困難であり、多くは帰還できないだろうということをわかっていた。例え帰還できたとしても、いつものように夜間に艦が消灯していたら、暗闇の中で空母を探すのに十分な燃料がないだろう。彼はそれがわかっていたので、最初の帰還機がレーダーに映ったとき、彼は艦間通信(TBS)無線でメッセージを送った。「ハクトウワシ、私はブルージャケット本人だ。ライトを点けろ」。各空母と護衛の巡洋艦は、航行灯に加えて、30インチ(76 cm)の巨大なスポットライトをまっすぐ夜空に向けて照射し、帰還するパイロットへの標識とした。もし日本の潜水艦が近くにいたなら、それは「ここにいるぞ」と告げているようなものだった。

 ライトを点灯するというミッチャーの決断は、当時もその後も飛行士の間で大いに称賛されてきたが、それは突発的なものでも前例のないものでもなかった。スプルーアンスもまた、ミッドウェー海戦の最終段階で、帰還する航空機を回収するために照明を点灯するよう命令していた。それでも、ミッチャーの決断はその後何年にもわたって反響を呼んだ。彼はまた、パイロットは自分の空母を見つけようとせず、最も近い空母に着艦するようにとの言葉を伝えた。一部の機はガス欠状態で着艦し、甲板上を自力走行することもままならず、次の飛行機のために人力で飛行甲板を空けなければならなかった。多くの機は空母が見える範囲まで帰って来ながら、空母にたどり着けず海に沈んだ。それらの機のパイロットや、はるか遠くへの不時着を余儀なくされた搭乗員たちは、小さな救命いかだを膨らませて救助を待った。何人かは小さなグループを作っていかだで浮いていた。翌朝アメリカの駆逐艦が、航空攻撃のために飛行したコースをたどり、燃料不足で不時着水した177名のうち143名を回収した



海戦の結果

 マリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)はアメリカ軍の圧倒的な勝利だった。1930年代にアメリカの計画立案者が海軍大学校で図上演習したときに想像していたような展開にはならなかったが、それでもこの戦いは決定的なものだった。日本軍は最新かつ最大の航空母艦を含む3隻の空母と400機以上の航空機を失った。アメリカ軍は艦船を失うことなく、航空機を100機余り失ったが、そのほとんどが日本の空母への攻撃からの長い帰路の飛行中に燃料切れを起こしてのものだった。さらに重要なことは、日本軍は数百名のパイロットを失ったのに対し、アメリカ軍はわずか20名しか失っていないということだ。航空機や訓練を受けたパイロットを持たない空母部隊は、アメリカの制海権にほとんど脅威を与えないものとなった。日本軍はこの戦いがどれほど悲惨なものであったかをわかっていた。宇垣は日記に「我々が大いに命運を賭けた決戦の結果は極めて悲惨なものであった」と記している。

 それでも、ミッチャーは不満を抱き続けた。彼は残りの日本空母が逃走したことに不満を抱き、特に日本軍の第二の部隊が巧みに身をかわして攻撃に出ることを計画していないことが明らかになった後にも、619日に攻撃を許可しなかったスプルーアンスを、完全に許すことはできなかった。スプルーアンスを大いに賞賛していたニミッツでさえ、実際にそうできていたかもしれないことについて、悔しそうに書いている。6月の行動概要の中でニミッツは、もしスプルーアンスがミッチャー部隊に敵への突進を許していたら、「決定的な艦隊航空戦が行われ、日本艦隊は破壊され、戦争の終結が早まった可能性があると、議論されるかもしれない」と書いている。こうした見方は、その後の出来事に長い影を落とすことになる。





  Craig L. Symonds 著   粟田亨 訳
  原書 World War II at Sea : A Global History


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この翻訳は、20241024日に、私が出版社「えにし書房株式会社」 と出版契約を結び、20255月出版予定と明記されているのですが、監修者(等松春夫氏)が監修終了予定日を1月から5回延期し、停滞して今に至っています。原書の内容が優れているだけに、出版が遅れる時間の損失が惜しく、また原書の著者と、情報提供してくれた海上自衛隊に申し訳なく、私の翻訳内容の一部を公開して皆さんの意見を仰ぎます。