レイテ沖海戦-2 



シブヤン海海戦で武蔵沈没

 午前8時過ぎ、索敵機は日本艦隊を発見した。それはそれはサン・ベルナルディノ海峡沖で活動していたジェラルド・ボーガンの空母群に属するイントレピッドの索敵機で、戦艦5隻、巡洋艦9隻、駆逐艦13隻がシブヤン海に入ってきたと報告した。数分以内にハルゼーはイントレピッドとカボットの航空機による攻撃を命令した。その際の特徴的な短く簡潔な命令が「攻撃せよ! 繰り返し攻撃せよ!」であった。厳密に言えばハルゼーはミッチャーにその命令を下すよう指示すべきだった。ミッチャーが空母機動部隊を指揮していたのであるから。しかしハルゼーの気質を考えれば、彼が事実上ミッチャーを無視して自ら命令を出したのは驚くべきことではない。ミッチャーがそれについてどう考えたかは記録が残っていない。





  ほぼ同じ時刻に、300マイル南で、ラルフ・デイヴィソンの空母群から発進した12機の偵察爆撃機が、スールー海で西村の南方部隊を発見し報告した。報告を送信した後、偵察爆撃機群は西村の両戦艦を攻撃し、有効な損害を与えた。特に扶桑は、2番砲塔付近と後部甲板の2か所に命中した。明らかに皮肉だったのは、小沢の囮空母部隊がまだ発見されないまま南に向かって航行していた一方で、アメリカ軍は主力攻撃部隊を比較的早く発見したことだ。

  栗田はフィリピンを通過する際、陸上機による航空援護を期待していたが、その希望は2つの理由から全く期待できないものだった。1つは日本軍が10日前に、ハルゼーの空母群からの度重なる航空攻撃をかわす試みの中で、フォルモサ島沖(台湾沖)で500機近くを無益に失い、陸上配備航空機のほとんどを浪費していたことだ。第2の理由は、東京の計画担当者が、少ない航空資産をより有効に使うには、ハルゼーの空母を攻撃することによって、栗田に「間接的支援」を提供することだと考えたからだ。その結果、栗田の艦隊がシブヤン海に入ったとき、彼の艦隊の上空をわずか4機の友軍機が旋回したのみだった。

  日本軍はハルゼーの空母群のうち、フレデリック・シャーマン少将の指揮下にある最北の空母群に航空攻撃の照準を合わせた。しかしアメリカのヘルキャットの攻撃を受け、ほとんどの攻撃隊は、すぐに犠牲となった。デビット・マッキャンベルは、マリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)で1回の出撃で5機の日本軍機を撃墜しており、今回は1回の飛行で9機の零戦を撃墜した。この戦争では比類のない記録であり、それによって彼は後に、名誉勲章を受章した。しかしもちろんアメリカ軍は、日本の航空機をすべて撃墜したわけではなかった。10時前、1機の彗星艦爆が低い雲から出て軽空母プリンストンに向かって飛び、飛行甲板の中央付近に爆弾を1発命中させた。その爆弾は格納庫甲板まで貫通し、給油中の6機の雷撃機の間で爆発し、数回の二次爆発を引き起こした。プリンストンが窮地に陥っていることはすぐに明らかだった。巡洋艦バーミンガムが救援のために接舷したが、プリンストンの後部弾薬庫が爆発し、バーミンガムも大きな被害を受けた。両艦の乗組員はプリンストンを救おうと英雄的に奮闘したが、負け戦となった。



   
この写真はアメリカの爆撃機から撮影されたもので、1944年10月24日にシブヤン海で攻撃を受ける日本のスーパー戦艦武蔵を写している。十数発の爆弾と同数の魚雷を受けて、その夜沈没した。 
U.S. National Archives photo no. 80-G-281766


  プリンストンが炎上している間、ボーガンとデイヴィソンの空母群からのアメリカ軍機がシブヤン海の栗田艦隊を攻撃した。栗田艦隊の弱体な戦闘空中哨戒(CAP)を素早く退け、艦隊のほとんどの艦に数回の爆撃と魚雷攻撃を行った。重巡妙高が早々に犠牲となった。ひどい損傷を受け、艦隊から脱落し、西に向かってのろのろと進んだ。その後の米軍機の攻撃の波は、2隻の大型戦艦、特に武蔵に集中した。アメリカ軍機の命中精度は低かったが、非常に多くの飛行機が攻撃してきたため、この大型戦艦武蔵は爆弾と魚雷の両方で繰り返し被弾した。後に米軍パイロットは、合計17発の爆弾と20本の魚雷が命中したと主張した。このような虐待に耐えられる艦はなく、この「不沈戦艦」の運命はまもなく明らかになった。攻撃の間中、栗田は味方の航空援護がないことに不満を募らせながらも、粘り強く東方向への進路を維持した。彼の東京への無線報告には、「我々は敵の空母艦載機による度重なる航空攻撃を受けている」という批判のニュアンスが含まれていた。上官栗田とともに大和に乗艦していた小柳参謀長は、後にこう書いている。「航空攻撃は予想していたが、この日の攻撃はほとんど我々に自信を失わせるに十分だった」と。小柳はまた、「狭いサン・ベルナルディノ海峡に突き進み、敵の航空攻撃が続けば、我が軍は全滅するだろう」ということは明らかだった、とも書いている。

  3時半になると、栗田はもう十分だと思った。彼は艦隊に針路を反転させ、西に向かうよう命じた。彼は永久に退却するつもりはなく、ただ容赦のない航空攻撃から一時的休息を得たかっただけだった。彼は東京の豊田に電文を送り、「敵機の射程圏外に一時的に退避する」つもりだと説明したが、おそらくこのようなメッセージによって、日本の陸上機の支援をもっとしてくれるかもしれないと期待したのであろう。


   『海の第二次世界大戦』より抜粋


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