レイテ沖海戦-4  
       
       
       
      
       サマール沖海戦 
       
       
        西村(艦隊)は10月24日から25日にかけての真夜中過ぎにスリガオ海峡に入った。ほぼ同時刻に、栗田(艦隊)はサン・ベルナルディノ海峡を通り抜けた。しかし彼らが経験したことはこれ以上ないほど異なっていた。西村はアメリカ軍のPTボートの群れに遭遇し、彼らは3隻でグループとなって襲いかかった。彼らの魚雷による損害は無かったが、日本軍は魚雷を避けるために操艦せざるを得ず、その報告によりオルデンドルフ(西村艦隊を迎撃した艦隊の司令官)は西村の進撃を常に知っていた。 
       
         はるか北方の栗田はと言えば、彼の艦隊がサン・ベルナルディノ海峡から出たとき、全く何もいなかった。栗田は驚いた。彼はアメリカ艦隊との激しい戦闘を予期して総員戦闘配置を命じていたが、彼の艦隊がフィリピン海に出たとき、そこには暗くて何もない海だけがあった。彼は唖然としてサマール島の海岸に沿って南に針路を変え、レイテ島のアメリカ軍上陸海岸に向かった。 
       
         その夜、西村艦隊がスリガオ海峡で殲滅され、ハルゼーが小沢艦隊に対する夜明けの航空攻撃を計画している間ずっと、栗田艦隊の戦艦と巡洋艦はサマール島東海岸に沿って南下していた。レーダーは誰もいない海をさっと走らすだけで、見張りは熱心に暗闇を覗き込んだが何も発見できなかった。日が昇った6時27分になっても敵の姿は見えず、西野(西村艦隊で唯一残った駆逐艦時雨の艦長)から西村艦隊が殲滅されたことを知らせるメッセージが届いただけだった。前日の午後、艦隊がまだシブヤン海にいたとき、栗田は日本軍の水上機から、レイテ湾の南東にアメリカ空母12隻がいるという報告を受けており、当然のことながらハルゼー艦隊だと思い、サン・ベルナルディノ海峡を抜け出た時から、彼はそれらの空母に遭遇することを期待していた。そして午前7時の数分前に、見張り員が水平線上に船がいることを報告した。栗田が双眼鏡を手に取ると、そこにはアメリカの航空母艦とその護衛艦がいた。彼がブルネイ湾で艦長たちに約束したように、結局、彼らはアメリカの空母部隊と戦う機会を得ることになりそうだった。彼は豊田に「天から与えられた機会により、我々は敵の空母を攻撃するために突進している」という高揚した電文を送った。この瞬間をどうしても掴みたかった彼は戦闘計画を放棄し、単に「総攻撃」を命令した。 
       
         その朝、栗田の見張り員が発見した艦船は、もちろん、ハルゼーの大型空母群ではなかった。それらは500マイル北で小沢艦隊を攻撃していた。今、栗田の視界内にいる空母は、レイテ湾沖に展開していた3つの護衛空母グループの最北端、クリフトン・スプレイグ少将のタフィー3の護衛空母群だった。その南、水平線の向こうにはフェリックス・スタンプ少将が指揮するタフィー2がおり、さらにその向こうには護衛グループ全体の司令官トーマス・L・スプレイグが指揮するタフィー1がいた。(2人のスプレイグは海軍兵学校の同級生だったが、血縁関係はなかった)。栗田艦隊とレイテ湾内の第7艦隊の輸送船団との間に立ちはだかったのは、今やこの3つのタフィー群だけだった。 
       
       
      
        
          
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            不安そうな表情のクリフトン・“ジギー”・スプレイグ。旗艦の護衛空母ファンショー・ベイの艦橋にて。この写真は1945年4月の沖縄沖での戦いのものだが、1944年10月25日のファンショー・ベイ艦内の緊張感をとらえている。 
      U.S. National Archives photo no. 80-G-371327 | 
           
        
       
       
        スプレイグは海軍兵学校出身で、バンクロフト・ホールの廊下を、故障を持つランナーのようにジグザグに歩く習慣から、「ジギー」というあだ名が付けられていた。海軍飛行士としてキャリアを積んだ彼は、1936年に旧ヨークタウンで初のカタパルト発進と初の制動索による着艦を行っている。彼はまた、1941年の日本軍の真珠湾攻撃の際には、同湾で水上機母艦タンジールの指揮官をしていた。しかし、1944年10月25日以前は、彼の最大の名声は、彼の妻が
      F・スコット・フィッツジェラルドの妹であるということであったかもしれないが、彼の妻と有名な兄はしばらくの間疎遠になっていた。 
       
      米護衛空母艦隊の驚き 
          
        この歴史的な朝、スプレイグは日本の主要な水上部隊が近くにいることを全く知らなかった。6時46分、レーダー室が接触を報告したとき、彼は旗艦ファンショー・ベイの艦橋で夜明けの潜水艦哨戒の開始を見守っていた。その1分後、セント・ローから発進した索敵機が驚くべき目撃報告をした。「戦艦4隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦10〜12隻からなる敵水上部隊を北西20マイルの地点で発見、30ノットでタフィー3部隊に接近中」。 20マイル! それは事実上大砲の射程内だった。あまりに有り得ないことだったので、スプレイグはパイロットにもう一度確認するように命じた。「航空計画班、パイロットに視認を確認するように言ってくれ」。パイロットはもう一度見ようと降下して、「塔の艦橋が見える。そして、これまで見た最大の戦艦に、これまで見た最大の赤いミートボール旗がはためいているのが見える」と報告した。そこでスプレイグは立て続けに2つの命令を出した。1つ目は、すべての空母がすぐに風上に向きを変えて「すべての機を発艦」させることであり、2つ目は護衛の駆逐艦が煙幕を張るとともに魚雷攻撃を行うことだった。それから彼は無線で助けを求めた。 
       
        スリガオ海峡でオルデンドルフの勝利を祝っていたキンケイドは、スプレイグの無線通話に動揺し、7時7分にハルゼーに緊急通信を送った。「自分の護衛空母群が攻撃を受けて いる」。マヌス経由の手順のため、戦艦ニュージャージーに通信文が到着したのは8時22分のことだった。 
       
         その間、タフィー3の駆逐艦は、まるで象の群れに突進するホイペット犬の群れのように、日本の大型軍艦に向かって疾走した。駆逐艦の1隻、ジョンストンは、スプレイグの命令を待つまでもなく動いた。艦長のアーネスト・E・エバンス中佐は、重巡熊野が水平線の彼方に姿を現すや否や、直ちに向かっていった。ジョンストンは就航からまだ1年しか経っておらず、乗組員の8割が初めての配属だったが、エバンスは彼らをレベルアップさせるために全力を尽くしてきた。エバンスが定期的に総員戦闘配置(General Quarters)を掛ける傾向があったため、部下たちは自分たちの艦を「GQジョニー」と呼ぶようになっていた。今それが功を奏した。スプレイグ同様、エバンスもいくつかの命令を矢継ぎ早に発した:「総員、戦闘配置。・・・・全エンジン、全速前進。煙幕展張を開始し、魚雷攻撃用意。取り舵いっぱい」。ジョンストンの砲術士官ロバート・ヘーゲン大尉は後に回想し、「私たちは投石器を持たないダビデのような気分だった」と語った。ジョンストンのすぐ後ろには、駆逐艦ホーエルとヘアマンが続き、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが続いた。4隻すべてが日本艦隊に突撃し、魚雷を発射し、煙幕を張りながら5インチ砲で砲撃した。 
        
       
      
        
          
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            | アメリカ海軍アーネスト・エバンス中佐は、1944年10月25日のサマール沖海戦で駆逐艦ジョンストンの艦長を務めた。戦艦と巡洋艦からなる強力な水上部隊に対する彼の真っ向からの攻撃は、日本軍の攻撃を遅らせた。エバンスはこの戦いで生き残ることはできず、死後に名誉勲章が授与された。
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        少なくとも、アメリカ軍の魚雷の何本かは命中し、命中しなかったものでさえ、日本軍に魚雷を避けるための操艦を強いることで日本軍の進撃を遅らせ、アメリカ軍の空母に航空機を発進させるチャンスを与えた。しかし、その間ずっと日本軍も発砲していた。重い徹甲弾の一部は爆発せずに、薄い鉄板のアメリカ艦を貫通してしまったが、それでも十分な数の砲弾が爆発して深刻な損傷を引き起こした。3発の14インチ砲弾(36 cm砲弾)が立て続けにジョンストンに命中した。それは「トラックに打ち付けられた子犬のようだった」とヘーゲンは回想する。羅針盤もレーダーもなく、片方のエンジンだけで操艦しなければならなかったが、どうにかジョンストンは浮いていた。そんな状態でも、また魚雷をすべて使い切ったにもかかわらず、前方の2門の5インチ砲だけで戦闘を続けた。他の護衛艦も被弾し、ホーエルの乗組員は全部で40発の砲弾の命中を数え、ロバーツは「機関部のスペースに5インチ砲弾の一斉射撃」を受け、蒸気管が裂け、機関部の乗組員がやけどを負った。ホーエルとロバーツはともに沈没し、すぐ後にジョンストンも沈没した。エバンスは最後の命令として乗組員に総員退艦を指示し、ジョンストンの乗組員たちは海に飛び込んだ。救命胴衣を着て浮かんでいると、日本の駆逐艦が近くを通ったので、水中で機銃掃射されるのでは、と心配そうに顔を上げた。というのは、太平洋戦争では今や双方のそうした行為がほぼ日常的になっていたからである。しかしこの時は、駆逐艦が通過するとき、艦橋で日本人士官が自分たちに敬礼しているのを見て驚いた。 
       
       
        タフィー3の駆逐艦が犠牲を払って日本軍に攻撃を仕掛ける一方で、スプレイグの空母から発進した航空機も攻撃を行った。航空機は主に旧型のアベンジャーとワイルドキャットで、CAP(上空戦闘哨戒)、対潜哨戒、陸上部隊の支援を目的としており、装甲軍艦との戦いに備えた装備は備えていなかった。ワイルドキャットは口径12.7 mmの機銃しか装備していなかった。FM-2ワイルドキャットには約 30 秒分の機銃弾しかなく、パイロットはすぐにそれを使い果たした。しかし弾薬がなくなった後も、彼らの一部は日本の艦隊の上を飛び続け、特に戦艦や巡洋艦の艦橋に存在を見せつけて、まだ攻撃を受けているという印象を与えようとした。キトカン・ベイから発艦して来たワイルドキャット操縦士ポール・B・ギャリソン大尉は、日本の戦艦を10回機銃掃射し、弾薬なしでさらに10回機銃掃射に見せかけた飛行を行った。   
       
        すべての海戦は混沌の要素を含んでいるが、レイテ沖海戦は特に昼間の対決としては混沌としていた。栗田艦隊の無秩序な突撃と、それに対してスプレイグの艦隊が急いで反撃したことにより、両側のそれぞれの艦艇が独立して操艦し、時折味方同士の艦で進路を邪魔することもあった。濃い煙幕、断続的な雨のスコール、水中の魚雷、頭上の飛行機と言った中で、どちらの指揮官も、戦況をはっきりと把握できていなかった。栗田はまだハルゼー艦隊の大型空母と対峙していると信じていたが、そのうちの数隻に命中弾を与えたことは確かだった。カリニン・ベイは15回の命中弾を受けたが、なんとか浮いていた。ガンビア・ベイはそれほど幸運ではなく、1940年に英国空母グローリアスが北海で撃沈されて以来の、海上砲撃によって撃沈された空母となった。 
       
      
 
       
       
         『海の第二次世界大戦』より抜粋 
       
       
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