レイテ沖海戦-1 



米軍フィリピン侵攻を繰上げ

ハルゼーは1944824日にビッグ・ブルー艦隊の指揮官に就任し、新鋭高速戦艦ニュージャージーに自分の旗を掲げた。1週間後、ニュージャージーは真珠湾から西太平洋に向けて出航し、ミッチャーの空母とともに日本軍の基地に対する一連の襲撃に同行した。この頃までには、アメリカ軍の艦船はほぼ自由に西太平洋を航行していた。ミッチャーの機動部隊は17隻の空母と1000機以上の航空機を誇り、補給船や修理船、さらには浮体式乾ドックまで含む支援船団によって支えられていた。米国は依然として世界有数の石油生産国であったため、燃料に困ることはなかった。商用タンカーが精製油を米国西海岸からハワイの900万バレルの貯蔵施設に運び、そこから海軍の給油艦が、マリアナ諸島とフィリピンの中間に位置するカロリン諸島のウルシー環礁にある浮かぶタンク施設に運んだ。それは言わば、西太平洋の巨大な海洋ガソリンスタンドだった。

 9月の空母機による空襲では、ハルゼーやミッチャーが予想していたよりも、アメリカ軍に対抗する日本軍機の数が少なく、その弱々しい抵抗に勇気づけられたハルゼーは、ニミッツにフィリピン侵攻の時期を12月から10月に早めることを提案した。ニミッツはこの進言をケベックで会合していた連合軍の連合参謀本部(米英の最上級将校による打合せ本部)に送付し、マッカーサーの承認を得た後、フィリピン侵攻のDデイは1220日から1020日に繰り上げられた。


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米軍フィリピン上陸

ペリリュー島での戦闘が血なまぐさい結末に向かっていた頃、アメリカ軍の2つの巨大な侵攻艦隊がレイテ島に向かった。1つはアドミラリティー諸島のマヌスから、もう1つはニューギニアのホーランディアから出発した。この動きが、史上最大の海戦となったレイテ沖海戦の引き金となった。この海戦は非常に複雑で地理的に分散していたので、多くの歴史家はそれを4つの別々の戦闘として描くことを選択してきた。そのようなアプローチは、それぞれの戦闘における出来事を明確にするのに役立つが、それぞれが、全体でほぼ10万平方マイル(※ 26万平方キロメートル)に及ぶ巨大で広大な戦闘のタペストリーの一部であったため、相互の関連性を不明瞭にすることにもなる。

マッカーサーが軽巡洋艦ナッシュビルの甲板から見守る中、米陸軍兵士が1020日朝、レイテ島東部海岸への上陸を開始した。彼の周囲には、広大なレイテ湾に広がる第艦隊の数百隻の船がいた。それらは、攻撃輸送艦、貨物船、LST(戦車揚陸艦)、LCI(歩兵上陸用舟艇)、そして「中型揚陸艦」(LSM)と呼ばれる新しい型式の船などであったが、このLSMは、LSTよりは小さいものの、LCT(戦車上陸用舟艇)よりは大きく(そして速く)なっていた。さらに6隻の戦艦と同数の巡洋艦が砲撃支援を行い、その東側に当たる湾の入口の向こう側には18隻の小型護衛空母とその護衛の駆逐艦がいた。護衛空母は6隻ずつからなる3つのグループに編成され、各グループは無線呼び出し符号で「タフィー 1」、「タフィー 2」、「タフィー 3」と識別されていた。

 上陸は教科書通りに進んだ。唯一の問題は、海岸の勾配がゆるやかで水深が浅いため、LSTが荷を降ろすために砂の上まで来ることができず、LSTが荷物を陸揚げできるように設営部隊が湾に向かって傾斜路を作り上げたことだった。

 その日の午後、マッカーサーは2年半前の公約を果たした。彼とフィリピンのセルジオ・オスメナ大統領は、ナッシュビルから海岸まで運ぶヒギンズ・ボート(上陸用舟艇)に乗り込んだ。彼らはカメラで写されるために、膝までの深さの水の中を大股で上陸した。それからマッカーサーはマイクの前に立ち、印象的なバリトンで 「フィリピンの皆さん、私は戻ってきました」 と宣言した。彼はフィリピンの国民に、立ち上がって抑圧者を攻撃するよう訴えた。「あなたの家と囲炉裏のために、攻撃しましょう! あなたの息子や娘の将来の世代のために、攻撃しましょう! 神聖なる死者の名において、攻撃を!」。 ビーチを少し視察した後、彼は 「タクロバン近くのビーチから」 と、ルーズベルトに手紙を書くために立ち止まった。それから彼は、巡洋艦ナッシュビルに戻った。上陸は続き、日暮れまでにアメリカ軍はレイテ島に、4つの歩兵師団と107,000トンの物資を陸揚げした。6


   日本艦隊出撃

 同じ日の午後、北方2600マイルのところで、小沢の囮空母部隊は瀬戸内海の呉を出航し、九州と四国の間の豊後水道を抜けて南に向きを変えた。小沢は戻って来ることは考えていなかった。彼は自分の任務がアメリカ軍の注意を引き付けて北方へ誘うことであることをわかっており、後に「全滅」を予期していたことを認めた。皮肉なことに、小沢は実際にはアメリカ軍に発見されることを望んでいたが、瀬戸内海からの出口を監視していたアメリカ潜水艦3隻は2日前に、戦時哨戒のためその位置から立ち去っており、小沢の艦隊は発見されることなく滑り出た。3日間、彼らはアメリカ軍に気づかれることなく、南に向かって航行した。 


栗田提督が西村艦隊分離を指示

小沢の空母艦隊が南に向かう中、栗田の戦艦と巡洋艦はリンガ泊地を出航し、ボルネオ島沿岸のブルネイ湾に向かって北東に進んだ。そのブルネイで、彼の艦隊が燃料タンクを満タンにしている間、栗田は任務を検討するために艦長たちを集めた。すでに作戦が進行中だった今になって初めて、栗田は指揮を分割し、その一部を南からレイテ湾へ別個の補完的攻撃をするために切り離すことを決定した。この案は連合艦隊司令長官豊田の参謀長である東京の草鹿龍之介中将によって発案されたが、草鹿は最終的な決定を栗田に委ねた。栗田はブルネイで艦長たちに、主力攻撃部隊がサン・ベルナルディノ海峡を通って北からアメリカ軍を攻撃する一方、西村祥治提督(中将)が指揮する2隻の経年戦艦山城と扶桑、それにベテラン巡洋艦最上と駆逐艦4隻からなる別の 「南方部隊」 が、スリガオ海峡を通って南からレイテ湾にアプローチすることを伝えた。それはアメリカ軍を真ん中に挟んで典型的な両翼包囲となることが期待された*

*日本軍は、志摩清英提督(中将)率いる3隻の巡洋艦と7隻の駆逐艦からなる水上部隊を土壇場で南方部隊に加えたが、志摩は西村艦隊に追いつくことはなく、彼の艦艇はその後の戦闘で意味のある役割を果たすことはなかった。

  栗田はいくつかの理由からこの案を採用した。草鹿からの案であることと、両翼包囲がエレガントな作戦であることに加え、彼は第一次大戦前に建造された2隻の古くて遅い戦艦を除去できたことを、好ましく思っていたと思われる。さらに、西村艦隊が弱い部隊であることを考えると、栗田はそれを補完のための攻撃部隊というより、第二の囮として考えていた可能性もある。6月のサイパンをめぐる戦いで、軍令部は戦艦山城と扶桑をサイパンの浜辺に座礁させ、固定砲台として機能させるという特攻作戦を考えていた。小沢艦隊の敗北後、この作戦は中止されたが、この作戦が検討されたということは、この2隻が消耗品と見なされていたことを示唆している。

その日、栗田の旗艦で議論されたもう一つの話題は、アメリカの輸送船を標的にするという豊田の不評な命令だった。その任務は、栗田自身にとって以上に、栗田麾下の艦長たちにとって魅力に乏しいものだった。ある一人が言ったように、「我々は死を気にはしないが、我々の偉大な海軍の最後の努力が空(から)の貨物船群への攻撃であるならば、間違いなく東郷提督と山本提督は墓の中で泣くだろう」。 彼らを激励するために、栗田は 「大本営が我々に輝かしい機会を与えてくれている、と信じている」 と語った。自分たちがアメリカの空母艦隊と対峙する可能性は十分にあり得る、と彼は言った。「我が艦隊が決戦で戦況を変えるチャンスがないと誰が言えるだろうか? 我々には敵と出会う機会があるだろう。我々は敵の機動部隊と交戦するつもりだ」。艦長たちは立ち上がり、「バンザイ!」 と叫んだ。


  1022日の夜明け、栗田の戦艦と巡洋艦他は錨を引き上げ始めた。1隻ずつ海へ出ていき、それから巡航隊形を組んで北へ向かった。その日の遅く、西村の古い戦艦2隻とその僚艦も出航した。フィリピン全土の千マイルの長さの中で、喫水の深い船が西からレイテ湾にアプローチできる航行可能な水路は2つだけだった。栗田が使おうとしているサン・ベルナルディノ海峡と、西村が使おうとしているスリガオ海峡である。アメリカ軍は確実に両方の通路に目を光らせていたため、近づいてくる日本軍を発見するのは時間の問題だった。


 栗田艦隊の重巡3隻が被弾

 1023日の午前0時過ぎ、アメリカの2隻の潜水艦、ダーターとデイスが、多数の浅瀬のために航行が危険だったパラワン島北の海域で、バッテリーを充電するために水面を一緒に巡航していた。ダーターのレーダースコープに光点が現れたとき、艦長のデビッド・H・マクリントック中佐はデイスのブレイデン・クラゲット中佐に「レーダーが反応した。行こう!」と呼びかけた。

 2隻の潜水艦がその光点を追跡するにつれ、その接触相手の特徴が明らかになり、マクリントックは指揮系統に目撃報告を送った。「戦艦と思われる3隻を含む多数の艦艇。北緯08-28度、東経116-30度、進路040。速度18。追跡中。」 彼は「追いかけていた」のかもしれないが、彼自身の艦の最高速力も約18ノットであることを考えると、実際に栗田の艦を追い越せる可能性は低い。しかしそのとき、栗田はパラワン水道の危険な海域を通過するために艦隊の速力を15ノットに落とすよう命令し、マクリントックは「我々は今、彼らを捕らえた!」と叫んだ。2隻の米潜水艦は、待ち伏せの態勢で夜明けを待つために先を急いだ。

 午前530分、「艦橋からぼんやりとした形が見える」程度の明るさの中、マクリントックは潜望鏡深度まで潜航し、最も近い軍艦に向けて6本の魚雷を発射した。偶然にも、それは栗田の旗艦、重巡愛宕だった。マクリントックが艦尾発射管を向けるために操艦している間に、彼は5つの明確な爆発音を聞いた。潜望鏡を回しながら、彼が「一生に一度の光景」と表現したものを目にした。潜望鏡のレンズいっぱいに愛宕の姿が見えるほど接近したマクリントックは、愛宕が「もくもくと立ち昇る煙の塊であった。鮮やかなオレンジ色の炎が、艦首から後部砲塔まで、主甲板に沿って横から噴き出していた」と表現した。彼が見ていると、この大型巡洋艦の艦首が前方に傾き、下方に突っ込みながらも、まだ前進を続けていた。マクリントックは「生存者はごく少数」と推測していたが、実際には600人以上の生存者がおり、栗田自身も駆逐艦によって海から引き上げられ、戦艦大和に移った。

 しかしアメリカ潜水艦の攻撃はまだ終わっていなかった。数秒のうちに、ダーターの艦尾発射管から放たれた4本の魚雷が重巡高雄に命中した。それから今度は、デイスが攻撃し、さらに4発が重巡摩耶に命中した。デイスの魚雷の1本が摩耶の弾薬庫を爆発させ、この大型巡洋艦は爆発して分以内に沈没した。デイスのクラゲットは、摩耶がバラバラになるときにカリカリという音と重いゴロゴロという音を聞いた。それは「今まで聞いた中で最も恐ろしい音」だった、と彼は報告した。その後、護衛の日本の駆逐艦が群がって追いかけてくる中、アメリカの潜水艦2隻は急速潜航し、無音潜航を続けた。デイスの乗組員たちは、頭上で駆逐艦のプロペラの高速回転音が聞こえ、その音が艦首から艦尾に伝わるのを目で追っていた。「緊張感は爆雷攻撃よりもひどかった」とクラゲットは書いている。ダメージを与えるほどに近くで爆発した爆雷は1発もなかったためだ。

愛宕と摩耶はともに沈没し、高雄はひどく損傷していたため、栗田は2隻の駆逐艦を護衛に付け、ゆっくりとブルネイに帰航させた*。こうして栗田がフィリピンに到着する前に既に、栗田の勢力は巡洋艦3隻と駆逐艦2隻を失っていた。そして今後の戦闘にとってほぼ同じくらい重要だったのは、ダーターとデイスから送られたいくつかの目撃メッセージだった。その日の朝6時半までに、ハルゼーは栗田が海上にいること、数隻の戦艦と重巡洋艦を従えていること、シブヤン海を渡ってサン・ベルナルディノ海峡に向かうコースをとっていることを知った。その報告を受けてから数分もしないうちに、ハルゼーは索敵機をシブヤン海上空に扇状に展開し、栗田艦隊を探すよう命じた。

*マクリントックは、大きく損傷した高雄にとどめを刺そうとしたが、魚雷発射位置を確保しようとしているうちに、ダーターをボンベイ礁に激しく座礁させた。必死の努力にもかかわらず、ダーターを浅瀬から離すことができず、乗組員はデイスに避難した。



 Craig L. Symonds 著   粟田亨 訳
 原書 World War II at Sea : A Global History



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