| 真珠湾攻撃の意義 |
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| そうは言っても、あの時点で山本長官が採れた方策は他になかったのかもしれず、結果論として、何もしないほうが良かったのかもしれません。 真珠湾攻撃を行っていなければ、米国民の反日感情があれほどに高まることはなかったでしょうし、ルーズベルト大統領の、世論に先んじることを避ける政治姿勢から、もしかすると日米戦争を避けられたかもしれません。フィリピンの問題が絡んでくるでしょうから、そこはわからないところですが。 日本国内のみならず世界的にも、真珠湾攻撃で、米戦艦が全滅したと戦果が強調されていますが、実際にはあれらの戦艦は旧式で速力が遅く(どれも21ノット前後)、その後の海戦ではレイテ沖海戦のスリガオ海峡海戦で、西村艦隊を迎撃するのに使われたくらいで、あとは上陸作戦時の陸上艦砲射撃が主任務で、大して有用なものではなかったでしょう。 速力の遅い戦艦が、海戦で十分な役割を果たせないことは、第一次世界大戦のユトランド沖海戦で既に実証されていたことです。ユトランド沖海戦では、多大な被害を出しながらも主役を演じたのは高速の巡洋戦艦(と高速戦艦)でした。高速の巡洋戦艦と高速戦艦が策動して、敵艦隊を味方の戦艦部隊の射程内に誘い込んだとき、初めて戦艦が戦闘に参加できるという構図でした。 日本海海戦(1905年)では、優速だった日本側の戦艦でも18ノットでした。その戦訓から生まれたドレッドノート(1906年)が21ノット、しかし1916年のユトランド沖海戦では、25ノットの時代になっていました。 【以下は太平洋戦争への私的考察】 太平洋戦争の開戦に至る過程で、どこかで戦争を避けられなかったのか、という問いはこの戦後の80年余り、多くの人が考えてきたことでしょう。現代の私たちは、開戦後の重みを知っているから、あの時点でなら苦渋の妥協を受け入れるべきだったのではないか、と思える箇所もありますが、時代の流れの中にいた当時は、歴史の先の苦難を見通すことは困難だったのでしょうか。 そもそも、太平洋戦争に至る発端は、昭和6年の満州事変で、出先の部隊に過ぎない関東軍が独断で暴走したのに、東京が何の処罰もしなかったのは今の目からは不思議に見えますが、その後陸軍を中心として国全体が満州へ進出しようとしたことを、当時の誰も疑問に思わなかったのでしょうか。当時の不況と帝国主義の空気の中では、政府もそれを良しとしたということでしょうか。(当時の政治と軍の動向は非常に複雑で難解です。以前に読売新聞がそれを解析する企画を組み、連載されたのを覚えていますが、それでも全体像を掴めませんでした)。しかし、それが太平洋戦争の惨禍につながる芽だったわけですから悔やまれます。 またよく指摘されるのは、大日本帝国の内閣では、陸軍大臣、海軍大臣に現役の軍人が就いていたので、軍が反対して大臣を辞めると政権が崩壊するという脆弱性を抱えていたことです。米国、英国などでは、そうではありませんでした。 私は、そうした態勢を変革する世論の力が無かったとして、昭和初期の国民にその力を求めるのは酷なように感じます。彼らは明治維新以来、ひたすら富国強兵の道を歩んで来ざるを得なかったように思うからです。しかし現代の日本国民は違います。あのような重大な経験をし、これだけ情報が得られる中にいるのですから、昭和初期とは異なる世論の力を持って然るべきです。 日本人は自己変革ができず、外圧によってしか変われないとしばしば言われます。そうであれば、大きな犠牲を払いましたが、あの敗戦はやむを得なかったと思えるのは私だけでしょうか。現代の日本人が、本質をしっかり考える力を持って、真に大切なものを追求できる国民になれるよう願うばかりです。 (浅学ゆえの認識違いもあるかもしれませんがご容赦ください。) |