2011年10月
第9師団 
中国・牡丹江 化学兵器実験場を発見
--- 第11回 国境軍事要塞群 学術調査団 ---

朝日新聞本紙記事(2012.1.21)掲載されました。
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【調査報告/要旨】
 2011年10月21日から27日まで7日間をかけて、虎頭要塞日本側研究センターは、中国ハルピン市社会科学院(※)の専門研究員と共同で、牡丹江における旧日本軍・第9師団の化学兵器演習場の探査活動を行った。(※中国社会科学院とは)

 第9師団の通称号:満州第95部隊が、昭和17年(1942年)6月16日から同年6月19日まで4日間にわたって実施した化学兵器実戦訓練場(以下:A地点と仮称する)は、当センター研究員のこれまでの幾度かの近隣への現地先遣調査で、駅・谷筋・井戸など、いくつかの指標を元に探査を行っていたが、最終的な候補地点確定までには、非常に多くの試行錯誤とデータ収集を必要とした。
 上掲の記事でも触れられているとおり、関東軍の極秘資料の図面は、縮尺データが誤記載されており、原図の示す情報と、先遣調査隊から得られた実際の地形情報、現地での貴重なヒアリング情報、衛星画像情報、それらすべてを照合すると、相矛盾する部分が、あいまいな形ではあるが、いくつか現れた。そのため、否が応でも慎重に再考証を迫られることになった。少しでも矛盾を抱えたままで、断片的事実を憶測を交えたまま、「真実」として確定、公表するわけにはいかないからである。

■当センターの学術的立脚点
 戦争の痕跡を捉えてさまざまに論議するのは自由であるが、断片的「事実」を、ある一定のイデオロギーを基準に、一種の主張(過ぎるとプロパガンダとなる)として流布させる傾向は、長期的にみて、歴史を冷静に観察する能力を減衰させ、歴史を政派抗争の手段化させる愚を冒す危険性を帯びている。
 当センターは、そのような立場をとらない。厳密かつ実証主義的な姿勢に依拠する。(旧軍の資料が存在していることと、その示す内容が客観的真実と合致するかどうかは、別途、検証が必要であるところの極めて慎重に扱うべき問題である。)

 したがって、当センターは、デジタルデータとアナログデータを徹底的に付き合わせ、考古・測地鑑定の専門家との真剣な議論を続けた。結果として、旧軍図面の誤記載問題が浮かびあがってきた。実は、これこそが貴重な発見と教訓であった。歴史資料を鵜呑みにするのではなく、それを絶えず批判的視点から熟読し、最新の技術と知見を応用・適用しながら解読することの重要性が改めて実証されたのである。
 現代の技術をもって、過去にさかのぼり、極秘文書の誤りが明らかとなり、隠されていた事実が明らかになり、現認・確定されたという意味で、これまで当センター研究員が蓄積してきた宇宙軍事考古学の最新の成果が発揮された事例であるといえるだろう。今後の更なる詳細調査が期待されるところである。

■要素技術の概要と新たな展開
 これまでの当センターの軍事遺跡の発見は、各種歴史文献と人工衛星画像の特殊処理による詳細な照合、それに基づく地形判読技術をコア技術としてきた。もちろん、それは職人技とも言える技術の集合体である。
 だが、今回は、衛星画像にさえ観察されない位置情報を、長年にわたるフィールドワークの積み重ねと、総合的な専門家の知見を融合させて、原図の指示とは全く異なる地点に、該当軍事遺跡を発見・確定できたという意味で、新しい技術的段階へ移行したと考える。

A地点の発見
 A地点は、2011年10月23日11時50分に、最初に当センター主席研究員・辻田文雄氏(軍事評論家)が現地入りし、ポイントの指標となる井戸を現認。その後、丘陵地帯の尾根筋付近まで入った中国側調査団により塹壕線があるとの報告を受け、全員で該当地点を踏査し、旧軍の中隊規模の野外演習場であることも確認した。

■A地点へのルート開拓
 A地点へ到達するルート開拓はやっかいだった。道が狭く、四輪駆動車でさえ走行困難な状況であった。
 最終的なルートとして既存道路から近づき、その後は荒地を分け入って歩きに徹するルートを選んだ。農道から荒地に降り、徒歩で川を渡り、干上がった貯水池を確認しながら、その堤防をつたって、A地点相当エリアへ入った。

 なお堤防と農道を結ぶ結節点には、かつて、コンクリート製の橋がかけられていたとおもわれるべトンの残骸も確認した。橋にかかる道は、元の地面に数十センチの厚みで炭を敷き、さらにその上に土を盛るという層構造をなしていた。ただし、これは関東軍が軍用に構築したものであるかどうかは不明である。

■軍用演習場となる指標の発見
 A地点に最初に到着した辻田氏から無線で一報が入った。井戸があるという。この、もっとも重要な痕跡は、事前の衛星写真では観察できなかったが、実際、現地に到着すると井戸はあった。井戸は木の板でふさがれてあった。(帰国後に衛星画像を確認すると、わずかな陰影として観察された)

 調査団員が井戸の確認と実測、演習場の西開口部の実測、方位計測、地表面の観察をしている間に、中国側を含む他の調査員は、丘陵の上(東側)に到着し、しばらくして降りてきた。「上に塹壕がある、中隊規模の常用の演習場ではないか」との報告をうけた。実際、原図にしめされている化学兵器散布訓練は中隊規模の訓練である。

 なにも痕跡がのこされていないのではないかと心配していたが、軍の演習場であることが物証をもって確定できた。専門家の鑑定によると、この場所は、普段から軍が演習場に使用しており、化学兵器散布訓練も、その常用訓練場に仮設のテントなどをたてて実施したのではないか、との詳細部分についての意見もだされた。

■A地点の形状特徴
 A地点は120m程度西南西に開口した丘陵であり、78度で東北東方向へ向けてプラス5度の勾配を有している。存在する井戸は外径90センチ、内径60センチであり、深さは水面までレーザー計測で8.3mであった。

 もっとも特徴的な遺構として、前述したとおり、井戸のほかに丘陵の東側の尾根付近に複数の塹壕と、タコツボ(一人用掩蔽壕)が確認された。
 また井戸から南南西方向、西方面開口部最南端の西端(井戸からは真南にあたる)には、地面に埋まるようにして幅1m程度の煉瓦とべトンの複合構造物の基礎らしきものが観察された。

 (文責・岡崎久弥)
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