川本さんがいなければ、水俣病は忘れられていた。
2万人以上の水俣病患者を救った川本輝夫さん。
そして、大きな裏切りを受け、失意の中で他界された川本輝夫さん。
だが、真実は川本輝夫さんの人生の中にこそある。
それを歴史に刻んでおこう。
水俣病と背景理解の重要文献 |
川本輝夫著
「水俣病史」
世織書房 |
石牟礼道子編
「水俣病闘争
わが死民」
水俣を知る上で欠かせない一冊
渡辺京二著「私説自主交渉闘争」 |
原田正純著
「水俣病」
岩波新書
|
水俣病センター相思社
ミナマタ−井戸を掘ったひと 回想 川本輝夫
水俣病事件主な訴訟
さようなら川本輝夫さん
川本輝夫さん追悼文集
水俣病略年表
水俣病誌
ごんずい 49号
ごんずい93号
------------------------------------
以下、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 2012.1.26現在
川本輝夫
川本 輝夫(かわもと てるお、1931年8月1日 - 1999年2月18日)は、水俣病の患者の運動体・チッソ水俣病患者連盟の委員長。水俣市市議会議員。
生涯 [編集]
熊本県水俣市出身である。父、川本嘉藤太は、水俣市に工場がある新日本窒素肥料株式会社(1965年に「チッソ」と改名)に勤めていた。
川本輝夫は、家庭の事情により熊本県立水俣高等学校を2年で中退する。漁業作業員・建設作業員・チッソ臨時工員などの職業を経験し病院勤務する。寝たきりの父を介護しつつ准看護士資格を取得する。
本人は1955年より水俣病を発症していた。1961年より父が発病して寝たきりとなり、1965年4月に急性劇症でもだえ死ぬのを見守る。1968年に水俣病の認定申請を行って2回棄却されるが、その後、認定申請棄却処分に対する行政不服審査請求を行い、1971年に認定を勝ち得る。
1968年5月に、チッソ水俣工場での問題の工場廃液排出が中止となる。1968年9月26日には、熊本における水俣病はチッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると厚生省が発表する。その時点では、認定患者は死亡した人も含め111人だった。川本輝夫は、水俣病での未認定患者が死亡患者や重症患者も含めて多くいることを踏まえ、潜在患者の認定申請の説得につとめ、未認定患者救済運動に積極的に参加し、リーダー的存在となる。裁判による解決を求めるグループ、いわゆる「訴訟派」は別に、チッソ側に直接抗議しチッソの幹部と交渉する自主交渉を展開する。1年6ヶ月のチッソ本社前での座り込みやチッソ本社重役との自主交渉については、ガードマンらによる暴行があり反撃も十分できないまま、逆に1972年12月27日に傷害罪で起訴され、懲役1年6ヶ月の求刑を受け、一審判決は罰金刑であったが、高等裁判所では無罪となり、最高裁により無罪が確定している。
1973年7月9日に、患者側とチッソの補償協定を勝ち得る。チッソ水俣病患者連盟の委員長を22年間つとめ、水俣病の被害の非常に深刻な実態、チッソへの責任追及、そして未認定患者が多くいることを、日本や世界の市民に知らせることとなる。なお、2004年時点でも認定患者の数は2,263人であり、患者側が満足できる水準でない[要出典]。1995年の政府による調停受け入れを条件に一時金を受け取ることができる未認定患者も、12,700人とされている。
チッソの企業城下町としての水俣市で市議会議員選挙に無所属で当選、三期勤めた。出席最後の市議会では、「水俣湾を世界遺産に」と提案する。
1999年2月8日、肝臓がんで死亡する。市民運動を担う人々のほか、細川護熙や石原慎太郎からも弔辞が届けられた。
外部リンク [編集]
夫、川本輝夫と水俣病
---------------------------------------------------
【再掲】
ミナマタ−井戸を掘ったひと 回想 川本輝夫
水俣病事件主な争訟
さようなら川本輝夫さん
川本輝夫さん追悼文集 ---------------------------------------------------
石牟礼道子編「 水俣病闘争 わが死民 」創土社刊
「私説自主交渉闘争」渡辺京二 より引用
被害者が被害者団体を内部告発しているサイト「救済事業監視塔」の掲示板に紹介された内容。水俣告発の先駆的闘いを伺い知ることができるエッセイ。
■参考資料 No.458 水俣における市民の闘い(残りは本を買って読んでください) by ドルフィン
「…(前略)…
定型がありえないということは、たんに自主交渉闘争のみならず、全水俣病闘争を一貫する性格である。それは何にもとづくのかというと、水俣病闘争が一定社会の基本的法体制の中で権利を保障されない、さらにまた政治組織の一定政治プランによる指導を受けない、生活民それ自体の自立した闘争である、あるいはあるべきであるという事実に基礎をおいている。そのような性格の生活民大衆自身の蜂起が、政治的諸党派のプランや指導を一挙に吹き飛ばす非定型なものであった、いや、そうでしかありえなかったということは、史上の諸事実によって検証することができる。水俣病闘争は生活民大衆の蜂起というにはほど遠い闘争であるけれども、生活民自身が党派的指導をはねつけて手探りで闘いを提起する時に生じる非定型的性格を、深く刻印されている。
チッソ本社坐りこみ闘争は、けっして公害闘争における有効な新戦術として考案され、提起されたのではない。いわゆる一株運動との決定的な差はそこにある。それは川本輝夫さんをはじめとする新認定水俣病患者が、意識を包む闇の中から、自分自身をひきずり上げるようにして行きついた行動の形態であり、彼らが存在の深みから全身をうち顫わせるようにして発したことば″の具象態である。
水俣病闘争は、水俣病に罹患した患者という、具体的存在規定を欠いた抽象的な集団によって担われた闘争ではけっしてない。
…(中略)…
水俣病患者を悲惨な公害病患者としてとらえ、それに対する人間的責任というふうに問題を立てる良心主義的立場は、誠実さという点で敬意を払うべきものであることに異存はない。しかしその立場に立つかぎり、水俣病闘争は成り立ちえない。なぜなら、それは人間の一定水準の自覚された良心を前提としており、その良心の自覚態が一定水準の知的操作の所産である以上、その視点からする運動は必然的に知識人運動たらざるをえないからである。水俣病闘争を公害闘争としてとらえる視点についても、同様なことがいいうる。公害闘争は、全国から公害をなくしましょう式のふぬけた体制補完闘争になり下る危険を宿命的に孕んでいる
…(中略)…
戦後日本市民社会の体制は、けっして単純にいわゆる「逆コース」式の強権支配によって維持されたのではなく、平和憲法を基本法とする戦後法体系によって市民権を得たいわゆる反体制運動を媒介とすることによって、支配のバランスを保持して来たのである。革新系諸運動は戦後型支配に構造的に組みこまれた不可欠の反対項であって、それが諸闘争を提起し、行政権力と角遂を演ずることによって、結果的には、戦後型支配にとって最も合理的なラインが引かれて来たといってよい。公害闘争またしかりである。
…(中略)…
日共水俣市委員会は三日「全市民のみなさんに訴えます」と題するビラを折りこんだ。これは、新潟では水俣病問題は解決されつつあるのに、水俣ではいまなお「市民に不安をあたえ暗い『水俣の町』というイメージからぬけだすことができない」とか、「明るい水俣をとりもどそう″という市民の悲願」などという恐るべき認識を真正直に吐露した文章で、その中でふれられているチッソの責任追及など申し訳にすぎず、彼らの水俣病問題に対する基本的認識が水俣病と安賃争議のために水俣はさびれた、これをなんとかしなくてはならぬ″という、チッソが陰に陽に流し続けた、患者と水俣工場第一労組の労働者を圧殺するためのイデオロギーの完全なとりこになっていることを、白日の下にさらすものであった。したがって、彼らの主張が「現在、最も重要なことは、患者、家族を救済しよう″明るい水俣をとりもどそう″という市民の悲願を達成するためには、思想、信条のちがいをのりこえ人道的立場にたち、意見の不一致点については忍耐づよく話し合い、一致点にもとづいて全市民が一つに力をあわせ、水俣病問題の真の解決に全力をあげて、とりくむことではないでしょうか」という形に収束されるのは、理の当然であった。彼らが何をおそれ、何につきあげられているのかということは、次の一句に明らかであった。「そうでないと水俣病問題は(中略)市民間のミゾをふかめ、ひいては水俣病の真の解決をおくらせる結果になりかねません」
日共の数々の愚行はいまさら問題にするのも沙汰の限りではあるが、この声明は愚行などという生易しいしろものではなく、決死の闘いに立った十八家族への背後からの一刀であり、政治的犯罪の極北を示すものである。「現在、最も重要なこと」は、自民党支部長と新日本化学重役を筆頭代表とするふたつの署名運動がチッソサイドの運動であり、自主交渉を要求する患者の闘いを孤立させ封殺しようとするものであることを徹底的に暴露し、十八家族の坐りこみを明確に支持することである。ところが彼らは「最近、水俣病問題の解決をめぐって、署名運動やまたいろんな見解がビラでだされ、活発な論争が行なわれています。このことについてわが党は、『ねた子をおこすな』といわれていた数年間の状況とはことなって一日も早く患者、家族を救済し、明るい水俣をとりもどそう″そのためには水俣病の真の解決が重要だ″ということが、市民の多数の悲願となってきていること、そして市の『有力者』たちも、そのことを無視できなくなっていることの反映だと考えます」というふうに署名運動の本質を進んで隠蔽し、このような運動と一致点を探らないと「市民間のミゾをふかめ」ることになると、坐りこみ患者を脅迫したのである。
同じ日、彼ら日共市委員会は、患者、自民党、社会党、公明党に「一堂にあつまり、話し合いを開催すること」を申入れた。川本輝夫さんはこの申入れ書中に「小異をすてて大同につき」とあるのを読み、「ハハン。わしたちの言い分は小異ちゅうこつじゃな」と破顔一笑した。このような、現実に存在する思想上、利害上の対立を無視した空想的な会談が実現するはずはなかった。申入れ劇は、ただ、患者坐りこみを何とか解消しなければならぬ社会不安としてとらえ、水俣市のただ中における階級的戦闘の激発をおそれるあまり、無原則的階級協調によって平和裡に闘争を収拾しようという、彼らの中間主義的な立場をさらけ出すだけの、ひとり相撲に終った
…(後略)…」
・ホワイト
もうこの党は水俣病闘争の時点で完全に終わってるじゃない。しかも同じ欺き方を続けているって、今もって反省ゼロだな。
この方の問題提起は今も新鮮だ。この本読んでみよう。
・市民けん
日共市委員会は、患者、自民党、社会党、公明党に「一堂にあつまり、話し合いを開催すること」を申入れた。川本輝夫さんはこの申入れ書中に「小異をすてて大同につき」とあるのを読み、「ハハン。わしたちの言い分は小異ちゅうこつじゃな」と破顔一笑した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
森永ヒ素ミルク中毒事件の概要は、以下の文献、及び当サイトの学術論文アーカイブからも、ご覧頂けます。
↓現在の問題点にまで踏み込んだ能瀬英太郎氏のレポート
↓能瀬レポート 英語版 (Nose Report)
表向き「公正中立」を偽装して登場した「第三者委員会」が、被害者を無視して
勝手に作った不正な「診断基準」。その文中に使われた「原病」という表現に
ついての解説つき。↓
能瀬レポート日英対訳版
まだ解決を見ない日本の戦後初の産業公害 PDF:136KB
(著作権Free: 英語教育の教材等ご自由にコピーしてお使い下さい。)
(日本における第三者委員会方式は森永事件以降、常用され、水俣病でも被害の隠蔽に活用されるようになるという要注意なもの。)
↓救済システムでの問題発生を学術的視点からすでに予期している秀逸な論文。
総目次ページへ戻る
トップページへ戻る
|