森永ヒ素ミルク中毒事件資料館 Museum of Morinaga Arsenic Milk Poisoning Incident.
A small part of the historical document archives.
歴史文書の原本公開
 事件の発生、20年近い被害者圧殺、戦後最大の製品ボイコット・森永製品不売買運動、そして森永との一時的和解、その後の被害者団体への画策の開始、被害者団体の変質、運動創設者への除名排除攻撃、運営の改善を求める被害者家族への被害者団体による言論弾圧、森永乳業へ感謝を求められる被害者、森永乳業の繁栄を願うよう求められる被害者。国民の支持を得て獲得した成果から歴史的反省という要素を捨象する歪曲の動き…。実物資料をワンポイントで紹介。

年代 特徴 資料↓DL可 解説 社会の動き
1949 前史 森永乳業設立
1952 赤ちゃんコンクール実施(岡山県が初)
1955 事件発生
西日本一一帯で人工栄養児に奇病発生
1955 奇病の原因は森永ミルクによるヒ素中毒と岡山県衛生部が発表 (8月24日)
1955 日赤岡山病院入者を中心に被災者家族中毒対策同盟結成 (8月27日)
1955 徳島地検、森永を起訴 (9月20日)
1955 第三者委員会による圧殺開始 六人委員会「治療判定基準」その他、厚生省に答申 (11月2日)
1955 五人委員会意見書発表 (12月15日)
1956 岡山同盟解散。岡山県森永ヒ素ミルク中毒のこどもを守る会結成 (6月24日)
1957 事件の社会的抹殺 財団法人森永奉仕会設立 (2月20日)
1957 『森永ヒ素ミルク事件史』発刊 (5月24日)
1957 日本母親大会参加決定。森永に全員治療の約束をさせ参加中止 (8月2日)
1957 『岡山県における粉乳砒素中毒症発生記録』(昭和32年10月1日岡山県発行)
県、岡崎氏へ「被害者団体にはあげない、救済運動をやめるのならあげる」と回答
1958 守る会、10人の被害児の治療を森永に約束させる (10月10日)
1960 第六回日本母親大会に参加。中山マサ厚生大臣に陳情 (8月20日)
1962 守る会第七回総会。 会の名称より「岡山県」を除く (8月27日)
1963 徳島地裁で森永の無罪の判決。 徳島地検は高松高裁へ控訴 (10月25日)
1964 岡山地裁に提訴中の岡山訴訟派55人は民事裁判で和解 (4月1日)
1965 守る会第十回総会。会の解散を否決して存続決議 (8月24日)
1966 高松高裁は第一蕃の判決を破棄、差戻し決定、森永上告 (3月31日)
1967 遠迫医師の斡旋で守る会は精密検診実施 (3月〜9月末)
1968 岡山大学医学部衛生学教室から協力の申出、資料提供 (12月9日)) カネミ油症事件が表面化
1969 被害者側の反撃 最高裁は森永の上告を棄却し、徳島地裁へ差戻し (2月27日) アポロ11号月面着陸
1969 大阪大学医学部丸山教授らによる 「十四年目の訪問」 公表 (10月18日)
1969 朝日新聞で 「十四年目の訪問」大々的に報道 (10月19日)
1969 守る会第一回全国総会、守る会全国組織となる (11月30日)
1970 森永と守る会、岡山市で第一回本部交渉、今後のルール確認 (12月12日)
1972 「森永ミルク中毒被害者の恒久的救済に関する対策案」 成立 (8月20日)
1972 森永製品不売買運動により森永乳業一時的白旗 第十五回本部交渉森永欠席、守る会民事訴訟、不買運動決議 (12月3日)
1973 第一波訴訟を大阪地裁に提訴 (4月10日) 第二波提訴岡山地裁 (8月24日)
1973 第五回三者会談で森永企業責任を認める確認書に調印 (12月23日)
1974 財団法人ひかり協会設立許可される (4月25日)
1974 守る会、民事訴訟を全国一斉に取り下げ。不買運動の中止を要請 (5月24日)
1975 被害者団体組織内部での腐敗の進行 「森永砒素ミルク闘争20年史」機関決定ののち刊行さるも、途中から被害者団体役員のほとんどが原稿出稿せず。
1976
1977
1978
1979
1980 被害児の親が専従職員となり、運動の創設者を排除し始める。親が子どもへ行くはずの資金を消費し始める。
1981
1982
1983
1984
1985
1986 運動創設者・岡崎哲夫氏除名される。
1987 岡崎哲夫氏、新しい会を発足させるが、親が再結集せず断念、その後、数名で「こどもを守る会」を継続。
1988
1989
1990
1991
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002 事件史の歪曲がはじまる 雑誌S 5月号で当時の有名弁護士と森永乳業役員が対談。 (註:1)
2003 被害者家族が抗議を表面化、被害者団体による「もの言う被害者」への弾圧が露骨化する。 重症被害者家族による弁護士会への人権救済申し立て相次ぐ(被害者団体による被害者家族への人権侵害を告発)(6月、7月…)
2004 「森永ヒ素ミルク中毒事件 発生から50年 被害者救済事業の実施状況」(能瀬英太郎著)発表 
2005
2006
2007 「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」が、全国に発送する機関紙1面全部を使って能瀬英太郎氏を名ざしで個人攻撃。
2008
2009 市民(フリージャーナリスト)が公害被害者団体を名誉毀損で告訴

被害者団体の内部実態の一部が初めて明るみになる。
能瀬英太郎氏、「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」を名誉毀損で告訴(岡山地裁)
2010 名誉毀損で告訴された被告「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」が森永乳業の経営悪化を防ぎたいと主張。
2011 東日本大震災と東京電力・福島第一原子力発電所事故(レベル7:水素爆発とメルトダウン)
2012 被告「森永ひ素ミルク中毒の被害者を守る会」、岡山地裁の裁判長からの和解勧告(原告の妥協を含む)に対し、機関紙の内容が事実と異なることを認めつつも、最後の土壇場で、損害賠償を拒否し、勧告を蹴る。

(註1)資料館電子掲示板への投稿
 第一審の裁判が森永無罪になったことを「悲劇の始まり」といっていますが、誰にとって「悲劇」かは患者ではないのです。森永にとって「悲劇」だったといっています。「無罪」と判決を下した裁判に責任を転嫁しています。次に「後遺症がある」という訴えが、ダンボール箱三杯も届いているのに、それを読んだ「中間管理職」が握りつぶしたことにしています。そんな無責任なことができるかどうか、常識で考えればわかるとおもいます。ただ大野社長は知らなかったことにしたいのです。このあとでは弁護士N氏が大野社長の死に際して「ひかり協会の発案で守る会から感謝状」を大野氏の遺族におくったことを(本当かどうか知りませんが)披露しています。最後は「厚生省との決別」についてですが、「ある時期」とはいつをさすのでしょう。散々厚生省に守られてきて「潰れる」ことから逃れてきたのに、「ある時期」は未来をさしているのかもしれません。いまも「三者会談」が毎年つづけられ、「三者会談推進委員会」は年4回、合わせて年5回は顔を合わせています。そこで「恒久対策案」の後退を言い出さない厚労省に今でも守られているのですが、それはどうなんだ、と聞きたいものです。

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森永ヒ素ミルク中毒事件の概要は、以下の文献、当サイトの学術論文アーカイブからも、ご覧頂けます。


↓現在の問題点にまで踏み込んだ能瀬英太郎氏のレポート




↓能瀬レポート 英語版  (Nose Report)The Morinaga Milk Arsenic Poisoning Incident  50 Years On   by Eitaro NOSE



表向き「公正中立」を偽装して登場した「第三者委員会」が、被害者を無視して
勝手に作った不正な「診断基準」。その文中に使われた「原病」という表現に
ついての解説つき。↓
能瀬レポート日英対訳版 
まだ解決を見ない日本の戦後初の産業公害 
PDF:136KB 
(著作権Free: 英語教育の教材等ご自由にコピーしてお使い下さい。)

(日本における第三者委員会方式は森永事件以降、常用され、水俣病でも被害の隠蔽に活用されるようになる
という要注意なもの。)

↓救済システムでの問題発生を学術的視点からすでに予期している秀逸な論文。






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