バンクシーなる落書き犯が「正体不明の路上芸術家」などと一部メディアでもてはやされている。今回、これに食いついた東京都知事が都内公共物にかかれた落書きと記念撮影をするなど、なんともはや…下品な騒動を巻き起こしている。一部メディアは落書きされた防潮扉を都が取り外したと書きながら、「本物かどうか調査にのりだす」と併記し、いかにも東京都の事務方も「落書き作品を財産として尊重」しているかのような印象を持たせるように書いた。だが、都は「安全上はずしただけだ。(マスコミ)が書きたいような表現でかくことは止められない」という旨を語っている。ネット言論を「匿名性ゆえフェイクまみれ」と批判することに余念がない一部メディアが、一転、匿名性に隠れた器物損壊の違法行為を興味本位で礼賛し始めた。
繁忙期で騒動自体知らなかったが、落書き消しで共に汗を流してきた人々からの憤りにみちた声に押され、書くことにした。
ピエロと化した小池都知事とメディア
都知事の奇怪パフォーマンスは、地方都市にまで波及している。
今度は、香川県高松市でバンクシー風の落書きが見つかったとか、神戸の西宮でも見つかった、などと面白半分のローカルニュースがかけめぐり、逆に全国配信されている。地方自治体までが、東京都に右へならえ、だ。
落書きを煽りたい向きは、内心嬉々としているだろう。だが、都知事のTwitterには、憤る都民の抗議が寄せられ炎上している。「東京都はついに落書き行為を合法化したのですね」「そんなことをする暇があったら街にあふれる落書きを早く消してほしい」と…。そのとおり。小池東京都知事は器物損壊行為を日本で最初に合法化した知事となった。
従来なら一笑に付されるか破壊行為として批判される落書き行為が、大人によって礼賛される怪現象を定期的に見せつけられる。
20年前の日本
落書き調査隊の活動を始めた17年前も同じ状況だった。10代の青年は毅然として落書きに反対していたが、活動を始めた途端、30代以降の主に男性から「なぜ落書きを問題にするんだ」「落書きは反体制アートだ」といわんばかりの揶揄を受けた。
そのころ、米ニューヨークでは年間2700名近くの殺人事件が発生し、町中が落書きに埋め尽くされ、落書きだらけの地下鉄に乗れば、襲われても自業自得といわれる時代。
治安機能が麻痺状態となり、新自由主義者が羽を伸ばしすぎてインフラ設備もぼろぼろとなっていた米国では落書き対策を皮切りにした防犯対策がようやく本格始動していた。(落書きの潜在的被害想定額は各国でおそらく数千億円の規模になると思われる。)
街が崩壊しても面白がり続けていた日本
ところが、日本は、真逆のクロスオーバーで、毎月、どこかの雑誌が「ストリートアート特集」を組んでいるという状況だった。それを真に受けて落書き犯が激増していたのが岡山と東京。岡山には落書き犯製造工場があり、それらは市などの公的機関からの便宜も得て商売繁盛だった。落書きが全市を覆い、犯罪が激増し、市民は360度の落書きに埋もれたまま、その状況に麻痺し、一方で、白昼強盗が多発するといったような「ゆで蛙」に陥っていた。
それから17年、落書きを消し続けて、ようやく落書き発生が下火になりかけた三年ほど前から、またぞろ落書き賛美の傾向が復活し、今月に入ってから、またもや一部のいい年をした大人たちが率先して、先祖がえりを果たそうとしている。だが、市民は学習能力をもっている。この現象は、20年前とはことなり、経過が記録され、なにが街を破壊したかの因果関係が特定されていくだろう。
「落書きは残すことにしました」と香川の役所
高松市はバンクシーもどきの落書きに対して、なんと…「鑑定」をするという。都知事同様、頭がおかしくなったとしか思えない。一方一部メディアも、明らかに犯罪を面白がっている。(ある社の前後のバンクシー大礼賛キャンペーン記事は誰でも閲覧できる) 「鑑定はするけど、落書きはやめてほしい」、支離滅裂だ。自治体が「ある雰囲気に呑まれ」て、法治の原則を捻じ曲げ、器物損壊行為を容認していることには批判もない。(先の児相の体たらくをコテンパンに批判していた態度と大違い。)複数の自治体に電話をかけて事実関係を照会したが、ある地方都市の施設管理課は、「この落書きは邪魔にならないので残すことにしました」と意味不明の発言。他県は決して真似をしてはいけない。
落書き消しに取り組んできた市民・青少年にどう説明する?
昨年の12月、岡山市内の小学生数十名と落書き消し活動をしたばかりだ。その子どもたちは、落書きは犯罪を長期に渡り続けたい愉快犯のため、検挙をさけて中小の物件に集中している弱い者いじめと同じであり、私たちが消さなければ誰も消さないから、と寒いなか全身ペンキまみれになって奉仕活動をした。落書きを消すことは、被害者の心情によりそう疑似体験でもあり、他人の痛みを身近で感じ取れる体験だ。
落書きは消す前に相当な段取りが必要だ。落書き調査(フィールド調査)をして街の実態を知り、正確なデータをつくり、方々に電話をして壁の所有者を特定し、オーナーに一から趣旨を説明して「消させてください」と許可をとる。それから資材を調達し、交通量のある道路上で安全に作業を進める段取りをする。これらの難しい作業を体験したあの子どもたちに、この都知事や一部マスコミは、どんな説明をするのだろう。都庁や社屋の正面玄関に油性スプレーペンキを吹きかけられてみないとわからないのだろうか?もちろん最近の落書き犯は、メディアのお気に入りになるため、銀行やデパートなど大手の物件には手を出さないし、警察や役所にも手を出さない。すぐにつかまるからだ。稀にそれをする場合は、あらかじめメディア露出を計算している場合だけだ。
手段を選ばず有名になった人間は、犯罪を犯しても誉めてあげますよ、ということか?いや確かに今回、一部の役所やメディアはそういうメッセージを社会に送った。
計算高いバンクシーの仲間たち
今度は、香川県高松市でバンクシー風の落書きが見つかったとか、神戸の西宮でも見つかった、などと面白半分のローカルニュースがかけめぐり、逆に全国配信されている。地方自治体までが、東京都に右へならえ、だ。
落書きを煽りたい向きは、内心嬉々としているだろう。だが、都知事のTwitterには、憤る都民の抗議が寄せられ炎上している。「東京都はついに落書き行為を合法化したのですね」「そんなことをする暇があったら街にあふれる落書きを早く消してほしい」と…。そのとおり。小池東京都知事は器物損壊行為を日本で最初に合法化した知事となった。
従来なら一笑に付されるか破壊行為として批判される落書き行為が、大人によって礼賛される怪現象を定期的に見せつけられる。
20年前の日本
落書き調査隊の活動を始めた17年前も同じ状況だった。10代の青年は毅然として落書きに反対していたが、活動を始めた途端、30代以降の主に男性から「なぜ落書きを問題にするんだ」「落書きは反体制アートだ」といわんばかりの揶揄を受けた。
そのころ、米ニューヨークでは年間2700名近くの殺人事件が発生し、町中が落書きに埋め尽くされ、落書きだらけの地下鉄に乗れば、襲われても自業自得といわれる時代。
治安機能が麻痺状態となり、新自由主義者が羽を伸ばしすぎてインフラ設備もぼろぼろとなっていた米国では落書き対策を皮切りにした防犯対策がようやく本格始動していた。(落書きの潜在的被害想定額は各国でおそらく数千億円の規模になると思われる。)
街が崩壊しても面白がり続けていた日本
ところが、日本は、真逆のクロスオーバーで、毎月、どこかの雑誌が「ストリートアート特集」を組んでいるという状況だった。それを真に受けて落書き犯が激増していたのが岡山と東京。岡山には落書き犯製造工場があり、それらは市などの公的機関からの便宜も得て商売繁盛だった。落書きが全市を覆い、犯罪が激増し、市民は360度の落書きに埋もれたまま、その状況に麻痺し、一方で、白昼強盗が多発するといったような「ゆで蛙」に陥っていた。
それから17年、落書きを消し続けて、ようやく落書き発生が下火になりかけた三年ほど前から、またぞろ落書き賛美の傾向が復活し、今月に入ってから、またもや一部のいい年をした大人たちが率先して、先祖がえりを果たそうとしている。だが、市民は学習能力をもっている。この現象は、20年前とはことなり、経過が記録され、なにが街を破壊したかの因果関係が特定されていくだろう。
「落書きは残すことにしました」と香川の役所
高松市はバンクシーもどきの落書きに対して、なんと…「鑑定」をするという。都知事同様、頭がおかしくなったとしか思えない。一方一部メディアも、明らかに犯罪を面白がっている。(ある社の前後のバンクシー大礼賛キャンペーン記事は誰でも閲覧できる) 「鑑定はするけど、落書きはやめてほしい」、支離滅裂だ。自治体が「ある雰囲気に呑まれ」て、法治の原則を捻じ曲げ、器物損壊行為を容認していることには批判もない。(先の児相の体たらくをコテンパンに批判していた態度と大違い。)複数の自治体に電話をかけて事実関係を照会したが、ある地方都市の施設管理課は、「この落書きは邪魔にならないので残すことにしました」と意味不明の発言。他県は決して真似をしてはいけない。
落書き消しに取り組んできた市民・青少年にどう説明する?
昨年の12月、岡山市内の小学生数十名と落書き消し活動をしたばかりだ。その子どもたちは、落書きは犯罪を長期に渡り続けたい愉快犯のため、検挙をさけて中小の物件に集中している弱い者いじめと同じであり、私たちが消さなければ誰も消さないから、と寒いなか全身ペンキまみれになって奉仕活動をした。落書きを消すことは、被害者の心情によりそう疑似体験でもあり、他人の痛みを身近で感じ取れる体験だ。
落書きは消す前に相当な段取りが必要だ。落書き調査(フィールド調査)をして街の実態を知り、正確なデータをつくり、方々に電話をして壁の所有者を特定し、オーナーに一から趣旨を説明して「消させてください」と許可をとる。それから資材を調達し、交通量のある道路上で安全に作業を進める段取りをする。これらの難しい作業を体験したあの子どもたちに、この都知事や一部マスコミは、どんな説明をするのだろう。都庁や社屋の正面玄関に油性スプレーペンキを吹きかけられてみないとわからないのだろうか?もちろん最近の落書き犯は、メディアのお気に入りになるため、銀行やデパートなど大手の物件には手を出さないし、警察や役所にも手を出さない。すぐにつかまるからだ。稀にそれをする場合は、あらかじめメディア露出を計算している場合だけだ。
手段を選ばず有名になった人間は、犯罪を犯しても誉めてあげますよ、ということか?いや確かに今回、一部の役所やメディアはそういうメッセージを社会に送った。
計算高いバンクシーの仲間たち
バンクシーといえば、金持ちオークションで高値落札後に内部に仕込んだシュレーダーで「自己切断」したニュースがある。ルサンチマンを煽るこの手のパフォーマンスに飛びついたマスコミもたくさんいるが、これも今に始まったことではない。犯罪をみておもしろがる者や、芸術家気取りの落書き犯も今に始まったことではない。キースヘリングもバスキアも、ネタに困ったモダンアート界が商材として利用した。落書き犯は上昇志向だけは強烈だ。バンクシーはジャンキ−のイメージを隠しながら商業的マーケティングをしている。(社会を皮肉るのも、結局は、落書き行為を正当化するためのレトリックだ。シニカルな落書きを描いたら、途端に許され賛美されるのなら、正当な方法で社会批判をしなくてもいい。街中を壊してもいいことになり、非正規手段を採用することも肯定されるべきだということになる。悪魔にとっても便利な口実を与える。面倒くさいコミュニケーションを学ぶ必要はないということだ。)
市民やメディアを騙して喜ぶ落書き犯
市民やメディアを騙して喜ぶ落書き犯
これと似た事例が、かつて「日本一の落書き県」といわれた地元、岡山にもある。2000年初頭、岡山市内で落書きが社会問題となり、落書き消去活動が始まったころ、ある若者が商店街の幹部に相談にきた。「僕は今の落書きはよくないと思う。それとは違う壁画をかきたいんだ」と。商店街からID カードまで発行してもらって壁画を描いていた。これも「落書き防止活動」とニュースになった。ところが、一ヶ月後に、彼は、小学生が落書きを消した壁に、再度、落書き(自分のイニシャル=タグ)を上書きしているところを逮捕された。彼は落書きの先頭を走っている常習犯だった。
この岡山の「落書き防止条例」適用第一号の犯人は、検挙されても、市内に数千箇所以上もある自分の落書きを消すことは(できるにもかかわらず)遂にしなかった。彼の落書きを消し続けたのは多くの市民ボランティアだ。
一方で、落書き犯を煽るサウンド系ハウスもあり、その関係者に多額の税金がつぎ込まれ、公的美術館が現役の「犯人」を「アーティスト」と偽って公金で呼び寄せ、落書きをアートと強弁するイベントを開催するという事例もたくさんある。こういう騙しのイベントを仕掛ける自称NPO法人まであって、落書きの知名度アップにいそしんでいる。(落書きをマスコミを使って公然露出させ、なんとか自慢したい、という思考方法がそもそも破綻だが)
この岡山の「落書き防止条例」適用第一号の犯人は、検挙されても、市内に数千箇所以上もある自分の落書きを消すことは(できるにもかかわらず)遂にしなかった。彼の落書きを消し続けたのは多くの市民ボランティアだ。
一方で、落書き犯を煽るサウンド系ハウスもあり、その関係者に多額の税金がつぎ込まれ、公的美術館が現役の「犯人」を「アーティスト」と偽って公金で呼び寄せ、落書きをアートと強弁するイベントを開催するという事例もたくさんある。こういう騙しのイベントを仕掛ける自称NPO法人まであって、落書きの知名度アップにいそしんでいる。(落書きをマスコミを使って公然露出させ、なんとか自慢したい、という思考方法がそもそも破綻だが)
子どもより大人が落書きにフィーバーする怪
バンクシーもその仲間である落書き犯も、所詮、こういう、馬鹿な大人を手玉にとることに限りない快感を覚える「愉快犯人格」だ。かつて、大阪も落書きが蔓延し、府民が炎天下、ものすごい労力をはらって落書き消しをした。その消した地域に落書きしようとしたイギリス人が現行犯逮捕された。彼が仮に「おれはバンクシー」だと名乗れば釈放され、府知事と記念写真をとることができたのだろうか?
また、数年前、日本の画家が米国の地下鉄に落書きをして逮捕され、きついお灸をすえられた。他方、日本では、今後、有名人が落書きした場合は罪に問われない新しいルールが施行されるのかもしれない。
また、数年前、日本の画家が米国の地下鉄に落書きをして逮捕され、きついお灸をすえられた。他方、日本では、今後、有名人が落書きした場合は罪に問われない新しいルールが施行されるのかもしれない。
だが、問題は、落書き犯本人より、落書きごときに、いい年をした大人が「すわ!アートだ」と盛り上がってしまう悲しい現実だ。しかも、ちょっと政治色をつけるとチンケな落書き犯がここまでもてはやされる。なぜか?
ストレス発散しかできない人々の代償行為
ストレス発散しかできない人々の代償行為
結論から言えば、社会が「ストレス発散」にしか関心がなくなっているということだ。個別の人間のレベルでいうと、社会への漠然とした不満を募らせるが、自分自身がリスクをとって現場で行動することはしない。受動的なストレス発散タイプが増えているということだ。
人々が、努力して、自分の使命を自覚し、問題意識を研ぎ澄まして考え行動することから逃避し、宙に浮いた議論にふけって、現場での実践を軽視するようになると、現実は変わらない。だから、どんどんストレスを溜め込み始める。決して口には出さないが、意識下で社会や周囲の環境への復讐的願望を抱きはじめ、その手頃な代償行為として落書き行為を肯定・賛美し始めるのである。ちなみに娘をDVして殺した親も似た心理をもっている。自分の個人的ストレスを「しつけ」に投射してこれを代償行為と感じて解放感を得た瞬間から自分を止められなくなったのだろう。被害者の心情を度外視した議論を始めると、ちょっとした作為でいくらでも犯罪的行為は合理化できる。
落書き犯罪の住民被害者を想像できない軽薄
被害の実情に意識的に接したことのない想像力の欠如した向きには、落書きは代償行為として手ごろだ。傷害罪や窃盗行為とは違うから、とか、軽犯罪(※)だから、と内心で自己免罪できるからだ。だがこんな言い訳も、被害者の顔をみた場合は通用しない。だから落書きを弄ぶ類の人間は、真に傷ついている街や被害者を決して自分から見ようとしない。現場をしらべようとしない。
(※ 落書き行為はケースによって建造物損壊罪で懲役刑が適用されうる)
傍観者が増えて現実は変わらず
落書き犯罪の住民被害者を想像できない軽薄
被害の実情に意識的に接したことのない想像力の欠如した向きには、落書きは代償行為として手ごろだ。傷害罪や窃盗行為とは違うから、とか、軽犯罪(※)だから、と内心で自己免罪できるからだ。だがこんな言い訳も、被害者の顔をみた場合は通用しない。だから落書きを弄ぶ類の人間は、真に傷ついている街や被害者を決して自分から見ようとしない。現場をしらべようとしない。
(※ 落書き行為はケースによって建造物損壊罪で懲役刑が適用されうる)
傍観者が増えて現実は変わらず
と、縷々、説明しても、こういう風潮の悲しさはかわらない。ああだこうだと評論しても現実は一歩も変わらないのである。
むしろ、現場で奮闘、実践する市民をいかに育成するか、というテーマが置き去りにされ、社会的な人材育成が毀損され、社会がよどんでいくことのほうが深刻だ。そこにポピュリズムの政治家が登場し、煽る。一夜にして地方都市の規律までねじまげられる。右へ倣えで、最低限の常識さえ働かせることのできない組織をみていると、条件性さえかわれば、ストレスを他国との戦争で発散させる方向へ誘導することも容易だろうと想像できる。国内矛盾を海外へ向けるお決まりの政治手法の最たるものが、民族排外主義であり、戦争だ。思想性は関係ない。原理原則を忘れ、誘導される対象の一人になることに、警戒が必要だ。
バンクシーの本質は「大衆蔑視」
バンクシーの本質は「大衆蔑視」
バンクシー本人は実はこういう世間の傾向をよく知っているのだろう。覆面性がSNS 時代にマッチしていることも利用している。金持ちオークションでヤンチゃをすればマスコミが飛びつくだろうことも。ルサンチマンな大衆心理を自己売名に利用したわけだ。これが功を奏し、芸術家といわれ、落書き行為を、ストリート「アート」と強弁して世間に向けて格好をつけたい向きから伝道師のように祭り上げられている。もくもくと落書きを消す市民の頭ごなしに、10年一日、こういった心無いキャンペーンが続いている。
傍観者評論ではなく現場で汗を流す喜びを
傍観者評論ではなく現場で汗を流す喜びを
しかし、これを批判しているだけでも、何もかわらない。ましてや都知事のように、代償行為を求める一部大衆(まさに政治家が侮蔑的に呼称するところの大衆)の意識に迎合すれば(彼女自身がそういうタイプなのかもしれないが)、生み出されるのは、社会への傍観者的姿勢だけだ。
だが、幸いなことに、こういう迎合的な、心無い評論家やメディアがいくら落書きをアートと強弁しても、それにいちいち反論せず、この十数年間、日本全国で無数の人々が黙々と、落書きを消し続けてきた。これこそが、真に尊い行為だ。
そのおかげもあって、東京はかつての犯罪都市ニューヨークの再来という事態からぎりぎり免れ、オリンピックを開ける程度の安全性をかろうじて手にしている。自分たちがどういったものに支えられ恩恵を受けてきたかを、はなから知らない都知事と、ごく一部のメディアの不見識には呆れるだけだ。
落書きを「鑑賞」して溜飲を下げている場合か?
落書きを消してきた、たくさんの市民の努力をないがしろにするような落書き賛美のキャンペーンは、行動する市民を軽視し、投げ与えられた餌に食いつくだけの軽率な人々の愚を示している。
いくら心無いキャンペーンがおこなわれても、私たちは、落書きを黙々と消し続ける。それだけが人々の確かな良心を目撃でき、暖かい共感性を感じられる場だから…。落書きを修復することがどれだけ大変かも体感できる。地域社会で見えてくることがある。バンクシーを煽った都知事も記者も、一度ペンキまみれになって落書きを消してみるといい。
ちなみに、フランスではいま、偏狭なナショナリズムか吹き荒れ、匿名性の落書きがそれに一役買っている。シモーヌ・ヴェイユの肖像画の上に、ナチスのカギ十字「ハーケンクロイツ」の落書きがかかれ、ユダヤ人排斥のプロパガンダが勢いを増している。
「カギ十字派の落書き犯と、そうでない派の落書き犯の落書き対決」などと面白がっている場合ではない。
いくら心無いキャンペーンがおこなわれても、私たちは、落書きを黙々と消し続ける。それだけが人々の確かな良心を目撃でき、暖かい共感性を感じられる場だから…。落書きを修復することがどれだけ大変かも体感できる。地域社会で見えてくることがある。バンクシーを煽った都知事も記者も、一度ペンキまみれになって落書きを消してみるといい。
ちなみに、フランスではいま、偏狭なナショナリズムか吹き荒れ、匿名性の落書きがそれに一役買っている。シモーヌ・ヴェイユの肖像画の上に、ナチスのカギ十字「ハーケンクロイツ」の落書きがかかれ、ユダヤ人排斥のプロパガンダが勢いを増している。
「カギ十字派の落書き犯と、そうでない派の落書き犯の落書き対決」などと面白がっている場合ではない。
【参考】
岡山中心市街地 落書き調査隊
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/rakugakicyousatai-top.htm
落書き問題資料(一部)
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/rakugaki-newsletter.htm
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