<天理・大本・キリストの神典研究:49>

 九つの鬼の滅び


 大本の出口なお開祖に懸かった神は艮の金神と名乗ったが、この艮の金神はクニトコタチノミコト(国常立尊)とされている。クニトコタチは伊勢神道ではアメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)と一体とされ、またアメノミナカヌシは伊勢の外宮のトヨウケノオオカミ(豊受大神)と同体ともされている。そして艮の金神は大本開教の地であり聖地がある京都府綾部市の江戸時代の藩主九鬼家が伝える九鬼(くかみ)神道の神ウシトラノコンシンオオカミ(宇志採羅根真大神)である。
 九鬼神道は出雲を正統としているから、艮の金神クニトコタチは伊勢と出雲の合成神ということになる。そして大本ではアメノミナカヌシをゴッド、エホバ、アラー、梵天、太極、天、弥勒菩薩としている。したがって艮の金神クニトコタチは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教の主神、根元、中心、救い主ということになる。そしてアメノミナカヌシは古事記の、クニトコタチは日本書紀の元始神である。また出口なお開祖の御霊はアマテラスオオミカミ(天照大神)の妹ワカヒメギミノミコト(稚日女岐美命)とされる。
 アマテラスは古事記・日本書紀では機織りとされているが、大本開教の地で聖地のある綾部市は明治二十九年(1896年)グンゼ製糸(現グンゼ)が創立され蚕都(さんと)と呼ばれていた。さらに出口なお開祖の娘で出口王仁三郎聖師夫人の出口すみ子二代教主が聖地で機織りにいそしんでいた。これらのことから綾部の聖地は伊勢となる(型として)。また元出雲、出雲大神宮のある京都府亀岡市に築かれた聖地は出雲となる(型として)。さらに大本は明治34年(1901年)京都府大江町の元伊勢の水、島根県の出雲大社の火をそれぞれ受けている。
 そして出口聖師にはスサノオノミコト(素嵳鳴尊)の分霊コマツバヤシノミコト(小松林命)が懸かっていたが、スサノオは祇園祭の京都八坂神社の祭神ゴズテンノウ(牛頭天王)である。
 スサノオは日本書紀で新羅(しらぎ)の国(朝鮮半島)のソシモリに行ったとあるが、ソシモリとは韓国語で牛頭という意味である。したがってスサノオは牛頭の神、牛の神ということになるが、牛の神をたどっていけば古代オリエントの牛の神・バール神にたどりつく。このバール神の信仰・宗教が古代にソロモン王(ソロモンの栄華で有名)のタルシシ船(タルシシとは銀山の名とも金属精錬にかかわる船の意味とも大型船の意味ともいわれるが確かなことは不明)に乗り組んだ製鉄集団によって、アラビア海、インド、東南アジア、中国沿岸を経て朝鮮半島南部と日本列島に伝えられたのである。
 この製鉄集団は各地で製鉄プラントを築き、鉄でもって交易をしていたのであるが、大分県の縄文製鉄遺跡はこの集団のものと考えられている。そしてこの集団は当然朝鮮半島、日本列島以外の各地にもバール神の信仰・宗教を伝えている。(むろんバール神の信仰・宗教を伝えたのは、この集団だけではなかったし、陸路でも伝えられている)この各地に伝えられたバール神の信仰・宗教が、根・源となって世界の九つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教、朝鮮半島檀君(だんくん)教、日本神道)が誕生しているのである。
 なお、牛の神バール神であるスサノオは、先に述べた九鬼家が伝える九鬼(くかみ)文書で「檀君」と称し、朝鮮半島の春川(しゅんせん)に天降り、「檀国」を創設したとある。
 出口聖師は自分のことを「背中にオリオン星座の移写的印点を有してオリオン星座より現れてきた」と述べており、また亀岡市の聖地に築かれた月宮殿は「オリオン星座を地上にうつす」といわれたが、 オリオンはエジプトではオシリスであり、 オシリスはバール神である。(オシリス神は月でもある)
 出口聖師は明治三十一年(1898年)三月一日から一週間、亀岡市の高熊山で修業しているが、この高熊山の主は巨大な熊であり、その熊が修業中に目の前に出現したと霊界物語第一巻に述べられている。また出口聖師の御霊は亀岡市の聖地の月の輪台に祀られているが、この月の輪台の月の輪はツキノワ熊を意味する。これらのことから出口聖師は熊の因縁といえるが、熊は紀州(和歌山県)熊野の熊であり、スサノオはその熊野の神である。
 さらに出口聖師は大正十三年(1924年)朝鮮半島を経て満州(中国東北部)蒙古(モンゴル)に入るが、朝鮮半島・満州・蒙古は檀君教の広まっていた地域であった。
 そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教の主神根元中心救い主である艮の金神クニトコタチによって開かれ、綾部市の聖地を伊勢とし、亀岡市の聖地を出雲とし、元伊勢の水と出雲大社の火を受けた大本、世界の九つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教、檀君教、日本神道の源、根であるバール神であり檀君であり熊野の神であるスサノオの分霊が懸かり熊野の因縁ある出口聖師を昭和十年(1935年)のかつて釈迦が明けの明星の輝くのを見て悟りを開いたと伝えられる日 十二月八日の弾圧で潰し綾部亀岡両聖地の建物施設を徹底的に破壊し(月宮殿はダイナマイト1500発で爆破)倒したのが世界の九つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教、檀君教、日本神道)の滅びの型であり仕組である。万教同根世界の九つの宗教の根は一つであるから、その根を破壊するのである。
 では何故世界の九つの宗教を滅ぼさねばならないのか。
 太古の昔から主神(祖神)は世界の艮(東北)の日本に隠れ(大本では押し込められたとする)陰からの守護に徹していた。やがて時がたつにしたがい世は乱れ、このままでは世界も人類も滅亡は必至という状況になった。(こうなることは最初から主神には判っていた)そこで主神が表に出て直接世を治めることとなったのであるが、それには世の表に出ている神々、すなわち表に出ていても世を治めきることの出来ない神々、世を荒らし乱した神々を引退させなければならない。さらに様々な神々(元は同じ神の信仰宗教でも土地や民族の違いや時代を経るによって様々に変化した)を祀り、それぞれの世界を形成し歴史と伝統と勢力を誇っている世界の九つの宗教が障害になる。
 主神が隠れて陰の守護に徹していたのであるから、主神が表に出るまで表に出ていた神々は当然主神ではないし、主神が表に出るまでに誕生した宗教は主神と直接関係ないことになる。
 主神は三千世界一つに丸めて治める日本の神国の一つの神の王、一厘(輪)の秘密(火水也、言霊也、ひみつなり、ことたまなり)の神であるから、当然主神一厘(輪)の火水の神が表に出るまで表に出ている神々と世界の九つの宗教は九分九厘ということになる。(一厘(輪)の火水の神については「十二月八日の仕組で世に出た神」「あらためて一厘の火水の神とは」「みせん山の秘密と一厘(輪)の火水の神」参照)
 なお大本は艮の金神クニトコタチによって開かれているが、この艮の金神クニトコタチは神道の神である。これは男でも女の面をつければ女になり、若者でも老人の面をつければ老人になる能楽のように仕組上艮の金神クニトコタチの面をつけたのである。
 バール神牛の神の信仰宗教は、やがて牛と同じ角のある鬼、鬼神信仰となる。したがって世界の九つの宗教は九つの鬼神信仰、九つの鬼ということになる。
 大本の神紋は当初一つの大きな丸を八つの小さな丸で囲む九曜(くよう)の予定であったが、結局一つの大きな丸を九つの小さな丸で囲む十曜(とよう)となった。九曜は世界の九つの宗教、九つの鬼であり、また九鬼神道の神、艮の金神が懸かっている出口なお開祖を中心とする草創期の大本である。ここに十番目の鬼・出口王仁(鬼)三郎聖師が入って、九つの鬼・九つの宗教に十止め(とどめ)を刺すのである。ちなみに一つの大きな丸はバール神の信仰宗教の終着点ともいえる日本神道である。
 また大本では「牛糞(うしくそ)が天下を取る」というが、この牛糞の牛とは牛の神バール神の信仰宗教を源・根とする世界の九つの宗教に代表される九分九厘のことであり、糞とは米と異なるで、米とは八十八で八頭八尾(はっとうはちび、やつがしらやつお)のヤマタノオロチに代表される悪神である。(「九月八日の仕組と富士鳴門の仕組」参照)
 要するに牛糞とは、九分九厘系ではない、悪神系ではない一厘(輪)系、大和魂のことである。その一厘(輪)系がやがて天下を取るのであるが、牛糞は牛の体内から外に出されるものであるから、牛糞一厘(輪)系は九分九厘系・悪神系の世にあっては入れられず外に出されて地に落とされるのである。
 日本昔話の猿カニ合戦で猿が牛糞を踏んでヒックリ返るが、これは牛糞、一厘(輪)系が猿、悪神・悪を倒すということを表している。
 古代オリエントのバール神の信仰宗教のいわば終着点が日本であり、日本の神道である。その日本の神道をもとに成立した国家神道を国教として明治の世から日本民族の精神と魂を支配し呪縛して来た大日本帝国が大本二次弾圧の移写により開戦した大東亜戦争の敗戦によって崩壊し国家神道も解体された。これも世界の九つの宗教滅びの型・仕組である。
 戦後出口聖師は「真の神にかえれ」と主張した。艮の金神ともクニトコタチともアメノミナカヌシともアマテラスともスサノオともいわずに「真の神にかえれ」と。
 
 宗教とはラテン語ではレリジィオであり、その意味は「再び結びつける」ということであるが、何と何とを再び結びつけるのか。それは真の神と人である。
 真の神・一厘(輪)の火水の神は太古の昔から表に出ることなく陰の守護に徹していた。人はまた知恵の実を食べて楽園から追放された。要するに、真の神と人は離れていた、断絶していたのである。しかしようやく時節到来し真の神が表に出て、真の神と人との結びが築かれる時が来たのである。
 宗教は滅ぼされる。宗教は脱しなければならないというが、滅ぼされ否定されるのは、九分九厘、真の神以外の神々、ものとの結び宗教であり、むしろ真の神との結びである真の宗教は築くものであり、築いていかなければならない。そしてその時は既に来ているのである。真の神との結びを築いて行くのが立て直しである。

2008(平成20)12.14 小田 朝章・記

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