武を考える

 現在日本の古武術(伝統武術)が注目されているが、そもそも武とはいったいいかなるものか、武術ということに限定すれば、弓、剣、槍などの技と道といえるが、武そのものとなると、一般的には武力、軍事力、闘争といった答えが多いであろうし、中には暴力、破壊を連想する人もいるであろう。
 
 では、いったい本当の武とは、いかなるものなのか、江戸時代の碩学(せきがく=大学者)山梨稲川(やまなし・とうせん)は、
「人間の現実には様々の悪があり、これらの悪と戦わなければならない。この悪と戦って生活・理想を作り上げてゆく実践、それが武である。現実から逃げることなく現実を浄化し、現実の中で文化の華を開かせてゆく実践力・努力を武と言うのである。武があって初めて文がある。武が本体である。文化の華を咲かせるような武でなければ、本当の武ではない」
 としている。
 したがって、本当の武は単なる武力、軍事力、闘争ではなく、まして暴力では決してない。
 
 ちなみに文については、日本陽明学派の祖とされる江戸時代の儒学者・中江藤樹(なかえ・とうじゅ)は、
「天を経(たて=縦糸)とし、地を緯(ぬき=横糸)として、天下国家をよくおさめて、五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)の道を正しうするを文という」としている。
 以上のことから本当の武は四魂(しこん)の中の荒魂(あらたま)の働きともいえる。(四魂、荒魂については「元の楽園へ帰る道」参照)
 現実の悪と戦い、現実の中から理想を実現してゆく実践力が本当の武である故、現実のこの世を神人和合・万民和楽の地上神国・天国に立て直すという理想を実現してゆくことは、武そのものといえる。
 大いなる理想と高い宗教的精神をもって、暴力によらずしてこの世の様々な悪と戦い、これを制して人々を恐怖と不安から解放し、絶対平和の理想世界に導く、それが武である。
  
 なお、悪を単に制するだけではない。古神道、神道に伝わる行法の一つに雄詰(おころび)というのがある。この行法のくわしい説明は省略するが、要するに「イーエッ」の言霊(ことだま・ことたま)によって悪魔を調伏し、さらに「エーイッ」の言霊でもって悪魔を悔悟復活させ、鬼も神と化し、禍も福と化す。すなわち悪魔を浄化するのであるが、この雄詰の行法が示している悪魔も浄化するということは、また武の理想とするところでもある。このことから本当の武は、悪をも最終的に救うという究極の大愛といえよう。すなわち悪も浄化する、救うという慈悲の心がなければ、本当の武ではない。
 
 なお、キリストの
「剣をとる者はみな剣で滅びる」
「だれかがあなたの右の頬(ほお)を打ったら左の頬も向けてやりなさい」
の言(ことば)をもって武を否定する者がいるが、ここで否定されている剣は暴力のことであって、暴力によって立つ者は暴力によって滅びるという、いわゆる因果応報の理を説いた言で、これは武という文字は戈(ほこ)を止めるという意味を表しているとして、暴力を封じ否定する武、とくに武術の道と精神に等しいといえる。また右の頬を打たれたら左の頬を向けるということは、自己犠牲でもなく、まして暴力に屈することでもなく、積極的に左の頬を向けることによって主体性を確立し、自己を主とし相手を従とすることによって、相手の振う暴力の意味を無くしてしまうことなのであって、これもやはり暴力によらずして暴力を封じ否定する武、武術の道と精神そのものといえよう。
 いま古武術が注目されているのも、あるいは本当の武に対する人々の希求の現れかもしれない。(2004.11.25=小田朝章)
 
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