宇宙の大神業大経綸
聖書の創世記には、神が天と地を初め万物を創造したことが語られている。この中で、神は創造するたびに『見て、良しとされた』としている。このことからこの世万物はすべて良きものとして創造されたことになる。そして最後に神は、
「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」(創世記 第一章26・27)
このことは大本にては、
「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり。神人合一して茲に無限の神徳を発揮す」(大本教旨) (経綸とは、本来おさめととのえるという意味)
天理にては、
月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから(天理筆先 第14号25)
これらのことから、人はこの世を治めととのえ、神と合一し陽気ぐらしをし得る存在(者)として創造されたことが判る。
しかし、人は悪魔の誘惑によって、神から『食べてはならない』と禁じられた知恵の実を食べることによって神の怒りにふれ、それまで住んでいた楽園を追放され、
「つぎに女に言われた、
『わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産む。
それでもなお、あなたは夫を慕い、
彼はあなたを治めるであろう』
更に人に言われた、
『あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る。
あなたは土から取られたのだから。
あなたは、ちりだから、ちりに帰る』(創世記 第三章16〜19)
こうして人は苦難の一生を生きる者となった。
これは悪魔(悪神=あくがみ)に従い、禁断の知恵の実を食べることによって、天地経綸の主体たる人として神と合一して陽気ぐらしするという元の創造原理から逸脱して、本来の良き者から悪しき者となり、治めるべきこの世から逆に治められ永遠の生命とも断絶したということである。そうしてこの世は、「悪神の世」「獣類(けもの)の世」「暗がりの世」となり、「この世は一たん泥海になりてしまうところであれども……」ついに、このまま行けば滅亡は避けられぬ情勢となった。
そこで神は世に出て、この世を元の創造原理通りへと捻じ戻し、悪神を滅ぼし、人類を永遠の生命につなぎ直すのであるが、このことはこの世・地球一個の問題だけではないのである。というのも、もし悪神の支配するこの世を神が救うことができずに、この世が滅亡したならば、それは神が悪神に屈したことになり、同時に元の創造原理の破綻を意味する。しかも神は天(宇宙)と地(地球)を創造しているので、この元の創造原理は地球一個に限定されたものではなく、宇宙全体普遍の根本原理なのである。
したがって、この元の創造原理が破綻することによって、宇宙の秩序が乱れ、やがては宇宙の崩壊にいたる事態となるのである。だからこそ、神は世に出て、この世を元の創造原理通りに捻じ戻し、元の創造原理の破綻を喰い止め、宇宙の秩序を正し、その崩壊を未然に防ぐのである。
もちろん、神は人類も本来は丸ごと救い上げるつもりでおられるが、ことは宇宙の存亡にかかわる大事であるので、やむを得ぬ時は、小を捨て大を取ることになる。だからこそ、神は人々の改心を強く求めておられるのである。
このように、この世における立て直し大神業経綸は、この世地球だけのことではなく、宇宙の大神業大経綸なのであって、地球における人間社会の単なる倫理道徳や病気直しレベルの宗教等とは、次元もスケールもケタちがいに異なるのである。
(2004.6.28=小田朝章)