<天理・大本・キリストの神典研究>

    
後は神の言霊の発動あるのみ
 
 古代の我が国には国見ということが行なわれていた。統治者が高い所に立って自分の国を見下ろしてほめたたえるのである。万葉集には舒明天皇の国見の歌がある。
 
 大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば 国原は煙立つ立つ海原はかまめ(かもめ)立ち立つ うまし国ぞあきつ島大和の国は           (万葉集 巻一 二)
 
 このように国をほめたたえることによって、その言葉通りに国が栄え治まるというのであるが、これは言霊(ことだま・ことたま)である。言霊とは言葉に霊魂があるということであり、善きことも悪しきことも発した言葉、言霊の通りになっていくということなのであって、やはり万葉集で柿本人麻呂が、
 
 しき島の日本(やまと)の国は 言霊のさきはふ国ぞ まさきくありこそ
                           
(万葉集 巻十三 三二五四)
 日本は言霊の幸(さき)わう言霊の国と歌っている。
 またこの言霊は我が国の古典のみならず聖書においても、
 
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみのなかに輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
(ヨハネ福音書 第一章 1−5)

 と説かれている。そしてこの言霊は古典や聖書の世界だけでなく結婚式で「別れる」「切れる」と言ってはならないとか、受験生の前で「スベル」「落ちる」と言わないようにといったように現代でも日常生活の中に溶け込んで生きている。
 さらに聖書創世記では、
 
「神は『光あれ』と言われた。すると光があった」
「神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた」
(創世記 第一章3,6,7)

 このように「神は言われた」ことによって万物が創造されている。
 この言霊、神の言霊によって地上天国実現という立て直しがなされるのである。世には立て直しは救世主とか特定の宗教によってなされると信じる人々もいるが、真の立て直しはあくまでも誠の神の言霊の発動によるのである。 ただ、今までは神が言霊を発動すればあまりにも犠牲が大きいために、神は人類に改心を強く求めるとともに時を待たれたのである。
 しかし諸般の情勢から見て、もう時はないであろう。神は幕末から明治大正を経て昭和20年8月15日の大東亜戦争敗戦まで、天理・古神道・黒住・金光・大本をもって総ての仕組はなされたのであり、説くべきことは説かれたのである。
 また悪と悪の世が滅ぶ型も宗教が滅ぶ型も大本、大日本帝国、国家神道をもってなされた。後は神の決断次第なのである。今我々がなさねばならないことは、心と魂の立て替え立て直しである。
 まさに絶対絶命の世と成った。           (06.4.9=小田朝章・記)
                       
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