神の創造原理と知恵の実
     ──「から」と「にほん」の真意──

 神はいかなる目的と意図をもって人を創造したのか、この創造原理と、いわゆる堕落の原因とされる禁断の木の実知恵の実を食べるということについては「天理・大本の経綸仕組の解明解説」において紹介させて頂いた三雲益次郎氏の文書でくわしいが、今回この問題を東のキリスト教=ギリシャ正教(西のカトリック・プロテスタントに対して、初期キリスト教の伝統を忠実に守っているギリシャ正教をいう。ロシア正教もこれに含まれる)の神学を参考に改めて考察してみようと思う。
 神の創造原理と禁断の木の実・知恵の実を食べるということの意味を理解することは、人間の正しい生き方を知ることと、神の経綸を理解することにつながる。(前記三雲益次郎氏の論説を併せて読んで頂けば幸いです)
 
 月日にわにんけんはじめかけたのわ
 よふきゆさんがみたいゆへから    (天理筆先 十四ー25)
 
「神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の主体なり、神人合一して茲に無限の神徳を発揮す」 (大本教旨)

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』神は自分のかたちに人を創造された。
 すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
 神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」
 (創世記 一章26〜28)

 いかなる目的と意図をもって神は人を創造されたのか、この神の創造原理は、これら天理・大本・聖書の言葉によって明らかに理解することができる。すなわち人は主人主体として、この世を治め整え(経綸とは治め整えるという意味)、神と交わり合一して無限の神徳を発揮して、陽気ぐらしする者として創造されたのである。しかし人は神から食べることを禁じられた木の実知恵の実を食べることによって、この創造原理から逸脱して生きる者となったのである。聖書においては、食べることと生きることは同じ意味とされているので、神が食べることを禁じたこの木の実・知恵の実を食べるということは、神が禁じる生き方をするということになる。神が禁じる生き方とは、創造原理に反した生き方のことである。
 人は主人主体としてこの世を治め整え、神と交わる生き方をしなければならないのに、神に背を向け、主人主体として治めるべきこの世に、逆に従い治められる生き方をするようになる。これが禁断の木の実知恵の実を食べるという創造原理に反した生き方なのである。

 この世に従うということは、この世と交わり自己をこの世にゆだねることであり、(ギリシャ正教では、このことを、神以外のものを崇拝することになると断じている)このことにより本来は陽気ぐらしの場であるこの世が、反対に人に重くのしかかる重荷となってくる。このようにして人は苦しみの人生を生きる者となり、それ以来、永遠の生命そのものである神(ギリシャ正教では、神は永遠を超える生命をもつ唯一のものとする)と断絶して、永遠の生命を失うこととなったのである。
 また、ギリシャ正教では、この世に従えば従うほど神の心をではなく、神の創造物そのものを崇拝するようになり、創造物の一つひとつから創造物独自の生命力、人間の能力の働きまで崇拝するようになるとしている。(宗教はこのあやまりに最も陥りやすいといえる)

 やがて人はこの創造原理に反した生き方を当然のこととして満足しようとする。その結果、ますます深くこの世と交わり、自己をゆだねていく。これらのことが解ってくると、天理神典にある、から・とうじん・にほん・にほんのものの意味も自ずと悟ることができる。簡単にいえば、から・とうじんとは、神に背を向け、この世に従い交わる創造原理に反した存在者のことであり、にほん・にほんのものとは、創造原理通りの生き方をしつつ、神と交わり合一し、無限の神徳を発揮する存在者、つまり真に神一条に徹して通る者となることである。(このからとにほんについては、創造原理通りの生き方と道をあくまで貫く天理教祖と、折りをみてはこの世に従おうとした息子、その終わりの一時この世の生活を神の道より優先させようとした娘とによる型が出されている)

 また、この知恵の実を食べるということは、人の生き方の問題であるので、創世記にしるされている過去の一度だけの出来事ではなく、我々の日々の現実の問題であり、我々は日々このような知恵の実を食べ続けていることになるのである。そして、この知恵の実を食べるか食べないかの選択は、各自にゆだねられているので、知恵の実を食べるという、創造原理に反した生き方を選択して最終的に滅ぶことになっても、神には責任はないのである。
 知恵の実を食べることによって、まるで底なし沼に落ち込んだように、どうしようもなくなり、ひたすら沈む一方の人を救うため、神は人の創造原理に反した生き方にとどめを打ち、人を元の創造原理通りに生きる者にねじ戻し、この世を神と人とが交わり合一する場、地上神国・天国・陽気ぐらし世界に立て直すのが神の経綸なのである。
                                 (04.10.25=小田朝章)

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