キリストの預言

 聖書には数多くの預言がありますが、その中から特に終末についてのイエス・キリストの預言を幾つか紹介いたします。
 まず終末の前兆についてイエスは、

「多くの者がわたしの名を名乗って現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに飢饉が起こり、また地震があるであろう」(マタイ24章5〜7)

 と預言し、さらに、

「また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(同24章 12)

 とも預言しています。さらに、

「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば、そのときは、その滅亡が近づいたとさとりなさい」(ルカ21章20)

 とエルサレム(イスラエル)の情勢が重要なことを預言しています。そしてやがて起こる大異変の凄まじさについては、

「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下へおりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳呑み児をもつ女とは、不幸である。あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起こるからである」(マタイ24章16〜21)

 として、さらにその時にニセのキリストや預言者が現れて人々を惑わすと預言されています。

「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが立って、大いなるしるしと奇蹟をおこない、できれば選民をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、部屋の中にいる』と言っても、信じるな」(同24章23〜26)

 この後、人の子が来ると預言しています。

「しかし、その時に起こる患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体はゆり動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」(同24章29〜30)

 これらのことが実現する時については、次のように預言されています。

「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱船にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、嫁ぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主が来られるのか、あなたがたには、わからないからである」(同24章36〜42)

 最後にこれらのことに対する心構えを説いたイエスの言葉を掲げておきます。

「あなたがたが放縦や、泥酔や世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕らえることがないように、よく注意していなさい。その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。これらの起ころうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」(ルカ21章34〜36)               (2004.4.25=小田朝章)

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