満州国の悲劇と終末のイスラエル

 かつて預言者エゼキエルは次のように告げた。
「言え。主なる神はこう言われる、メセクとトバル(古代の地名)の大君であるゴグよ、見よ、わたしはあなたの敵となる。わたしはあなたを引きもどし、あなたのあごにかぎをかけて、あなたと、あなたのすべての軍勢と、馬と、騎兵とを引き出す。彼らはみな武具をつけ、大盾、小盾を持ち、すべてつるぎをとる者で大軍である。ペルシャ、エチオピア、プテは彼らと共におり、みな盾とかぶとを持つ。ゴメルとそのすべての軍隊、北の果のベテ、トガルマと、そのすべての軍隊など、多 くの民もあなたと共におる。
 あなたは備えをなせ。あなたとあなたの所に集まった軍隊は、みな備えをなせ。そしてあなたは彼らの保護者となれ。多くの日の後、あなたは集められ、終わりの年にあなたは戦いから回復された地、すなわち多くの民の中から、人々が集められた地に向かい、久しく荒れすたれたイスラエルの山々に向かって進む、その人々は国々から導き出されて、みな安らかに住んでいる。あなたはそのすべての軍隊および多くの民を率いて上り、暴風のように進み、雲のように地をおおう」(旧約聖書・エゼキエル書38章3〜9)
 
「それゆえ、人の子よ、ゴグに預言して言え。主なる神はこう言われる、わが民イスラエルの安らかに住むその日に、あなたは立ちあがり、北の果のあなたの所から来る。多くの民はあなたと共におり、みな馬に乗り、その軍隊は大きく、その兵士は強い。あなたはわが民イスラエルに攻めのぼり、雲のように地をおおう。ゴグよ、終わりの日にわたしはあなたを、わが国に攻めきたらせ、あなたをとおして、わたしの聖なることを諸国民の目の前にあらわして、彼らにわたしを知らせる」(同・エゼキエル書38章14〜16)

 ここに出てくるメセクとトバルの大君ゴグは、旧ソ連、現在のロシアの国もしくは権力者と解釈されています。即ち、終わりの時、北からロシアの大軍がイスラエルに攻めて来るということです。
 この終わりの時の状況をイエス・キリストは、
「屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は上着を取りにあとへもどるな」(マルコ・13章15〜16)
 と預言していますので、まさに身一つで命カラガラ逃げ出すことになるようです。また、
「その日には、身重の女と乳呑み子をもつ女とは、不幸である」(同・13章17)
 ともありますので、妊娠中の女性と幼な子を連れた女性とは共に悲惨な目にあうことになるようです。
 
 これらのことを聞いて思い当たる方もおられると思いますが、この終末におけるイスラエルの状況は、まさに昭和20年8月9日、旧ソ連軍の進撃によって起こった満州国の悲劇と同じなのです。
 この時、満州(いまの中国東北部)にいた日本人は、聖書の預言そのままのように必死で避難しましたが、多くの悲劇が生じました。中でも幼な子を連れた女性、身重の女性は、聖書の言葉通りに不幸となりました。(中国残留孤児問題等)
 国と場所は異なっていても聖書の預言そのままの悲劇が、12月8日の仕組(この仕組についてはリンクページ参照)によって始まった大東亜戦争下で起こったということは、これが終末におけるイスラエルの〈型〉であったと解釈できるのです。
 しかも、この8月9日には長崎に、3日前の8月6日には広島に原爆が投下されていることから、イスラエルに終末が訪れる時あるいはその前後に核が炸裂すると思われます。(イスラエルか他の土地か場所は判りませんが、いま満州とイスラエルとを関連づけているわけは、古代に満州の地から日本に移ってきたという説があり、その祖先の地に日本が建国したことは、イスラエルがアラブ人の地に建国した〈型〉とも考えられるからです)

 このことについても聖書では「火の滅び」と預言されています。
「しかし、今の天と地とは、同じ御言(みことば)によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである」(ペテロ・・3章7)
「第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」(黙示録・16章8〜9)

 これらの事が大東亜戦争において実地になされた〈型〉である以上、聖書の預言の真実性とあいまって、これを回避することは不可能といえます。
 将来、いや、ごく近いうちかも知れませんが、再び悲劇はくり返されるでしょう。(その時期については、リンクページ「キリストの預言」参照)
 しかし、これは地上神国実現のためにどうしても越さねばならない大峠なのです。かつて日本が満州の悲劇、原爆の炸裂、大空襲等々の大東亜戦争という大峠を越えて戦後、平和な社会に到ったように。(これも〈型〉です)
 今、私達ができることは、なるだけ犠牲が少なく大難を小難に、小難を無難にと神に祈り、宗教宗派を超えて、何かせずにはいられないという気持ちになることではないでしょうか。
「三千世界を丸めて、人民を安心させ、松の世、みろくの世、神世といたして、天地へお目にかける時節が近うなりたぞよ」(大本神諭・大正6年旧2月9日)                                       (2004.5.10=小田朝章・記)

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