元の楽園へ帰る道

 聖書の創世記によれば、人は初め楽園に居た。だが、神から食べることを禁じられた「知恵の実」を食べて神の怒りにふれて楽園から追放され、苦難の一生を生きる者となった。
 このように語られているが、楽園を追放されることによって苦難の一生をおくり、天地経綸の主体たる人でもなくなったのであれば、逆に元の楽園に帰れば、元の創造原理通りの天地経綸の主体たる人となり、神の創造目的である陽気ぐらしが出来るはずである。
 その帰る道を考えてみようと思う。まず「知恵の実」を食べた時、
「すると、ふたりの目が開(ひら)け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」(創世記 第三章7)
 すなわち楽園において人は裸であったのである。このことによって、次の歌から、
「最奥(さいおう)の霊天国に住む人は無垢清浄(むくしょうじょう)の真裸体(まっぱだか)なり」(大本教学研鑽所編「霊界物語」余白歌集222頁)
 アダムとイブがいたエデンの楽園は最奥天国であったことが判る。したがって、楽園から追放されるということは、最奥天国に居ることが出来なくなったということであり、これについては次の歌から、
「全徳(ぜんとく)は最奥天国の神となり、三徳は第一天国に住む
 二徳あれば第二天国、一徳は第三天国の住民となる
 愛智勇親(あいちゆうしん)備はるものは全徳ぞ、その一欠くるを三徳といふ」(前掲書141頁)
 愛智勇親全徳でなくなったことによって楽園最奥天国に居ることが出来なくなったといえる。
 では、愛智勇親全徳とはどういうことなのか。それは幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)の四魂(しこん)をよく活用することである。
「一霊四魂(いちれいしこん)、すなわち直霊(ちょくれい)、荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)、幸魂(さちみたま)、以上の四魂(しこん)には各自直霊(ちょくれい)という一霊(いちれい)が之を主宰してをる。この四魂全く善と愛と信(しん)とに善動し活用するを全徳と曰(い)ふ。全徳の霊身および塵身(じんしん)は、直ちに天国の最高位地に上り、また三魂の善の活用するを三徳といひ第二の天国に進み、また二魂の善の活用するを二徳といひ第三の天国に進み、また一魂の善の活用するを一徳または一善といひ、最下級の天国へ到るものである。……」(出口王仁三郎著「霊(たま)の礎(いしずえ)」23頁)
「人間として、その身内(しんない)に天国を有しなかったならば、身外(しんがい)にある天国は決してその人に流れくるものではない。又これを摂受することができぬものである。要するに人は現実界にある間に、みづから心身内に天国を造りおく必要がある。しかして天国をみづから造りかつ開くのは、神を愛し神を信じ無限絶対と合一しておかねばならぬ。人はどうしても、この無限絶対の一断片である以上は、どこまでも無限絶対、無始無終の真神を信愛せなくては、霊肉ともに安静を保つことはできぬものである」(同書17〜18頁)
「四魂の本質(本体)は、荒魂が勇、和魂が親、幸魂が愛、奇魂が智であり、そこで、四魂のそれぞれの名称を勇魂(ゆうこん)、親魂(しんこん)、愛魂(あいこん)、智魂(ちこん)ともいう。
 人間が人生の本分──主神が人類を創造された目的──に反し、霊魂をけがし破り、罪をおかし、穢にそまると、直霊(ちょくれい)が曲霊(まがひ)に悪化して、これとともに四魂のはたらきも荒魂の勇が争う、和魂の親が悪(にく)む、幸魂の愛が逆らう、奇魂の智が狂う、という悪いほうのはたらきに変わるわけである。この場合、これを、争魂、悪魂、逆魂、狂魂というのである。
 しかし、直霊が曲霊に悪化することを防ぐため、一霊四魂そのもののなかに、省みる、恥じる、悔いる、畏れる、覚る、という五情のはたらきをもっている。そして、省みるは直霊のはたらきであり、恥じるは荒魂に、悔いるは和魂に、畏れるは幸魂に、覚るは奇魂に、それぞれ宿っているはたらきである。これを五情の戒律といい、これが適切にはたらいておれば、霊魂をけがし破るようなことはない。しかし、省みるの戒律をうしなえば、直霊はただちに曲霊と悪化し、恥じるの戒律を失えば、荒魂はただちに争魂と変わり、悔いるの戒律をうしなえば、和魂はただちに悪魂とかわり、畏れるの戒律を失えば幸魂はただちに逆魂とかわり、覚るの戒律を失えば、ただちに狂魂と変わってしまうのである」(大本教学研鑽所編集「祝詞の解説」74〜75頁)
 この四魂をよく活用して心身の内に最奥天国を築くことによって、人は最奥天国すなわち元の楽園に通じ、最奥天国楽園の人となって、元の楽園に帰れるのである。
 四魂についてもう少し解説してみると、荒魂は、勇気・決断・快活・断行力であり、和魂は、和親・協力・恵愛であり、幸魂は、愛と善と美であり、奇魂は、智であり、正しく覚る、正しい直観である。そして幸魂と奇魂は和魂の分化とされていて、四魂は荒魂と和魂に集約される。
 この四魂をよく活用させ養う方法としては、古神道・神道の鎮魂法が知られているが、一般的な方法を最後に一つ紹介しておきます。
「文芸はたましいの質を緻密(ちみつ)にし、武道は魂の伸縮力・断行力を養うものである」(出口日出麿著「生きがいの探求」254頁)
(2004.6.25=小田朝章)
                  

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