無宗教性は日本人の精神性の高さ

 今、世間では宗教が大きな問題となっている。一神教と多神教、一神教同士の対立、そして日本人の無宗教性などであるが、これらはいずれも宗教の必要性を認めた上での議論である。しかし、今までに幾度も述べたように、経綸上は宗教は不必要とされているのである。
 このことは、日本人よりも宗教が精神世界の確たる基盤・根幹をなしている外国人の方が、より衝撃的で理解できないであろう。
 従来、特定の宗教を持つことが、その人の精神の健全性と高尚さを示すとされて来た。だから、宗教性の薄い日本人は何やら得体の知れない野蛮人のように外国人、特に西洋人から見られて来たのである。
 この日本人の宗教性の薄さ・無宗教性が、実は日本人の精神性の高さ・優秀性を表すものであり、宗教不要の理想世界建設の重大使命を神より与えられている証なのである。
 特定の宗教を精神世界の基盤・根幹としている外国、特に西洋の歴史を見れば、宗教同士の闘争や迷信による悲劇が数多く目につく。一方わが国は、特に江戸時代においては、儒教、仏教、神道を共存させ融合させて二百五十年間一度も戦争のなかった平和な時代と社会を実現させていたのである。このことは、世界に誇るべきことであり、世界の指標とすべきであろう。
 特定の宗教に対するとらわれがない故に、聖書でも仏典でも四書五経でも、何の偏見もこだわりもなく素直に読めて理解できるのである。
 本来、人はこのように精神的に自由でなければならないのである。したがって、精神の自由、柔軟性において日本人は世界第一といってよい。
 特定の宗教にとらわれて確固とした精神的基盤としているから、宗教の垣根をこしらえて対立闘争するし、またそれを解決せんがために平和会議等もわざわざ開かねばならないのであるが、しかしその結果は妥協でしかない。
 宗教は人類の精神性の高さというより業(ごう)というべきであろう。この業を克服し得た時、真の理想世界が実現するのであるし、人もまた真の神と合一し魂も救われるのである。そのためには、経綸上、世界の〈型〉であるこの日本において、宗教不要の理想世界を実現させるのである。そうすることによって、その日本の型が世界に移写して世界も宗教不要の理想世界になっていくのである。
 その重大使命を果たさんがため日本人は、宗教に対するとらわれ、こだわりがなく精神的に自由なのである。
 結論として、日本人は宗教に依らずに一人々々が真の神と直結し、利己主義(われよし)、弱肉強食の世に終止符を打ち、神人合一万民和楽の理想世界をこの日本において実現させなけばならない。それが世界の立て直しとなるのである。(2004.8.13=小田朝章)

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