<天理・大本・キリストの神典研究:42>

  
高熊山と天理の謎


 大本の出口王仁三郎聖師は「霊界物語」第一巻の中で、明治31年(1898年)3月1日から一週間修業した京都府亀岡市の高熊山についての紹介と解説を述べている。
「高熊山は上古は高御座山(たかみくらやま)と称し、のちに高座(たかくら)といひ、ついで高倉(たかくら)と書(しょ)し、ついに転訛(てんか)して高熊山(たかくまやま)となったのである。丹波穴太(たんばあなお)の山奥にある高台で、上古には開化天皇を祭りたる延喜式内小幡神社(えんぎしきないおばたじんじゃ)のあった所である。武烈天皇が継嗣(けいし)を定めむとなしたまうたときに、穴太の皇子(おうじ)はこの山中に隠れたまひ、高倉山に一生を送らせたまうたといふ古老の伝説が遺ってをる霊山(れいざん)である。天皇はどうしても皇子の行方がわからぬので、やむをえず皇族の裔(えい)を探しだして、継体天皇に御位(みくらい)を譲りたまうたといふことである。またこの高熊山には古来一つの謎が遺ってをる。
『朝日照る、夕日輝く、高倉の三ツ葉躑躅(みつばつつじ)のその下に、黄金(こがね)の鶏(にはとり)小判(こばん)千両埋(い)けおいた』
 昔から時々名も知れぬ鳥が鳴いて、里人に告げたといふことである……中略……
『朝日照る』といふ意義は、天津日(あまつひ)の神の御稜威(みいづ)が旭日昇天の勢(いきおい)をもって、八紘に輝きわたり、夕日輝くてふ、他の国々までも神徳を光被(こうひ)したまふ黄金時代のくることであって、この霊山に神威霊徳(しんいれいとく)を秘めおかれたといふ神界の謎である。
『三ツ葉躑躅(みつばつつじ)』とは、三つの御霊(みたま)、瑞霊(ずいれい)の意である。ツツジの言霊(ことたま)は、萬古不易(ばんこふえき)の意である。
『小判千両埋けおいた』大判(おおばん)は上(かみ)を意味し、小判は下(しも)にして、確固不動(かくこふどう)の権力を判(ばん)といふのである。すなわち小判は小幡(こばん)ともなり、神教顕現地(こばん)ともなる」(霊界物語第一巻25〜26頁)

 一方、大和の国奈良県天理市佐保庄町(さほのしょうちょう)に朝日という地がある。ここはその昔、弘法大師が修業中この地を訪れた時、東の空から輝くような朝の陽(ひ)が昇り、それを拝んだところから朝日の名が付けられたといわれるが、この朝日の地には明治8年(1875年)に廃寺となった朝日山円通寺、俗に朝日寺と呼ばれた大きな寺があった。この朝日の地にも丹波の高熊山に遺る謎と同じような謎がある。
「また、この地には葉が三つに分かれているという珍木『三つ葉うつぎ』があったそうで、『朝日寺の三つ葉うつぎのそのもとに黄金千枚、後の世のため』と里謡(りよう=昔から世間でうたわれている歌ー筆者注)にうたわれ、根元に埋もれているという黄金千枚を掘り起こすと、その人は死ぬという言い伝えがあります」(天理市発行『ふるさと歴史散歩』86頁)
 この大和天理朝日の地に残された謎は、丹波高熊山に遺された謎と同じように大和天理の地が神の救世の経綸の地であることを示しているのである。なお「黄金千枚掘り起こすとその人は死ぬ」というのは、神の経綸の秘密は時が来るまでは表には出ない。それを時が来ていないうちに無理に出そうとしてはならない、という戒めである。
 またこの朝日の地は、先に「経綸の地・天理の秘密」で紹介した「其いにしへ蛭子(えびす)様丹波の国より此処え鎮座ましまし候由」の由来をもつ恵美須(えびす)神社のある天理市丹波市町(たんばいちちょう)の市座(いちざ)神社と上(かみ)つ道と呼ばれる道(街道)でつながっているが、このことは大本開教の地、神業・経綸の地丹波と大和天理の地が、神の道で一つにつながっていることを意味しているのである。(06.12.10=小田朝章・記)
                       
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