<天理・大本・キリストの神典研究:41>

 
経綸の地・天理の秘密


 先に「経綸の地・大和天理」において大和・奈良県天理市の地が経綸の地であることを述べたが、今回はさらにくわしく天理の地に秘められた経綸上の意味について述べてみる。(まえもって「経綸の地・大和天理」「経綸に関わる地」を読んでいただければ幸いです)
 天理の地の秘密を述べる前に、まず大本の出口王仁三郎聖師について述べる。出口聖師は明治31年(1898年)神使に導かれて京都府亀岡市の高熊山において3月1日、旧暦2月9日から一週間の修業を行っている。これが出口聖師の神業の始まりであるが、後年出口聖師が口述された「霊界物語」の第一巻の中で、この高熊山の主(ぬし)は巨大な熊であり、その熊が修業中目の前に出現したと述べられているが、この高熊山の熊はいったい何を示すのであろうか。
 
 大本開教の地・京都府綾部市は江戸時代、九鬼氏が藩主であったが、この九鬼氏はもともと紀州熊野別当(べっとう=僧職の一つ)宗家であり熊野の水軍であった。また大本の筆先には「九鬼大隈守と申すは」とある。さらに出口なお開祖に啓示を与えた神は艮の金神(うしとらのこんじん)であるが、この神名は九鬼氏が伝える九鬼神道(正式には、くかみしんとう)に宇志採羅根真大神(うしとらのこんしんおおかみ)として出て来る神名なのである。そして出口聖師の身近にあって仕組上の御用を務めた人々の中に紀州出身者が幾人もいたという事実、これらのことから高熊山の熊が示すのは紀州・和歌山県の熊野といえる。
 
 出口聖師は終戦直後の昭和21年(1946年)7月「紀州に行かねばご用のすまぬことがある」と体調がおもわしくないのをおして紀州巡教の旅にのぼり、帰って間もない8月の末より病床に臥し、昭和23年(1948年)1月19日昇天された。したがって、この紀州巡教が最後の御用・神業となったのであるが、このことは出口聖師の御用・神業が、高熊山の熊で示される熊野・紀州で始まり、最後の巡教が紀州で終わったことを意味している。
 
 さて本題の天理の地の秘密であるが、この天理の地、奈良県天理市に石上(いそのかみ)神宮が鎮座しているが、この石上神宮の祭神は神武天皇東征のおり紀州熊野に上陸した際に熊野の高倉下(たかくらじ)が奉った神剣なのである。
 要するに石上神宮の神は紀州熊野にゆかりある神であり、その熊野ゆかりの神を祭る石上神宮が先に述べたように天理の地に鎮座しているのである。さらに天理市には三島町という地名の所があり、この所は人類が創造された所・地場と天理教において神示され六角の甘露台が据えられており、天理教教会本部が置かれているが、この三島町の三島は三つの島で、かつて大本が島開きを行った京都府舞鶴市の沖の冠島(おしま)沓島(めしま)兵庫県高砂市の沖の神(上)島の三つの島に通じるといえる。
 
 綾部の大本聖地に金竜海という池が掘られていて、その中に冠島・沓島・神島という三つの島に型どった小さい島が築かれていたが、天理の三島町の甘露台が据えられている地点のすぐそばにも鏡池という池があった。(現在は埋められている)
 また天理の地には丹波市町(たんばいちちょう)という所があり、ここに鎮座する市坐(いちざ)神社の中の恵美須(えびす)神社の由来は安永4年(1775年)の坐主規録改帳に、
「其(その)いにしへ蛭子(えびす)様丹波の国より此処え鎮座ましまし候由、云々」と記されている。丹波とは大本開教の地であり、経綸神業の地であるが、その丹波の名をもち丹波にゆかりある神社や土地が存在する所が天理の地に有るのである。
 このように紀州熊野、三つの島、丹波という大本にとって重大な意味と神業の地、経綸の地にゆかりある神社・場所が、
「東京で仕組を駿河美濃尾張大和玉芝国々に神の柱を配り岡山」(明治25年旧正月)
 と大本神諭で神定された大和天理の地に確かに存在する。このことはいったい何を示すのであろうか。それはこの大和天理の地が秘められた神定の経綸の地・地場であることの黙示なのである。
 丹波の地で仕組をなした大本は、目に見えない(霊的な)糸で大和の天理の地とつながっており、いわば大本は天理の地と一つなのである。これにより神の経綸は大和の天理の地に引き継がれる。
 丹波から大和天理の地へ。             (2006.11.24=小田朝章・記)
                       
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