天理と大本
 
 幕末から明治にかけて相次いで現れた天理・黒住・金光・大本の各教の中で、立て替え・立て直しを強く主張しているのは天理と大本である。また聖書・仏典・古事記等と深い関連を持っているのも天理と大本である。
 したがって、神の立て替え・立て直しの経綸仕組を究明する上で、天理と大本は極めて重要かつ重大な意味と秘密を持つ教えなのである。
 天理と大本には共通することが多いが、相反するところもある。
 天理は神の大望である「唐人コロリ」(これについては「天理・大本の経綸仕組の解明解説」参照)を忘れたので、大本が神の大望「唐人コロリ」を代わりに達成したという主張があるが、これはあやまりである。なぜならば、先にも述べたように、天理と大本には共通したところもあり、最終目標は地上神国天国の実現ではあるが、相反するところも多くあり、本質的には異なった教えなのである。その本質的な相違とは、大本の場合「霊主体従」の言葉に表されているように、霊的世界が重要な意味を持ち、その霊的世界が克明に解明解説されている。
 一方、天理においては、霊的世界はさほどくわしく説かれていない。根本教理である「十柱の神の守護」も肉体における守護が中心である。すなわち大本は霊的、天理は体的といえる。したがって救済方法も当然異なる。
 このように天理と大本は本質的に根本的に相違しているので、共通するところが多く地上神国天国実現を最終目標としているからといって、単純に大本は天理の代わり等というのは明らかにあやまった見方である。
 だからといって、神の経綸仕組においての天理と大本の重要性にはいささかも変わりはない。ただ天理は天理、大本は大本であって、互いに共通性と関連性をもった二つの教えなのである。この二つの教えを単純に一つにして、大本は天理の代わりと言うのは、あやまりというよりも暴論である。
 つぎに天理と大本を見る上で重要なのは、まずは鳥瞰的に見ることであり、黒住・金光を含めて一つの流れとしてとらえることである。そうすることによって、神の経綸が一層深く理解できる。熱狂と狂信は断固排除すべきである。そして何より大事なことは、天理と大本の神典神言を今在る天理教団、大本教団と切り離して取り扱うべきである。ここをあいまいにするところから、あやまりと誤解が生じる。
 天理と大本の神典・神言・神業と実地に行われた〈型〉は、神の立て替え・立て直しの経綸仕組そのものであり、全人類の身魂と未来に深く大きく関わるものであるが、多くの謎を秘めていて、熱心な研究家諸氏が日夜解明に努力されていて、その成果も上がっている。
 時は2004年、まさに新しい世紀と時代に入っている。日本と世界の夜明けは近づいている。     
 (2004.7.21=小田朝章)

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