<天理・大本・キリストの神典研究:43>

  
天理教を知るためには


 日本の神の道の中で、立て替え立て直し・地上神国天国実現を具体的に主張しているのは天理と大本であるが、大本はこれまで数多くの出版物が世に出され、よく知られている。(正しい理解とはいえない面もあるが)それに対して天理は、名と存在は知られていても、そのくわしいことは全くといっていいほど知られていない。これには様々な理由が考えられるが、特に今日まで取り上げられることが少なかったことと、従来天理教内では信仰の実践のみが強調重視され、教学面は後回しにされて来たことが大きな要因と思われる。
 当然のことだが、天理の教学神学はあまりにも深く大きいため、その全容をわずかの紙数で紹介し解釈することは不可能である。そこで今回は、大本との関連および天保9年(1838年)の立教を境としての中山みき教祖の前半生と後半生を対照させて見えてくることを少し述べてみる。
 
 天理の立教は天保9年10月26日、みき教祖41歳の時であり、そのきっかけは前年からのみき教祖の長男の足の痛みを治そうとして3日前の10月23日より始めた寄加持(よせかじ=修験者・山伏が病気を治すために行う祈祷)の際に、みき教祖が神懸かりとなったことによる。
 この立教の天保9年10月26日は、天理教教会本部編纂の『稿本天理教教祖伝』において新暦12月12日とされている。したがって事の始まりの10月23日は逆算して新暦12月9日となる。そしてこの後みき教祖は神命のままに半世紀50年にわたる波乱の道を生き抜き、明治20年(1887年)1月1日(旧暦12月8日)夕方、風呂場でよろめき「これは、世界の動くしるしや」と語り、その後間もない2月18日(旧暦1月26日)90歳をもって昇天された。
 
 このことから、みき教祖の天理教祖としての始まりは天保9年新暦12月9日であり、終わりは明治20年旧暦12月8日ということになる。すなわち12月9日で始まり12月8日で終わったということである。
 そして、この12月8日という日付は昭和10年(1935年)12月8日大本第二次弾圧、昭和16年(1941年)12月8日大東亜戦争開戦の12月8日であり、これまで述べて来た12月8日の仕組を示すものである。12月8日の仕組の詳細は「天理大本の経綸仕組の解明解説」に述べられているので一読して頂きたいが、要は立て替えの仕組であり、この世界をひっくり返す仕組なのである。
 
 また12月9日は、12月8日の仕組を実地に行った大本の出口王仁三郎聖師の昇天の日、昭和23年(1948年)1月19日(旧暦12月9日)と同じ日である。このことから中山みき天理教祖は12月9日で始まり、出口聖師は12月9日で終わったといえる。そしてこのことは天理と大本は正反対の道であることを意味している。すなわち天理と大本は陰と陽、正と反、男と女というような関係なのである。
 また天理教祖としての生涯が12月9日で始まり12月8日で終わったことは、神が天理教祖を通して啓示した道・天理は12月8日の仕組に深く関わる道であり教えであるといえる。そしてこの12月8日の仕組を実地に行ったのが大本であるから、大本を通して天理の道と教えの真相が判明するといえるのである。
  
 さらに中山みき天理教祖について重要なことは、みき教祖が天保9年10月の立教までは熱心な浄土宗念仏の信者であったということである。幼少の頃尼になることを望んだと伝えられ、また13歳で中山家へ嫁入りする時も「そちらへ参りましても、夜業(よなべ)終えて後は、念仏唱える事をお許し下さる様に」と希望し、さらに19歳の時、浄土宗の最高最重要の秘密伝法の宗教儀式・五重相伝(ごじゅうそうでん)を受けている。
 
 このように熱心な念仏信者であった中山みきが天保9年10月41歳の時、突如神懸かりして以後、天理教祖としての道を歩むのであるが、念仏の教えとは極楽往生・死後の世界に救いと理想世界を求める信仰であり、この世を穢土(えど=罪悪によって穢れている現世)として否定する信仰である。その念仏の熱心な信者・中山みきが天保9年10月26日以後、天理教祖として説いた道は、この世に陽気づくめ世界・地上天国神国の理想世界を実現させる道である。
 ここはこのよのごくらくや
 わしもはやばやまいりたい
 (みかぐら歌 四下り目 九ツ)
 という徹底した現世肯定の道であった。
 このことは、まさに中山みきという一人の内面世界の大変革であり、消極から積極への大転換である。したがって、みき教祖の生涯は天保9年10月26日の立教を境として、それまでとそれ以後とでは極めて対照的といえる。このことから、みき教祖の説いた道は、天保9年10月26日の立教までの前半生の根幹をなした念仏信仰と対比することによって鮮明にその真姿が浮かび上がってくるといえる。
 
 従来天理教内では、天保9年10月26日の立教以後、明治20年2月18日(旧暦1月26日)の昇天までの50年を神と共に生きる神人合一の道の手本ひながたと神定されたこともあって重要視されて来たのに対し、立教までの40年の前半生は立教以後の50年ほどには重要視されなかったが、さきほども述べたように、この40年の前半生の特に念仏信仰は、天理の教えを真に深く理解するために重要な意味をもつのである。
 みき教祖の90年の生涯は、当然のことであるが、神の深い思惑による歩みであった。
 くり返して述べるが、天理教を知るためには大本を通して見ることと、念仏信仰と対比して見ることが必要なのである。 (2007.2.26 小田朝章・記)
                       
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