九月八日の仕組と梅の世

「松の仕組」において武力・軍事力中心の世であった大日本帝国を竹の世、経済中心の戦後の世を松の世としたが(「松の仕組」参照)、竹の世・大日本帝国は慶応3年12月9日の王政復古の大号令によって始まり、昭和16年12月8日開戦の大東亜戦争によって崩壊した。すなわち、竹の世・大日本帝国は12月9日に始まって12月8日で崩壊したのである。
 このことは、12月8日の仕組で始まって終わったことを意味する。(慶応3年12月8日、すなわち前日に朝議が開かれている。なお12月8日の仕組については「天理大本の経綸仕組の解明解説」参照)
 そして戦後の世・松の世は、昭和26年9月8日調印されたサンフランシスコ講和条約の発効によって、翌昭和27年4月28日独立したことによって始まっている。したがって、戦後の世・松の世は、9月8日で始まったことになる。
 竹の世・大日本帝国が12月9日で始まり12月8日で終わっているのであるから、9月8日で始まった戦後の世・松の世は9月8日で崩壊していくと考えられる。そして12月8日が、12月8日の仕組を表していたように、この9月8日は9月8日の仕組を表しているのである。
 
 この9月8日の仕組については、大本の出口王仁三郎聖師の孫の出口京太郎氏が著書の中で、9月8日の仕組について出口聖師が語ったことを紹介されている。
「九月八日は大本にとってふしぎな日である。本宮山(ほんぐうやま=京都府綾部市の大本聖地にある山=筆者注)は、一名桶伏山(おけふせやま)といって、大本教旨を書いた大きな天然石を彫刻したなりで時機がくるまで伏せておいて、蒙古入りをした。帰ってきてもまだおこす時機がこなかったのであるが、その石を本年九月にはいって、神さまからはじめて早く建ててくれといわれて建てた。気がついてみると、新の九月八日に建てあげていた。それから十日後の九月十八日には満州問題がおこるとあらかじめいっておいたが、そのとおりにおこった」(真如の光・昭和6年10月18日)
 出口聖師はふたたび繰り返して言う。
「本宮山に──桶伏山にあの碑が立ったならば、いよいよ神が表に出るということは、神さまがしじゅう仰せられ、わたしもしじゅうこれを申しておったのでありますが、いよいよ神声碑がもとの御宮さんの跡へできあがったのが九月八日の仕組み、まず第一着に満州事変がおこるとあの碑のまえで大ぜいの人と話しておりましたら、いよいよ十八日にあの事変が突発したのです……八日というのは、すべて意味のある日であります。八というのは開くという字である。……それで、どうしても今度の満州事変といい、いろいろと世の中におこってくることは、これはもう神界の経綸が実現の緒(ちょ)についたことであるということをお考えになってさしつかえないのであります……」
(出口京太郎「巨人出口王仁三郎」336頁)
 この九月八日の仕組で始まった戦後の世・松の世は、先にも述べたように九月八日で崩壊していくと考えられるのである。
 これらのことから、神は幕末から明治・大正・昭和の歴史を通して仕組されたことが解ってくるのである。このことは聖書における「神は歴史を通して存在を明かす」ことそのものである。そして、この神の仕組は今も進行しているのである。
 
 戦後の世・松の世が終わって、神の教・道によって治まる梅の世の幕が開くのであるが、梅は香り、香りは鼻であるので、梅の世は鼻の世といえる。鼻とは聖書では、
「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記・第2章7)
 とされていて、神の生命の息が吹きいれられるところである。神の生命の息とは、息・息吹で、息は言葉であり、神の生命の息とは神の生命の言葉、神の言霊(ことだま・ことたま)である。神の生命の息、言葉、言霊は、やはり聖書において、
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書・第1章1〜5)
 とされている。
 また梅は“生め”であるので、梅の世は神の言霊によって生み出され生かされる世といえる。神はまた永遠の生命そのものであるので、神の言霊によって生み出され生かされる梅の世は永遠の世であり、無限の創造と進展の世といえる。
 くり返すが、神は幕末から明治・大正・昭和の歴史を通して仕組されたのである。したがって歴史を学ぶことによって、神の経綸仕組が解ってくるのである。また東洋においては、歴史を知ることによって未来を知ることができるとされてきたのである。
 
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