12月8日の仕組で世に出た神

<昭和20年8月15日敗戦の日、その日の夕刻、王仁三郎は「こうならぬとこの神は世に出られぬ」ともらしたが……>(出口栄二著『大本教事件』251頁)
 この大本の出口王仁三郎聖師の言葉からしますと、昭和10年12月8日の大本弾圧が移写した昭和16年12月8日の真珠湾攻撃に始まる大東亜戦争は
(この12月8日の仕組については、当サイトの「12月8日の仕組について」「天理・大本の経綸仕組の解明解説」参照)「この神」が世に出るための経綸仕組であったことになります。それでは「この神」とは、いったいどのような神なのでしょうか。
「この神」は大本を〈型〉として12月8日の仕組を実地にした神であり、また明治20年1月1日(旧暦12月8日)に中山みき天理教祖を通して12月8日の仕組を暗示した神であります。したがって、天理・大本の神典に必ずその存在を明かしているはずです。

 よろづよのせかい一れつみはらせど
 むねのハかりたものハないから
 
 そのはづやといてきかした事ハない
 なにもしらんがむりでないそや
 
 このたびは神がをもていあらハれて
 なにかいさいをといてきかする
                 (天理筆先 第1号1〜3)
                 
「……是では国は、立ちては行かんから、神が表に現れて、三千世界の立替え立直しを致すぞよ。……」(大本神諭 明治25年旧正月)

 以上の神言から「この神」は天理・大本出現までは表に現れたことのない神であることが判り、この神が昭和20年8月15日の敗戦によって世に出た神であることも判ってくるのであります。
 また、
 ここまでしんじんしたけれど
 もとのかみとハしらなんだ(天理みかぐらうた 三下り目九ツ)

<神諭に『いよいよとなると肉体そのままの元の生神(いきがみ)が現れてお手伝いをなさる』という意味のことが示されてある。竜体その他いろいろの姿をもって、元の昔から生き通しの神様が厳存され活動されるのである。すなわち神諭に示されてあるごとく、このたびの大神業は霊(みたま)の神だけでは成就できない大望なのである。……>(出口王仁三郎『玉鏡』元の生神)
 
 これらのことから「この神」は天地万物を創造し育成し守護する永遠の生命そのものの生き通しの神・元の神・真の神であることが理解できます。
 さらに、この元の神は、宗教の神ではないということがいえます。なぜならば、12月8日の仕組が宗教を滅ぼす仕組でもあるので(「宗教を脱して神を悟る」参照)、もしこの元の神が宗教の神であれば、元の神自らが仕組んだ12月8日の仕組によって、元の神自らが滅ぶというおかしな話になるからであります。
 宗教の神ではないことから、この元の神はお社や神殿に鎮座ましまして人間の供物を喜んでいる神ではなく、
   
 火と水とは一の神 風より外に神は無い。    (天理口伝)
 
 とありますように根源の神であり、天地万物普遍の神であり、
 
 どのよふなたいしや高山ゆたんしな
 なんとき月日とんてでるやら    (天理筆先 第六号92)
 
 のように生きて働く神であります。
 かように宗教の神ではなく万物根源普遍の神ゆえに、神名は本来なく、あっても一時の便宜上のものでしかないでしょう。火と水が神ゆえに火(か)水(み)、火水(かみ)というべき神であります。
 さらに「天理・大本の経綸仕組の解明解説」に記述されているように、この元の神は、12月8日の仕組によって「唐人コロリ」を達成したことから、
 
「世の立替のあるといふことは、何(ど)の神柱(かむはしら)にも判りておれど、何うしたら立替えが出来るといふことは判りておらんぞよ。九分九厘までは知らせてあるが、もう一厘の肝心のことは判りておらんぞよ」(大本神諭 明治25年旧正月)

 九分九厘までしか判っていない神柱ではなく、肝心の一厘が判っていて司っている神であり、
 
 とふじんとにほんのものとハけるのハ
 火と水をいれてハけるで    (天理筆先 第二号47)
(「とふじん」と「にほん」については前記「解明解説」参照)
「一厘の火水(ひみつ)の経綸(しぐみ)が致してありて先が見え透(す)いて居るから、ここまでに辛いことも堪(こば)り詰めて来られたのであるぞよ」(大本神諭 大正7年旧正月12日)

 とされることより「この神」元の神は、一厘の火水(ひみつ)の神でもあることが判ってくるのです。火水・火と水とは、簡単に言えば言霊学上、火は霊であり水は体であって、霊体一致、霊と体両面にわたる働きと経綸を意味します。
(言霊学については「霊界物語における〈食〉の教え」参照)
 そしてこの一厘の火水の神が世に出るための仕組が12月8日の仕組であったということになりますので、この仕組は一厘の火水の神が世に出るための仕組であるということが判ります。
 では、なぜ元の神・一厘の火水の神が世に出なければならなかったかということについては、やはり前記の「天理・大本の経綸仕組の解明解説」でくわしく述べられておりますが、要するに、
<それは、「むかし神の世は結構でありたなれど、途中から悪神の世になりて世界が悪くなりた」「世が行きつまりて末法の世のしまいで絶命の世」になった。この「獣類(けもの)の世」「暗がりの世」「われよしのやり方ばかりいたして強いものがちのちくしょう原」を、「もう、このままにしておいては世界がつぶれて餓鬼と鬼との世になるから立替をいたさなならんことに、世がせまりてきた」からである。
「世の立替えであるから、人民三分になるとこまでいくのであれども」「この世は一たん泥海になりてしまうところであれども……人民を改心さして世界を助けねばならん……」
 との神の人民を助けたい一心からであった>
 (伊藤栄蔵著『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』63頁)
 
 こうして一厘の火水の仕組、12月8日の仕組で「唐人コロリ」をこの日本で達成した上で世に出た元の神・一厘の火水の神は、いよいよ地上神国天国実現のための立て直しの大神業を始められるのである。      (2004.6.21=小田朝章)
 
                   

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