ユダヤと日本

「神は歴史を通して存在を明かす」
 この聖書の原理通りにユダヤ人の歴史と日本人の歴史を通して存在を明かした神がいる。その存在の明かしとは、全世界に散ったユダヤ人が約束の地に帰ってくるという聖書の預言、
「わたしは彼らを国々の民の中に散らした。しかし彼らは遠い国々でわたしを覚え、その子供らと共に生きながらえて帰ってくる」(ゼカリヤ書10章9)
 の成就としての1948年のイスラエル建国であり、また経綸仕組の型として出された日本の宗教・大本における4つの大きな出来事がすべて6年後に、第二次世界大戦の始まりなど4つの大事件として日本の国に移写したことである。(くわしくは「宗教を脱して神を悟る」参照)

 これらのことによりユダヤ人と日本人は共に神に深い関わりを持つ民族であることが判る。また、この神は人類救済のための経綸を推し進めている神であるから、ユダヤ人と日本人は神の経綸において特別な役割を演ずる民族であるともいえる。このことは、この二つの民族が人類の未来に大きな意味と関わりを持つということでもある。したがって、このユダヤ人の歴史を通して存在を明かした神(以後、聖書の神とする)と日本人の歴史を通して存在を明かした神(以後、日本の神とする)の経綸を知ることが人類の未来を考え、知る上で極めて重要なこととなる。

 ここまで考えてくると、当然この聖書の神と日本の神は同一の神であるのか、それとも別の異なった神なのか、ユダヤ人と日本人は関わりがあるのかないのか、聖書の神の経綸と日本の神の経綸との関係は──といった疑問が生じてくるであろう。

 結論からいえば、聖書の神と日本の神とは全く別の異なった神であって、ユダヤ人は聖書の神の、日本人は日本の神の経綸において特別な役割を演じ、意味を持つということである。(もちろん、元の神が2つあるわけではないから、教えを説いた対象となる人たち──その時と所と説き方が異なっているということであろう)
 聖書を文字通りに読めば、終末において日本はいかなる役割を持つかということが預言されていない。したがって、日本は聖書の神の人類救済のための経綸においては、さほどの存在ではないことになる。あくまでも重要なのはユダヤ人である。この日本軽視の点だけを見ても聖書の神は、日本人に特別な役割と意味を持たせた日本の神とは別の異なった神といえる。
 さらに救世主(メシア)の問題がある。救世主は聖書の神の経綸において極めて重要な存在であり、真の世界平和もこの救世主によってもたらされるとされる。が、一方日本の神の経綸においては、救世主とされた大本の出口王仁三郎聖師(あきらかに救世主の型である)が弾圧によって倒され挫折させられている。このことは、まさに救世主否定の型である。

 要するに、聖書の神の経綸において重要な存在であり救いの象徴である救世主は、日本の神の経綸仕組によって完全に否定されているのである。この救世主否定の意味するものは何か。それは日本の神の望むところは、あくまでも総ての人が真の神と合一することであって、このことが究極の救いなのである。
 然るに、救世主という特別の存在があれば、いきおいその存在に対しての崇拝という行為が生じる。これでは真の神人合一には至らないことになり、しよせんは特定の人物に依存し、総てをゆだねるところの宗教となりかねない。それ故、日本の神は魂と精神の真の自立のために救世主を否定するのである。

 さらに重要なのは裁きの問題である。聖書の原則によれば、ユダヤ人の扱いによって神から祝福されたり裁かれたりする。このことは重大な問題であって、1492年に追放令を出してユダヤ人を追放したスペインのトレドで500年後の1992年に、エルサレム国際キリスト大使館の呼びかけでスペイン・ポルトガル等から集まった約900人のクリスチャンがユダヤ人追放の罪を告白するための祈祷集会を行っている。
 このように聖書の神には厳しい裁きの面が見られるのであるが、日本の神にはこのような面は見られない。

「なにゆえなれば、御筆先に『神も、仏も人民も勇んで暮らす世になる。云々』『餓鬼・畜生・昆虫までも助ける神じゃ』とある神意から見れば、世界の人類が三分に減るようなことをなされたり、また希望なさるはずがありません。三分にナルとは書いてあるが、三分に減るということは、二十七年間の神諭には一カ所も出ておりません」(「神霊界」誌・大正8年4月1日号より)
 この出口聖師の言でわかるように、日本の神は徹底的に大愛の神であり、決して裁きの神ではない。
 このように聖書の神と日本の神は、全く異なった別の神であって、現在はこの二つの神の経綸が並行して進展しているのである。

 では、この後はいかなる展開となって行くのか、またその結果はどうなるかであるが、それを考える上で、去る2000年2月に大本人類愛善会が仲立ちとなって大本の聖地のある京都府綾部市とイスラエルのエルサレム市が友好都市宣言を行ったことが重要な点となる。このことによって綾部とエルサレムはつながったことになり、これにより、やがて大本聖地破壊、大本という宗教の挫折の型がエルサレムに移写していくことになるのである。そしてこのことは聖書の神の経綸の挫折を意味する。またこのことは、宗教の滅びをも示すものである。
 このようにして最終的には日本の神が世を治め、神人合一、万民和楽の地上天国が実現していくのである。(小田朝章)(2005.10.20)

 

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