子離れ
吉田 英生
勉強会で,授業のビデオを見たあと意見交換をした。
「子どもたちが,言うことを聞いてくれないし,発表は全然しないのです。どうしたらいいのでしょう。」
「授業のことが気になるの?子どものことが気になるの?」
「1時間の授業でこうやろうと授業の進み具合は気になるのです。必死で進めようとしていて,子どもがどう感じているのかまで頭がまわらなくて,子どもが見えていないのだと思います。いったいどうしたらいいのでしょうか。」
「授業の中であなたが言ったことを,子どもがどう聞いているのか考えてる?」
彼女は黙ってしまった。
授業の研究をしているのであって,子どもとのやりとりの話しではないと感じているのかもしれない。
しかしそれでは,「授業」と「子どもとのやりとり」が全くの別物になってしまう。
目の前に子どもがいるのに,その子どもが『見えない』のである。
教材の研究はよくでき,物事を理論立てて考えることもよくできるのだけど,目の前のいろんなことを考えているであろう子どもたちを「見る」ことができない。
子どもたちが何を考え,感じているかを見ずに,「この教材は」とか,「授業の法則は」とか,モノとかモデルを持ち出して考えようとする。
これも「子離れ」かなと思ってしまう。
「子どもをもっと取り合ってやればいいんだよ。『こんな問題,お前らには解けないだろうけどなあー。』とか言って,いっぺんけなしておいて,『オー,でも○○君の目はやる気だぞー。』とか言ってノセたりして。」
と,勉強会の師匠が言う。
何度授業のビデオを見て,『ここでオレならこう言うなあ。』とアドバイスを受けても,子どもが見えていないと,次の授業で『オレがこういう』という師匠のことばを同じように言ってみても意味はない。また,「ハズレ」ていく。
師匠は子どもの見方を教えてらっても,師匠と同じ目が手に入るわけではない。
彼女自身がその見方を頭において,自分の目で見えるようになるしかない。
教材や授業構成は,一定のセオリーがあって,予想外のことがおこらなければ清々粛々と流れる。
でも,子どもは予想外であることがしばしばである。子どもには,ひとりひとりに悲しみがあり,喜びがあり,楽しみがあり,悩みがある。そんなことに一喜一憂しているはずである。自閉症にはそんなものはなくて,自閉症の特性とそれに対する方法のみが大切だと考えたら,子どもを「見ること」「とりあう」ことをしなくなるような気がする。
成長につれ,親子関係としての「子離れ」は必要だけど,子どもを見る目の「子離れ」はしてはいけないと思う。
(オヤ?,今日は顔つきが悪いぞ。どうもこの間の説教を気にしているようだ。)
「叱られることはだれでもあるの。大切なのは叱られたことに気をつけようと思うことなの。」と意味づけしてやる。
(オヤ?,隙あらば,ピョンピョン跳びしてやろうっていう体勢だ。)
「ほら,もう僕は自由だ。騒いでもいいぞーって思っているでしょ。」とくぎをさす。
(オヤ?)って,気づくのが,親。
「オヤ離れ」しないように。